土曜日の午後、テレビを観ているうちに眠気が襲って来て、うつらうつらと舟を漕ぎ始めた。
前の晩から二時間半しか眠っていなかったことも、眠気に拍車をかけたようだ。

トントン

ふいに私の背中を誰かが叩いた。
はっとして目が覚めた。背中を叩かれた感触がまだはっきりと残っている。
思わず後ろを振り向いたが誰もいない。飾り棚の写真立てでおふくろが微笑んでいるだけだ。
(おふくろに起こされたか。では、出かけろということだな)
私はそう思うと、洗面所で身支度をしていた妻に声をかけ、ひとり遊びをしていた孫の着替えを始めた。

近くのインターチェンジから高速道路に入り15分ほど走る。
クルマの中で孫の相手をしている妻から「先方のご両親はもう病院に着いているみたい」と報告を受ける。
その報告を受けながらインターチェンジを降りるとすぐにS病院だ。ここはS教授の功績を称えて設立された、全国的にも有名な産婦人科専門病院である。
私たちは土曜日の午後の誰もいない待合室を通り抜け、まっすぐに分娩室へと向かった。するとそこには息子の嫁の両親が既に待機しており、我々の姿を見つけるとにこやかに駆け寄ってきた。
息子は嫁に付き添って既に分娩室の中に入っているという。
「陣痛は40秒に1回の間隔になったようですよ」と嫁の母親から教えられた。
「いよいよですね」と妻が応える。

実はこの日の未明に生まれそうだという連絡を受けて、息子と二人でこの病院を一度訪れていたのである。しかし、駆けつけてみると痛みは治まってしまい、助産師さんから時間がかかりそうだと教えられたのだった。
但し、いつ生まれるか分からないということで、結局息子を残して私は家に戻ることにした。

今回私たちが心配していたのは、予定日よりも数週早いということだった。
前回教えられた時には2700グラムほどだったので、せめて3000グラムを少しでも超えていてくれたらと願っていた。
分娩室前に置かれたベンチシートに四人並んで腰をかけ、その前を嬉しそうに走り回る孫の姿に目を細めながらも、落ち着かない時間を過ごしていた。
と、その時、ドアの内側から慌ただしく動き回る人の気配と、幾人かの入り混じった声が聞こえてきた。
思わず四人で顔を見合わせる。そして耳を澄ませると
(オメデトウゴザイマス)
そんな声が聞こえてきた。
それから少し間をおいて、赤ん坊の泣き声が。

喜びというよりも安堵と言った方が良いだろう。
四人のじいじとばあばは「良かった良かった」と互いに手を取り合い、力が抜けたようにその場へ座り込んだ。
早産ではあったが、体重は3300グラムを超えていた。もし月が満ちてからの出産だったら、相当大きな赤ん坊だったかもしれないねと笑い合った。

早産ということで、孫は念のため保育器に入れられた。そのためすぐに対面することは出来なかったが、分娩室から出て来た息子がスマホで写真を撮って来たので、皆でその小さな画面を覗き込んだ。
そこには私たちの元へやって来た小さな命が、懸命に手足を動かしている姿が映し込まれていた。妻などはその姿を見て、既に涙ぐんでいる。
(こうやって次へと命を繋いでいくんだなあ)
私はそんなことをぼんやりと思った。

自宅に戻った私は、おふくろの遺影に向かって曾孫の誕生を報告。
(今日生まれることを教えてくれたんだよな)
その問いかけに、写真の中のおふくろは静かに微笑むだけだった。

自宅で書類整理をしていたら、いつ届いていたのか「免許証更新手続」のハガキを見つけた。今年が更新の年だったことをすっかり失念していた。
昔と違って、今は年に1万キロも運転しない。せいぜい土日に運転するくらいだ。
営業マンだった頃は、多い日で一日に400キロは走ったものだったが、若かったのだろう。今、同じことをしろと言われてもとても体力的に無理だ。
私が運転免許証を取ったのは18歳の時。昼は高校、夜は自動車学校に通っていた。
若いうちに免許を取っておいた方が良いと、親父や母親からしきりに勧められた。
夜の教習ばかりだったので、仮免で日中の道路を走った時には、あまりにも周囲が見え過ぎて怖くなってしまったことを思い出した。
それでも18歳になると同時に免許を取得することが出来て、親父のクルマを乗り回しては喜んでいた。
あれから40年以上の月日が流れたが、その間、大きな事故にも遭わずに過ごせたのは、腕が良いとかではなくて、運が良かったせいだろう。
どんなに真面目なドライバーでも、ちょっとしたことから事故を起こしたり、事故に遭ったりしてしまう。場合によっては交通加害者にだってなり得るのだ。
私も定義上での高齢者にそう遠くない年齢である。昨今の高齢者による交通事故(事件)をニュースなどで知るたびに、気が重くなってしまう。
親父は既に免許証を返納した。そのため親父が出かける時は、妹か私が運転手を務める。
そのせいではないが、最近は私自身が息子に運転してもらうことも多くなった。
ちなみに妻は、ドアミラーを開かずに走行していたらしい。あとから気がついて自分自身に呆れていたが、
「周りを何も見ていない証拠だよ」とつい口に出てしまったから、少々気まずい雰囲気になった。
さて、自分はいつ免許証を返納しようか。そろそろ真剣に考えてみたいと思う。

続・一日一食
「一日一食」の続き。
私がこの無謀とも思える「一日一食」を初めて一週間以上が経った。その結果、早くも身体に様々な変化が現れて来たことは前回書いた通りだ。
さらに気がついたのは、履いている革靴がいつの間にか緩くなったことである。これは痩せたというよりも、身体の循環が良くなったことで、足のむくみが取れたのかもしれない。
それからもうひとつ。歩いているうちに腰に痛みが生じるのが常だったのだが、その痛みも消えている。きっと腰への負担が減ったせいなのだろう。これはとても嬉しい。
そんな私のことを傍らで見ていた息子が
「自分も一日一食を始める」と言い出した。
以前は営業職として毎日汗水を流していたのに、私と同じ職場へ転職し、すっかり事務職に馴染んでしまった。その結果、お腹が出てきてしまったのだ。
本人もこれはまずいと思ったのだろう。私が着々と成果を上げ始まったのを見て、息子もその気になったようだ。

さて、そうなると一週間とはいえ私の方が先輩になる。身長は私の方が低いが、上から目線で指導する。
まず、朝昼夜のどの食事を選択するか。特に妻子持ちであるから、その辺も含めて十分考えるように指示をした。安易に奥さんが作る夜の食事を放棄すると、家庭崩壊、一家離散の憂き目にあう危険性があるから結論を早まらないようにとも付け加えた。
朝食は大事だが奥さんはもっと大事であることを捕捉し、昼食抜いて倒れても奥さんは倒れないから心配するなとも。
「結局、晩飯は抜くなということじゃん!」
息子はいつの間にか、親が思う以上に人の心が読める人間に成長していた。

成人男性が一日に必要とするカロリーは、年齢や身体活動レベルなどによっても異なるが、
調べてみると私の場合は2450kcal、そして息子は2678kcalとなった。
おそらくこの通りに食事をしていたとすると、一回の食事あたり、私が817kcalで息子は893kcalを摂取していたことなる。
一週間で私が抜いた食事の回数は14回となるから、814×14=11,438。
栄養学では脂肪1グラムは9kcalとして計算されるので、11,438÷9=1270となる。つまり1.3kgになるかもしれなかったカロリーを身体に摂り込まずに済んだということになるのだろう。
さらに人間には基礎代謝があるから、実際にはもっとカロリーを消費している筈だ。

昨夜は久しぶりに再会した友人と、仙台名物麻婆焼きそばを食べに行った息子。そのあと、カラオケで余分なカロリーを消費して来たようだ。
さあて、今夜は何を食べようか。大切な一食である。よおく考えよう。

一日一食
人は自分の必要量の4倍の食事をしてしまうのだとか。
そのうちの半分は自分のため。そしてもう半分は医者のために...

テレビを観ていると食に関する情報の何と多いことか。朝から晩まで食べ物の話題が途切れることは無い。
やれ、どこそこに美味しい店があるだとか、今話題のスィーツはこれだとか、そんな情報に毎日振り回されている。
そして私もその情報に振り回されているひとりだ。
しかし、その情報に盲従した結果、身体が悲鳴をあげ始めた。血圧は上がるしコレステロールや血糖値も上がる。しかも、腹囲は膨張してスラックスがきつくなる。このままでは、やがて超人ハルクのように服が裂けるのではないかと不安に駆られた(いつも思うのだが、ハルクは何故ズボンが裂けないのだろう?)。
そんな時知ったのが、一日一食という方法だ。
これについては大勢の有名人も実行しており、成果が上がっているという。ならば私もと、早速行動に移ろうと思ったのだが、ひとつの疑問にぶつかってしまった。
大抵の人がそうであるように、私もほぼ一日三食のパターンだが、ではどの食事を止めてどの食事を取るべきなのか。誠に単純な問題に悩み込んでしまったのである。

世間一般に朝食は抜いてはいけないという。テレビに出て来る医者もみんなそのようなことを言うから確かなことなのだろう。では昼食はどうか。朝早くから仕事をしていれば、どうしても昼には腹が減る。もしここで食べなければ午後の仕事を支えるだけのパワーが出ない。となると残るは夕食だ。しかし折角、愛しい妻が美味しい料理を作って待っているのだ。それを食べなければ手裏剣のように、包丁やナイフが飛んでくる可能性がある。
私は散々悩んだ末に夕食を取ることに決めた。健康のために包丁やナイフを身体で受け止める必要はない。

さて、その一日一食を実行して一週間が過ぎた。
まだ一週間だが、身体には明らかな変化が現れている。体重の減少は勿論だが、腹囲も同様でスラックスが緩くなってきた。こんなにも短期間で効果が出て来るのものだろうかと驚いた。さらに朝の目覚めも心なしか気分が良いし、集中力も僅かながら増したような気がする。

私が敬愛する或る作家は、この方法によって一年半で20キログラムも体重を落としたという。
過日訪れた米沢市で詠んだ上杉鷹山の句碑。
『なせば為る 成さねば為らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり』
この時は、その名句を詠んでもそのままステーキを食べに行ってしまったが、今ならぐっと堪えることが出来るかもしれない。
では今日も一日一食で頑張ることにしようか。

知らぬとはこういうことなり
小学生の頃、私と悪ガキ仲間は、同級生で医者の息子のFに誘われるまま、或る場所へと連れて行かれた。
そこは郊外にある何の変哲もないただの原っぱだった。Fは途中で自宅に立ち寄ると、真新しいサッカーボールを持ち出して来た。あの当時、こんな本物のサッカーボールを持っている子供なんて他にはいなかった。
私や悪ガキたちは、その真新しいボール見ただけで、異常なまでにテンションが上がってしまい、早く蹴るようにとFを囃し立てた。
小太りのFが勿体ぶりながらも、やがて思いっ切りボールを蹴ると、灰色の空の下を大きな弧を描いて白いボールが飛んで行った。
それを合図に、皆は待ってましたとばかりに夢中でボールを追いかけた。しかし此処は学校のグランドのように整地された場所ではない。草むらの中から黄土色の地面がところどころ露出して、ただでさえ走りにくい。
案の定、デコボコの地面に足を引っ掛けて、ひとりふたりと転び始めた。
ボールはといえば、すでに草むらの中に半分隠れて止まっている。
一番足が速いMがボールに辿り着くと、間髪をいれずにさらに遠くへ向かって蹴った。
ずうっと後ろの方でFが何かを叫んでいるが、みんなお構いなしだ。
ボールが落ちた場所へ2、3人が一度に群がって奪い合いが始まる。そしてまた誰かが蹴ると、あらぬ方向へと飛んで行った。

「ボールがないって!」
Mからそう告げられたFが、泣き出しそうな声をあげた。
最後に蹴った時に、ボールは林の方へと飛んで行った。そこは背丈の高い草木が生えた場所だ。
「どうするんだよぉ、パパに叱られるべよ」
Fは半ベソをかきながら、自分より背丈のある草むらの中へ入って行こうとした。するとその様子を見ていた悪ガキのひとりが
「わぁい、泣いでら泣いでら。泣げっつげっつ!!」と面白がって囃し立てた。
するとまたひとりが
「パパだってよぉ。パパ、パパ、パパ」と面白おかしく囃し立てる。
今で言うところのイジメである。でも今のイジメとはちょいと違った。何が違うかというと、イジメられた方が圧倒的に強かったのである。
Fはくるりと向き直ると、こちらの方に猛然と襲いかかって来た。そして最初に囃し立てた悪ガキを一瞬にして突き飛ばし、返す身体で逃げようとしたパパパパ連発悪ガキの襟首を掴むと、これもまた引き摺り倒した。
さらにFは今まで見せたことが無いような獰猛な目つきで私や、他の悪ガキたちを睨みつけた。
すると一番背の低いSが「あれでねえが、ボール」と指を差した。
それは何故か見当違いの方向に、ちょっとだけ頭を出している白く半円の物体。近寄ってみるとFのサッカーボールが窪みの中に落ちていた。
「ああ、おらのボールだじゃ。なしてこっちさ落ちてらんだべ」
先程までのあの獰猛さが嘘のように消え去ったFは、首を傾げながらボールを拾い上げた。
「あれ、なんだこれ」
Fはそう言うと、もう片方の手で、何かを拾い上げた。
先程、Fに投げ飛ばされた者もそうでない者も、彼の周りにそろそろと集まって来た。
Fが手にしていたのは、何かのかけらのような物だった。茶碗のような皿のような、みんな初めて目にするものだった。
落ちていた地面の辺りをよく見ると、同様のかけらがいくつも落ちている。
「これ、パパの本で見だごどあるな。土器とかいうやづでねえがな」

土器。
田舎の小学生たちにとっては、これもまた初めての言葉だった。しかし、土器というものが何なのか、勉強嫌いな彼らが知る筈もなかったのである。
それよりも、サッカーボールが何故か蹴とばした反対の方向から見つかったこと。パパに叱られずに済むこと。また明日も皆で遊びに来ようということ。それらのことの方が、彼らにとってはとても大切で重要なことだったのである。

後年、この場所が「三内丸山遺跡」として、世界中の耳目を集めることになろうとは、この時、悪ガキたちの誰一人として知る由も無かったのだった。

昔の常識、今は...
昔は常識だと思っていたことが、今は覆されてしまうことが多々ある。
例えば運動中に水分を摂ると疲れるから、水を飲んではいけないだとか、風邪をひいた時には風呂に入いるなだとかがそれだ。
前者に関しては運動中に水分を補給しないと脱水症状のリスクが大きいから、水分摂取は常識化しているし、後者に関しては長風呂ではない限り、身体の清潔を保ち、ウイルス除去という点で入浴が推奨されている。
私などは若い頃から白髪が多かったが、抜くと増えると脅されて抜かないでいた。そのせいかどうか、今では頭の中も外も真っ白。いまさら抜いても増えることはないと言われても、時すでに遅しだ。

さて、なぜ突然このようなことを書き始めたのかといえば、今まではあまり身体に良くないとされていた或る物が、急に身体に良いと言われ始めたからだ。そしてそれが私の好きな物だから黙ってはいられなくなってしまったのである。
その或る物とは「コーヒー」である。
私が子供の頃は、コーヒーを子供が飲めば馬鹿になるとか、成長が止まるとか言われたものだ。でも何故かコーヒーが大好きで、銭湯に行くと必ずコーヒー牛乳を買ってもらったり、給食の時にはたまに配られるコーヒー牛乳の素(瓶詰の牛乳に入れるとコーヒー味になった)が待ち遠しかった。
では、コーヒーが今見直されているのは何故なのか、ちょっと調べてみたのだが、正直言ってその効能に驚いている。
まず、コーヒー自体に栄養は無い。栄養は無いけれどもカフェインがあるので、肉体疲労の回復に効果がある。これについては特に目新しい話ではない。でも、この次あたりから私にとっては嬉しい話が続く。
まず、コレステロール値を下げる。これはコーヒーに含まれるニコチン酸による効果だ。そのため心筋梗塞などの心臓病予防になる。また、善玉コレステロールを増加させる働きもあるようで、前回の人間ドックで低い値が出た私としては、これは朗報である。
私の義父は亡くなるまで喘息に苦しんでいた。長寿ではあったが、その結果として友人や知人たちの葬式に出ることが多かった。そのため線香の煙りを吸っただけでも発作が起きることがあり、なるべく煙りを吸い込まないように苦労していたものだ。
コーヒーには副交感神経の働きを抑える力があるため、ぜんそくの発作を起こりにくくする効果もあるのだそうだ。これを知っていたら、義父にもっと飲ませておくべきだったと後悔している。
それから脂肪を分解するという、ダイエット中の方には嬉しい話もある。
コーヒーを飲むことによって、血液中の脂肪酸が分解されるので、特に皮下脂肪の付着を押さえることが出来るようだ。ちなみに皮下脂肪は脂肪酸が主成分である。
そして極めつけは「がん予防」効果である。
これは国立がんセンターの調査・研究結果によるものだから、十分信頼に足るものと思うが、がんの中でも「肝臓がん」を抑える効果は「ほぼ確実」であるとしており、「子宮体がん」については「(抑制の)可能性あり」と判定している。
もちろん、コーヒーの飲み過ぎは良くないとも付け加えられており、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」の故事どおり気をつけなければならない。
では、健康のためにコーヒーで乾杯!

回転する誕生会
三男の誕生日。今年で満26歳になった。26歳といえば私が結婚した年齢でもある。息子の顔を見ていると、自分はもっと大人びた顔をしていたような気がするのだが、どうなのだろう。
さて、いつもならささやかな誕生祝いを行うのだが、今回はなにかと忙しく、また我が親父の体調不良や二男のお嫁ちゃんの緊急入院などがあって、結局、長男と私の三人だけで食事会をすることになった。
三男のリクエストにより寿司に決まったが、当然のことながら「廻らない寿司」は却下。でも、最近の回転寿司は馬鹿に出来ない。ネタの良さを売りにしている店もあるし、メニューも実に豊富だ。
余談だが、三年ほど前に金沢へ遊びに行った折に、駅近くの回転寿司に入ったが、日本海の幸がとても豊富で、のどぐろなども普通に回ってくるのでいたく感動したことがある。

仕事帰りに三人で待ち合わせて、私お勧めの回転寿司屋へ入る。ここは仙台でも1、2を争う人気店だ。
ボックス席につくと、さあ、宴の始まりである。
私と長男は生ビールで、下戸の三男はウーロン茶で乾杯。
寿司にロウソクを立ててもらおうかと言ったら、まったくの無視。
三男からはオーダーの邪魔をするなよと言わんばかりの顔をされた。
この店もタッチパネル式のタブレットを使って注文するのだが、気遣いの長男は比較的安いものばかりを選んでいるのに対して、そんなことお構いなしの三男は、ここぞとばかりに高級ネタの寿司を選んでいる。皿の色を見れば、一皿500円や600円のものばかり。もしこれが我が子でなければ殺意を覚えたかもしれない。

そんな息子たちを見ていると、この間の焼肉屋を思い出した。二人の食べっぷりを見ているだけでこちらの腹が一杯になってくる。
それでも十代の頃の息子たちに比べたら、随分食べる量は減ったと思う。当時は一人に一つずつ炊飯器を与えようかと真剣に考えたことさえあったくらいだ。
毎月の米の消費量は息子三人で60キロ。およそ米俵1俵分だ。もし妻の実家が農家でなければ毎月の米代だけでも馬鹿にならない金額だった。
妻の実家を訪ねるたびに、その帰り際、義父が倉庫の大型冷蔵庫から30キロ入りの米袋を出しては持たせてくれた。その義父も息子たちが社会人になるのを見届けると、まるで自分の役目を終えたかのように亡くなった。今はただ、義父に感謝である。

昔のことを思い浮かべているうちにも、テーブルの上には皿が積み上がって行く。見方を変えれば息子たちが元気であるという証拠だ。これは親としては嬉しいことなのである。
(さあ、息子たちよ。金はいくらでもある。今宵は好きなだけ食べろよ)と、口元まで出かかったその言葉を、ビールで押し戻したのだった。

福山城へ
福山城へ
福山城へ
福山駅前のホテルに宿泊した私は、いつものように午前六時前には目を覚ました。
ホテルの朝食会場に顔を出すと、まだ早朝にもかかわらず宿泊客でいっぱいだった。しかもそのほとんどは欧米人と思われる団体客だ。おまけにドギツイ香水の匂いと食べ物の匂いが入り混じり、朝食会場は咽かえるような臭気に満ちていた。
匂いには人一倍敏感な私は、すっかり食欲が失せてしまい、それならば再び食欲が戻るまでの間、散歩がてら福山城まで行ってみようと思い立った。
福山城はJR福山駅の目と鼻の先にある。私はこれまでに数々の城を訪れてきたが、駅と城がこれほど近いところが他にあっただろうか。プラットホームからお城の写真が間近に撮れる駅は、全国広しと言えどもこの福山駅くらいかもしれない。
あとで分かったことだが、そもそも福山駅は、山陽線の線路を最短で敷設するためにお城の敷地に建てられたのだ。お城と駅が近過ぎるのは当然のことだったのである。

福山駅の中央通路を通って北口を出ると、すぐ目の前には見事なという表現が相応しい石垣と月見櫓が現れた。駅へ向かう通勤客や学生の流れに逆らって公園のような場所をしばらく歩くと、天守閣へ向かう坂道へ辿り着いた。
こんなことを言うと福山の方々に怒られるかもしれないが、福山城がこんなに立派な城だとは思っていなかった。やはり譜代大名の城は違うものだと感心する。
実は駅を出た時から「GOPRO7」で動画を撮影していたのだ。スチールと違ってあとから映像を見ると、実際の距離感などが良く分かるからだ。
ジョギングする人たちと挨拶を交わしながら、本丸の東側へと辿り着いた。そこには藩祖水野勝成公の銅像があったので、まずは初来訪のご挨拶を。
この水野勝成公は、徳川譜代大名の中でも有数のエピソードを持つ人物といわれている。
なんでも相当な暴れん坊だったようで、戦いそのものを楽しむような野放図さがあったという。
その父忠重は豪勇な人物であったが、小牧・長久手の戦いのさなかに勝成は父の勘気を蒙り、流浪の旅に出ることになってしまう。その理由というのが、忠重の寵臣を勝成が斬ったためと言われている。
おそらく日頃より身勝手な振る舞いの多かった勝成を諌めたのが、その刃傷の原因であったと思われる。
行く先々、勝成を受け入れようとする諸家に対して倅の勝成を招き入れることのないようにと、父忠重は書面を送りつけていたらしい。もし、倅の面倒を見ようものならば、今後は一切の援助をしないというような脅しだったようだ。
そこまで我が子を憎んだということなら、時代が時代であるから、命を奪うこともあり得ただろう。なのにそれをしなかった...
一説には陰ながら勝成に護衛を付けていたという話もある。もしそれが本当なら、そこには何か隠された意図があったのかもしれない。単なる親子の確執とみるか、それは見せかけのものだったのか。
私はその後15年にも及ぶ流浪の生活を送った勝成公に思いを馳せながら、動画を回し続けた。
天守前の広場に出ると、そこにはゲートボールに興じる高齢者の人たちがいた。突然現れた私にはまったく興味はなさそうに、彼らはゲートボールに集中していた。
そんな彼らの歓声をあとに、再建された御湯殿(湯殿)へ足を向け、そして本丸御殿跡の石碑前に出た。
本丸とは城主の居館である。ここに居住したのは、初代藩主の水野勝成と二代藩主の勝俊だけだという。三代藩主の勝貞は三の丸東側に新たな御殿を造営したということだ。

腕時計に目をやると、ホテルを出てから一時間ほど過ぎている。歩き回ったせいか、腹の虫も泣き始めた。朝食会場も少しは空いた頃だろう。
私は本丸正面に位置する筋鉄御門を出て、福山駅側の坂道を降り始めた。ここからは駅のプラットホームがよく見える。平日だったので通勤・通学客でホームは溢れていたが、その光景に現実の世界へ引き戻されたような錯覚を覚えた。
私は何度も城を振り返りながら、やがて人の群れに巻き込まれて行った。

尾道へ行く
尾道へ行く
尾道へ行く
そもそも、何故尾道へ行こうと思ったのか。それは古いビデオを整理していた時に見つかった一本の映画がきっかけだった。
その映画とは大林宣彦監督の「転校生」だ。1982年の公開というから、今から37年も前の映画である。
ストーリーは中学3年生の斉藤一夫と、彼の学校に転校してきた斉藤一美のふたりを主人公にしたファンタジーだ。
このふたりは幼い頃、家が近所だった幼馴染み。久しぶりに再会したふたりだったが、学校帰りに神社の石段から一緒に転げ落ちてしまう。するとふたりの心と身体が入れ替わってしまったのだった。しかしそのことに気がつかないまま、それぞれの自宅に帰ったふたりだが、そこで初めて自分があいつで、あいつが自分になっていることに気がつく。こんなとんでもない状況に戸惑うふたりだったが、とにかくお互いになりきって生活を続けることにしようということになった。だがしかし、そこは性格の異なるふたり。人が変わってしまったような一夫や一美の言動や行動に、周囲の人たちも不審には思うものの、まさか入れ替わっているとは思わない。ふたりの身の上に降りかかるは様々なトラブルを潜り抜けるうちに、いつしかお互いにしか分からない絆が芽生え始める。そしてそんなふたりにやがて別れの時がやって来て...というお話。
当時、主演の小林聡美の体当たりの演技や尾美としのりの女の子の演技が話題になった。
この映画を私はリアルタイムで観てはいないのだが、観て来たという周囲の連中から「尾美としのりってお前に似ている」とよく言われたものだ。
尾美としのりのことを知らなかった私は、似ていると言われてもただ困惑するだけだったが、あとから彼の映画を観て納得した。確かにどこか似ているところがある。外見というよりも雰囲気がそうだったのかもしれない。
後年、NHKの朝ドラ「あまちゃん」で、主人公アキの父親役をしていたが、私の妻は「あっ、あなたが出ている」と笑いながら言っていた。
何となくボオッとしたところと、イラッとさせるところが似ていたのだろう。
いけない。話が逸れてしまった。
映画の中の尾道を見ているうちに、その町の中に自分も入ってみたい、その町を歩いてみたい、そんな衝動が心の中を突き上げて来たのだった。
そう思うと決断は速い。仕事の間隙を縫うようにスケジュールを組んでみた。
ネットや本から情報を集め、行きたい場所や時間等をチェックしていく。この辺は普段出張が多いので慣れたものだ。
せっかく行くのだから、この旅のモチーフになった映画のロケ地も見てみよう。尾道ラーメンも食べてみたい。ポンポン岩に寝転んで、船が行き交う尾道水道を見下ろしたい。
行くことが決まると様々な欲求が溢れるように湧き上がって来る。
もちろん妻も連れて行かなければ禍根を残すことになる。そのことを妻に伝えると、思わぬサプライズ旅行に舞い上がった。
さて、晴れ男の私と晴れ女の妻。ふたりでモダンな尾道駅を一歩外に出ると、急に雨が降り出した。雨に降られてしまうなんてついていないなと思ったら、地元の人曰く
「雨の日は瓦屋根が綺麗だよ」とのこと。確かにしっとりとした甍の海は、とてもフォトジェニックだった。これはむしろツイているというべきか。
映画「転校生」のロケ地も見て回り、ああ、こういう場所で撮影したんだなと長い時を隔てて納得した。
普段からファンタジーは好きじゃないという妻も、この時ばかりは映画と同じ場所に居る自分に興奮気味だった。
尾道ラーメンもポンポン岩の上で寝転ぶことも出来て、ひとつの夢はここに叶った。
「転校生」でふたりが転がり落ちた石段の前で、冗談半分に妻へ「転がり落ちてみようか」と言うと、「嫌だ」とひとこと。でも、その顔はどこか嬉しそうだった。
遠く尾道まで来た甲斐があった。そう思った瞬間だった。

写真上:小林聡美が一気に自転車で駆け上がった陸橋への坂道
写真中:ふたりが入れ替わった御袖天満宮の石段
写真下:千光寺公園から尾道水道、尾道大橋を望む

新婚の家
新婚の家
新婚の家
私と妻が結婚生活を始めたのは、岩手県の滝沢村(現:滝沢市)。「チャグチャグ馬っこ」のスタート地点としても知られる村だ。独身時代からその滝沢村に借り上げ社宅として住んでいたボロアパートが、チャグチャグ馬っこ同様、我ら夫婦のスタート地点となったのである。
大工である大家が廃材を集めて作ったというこのボロアパートは、ひとりで住むには十分すぎる広さがあったが、妻の嫁入り道具が入った途端に手狭になってしまった。
けれどもストーブとテレビしかなかった六畳三部屋の空間が、急に人の棲家に変わったことが私には嬉しかった。
朝、玄関のドアを開けると、目の前に岩手山と姫神山の麗しい山容が姿を現す。このふたつの山は地元では夫婦だと言われているが、若かった妻は自分たちのようだねと言って喜んでいた。
綾小路きみまろではないけれど、あれから35年。今では走って逃げる2歳の孫にも追いつかない有様である。
そんな私と妻が訪れたのは、盛岡市内にある石川啄木新婚の家。26歳で夭折した天才歌人が、新婚の明治38年から3週間ほどを過ごした家である。
宿泊したホテルからも近かったので、脱水症状から回復した妻と歩いて訪れたのだが、午前中であるにも関わらず既に数組の観光客が訪れていた。
実は私、盛岡には数えきれないほど訪れているのに、啄木新婚の家には一度も来たことがなかったのだ。
盛岡市内に現存する唯一の武家屋敷だというその家は、いかにも質素な佇まいをみせていた。
玄関には石川啄木の名が記された表札があり、板ガラスがはめ込まれた引き戸を開けると上り框まで敷き詰められた畳の間があった。その左隣りには二間続きの部屋があったが、奥の部屋では花婿のいない結婚式が行われたという。
私たちのあとから入って来たふたりの女子大生が、突然その部屋でゴロリと大の字に横たわると、
「ここかあ」
「ここだね」
と大きな声を上げたのには驚いた。
おそらく花婿不在という奇妙な結婚式がこの部屋で行われたことを知っていたのだろう。人目があるにも関わらず、平気でゴロリと大の字になったこのふたりの女子大生に幸あらんことをと祈る。
そんな彼女たちの傍らを通り過ぎ、小さな囲炉裏のある小部屋へと入る。そこには小さな文机と年季の入った小振りの和箪笥がひとつだけ置かれていた。この部屋は啄木の書斎兼夫婦の部屋として使われた。
啄木の随筆「閑天地」はきっとこの部屋で書かれたのだろう。また、この部屋での生活は随筆「我が四畳半へ」にも書き記されている。
「僅か三週の間なりしとは云え、我が半生に於ける最大の安慰と幸福とを与へたりしかの陋苦しき四畳半」(「我が四畳半へ」より)
それにしても僅か3週間しかこの家には住んでいなかったとは、まさに漂泊の歌人といわれるだけはある。
この後、啄木は妻や家人を残し、ひとり北海道へと渡って行くのである。

一通り啄木新婚の家を見て回った私たちは、35年前に二人で暮らし始めたボロアパートのことを互いに思い浮かべていた。

写真上:石川啄木の表札
写真中:奥の八畳間で花婿不在の結婚式が行われた
写真下:書斎兼啄木と節子の部屋

本と珈琲と募金と
本好きも度を超すと中毒になる。もっと度を超すと活字中毒になる。新聞でもチラシでも薬の効能書きでも弁当のラベルに記載された食品添加物の名称でも、とにかく活字を読んでいるだけで安心するようになる。
今でもたまに寝床に就いて本を読みながら寝てしまい、朝、両手に本を持ったままの状態で目を覚ますことがある。
嘘だと思われるかもしれないが、目を開けた途端に続きを読み始めるのだ。
妻も私がそんな状態で寝ているのを見つけて、手に持っている本を取ろうとするらしいのだが、死後硬直のようにしっかり掴んで離さないらしい。時々、本当に死んでいるのではないかと不安になるようだが、鼾を確認すると(勝手にしろ)と毒づきながら眠るのだとか。
そんな私がたまに訪れるのが、仙台駅から歩いて5分ほどの場所にあるCAFE「青山文庫」だ。店内は昭和レトロな雰囲気が漂い、薄暗く落ち着いた店内には本が沢山置いてある。
この店のコンセプトは「本と珈琲とインクの匂い」。書架があったり貸本コーナーがあったり、ちょっと難しめの本があったかと思うと、絵本がさりげなく置かれていたりする。本好きな人にはたまらない空間だ。
写真にもあるように、カウンター席の窓際にはずらりと文庫本が並んでいるので、コーヒーを飲みながらつい手を伸ばしてしまう。ここでは時間がいくらあっても足りないくらいだ。
私がいつも飲む「青山文庫ブレンド」は500円。1杯ずつミルで挽いてドリップするので時間はかかるが味も香りも素晴らしい。
コーヒーはマグカップで提供されるが、本読みにはちょうど良いサイズだ。お代りが150円というのも嬉しい。
この店でランチを取る時には、焼きカレーか煮込みシチューライスのどちらかを選んで食べる。オーブンで焼いた香ばしいカレーの匂いが、ひととき我が活字頭を解放してくれる。
店員さんがワゴンを押してやって来ると、私のすぐ脇でレモン水を作ってくれるのだが、このサービスもいい。特に食事のあとは口の中がさっぱりする。
ところでこのお店では貸本コーナーがあり、1冊50円の募金という形で本を借りることが出来る。その募金は全額「絵本を届ける運動」に寄付されるのだとか。
読み書きができない、絵本を読んでくれる人がいない国内外の子供たちへ、絵本を手にする機会を持ってもらおうと、1999年以来「公益社団法人シャンティ国際ボランティア会」が行っている運動とのこと。
正直に言うと、まだ一度も借りたことが無いのだが、次に訪問した折には「募金」のために借りてみることにしようと思っている。

おかしな話といえば、おかしな話だが、人間ドックの予約を入れてしまったために、現在糖質制限ダイエットを行っている。
そう、人間ドックがあるから痩せようという訳だ。それって本末転倒ではないかと言われそうだが、人間、何か事を起こす時は「動機」が必要なのである。その人間ドックがあるのは今月末。このダイエットを始めたのは先々週の週末から。およそ3週間で結果を出そうという訳だ。
実は昨年の人間ドックの際に、先生から「あと10キロ体重を落としましょう。それだけで世界観が変わりますよ」と言われたのだった。
『世界観が変わる』
とても魅力的な言葉に思えた。マンネリ化した毎日に変化が起こるかもしれない。軽くなった身体で颯爽と街を歩いている自分。駅の長い階段を疾風のように駆け上がって行く姿を思い浮かべた。
しかし、現実は甘くはなかった。体重は減るどころか増加の一途を辿った。これでは世界観など変わる訳もない。
このままだと先生から「世界観は変わらなかったようですね」と言われてしまうことだろう。
今年は人間ドックをやめようかななどと、心が揺らいでいた最中に、妻から「人間ドックを予約したから」といわれてしまったのである。
焦った。その日まで時間がない。どうしよう。痩せていなければ先生に面目が立たない。そんな慌てふためく私が見つけたダイエット法が、糖質制限だったのである。
糖質制限については今更言うまでもない。おそらく私よりも皆様の方が詳しいかもしれない。
現在、私の主食は山形の特産「玉こんにゃく」だ。よく観光地の茶店などで串に刺して煮ているアレだ。これを3~5個も食べると満腹になってしまう。
もちろんこれだけでは栄養的に問題ありなので、野菜類やキノコ類などを一緒に食べるようにしている。また、タンパク質も大切なので豚肉や鶏肉、卵などは必ずメニューに加えた。そして内臓脂肪に効果があると言われているガゼリ菌入りのヨーグルトは朝昼晩の3回は必ず食べるようにした。
最初の3、4日は辛かったが、それもだいぶ慣れてきて、そしてその効果を感じるようになってきた。
まず体重が一気に3キロも落ちたのである。さらに今まで着ていた服が緩くなり、特にズボンの腹回りが細くなった。これには正直嬉しかった。
気がつけば胸周りも減ったようで、Yシャツやスーツの上着がきつくなくなった。
ただし、短期間で急激に体重を落とすのは良くないと聞く。それに脂質も制限すると便秘になりやすいともいわれる。このへんがダイエットの難しいところである。
さて、人間ドックはいよいよ来週だ。世界観が多少とも変われば良いのだが。

私とかつて一緒に仕事をしていた男がいる。今は転職してまったく異なる仕事に就いているが、その彼から電話がかかってきた。
着信表示に現れたその名前を見ただけで、私はいつもうんざりしてしまう。また、コイツかよと...
人と人とのご縁には色々あるけれども、私とこの男とは「腐れ縁」と言っても良い。はっきり言って私はこの男が嫌いである。なぜならば、私を利用することしか考えていないからだ。
この男、考えていることはいつも自分の利益だけだ。目的が達成できれば、その間に世話になった人たちに感謝の素振りも言葉もない。
年齢は私より一回り以上も下なのに、狡知に長けている。そんな彼との腐れ縁の始まりは、結婚式の司会を務めたことからだ。
奥さんは或る作家の一人娘で理知的な美人だった。彼からは是非私に披露宴の司会をして欲しいと懇願され、お目出度い話でもあるし断るのも失礼かと引き受けることにした。
結婚式の司会を一度でも頼まれたことがある人ならお分かりだろうが、あれは前準備が相当大変なのである。
私も当時はまだ30代。国や地方自治体へ提出する報告書の作成などで、毎日深夜まで仕事をしていたが、そのような状況下で司会の進行表を作成したり、新郎新婦のエピソードや友人知人らへの取材など、自分の休みを削って準備を進めたのだった。
披露宴が始まると、これもまた忙しい。飲み食いしている暇などまったくない。一緒に参列した上司や同僚らからは「お疲れさん」「大変だね」と労いの言葉を掛けられるが、引き受けた以上は粗相のないよう責任を持って努めなければならたい。
2時間の披露宴が終了したあとは慣れないことをしたせいもあり、ぐったりと疲れ切ってしまった。ロビーのソファで倒れ込むように座っていると、彼と新婦は着替えも終わり2次会会場へ向かって行った。私が座っているのを見つけると、軽く手を上げただけで...

この時、私は勿論ご祝儀を包んで行った。だが、司会に対する謝礼は一切なし。おまけに御礼の言葉のひとつも無かった。
最初は御礼の言葉も無いことに、何か私が司会でヘマをやってしまい、それを怒っているのかなと心配になったが、あとからこんな話が私の耳に届いた。
(プロに頼むと司会の謝礼が高いから、職場の人間に頼むと安くつくのだ)と。
私はその話を聞いて驚いた。安いどころか一銭も貰ってなどいない。たまたまその話を傍で聞いていた、やはり披露宴に出席した某部長が私以上に憤慨していた。

その後、彼はヘッドハンティングされて大手企業に再就職して行ったが、その時も挨拶ひとつなし。
だが、ほどなくして私に連絡してくるようになったが、いずれも頼み事ばかり。
私も頼まれるとなかなか断れない性質なので、簡単なものなら手助けしてやったが、相変らず感謝の言葉も謝礼も無かった。
やがて私は東京から仙台へ転勤。これでヤツとも切れる。そう思ったのは早計だった。
頻度は少なくなったが、ほぼ1年に一度は『頼み事』をして来る。だが、私も馬鹿ではない。色々な理由をつけて断るようにした。何度もそのようなことが続けばそれが拒絶であることを察して、もう電話など掛けてこないものだが、どうやらヤツは強心臓の持ち主らしい。
或る時、また電話が掛かって来た。いつもの猫なで声だ。人に物を頼む時はこの声になる。
その電話の内容は仙台でホテルを一部屋確保して欲しいというものだった。そんなのは自分で出来るだろうと言ったら、その日、仙台でJ事務所の人気グループのライブコンサートが行われるとのこと。自分の顧客の娘がそのグループの大ファンでコンサートに出かけるのだが、ホテルがどこも一杯で取れないという。そこで何とか部屋を確保して貰えないかという懇願だった。
私もその人気グループのコンサートがあることは知っていた。全国からファンが大挙して仙台へやって来るため、会場までの交通機関に混乱が生じるであろうことも情報番組で放送されていた。夜間のコンサートのため、市内の宿泊施設は早くから予約で埋まっていることも。だから私もさすがに今回ばかりは願いは叶えられないぞと答えた。
だが、ヤツは引き下がらない。引き下がらないどころか、私が仙台市内のシティホテルの支配人を知っていることを聞きつけて、こうして電話を寄越したのだ。
それでも私は無理だと言ったら、今度は泣き落としにかかって来た。
この客を手放してしまうと、自分は会社を辞めなければならないといったような、私には関係の無い身勝手なことを捲し立てた。
私はそれを聞き流しながら、今までのツケが回ってきたのだよと言ってやりたかった。

(どうぞ空いていませんように)そう願いながら、Mホテルの支配人に一応電話をかけた。するとスイートルームなら1部屋だけ空いているという予想外の返事に当惑してしまった。私が電話をする直前にキャンセルが出たのだという。
結局これでまた、私に頼めば何とかなるという誤った認識を彼に植えつけてしまうことになった。
そして、この時もまた御礼も謝礼も一切無し。

その時、私はこの人間とは今後一切関わりを持たないようにしようと心に決めた。
そして今週また掛かって来た今回の電話。顧客から預かった写真データ(RAWデータ)が開かないという内容だった。それも1枚2枚ではない。数百枚という大量データだ。写真屋に持っていくと無理だと言われたそうな。
写真を趣味にしている私なら、またしても何とかしてくれるだろう。そういう魂胆のようだ。
しかも私が引き受けるとも何とも言わないうちに、勝手にデータが送りつけられて来た。
怒りを通り越し、呆れたというしかない。
(〇〇は死ななきゃ治らない)
私の写真編集に使用しているPCで試しに開いてみる。すると、いとも簡単に開くことが出来た。
(開けるじゃないか)
時間はかかるがjpegに変換することは可能だ。でもここでこれをやってしまうと、今度は私の方が(〇〇は死ななきゃ治らない)になってしまう。
あやつのしたり顔が見えたような気がした。


子供たちのいらなくなった教科書や参考書などを整理していたら、数学や科学の本が出て来た。いずれも自分の苦手な教科だ。教科書を見ただけでも、頭が痛くなってくる。
それでも大事な物が挟まっていないかペラペラと頁を捲ってみると、数式やら記号などが雪崩のように一気に目に飛び込んでくる。
こりゃあたまらんと、すぐに本を閉じた。
こんな具合だったから、数学の先生や科学の先生からは目をつけられて、よく怒られたものだ。特に数学の先生とはそりが合わなかった。
或る時、円周率を言えるところまで言ってみろといわれ「3.14」で止まってしまったことがある。
どうやらそれが宿題だったらしく、他の生徒たちは結構答えていた。知らなかったのはどうやら自分だけのようだった。
何故なら風邪かなにかで休んだ時に出された宿題だったようで、そのことを誰も教えてくれなかったのである。
あの時は悔しい恥ずかしいという気持ちよりも、ひとり取り残されたような悲しい思いにとらわれたことを今でも覚えている。
今日の数学のトラウマは、おそらくこのあたりにあるのかもしれない。

しかしその後、あの数学の先生や何も教えてくれなかった同級生たちへのリベンジとばかりに、猛烈に円周率の暗記を始めたのである。
私はこれでも案外気が強い方なのだ。これはおふくろ譲りかもしれない。
そこで私は語呂合わせで覚えることにした。

産医師 異国に向こう (3.14159265)
産後薬なく 産婦みやしろに (3589793238462)
虫散々 闇に泣くころにや (6433832795028)
弥生 急な色草 (841971693)
九九 見ないと (9937510)
小屋に置く 仲良く獅子子 (58209749445)
国去れなば 医務用務に病むに (923078164062862)
お役悔むに やれ見よや (089986280348)
不意惨事に 言いなれむな (25342117067)

ところが、そもそも語呂の言葉自体、使い慣れない言葉ばかりなので頭に入ってこない。おまけに私は文意に意味を求めてしまうので、意味不明な文章を覚えることは至難の業だった。それに、何とか覚えた円周率もリベンジの場が無い。
誰かをつかまえて、円周率を覚えたから聞いてくれと言っても聞いてくれるわけがない。
結局その時はそれで終わってしまったのである。

近年、ゆとり教育の影響で、円周率は3でも良いという時期があった。ちなみに円周率は2000兆桁まで正確な計算がされているそうだが、それを考えると0.14違っても良さそうな気がするが、やはり駄目なのだそうだ。
厳密に計算すると、円周率は3以上4以下となるので、つまり3のみということはあり得ない。だから3ではダメということだ。
そう言えば科学でもそうだった。
元素記号。あれも暗記した。水平リーベ、ぼくの船、というやつ。
これもなんとかかんとか覚えたが、それだけでは意味が無いような話を聞かされて愕然となったことがある。
その暗記で大切なことは、配列そのものを覚えることが大切なのだと。
表のどの位置にその元素があるのか、それを覚えないと意味が無いと教えられた。要は縦に並んだ元素は性質が似ているので、それを知らないと覚えたうちには入らないということらしい。

ああ、面倒くさい!
この国を離れて、どこか異国に向かいたい...


Yさんは鹿児島出身の偉丈夫で、一見西郷隆盛を思わせる人物だ。故郷を遠く離れてここ仙台に居を構え、20年以上を縁もゆかりもないこの土地で暮らして来た。
私とYさんが出会ったのは、たまたま或る仕事を通じてのことだったが、気が合ったというのだろうか、お互いに連絡を取り合うようになり、ついには私の仕事を手伝ってくれるまでになった。
お酒も無茶苦茶強くて、芋焼酎ならいくらでも飲めると豪語する。そんな豪快な人物だが、なぜ仙台へ来たのか、家族はいるのかなど、プライベートな話は一切口にしなかった。
何か特別な事情があるのだろうと、私もYさんに尋ねることは一切しなかった。
そのYさんが或る日私の仕事場にやって来て、いつものように世間話をして行ったのだが、最近食事の後に横になると、頻繁にゲップが出るようになったというのだ。それまではそんなことがまったく無かったので「これも歳のせいですかね」と笑っていた。
そのYさんから間もなくして電話があり、某医療センターに入院していると知らされた。さすがにおかしいと感じたYさんは検査を受けたところ、胃に癌が見つかった。そこで外科手術と抗癌治療を行うことになったという知らせだった。
私はその知らせにとても驚いたが、努めて明るく話そうとするYさんに、どう励ましたら良いのか言葉が見つからなかった。

手術前に病院へお見舞いに出かけたところ、Yさんはあの大きな身体でニコニコと笑みを浮かべながら面会室へやって来た。いつもと違うのは点滴のスタンドが傍らにあるのとパジャマ姿くらいなものだった。
私も病気のことにはあまり触れず、仕事の話や今度また一緒に飲みに行きましょうという他愛も無い話に終始した。
そのあと病室まで付き添ったが、Yさんのベッドの枕元には名前の分からない小さくて綺麗な花が飾られていた。
「とにかく一日も早い復帰を願ってますから」
その日はそう言ってYさんと別れた。

それから一か月以上が経って、私の携帯電話にYさんから電話が入った。声に張りは無かったが手術は無事に終わり、現在も療養中であるとのことで私もそれを聞いて安堵した。
その電話があって2、3日後に、私は再びYさんを病院へ訪ねた。
今回は直接病室へ足を運んだが、ベッドに起き上がっているYさんを見て、一瞬言葉を失った。なぜなら、あの大きな身体がそれこそ半分になってしまったようなYさんが、そこにいたからである。
一月前に同じこの病院で会ったYさんとはまるで別人だった。顔も身体も、そして点滴を受けている腕も、すっかり痩せ細ってしまっている。
こんな短い期間の間で、こうも変わってしまうものなのだろうか。私は言葉を失った。
Yさんは話をするのが少し辛そうだったので、また伺いますよと言ってすぐに辞去したのだが、その枕元には今回も綺麗な花が飾られていた。いったい誰が飾っていくのだろう。一度もYさんの口から聞かされたことのない家族だろうか。
そんなことが気になりながら、私は病院をあとにした。

おそらくこれは夢である。
どこかの大きな建物の玄関から、見覚えのある人物が、片手に何かをぶら下げて出て来た。そしてまっすぐに私のところへ向かって歩いて来る。
それがYさんであることは、大きな体形ですぐに分かった。
私は病気が全快して、もとのYさんに戻ったのだと思った。
Yさんは私の目の前までやって来ると、深々と一礼した。そして手に提げていた包みを私に差し出した。どうやらそれは一升瓶のようだ。それも芋焼酎らしい。
ふいのことに私はただ黙ってそれを受け取った。
Yさんは受け取って貰ったことにほっとしたのか、それまでの強張った顔が一瞬緩んだように見えた。そして再び私に一礼すると、私に背を向け、いま歩いてきた道を戻り始めた。
私はYさんに声を掛けようとするのだが、何故か声が出ない。しかし、そう思うたびにYさんは立ち止まり、私を振り返っては何度もお辞儀をした。そしていつしかその姿は見えなくなってしまった。
(妙な夢を見るものだな)
私は目が覚めてからも、夢に現れたYさんの姿が頭から離れなかった。

それから一週間ほどが過ぎて、私の携帯電話に見知らぬ番号から電話がかかって来た。
出ると女性の声がした。知らない名前だった。だが、女性が話し始めたのはYさんの死だった。
その女性の話では、Yさんが亡くなったのはしばらく前のことらしい。おそらく私が最後に見舞いに伺い、その直後だったようである。
私のことは生前Yさんから聞いていたらしく、大変お世話になったと話していたそうだ。
今回、こちら仙台を引き払い、故郷の鹿児島へお骨も連れて帰るとのことで、荷物の整理をしていたとのこと。
Yさんの携帯電話を見ていたら、私の名前と電話番号をみつけ、それで電話をしたのだという。
「主人に代わって御礼を申し上げます」
彼女はそう言った。
(奥さんがいたのか。でも苗字は違ったが)
私はYさんの病床にあった綺麗な花を思い出した。

Yさんと私の話はこれで終わりである。
あれは私に別れを伝えに来たのかもしれない。おそらく元気になったらまた飲みましょうと言っていたことが気になっていたのだろう。
芋焼酎をぶら下げてくるなんてYさんらしい。

さようなら、Yさん。
松本城と北アルプス 其の二
松本城と北アルプス 其の二
松本城と北アルプス 其の二
ライトアップされた松本城に魅せられているうちに、身体は完全に冷え切ってしまった。
妻からは空腹を訴えられ、何か信州の美味しいものでも食べに行こうと急かされた。
あまり遠いところへ行くのも寒いから嫌だと、ホテルの近くを歩き回っていると、居酒屋風の蕎麦屋を発見。早速入ってみることにした。
暖房が効いた店内はそれほど広くはないが、先客の男女グループが盛り上がっているところだった。何やら難しい言葉を交わしているところをみると、知的レベルの高そうな人たちである。年齢も30~40歳代といったところか。私も仕事柄、その方面には鼻が利く方なので、おそらく大学関係者なのかもしれない。
私と妻は店の隅に陣取り、早速メニューで品定めをする。やはり目は自然に馬肉を探しているが、蕎麦が食べられない妻は、鍋焼きうどんを見つけて小躍りしていた。
結局、悩んだ末に頼んだのは、馬刺しと馬肉の信州みその朴葉焼き、それから蕎麦刺しだった。特に蕎麦刺しは生まれて初めて食べる物で、蕎麦を板状に薄く伸ばし、刺身のように切ったものだ。それを山葵醤油につけて食するというもの。妻には悪いが、この日私が一番はまったのがこれだった。
ところでこの日は、全豪オープン女子シングルス決勝だったが、店内のテレビでもその模様が流されていた。大坂なおみ選手がポイントを上げる度に、例のグループも盛り上がっている。私も妻も試合の成り行きが気になって、そのうち食事も味が分からなくなってしまった。
此処でこういう試合を見ることになるとは思いも寄らなかったが、これも旅の楽しみのひとつだろう。
試合の結果は言うまでもないが、すっかり気分が良くなった私たちは、酔い覚ましにもうちょっと夜の街を歩いてみることにした。
歩きながら「松本城にまつわる怖い話を知ってる?」と妻に尋ねた。その唐突な問いかけに妻はビクッと身体を強張らせ、「いまそれを言うか!」と文句を言った。
実はこの旅行に先立ち、私はある一冊の本を読んでいた。その名も「日本名城紀行」。
小学館からシリーズで出ている本だが、一流の作家たちによる日本各地の名城の紀行文集だ。
その中で松本城について書いたのが山本茂実である。
この人の名前がピンとこない人でも、「ああ野麦峠」の作者と聞けばお分かりになるだろう。
山本茂実は此処、松本に生まれた人なのである。それゆえ子供の頃から、このお城を見て育ったのだが、意外なことに彼は松本城が好きではないという。その理由がこの名城が怨霊に祟られているからだと聞かされれば、これはもう身を乗り出さずにはいられない。

山本が語るには、子供の頃は天守がくの字に傾いていたのだそうだ。その理由を父親がわら細工をしながら教えてくれたのだそうだが、要するに重税を課せられた農民たちが一揆を起こし、それに対して城役人が「願いは聞き届けた」と偽り、首謀者である中萱加助らを捕えて城山で磔にしたのだった。
死を直前にした中萱加助は磔台の上から城を睨み
「さては奸吏どもたばかりしか、うーむ」と血走る憎悪の目で叫び、絶命した。この鬼気迫る加助たちの最期に、城は西南へめりめりと傾いた。また、のちに城主水野忠恒は乱心し、江戸城は「殿中松の廊下」で刃傷沙汰を起こし、御家断絶、城地召し上げとなってしまった。
刃傷沙汰を起こした水野忠恒に理由を問うと、切りつけた相手が加助に見えたのだという。

この話が本当かどうかは分からない。ただ、松本城の修理は幾度か行われたらしいが、そのための修理であったのかは定かではない。
「城に行く前にこの話を聞かせたら、絶対に行かないと言うに決っているからな」
私は並んで歩く妻にそう言った。
「でも、傾いていなかったね。呪いが解けたのかな」
妻は自分を安心させるようにそう呟いた。

翌日の早朝。
カーテンを開けると北アルプスの山並みが朝日に照らされて赤く燃えていた。
この景色を見た私は、改めてこの地を訪ねた幸運に感謝した。

写真上から
馬肉の朴葉味噌焼き
蕎麦刺し
北アルプスの朝焼け
松本城と北アルプス 其の一
松本城と北アルプス 其の一
松本城と北アルプス 其の一
以前から知人や、そして妻からも、是非一度訪ねるべきは松本市だと言われていた。
松本城や北アルプスの山並みの美しさは、絶対に気に入るからというのだ。
長野といえばだいぶ前に善光寺へお参りに行ったのと、若かりし頃に軽井沢で喫茶店のアルバイトをしていたくらいで、それ以外はあまり行ったことがない土地だ。
妻は以前、長野で開かれたフィギュアスケートの大会に友人と二人で出かけたのだが、長野市内に宿が取れず、かろうじて空いていた松本市のホテルに宿泊したことから、私より先に同地を訪ねていたのだった。その時の印象がとても良かったらしく、ことあるごとに私を誘うのである。
出張が続いたり息子の指導などもあったりと、仕事のストレスがだいぶ溜まっていたので、この際、心の休日とばかりに重い腰を上げたのである。勿論、水先案内人として妻も同行することになった。
しかし、1月下旬のこの日は、日本海側は大荒れの天気で、長野も雪が降っているらしい。となると松本市は大丈夫なのかと腰が引けたが、妻は晴れ男の私が行けば絶対に大丈夫だからと変な励まし方をする。
ホテルも確保しているし、初めての地を見てみたいという好奇心が勝り、もしかしたら大雪で帰って来れなくなることを覚悟の上で出かけたのだった。

大宮で北陸新幹線に乗り換え、長野で下車すると、今度は篠ノ井線のワイドビューしなのに乗り継いだ。
長野あたりでは雪が激しく降っていたので、この調子では松本はもっと雪かもしれないと不安になったが、なんと驚くなかれ、松本に近づくとともに急激に天候が回復し、車窓に映る北アルプスの連山は、青空にくっきりとその姿を浮かび上がらせたのである。
それは感激の一言だった。
この景色を見ることが出来ただけでも、此処を訪れた甲斐があったというものである。
松本駅のコンコースからも、北アルプスの大パノラマを見ることが出来るので、私はしばらくの間、その雄大な風景に見惚れていた。

駅のコインロッカーに荷物を預けると、妻とふたりで松本城を目指した。一度此処を訪れている妻の足取りは軽い。私は遅れないようにと時々小走りになったが、重いカメラバックが邪魔をする。
実は妻には内緒で購入したミラーレス・カメラと、これも同時に購入した大三元レンズのひとつが入っていたのだ。どうしても遅れ気味になるのはこのせいだったのだが、妻に悟られぬように涼しい顔をして歩いていた。

時計博物館を横手に見ながら、女鳥羽川沿いを千歳橋へ向かって歩くと、やがて縄手通りと四柱神社が見えてくる。以前、縄手通りに妻が来た時に、小物屋で買ったというカエルの置物がまだ売られていた。
四柱神社は縄手通りのすぐ傍にある神社だ。四柱(よはしら)とは天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・高皇産霊神(たかみむすびのかみ)・神皇産霊神(かみむすびのかみ)・天照大神(あまてらすおおみかみ)の四つの神様のことで、ひとつの神社に四つの神様が鎮座されるという珍しい神社である。そのため、すべての願い事が叶う「願い事むすびの神」とも言われている。
当然のことながらお参りをした私であるが、もともと無欲が服を着て歩いているような人間なので、頼み事は一切しなかった。ただ、今宵美味しいお酒と食べ物にありつけますようにと願っただけである。そう、あくまで「頼み事」ではなく「願い事」である。お間違えのないように。
ところで松本市に来て気がついたことがある。それは町全体がとてもコンパクトで、どこに行くにも便利であるということだ。
松本城にしても美術館にしても駅からそれほど遠くない。もしこれが仙台だったら、城址に行くにもバスやら地下鉄やらで結構大変である。このあたりも、この町に好感を持てる所以のひとつだ。
さて、松本城はもう目と鼻の先というところまで来ているが、寒さを見越して厚着をしてきたのが仇になり、歩いているうちに汗が噴き出して来た。これは完全な誤算だった。
市内は初春の陽気で、雪の一片も無い状態だ。
あとで分かったことだが、松本市は雪があまり降らない、積もらないのだそうだ。これには驚きであった。やはり旅には出てみるものである。

松本城に辿り着くと、市立博物館の前からお城への入り口あたりまで、大勢の人でごった返している。
私が行った1月26日は「国宝松本城氷彫フェスティバル2019」というイベントが開催されるまさにその日であったのだ。
お堀の前では、大勢のグループが氷柱を積み上げて、チェーンソーを響かせながら、彫像作りに励んでいるところだった。
ここへ来るまでに、相当汗をかいた私だが、氷柱が溶けないところをみると氷点下なのだろう。青空と明るい日差しにすっかり騙されるところだった。
そして、初めて見る松本城の姿はとても端整で美しかった。白と黒のコントラストが青空によく映えている。アルプスから吹き降ろす風がお濠の水に漣を立てていたが、もし風がなければ鏡面のようなお濠にその姿を映してみせたに違いない。
この時期、夜間はお城のライトアップも行っているということだったので、一度ホテルにチェックインし、日が暮れてから再び訪れてみたところ、日中見たお城の雰囲気が一変していた。それは闇の中に浮かぶ城と呼んでもいい。とても幻想的な光景だった。
夜になり刻一刻と冷え込んで来るのが分かったが、その姿に目を奪われてしまった私は、そこから一歩も動けなくなってしまったのだった。それはまるで松本城という幻術師に、術をかけられてしまったかのようだ。
あまりに動かずにお城を見ている私に、妻は背中をポンと叩いた。
「お腹がすいた」
その一言で術が解けた私は、四柱神社の神様たちへの願事を思い出しながら、その場を後にした。

青森の夜は、エルマー・T・リーで。
青森の夜は、エルマー・T・リーで。
Nさんと別れたあと、私に同行してくれたMさんがバーに飲みに行きましょうと誘ってくれた。いつもならカラオケなのだが、お互いに風邪を引いていて声が出ない。かと言って、まっすぐホテルへ帰るのもなんだから、ちょっとアルコールで身体を温めようというわけである。

青森の歓楽街から少し外れにある「バー鬼や」。名前はなんとなく恐ろしいが、優しそうな顔のバーテンダーがひとりで切り盛りしている清潔感のある店だ。
広めの店内には、他に客が3、4人ほど。Mさんと私はカウンター席についた。
私もMさんも好みの銘柄を伝え、ストレートにしてもらう。するとバーテンダーが「ウイスキーの飲み方をご存知ですね」と言うので、なぜと聞き返すと
「日本酒を水で割って飲む人はいませんから。ウイスキーだって同じです」との答え。
スコッチにせよバーボンにせよ、香りも楽しんで欲しいので、そのまま召し上がって頂くのが一番良いと思っているとバーテンダー氏は付け加えた。

風邪で痛めた喉を、ウイスキーが通り過ぎるたびに熱を放つが、そのうちMさんも私も身体から力が抜けていくのを感じた。まさに今日一日の緊張から解放されたという感じだった。
と、その時、Mさんがバーテンダー氏の背後にある洋酒棚に、一本の気になる瓶を見つけた。その瓶を取ってもらうと、Mさんはまじまじと眺め始めた。
「いいね、これ。ラベルの裏側に顔が描かれている」
Mさんはそう言って、私にその瓶を差し出した。
残りがあと1センチも無いその瓶。ラベルの裏側に描かれた肖像画がよく見える。
「エルマー・T・リーですよ。バーボンですが今では貴重品です」
バーテンダー氏の話では、かつてはポピュラーなバーボンとして知られたが、もう日本への輸入予定は無いのだとか。この店でもこれが最後の一本だそうだ。
それならこれも何かの縁とばかりに、瓶の底に残った琥珀色の液体をグラスに注いでもらい、Mさんと私で頂戴した。もちろんストレートで。

それにしても、ラベルの裏側に開発者の肖像画を描くとはなんて奥床しいのだ。
本来この手のものは、俺が作ったんだぞと表側に貼られるはずだが、そうはしなかったのだ。
バーボンが半分も減り出した頃に姿を現し始め、瓶が空になったところで「如何でしたでしょうか」と作者が登場する。
こういう生き方って、なかなか粋ではないか。私も真似をしたくなったが、さて、どこから顔を出せば良いのやら。
Mさんを見れば、その空になった瓶を鞄にしまうところだった。それを見てバーテンダー氏は鬼のような顔になるかと思いきや、ニコニコと仏顔で伝票を差し出したのであった。
真っ赤なりんご
わたしはまっかな リンゴです
お国は寒い 北の国
リンゴ畑の 晴れた日に
箱につめられ 汽車ポッポ
町の市場へ つきました
リンゴ リンゴ リンゴ
リンゴかわいい ひとりごと


生まれこそ青森ではないけれど、半分は青森人の私。
青森駅に降り立つたびに、『りんごのひとりごと』という童謡を、今でもつい口ずさんでしまう。
青函連絡船が全盛だった昭和30年代から40年代にかけては、青森の町全体に賑わいがあった。その中でも目を引いたのは、青森駅舎の南側にあったりんご市場である。
露店の小さな店がずらりと並び、雪が降ろうが吹雪が吹こうが、かっちゃ(お母さん)たちが真っ赤に熟したりんごを売っていた。
雪がしんしんと降り積もる中、りんご箱に入った真っ赤なりんごは、裸電球の灯りに照らされて、そこだけは暖かな別世界。しもやけで真っ赤になったかっちゃの手で、一個ずつきれいに磨かれたりんごは、今も私の脳裏に鮮やかに甦ってくる。
こんなことがあった。
まだ幼かった私は、一軒の店先で、赤い光沢を放つりんごを眺めていたことがある。するとその店のかっちゃが何かを言いながら、私の手でも掴めるほどの小さなりんごを差し出した。そのりんごがどうなったのかは記憶にないが、やたらに冷たかったことを今でも覚えている。

果物店の おじさんに
お顔をきれいに みがかれて
みんな並んだ お店さき
青いお空を 見るたびに
リンゴ畑を 思いだす
リンゴ リンゴ リンゴ
リンゴかわいい ひとりごと

多感な少年時代に青森を離れることになり、雪のほとんど降らない町に住むことになった。両親はそれをとても喜んだが、私はその町の冬の青空を見上げるたびに、青森のどんよりとのしかかるような曇り空を思い浮かべた。
私の原風景は、きっと曇り空なのかもしれない。
ちょうど一年前のこと。妻の中学校の同窓会が仙台市郊外の温泉で行われた。
参加したのはおよそ半分。一泊二日の同窓会だったが、妻は翌日の早朝から用事があったため、宴会にのみ出席して帰ってきた。
妻の話では中学時代から顔も体形も変わらない者もいれば、どちらさまでしたっけと言いたくなるほど『原型』を留めていない者まで様々だったそうだ。
当時、地元ではアイドル扱いだった妻は、この同窓会でも話題の中心だったようで、元男子中学生たちに取り囲まれて、遅すぎる告白を次々にされたという。そう言って私に報告する妻は満更でもない様子だった。
当時もそうだったが、妻に何かあると必ず助けに入る一人の男子生徒がいた。実は彼は妻の従弟のYで幼い頃からよく一緒に遊んだそうだ。今回の宴席でも、妻に言い寄ってくる男たちの防波堤になって、
「コラァ、オメエたち。今頃になって何言ってんだ!」とか、「人妻にちょっかい出すんじゃネェ」と言って、間に割って入ったという。
妻に言わせると、剽軽でお節介で心配性で、同じ歳の妻のことをまるで自分の妹のように面倒を見てくれたのだそうな。
この時の宴会でも「明日早いんだろうから、さっさと帰った方が良いぞ」と言ってくれたそうだ。そしてこの言葉が、妻とYの交わした最後の言葉になってしまった。

私と妻は彼の墓前に線香と花を手向けた。
あの同窓会のすぐあと、Yは急逝してしまったのだ。
家族に「疲れた」とひとこと言って寝室に入って行ったという。翌朝、いつまでも起きてこないYを家族が見に行ったら、すでに蒲団の中で冷たくなっていたそうだ。

「こんなところに入っちゃって」
妻は墓石に向かって独り言のように話しかけた。
私もYとは何度か会ったことがあるが、とても気さくな好人物だった。
「人の命なんて分からないもんだなあ」
私はそう言葉を返すしかなかった。
ふたりでもう一度手を合わせると、その場をあとにした。
妻がもう一度振り返った時、Yが好きだった白百合の花が墓前で揺れていたそうだ。

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