二ヶ月ぶりにSクリニックのK先生を訪ねた。
もう長い間、私の主治医をしてくれている先生だ。
先生には前回の受診時にアレルギー検査を頼んでおいたのだが、今回はその結果を聞きに行った。
診察室に入り、私の顔を見るなり
「あれぇ〜、痩せましたね」とK先生は目を丸くした。
フフフッと私は心の中でほくそ笑んだ。
丸椅子に腰を下ろしながら
「先生。去年の11月から12キロ体重を落としましたよ」と言うと、先生はさらに目を丸くしながら「それは凄い」と驚いた。
「先生。16時間断食ですよ」と聞かれもしないのに、その減量の方法を話すと、
「そういう断食法があるようですね。効果があるんだなあ」と感心したような風だったが、その視線は私ではなく、手元の書類に落とされていた。その書類を見ながら
「この間のアレルギー検査の結果が出ているんですけどね。無いですね。アレルギー」
「無い?」
「そう、無いんですよ。まったく、ひとつも」
そう言って先生は、検査結果表を私の前に差し出した。
その検査チャートには39項目のアレルギー物質、例えばスギ、ブタクサ、ヒノキ、ハウスダストなどが記載されているが、そのどの項目もクラス0となっている。
しかも「非特異的Ig-E」の値が、アレルギー体質では無いと言われる人の中でも、更に低い値となっていた。
「いるんですよねぇ、こういう稀な人が」
K先生はアレルギーの専門医だが、その先生がそういうのだから本当に稀な人なのだろう。
確かに私は昔から、アレルギー症状のようなものを呈したことが一度も無かった。
その裏付けが今回の検査で取れた訳である。
アレルギーが無いのはとても喜ばしいことなのだが、その一方で、何かしら引っかかるものが出てくるのではないかと、変な期待をしていたことも事実だ。
「それにしても、なんで39項目なんて中途半端な検査項目なんでしょうねぇ」
「う〜ん、それはですね」そう言って先生は真面目に考え始めた。そこですかさず私が
「40項目はおそらく、妻、なんじゃないでしょうか」と持論を述べると
「はい、確かに」
そう言って、K先生はこの日初めて私と視線を合わせた。
2月13日に発生した地震で、書架から落ちた本などの整理が漸く終わったのが、3月20日の午前中だった。
ほぼ1ヶ月近くもかかってしまったことになる。
こんなに時間がかかってしまったのは、単純に自分のための時間が作れなかったためだ。
退職してからというもの、何故か私のことをあてにして相談を持ちかけて来たり、或いは頼みごとをされたりすることが矢鱈に多くなった。
これは今に始まった事ではないが、どうも私は人のために働くという宿命みたいなものを持っているような気がする。
まあ、それも悪くはない。何か人様のお役に立てるなら、寧ろ喜ばねばならないことだろう。と、自分に言い聞かせてはいるのだが...

壊れた本棚を直したり、すべての本を並べ直し、どっと疲労感に襲われたところへ、息子夫婦が孫たちを連れて遊びにやって来た。
疲れてはいたけれど、孫たちの顔を見るとつい嬉しくなって相手をしてしまう。
じいじは孫たちにとって、格好のオモチャなのである。
風呂では孫たちがじいじの身体に、プラスチックで出来た魚のオモチャをペタペタ貼りまくり、それだけならまだしも、スーパーボールを思いっきりぶつけてそれらの魚を落とそうとする。
これが結構痛い。
「痛テテテテッ!!」と思わず悲鳴をあげると、余計に面白がって硬いスーパーボールをぶつけてくる。
終いには小玉スイカくらいの大きさのゴムボールを、魚が貼りついた体ではなく、じいじの顔面に容赦なくぶつけてくる。
顔の真ん中をゴムボールの衝撃で真っ赤にしながら、「このヤロー」とこっちもついムキになって孫に投げ返す。
そんな死闘が入浴中に繰り広げられるが、そのじいじオモチャも満身創痍。以前に比べて、体力と気力が低下してしまい、風呂から上がるとぐったりしてしまうことも多くなった。

この3月20日もそんな感じで終わる予定だったのだが、みんなで食卓についていたその時、地面の下から突き上げるような振動と地鳴り、そして大きな揺れが襲って来た。
妻が息子の嫁に「子供たちを守って」と叫ぶ。
それぞれの携帯電話から緊急地震速報の警報音が鳴り響く。
ああ、またかと頭の中にあの悪夢が蘇ってくる。

揺れが収まったあと、外出している息子や妹などに連絡を入れるが、とりあえず皆無事であった。
怯える孫たちを抱きかかえながら、嫁が一言
「お義父さん。2階で大きな音がしましたけど、大丈夫ですか?」
いや、大丈夫ではないのだよ。多分ね。
私は嫁の問いには無言のまま2階へと上がって行ったが、今日、1ヶ月かかって漸く片付けた大量の本が以前と同じように散乱していた。
ちなみにロフトの漫画本も、どこから手を付けたらよいか分からない状態だった。
『はい、最初からもう一度』
そんな言葉が聞こえたような気がした。

14時46分、ひとり黙祷する。
今日はただ祈るのみ。
東日本大震災からまもなく10年目を迎えようとしている。
そして今朝、宮城県を震源とする比較的大きな地震があった。
このパターンは10年前のあの時と同じだ。
2011年3月9日、大震災が発生する2日前のこと。T大学の某教授と打ち合わせをしている最中に、大きな地震が発生した。研究棟の上層階だったので揺れが大きく、教授室に設置されていたスライド式の大きな書架が右に左に移動を繰り返した。
幸い大きな被害は出なかったが、その時は打ち合わせも早々に切り上げてしまった。
まさかこの2日後に、あの未曾有の大震災が発生しようとは夢にも思わなかった。
よく日本で一番安全な場所はどこかといった話がなされることがある。しかし結論から言うと何処にも無いということだ。
北海道の北部や中国地方などが比較的地震が少ないという人がいる。だが、それは錯覚であり、誤解といっても良いだろう。
世界中で過去に発生した地震を地図上に落とし込んでみると、確かにまったく地震が起きていない場所がある。しかし日本はまるで世界中の地震を一手に引き受けるかのように、集中して発生していることが分かる。
つまり世界規模の観点から見れば、日本は何処も安全な場所は無いということになる。
私はこのところ、空いたペットボトルに水を詰めて保存したり、缶詰やレトルト食品を買い込んだりするのが日課のようになっている。
あまりにペットボトルに水を溜め込むので、家人からは笑われているが、笑われたままで終わることを切に願っている。
10年前のあの繰り返しだけはもう二度と御免である。
前回の日記に、地震見舞いのコメントをたくさん頂戴しましてありがとうございます。
返事が遅くなりまして申し訳ございません。
人的被害はありませんでしたが、10年前の東日本大震災の時よりも揺れの強さが体感的に大きかったように思います。
そのため、家の中が崩れたり倒れた物で大変な状況となりました。
特に私の部屋と寝室が、崩れた本などで大変な惨状となり、地震当日もその翌日も室内に入ることが出来ませんでした。
昨日は気を取り直して早朝から片付け作業に入り、終日かかってどうにか格好がつきました。それにしてももう少し早くベッドに潜り込んでいたら、崩れた本の下敷きになり、生き埋め状態になるところでした。クワバラクワバラです。
10年前の大地震の時でさえ、こんなにはならなかったなあと思いながらの片付け作業でしたが、きっと揺れの質が違ったのでしょうね。
1階はほぼ無傷なのに、2階は目も当てられない酷さで、トイレのタンクの水が溢れ、床が水浸し状態となってしまいました。

さて、怖いのはこの後に再び大地震が発生するのかということです。
三宅島では15日にイワシやサバが大量に海岸へ打ち上げられたそうですし、九十九里浜ではこれもまた大量のハマグリが海岸へ打ち上げられたそうです。
大地震には前兆があると言われますが、果たしてこれらがそうなのでしょうか。
今はただそうでないことを切に願うばかりです。
皆様もどうぞご注意ください。
その日、朝から妻の様子がいつもと違った。
左の下腹部をしきりに摩っているのだ。
どうしたのと尋ねると、痛みがあるという。
何か悪い物でも食べたのだろうかと思ったが、もしそうならば、妻よりも食べている私の方が具合が悪くなっている筈である。
本人は「大丈夫だから」とは言うものの、午後になっても痛みは一向に治らない様子だった。
少し横になってみたらと勧め、ソファに寝かせたら、暫くして寝息を立て始めた。
このところ何かと忙しかったから、疲れから来たのかもしれない、とその時は思った。
小一時間ほど眠っただろうか。ソファから起き上がった妻に具合はどうかと尋ねたら、少し良くなったという。ただ、それでも痛みは消えてはいないようで、相変わらず下腹部を摩っている。
私はふと或ることが思い浮かび、妻に椅子に座るように指示すると、その背中をトントンと叩き始めた。特に左側を上から下へ向かって叩いて行くと、お腹の方へ痛みが響くという。
一方、右側を同様に試みると、こちらは響かないとのこと。
(腎臓かな。おそらく尿路に異常ありかも)
そう、私は思ったものの、そのことを口には出さなかった。

夕方になって二男夫婦と孫たちがやって来た。慌てて妻が対応しようとしたら、そこで激痛が走ったようで蹲ってしまった。
その日は休日で医療機関は休診だ。休日診療の病院を探し、電話を入れたが繋がらない。
「救急車を呼びましょう」と息子の嫁に言われ、迷わず119番へ電話する。
電話に出た消防署の方は、新型コロナウイルスのことを念頭に、色々と質問をしてくる。焦っているこちらとしては一刻も早くという気持ちを抑えながら、それらの質問へ冷静さを保ちながら答えていく。
そんな私の気持ちを知ってか「もう救急車は向かっています」と、受話器の向こうで言葉をかけてくれた。
それから救急車が到着するまでのわずかな時間、入院する事を予想して、とにかく必要な物をと準備する。すると遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた...

救急車が大好きな孫は、家の前に本物の救急車が止まったので大喜び。後日、ばあばが孫のために身体を張って救急車を呼んだという「都市伝説」に発展してしまったが、そのことはさておく。
救急車に乗り込んだ妻と私。隊員の方々から、これもまた様々な質問を受けるが、先の司令の方と同様に、例の流行病のことが念頭にある質問だとすぐに分かった。
受け入れ病院については、妻が年に一度検査で訪れている某大病院の診察券を持っていたことが決め手となり、病院側も大丈夫だとのことですぐに決まった。
私は救急車の窓のカーテンを少し開けると、家の窓にニコニコと嬉しそうな孫の顔を見つけた。その事を私の隣りに座り、辛そうにしている妻に告げるとその頬が少しだけ緩んだ。

それから3時間後、担当した医師から告げられたのは「尿管結石」。三大激痛の一つと言われる症状だ。
私がふと或ることを思いついたというのはこのことだった。
今から10年以上も前の話だが、私自身が同じ病を患ったからである。あの時の痛みは今でも忘れられない。思い出しただけでも脂汗が出て来そうだ。
さて、妻の入院は大事を取って数日と決まった。妻を病棟に見送り、長男に迎えに来てもらう。時刻はすでに午後9時半。
そういえば今日は何も食べていないことに気がついた。
寒風吹き晒す病院の外で、腹の虫の音を聞きながら、妻が不在の数日をどう過ごすか、そのことばかりを考えていた。
多分その話は『ボケ予防』から始まったと思う。
普段はそれぞれの仕事の関係で、なかなか顔を合わせることが出来ないのだが、この日は久しぶりに家族全員が揃っての夕食となった。
息子たちと息子の嫁、孫たちが食卓に揃うと、なかなか壮観である。
皆がそれぞれ好き勝手なことを話しながら食事をしていたが、そのうち誰かが「物忘れ」の話を始めた。それがいつしかボケの予防には何が効果的かという話になり、「テレビゲーム」が効果ありそうと息子たちが言い出した。
この「テレビゲーム」という一言が、全員のハートに火をつけてしまったのである。
最初はボケ予防の話だったはずが、いつしか「テレビゲームと私」みたいな思い出話へすり替わってしまった。
こうなると私の出番である。なにしろ任天堂からファミリーコンピューターが発売されたのは1983年。その翌年には購入し、まだ新婚だった私と妻は毎晩「マリオブラザース」や「五目並べ」などにハマってしまい、連日寝不足状態だったことを皆に面白おかしく語った。
長男は「戦場の狼」が一番印象に残っているようで、「あのゲームはエンディングが見えないんだよ」と遠い目をして天井を見上げる。
二男は1990年に登場したスーパーファミコンからの思い出話がメインとなった。特にファミコンから移植された「ドンキーコング」が一番の思い出らしく、最終ステージ達成の自慢話。また、「桃太郎電鉄」では友達とケンカになった話も。
三男はプレイステーション世代。「ファイナルファンタジー」への熱い思いを、例の訛りで語り出す。
「あれはサイゴーに面白がったベェ」
すると二男の嫁のM子が「私はバイオハザードを毎日やってました!!」
その言葉に、全員の動きが止まる。
「可愛い顔しで、あれやっでだのがぁ」と三男。
「ホラー系大好きだからね」とM子。
息子の嫁の意外な一面を見たところで、
「このご時世、外にも遊びに行づらいわけだが、我が家もテレビゲームを復活させようか」と私が提案すると、全員が賛成。
実はファミコンもスーパーファミコンも、それにプレステも、当時遊んだソフトは殆ど全部残してある。中には作動しないものもあるだろうが、問題は本体の方だ。
こちらはおそらくダメかもしれない。
「中古品を探すしかないかな」と私が言うと、
「お義父さん。この際だから新しいのを買ったらどうですか」と提案された。
すると今度は息子たちが「ニンテンドーのSwitchが良い」だとか、「いや、プレステ5だ」とか人の懐具合などおかまいなしに自分の希望をぶつけ合う。
「ボケ予防」の話から始まったテレビゲーム談義だったが、こうして皆で激論?を戦わせていた方が、よほどボケ予防になるのではないかと思った次第。

世の中で「日記」をつけている人は果たしてどのくらいいるのだろうか。
おそらく、それらの人たちは絶対的に少数派ではないかと思われる。
このDNをこまめに更新されている方々は、その少数派に属するスーパーマン、スーパーウーマンである。
いや、決して茶化しているのではない。とても素晴らしい能力を持った方が、ここには多く集っていると言いたいのだ。
私も半世紀以上を生きてきて、それなりに沢山の経験を積ませてもらった。また、大勢の人たちと知り合い、それらの人たちから大きな影響も受けてきた。
それらの経験則を土台にして、私に与えられた仕事人生の後半戦は、クライアントから要求された案件を達成するために誰にその仕事を任せるか、その人物評価を行うことである。
もちろん能力は人それぞれ。物凄く優秀な人もいれば、その対極にいる人も存在する。
ただ、長い間仕事をしてきて気がついたのは、優秀な人たちに共通するのは、積み重ねが出来る人たちであるということだ。
言葉を変えれば、コツコツと仕事を積み重ねていける人。決して途中で放り出さない。
たとえ放り出しそうになっても、ここまではきちんと遣り遂げようという意思の持ち主だ。
DNもそうである。つまり日記も毎日の小さな積み重ね。
これが出来る人は、それだけで能力の高さを示している。
先にスーパーマン、スーパーウーマンと書いたのは、 即ちそういうことである。
という訳で、ネット上でそういう素晴らしい皆様とお知り合いになれたのは、私にとってとても幸いなことでした。

今年も大晦日を迎えてしまいました。
皆様には今年一年大変お世話になりました。波乱に富んだ一年でしたが、来年は皆様にとって素晴らしい一年になりますように心よりお祈り申し上げます。
清く、正しく、美しく
願書の受付が2021年1月9日から2月1日までか。
なになに、第1次試験は東京が3月21日で、宝塚が3月24日か。やはり仙台からだと東京で受験するのが妥当だろうなぁ。
ええと、合格発表が東京受験組が3月23日で、宝塚が3月25日。案外、すぐに発表されるんだね。ということは、その間東京に留まって、お江戸見物でもしていようかな。
あっ、でも、コロナが怖いしなあ。折角、上京しても安宿の部屋に篭っているというのもつまらないから、ここは一旦仙台に戻ろうか。
でもなあ、交通費がかかるから、やっぱり東京に留まった方が良さそうだと思ったら
おっとととっ!
第2次試験だってぇ!!
そんなの聞いてねえよっつうか、ちゃんと書いてるし。
宝塚受験組の1次合格者は3月26日で、東京1次合格者は3月27日かあ。そんでもって、試験会場は...タカラヅカって、あの宝塚?兵庫県のぉ!!
一度行ってみたいと思っていたんだよねぇ、タカラヅカ。
ところでタカラヅカには何があるんだっけ。
あっ、そうかそうか、馬鹿だねぇ俺も。
宝塚音楽学校の生徒募集を読んでるのに、何があるかはないもんだ。
デズニーランドだよな。

おう、熊さん。さっきから隣で聞いていたら、何をひとりでブツブツ言ってるんだい。
タカラがどうのこうのと、まさか宝くじでも当たったのかい?
それならさっさと貸した金を返してくんな。
えっ、何、受験するだって。
いつ?どこで?誰が?何を?なぜ?どのように?
おう、何だこれ。
見目麗しい女子の写真だな。どこからくすねて来たんだい?
えっ、くすねたんじゃないって。
あの、町内でも有名な、自称男前のヒコヒコさんからこっそり貰ったんだって。
熊さんよぉ。前から言ってたろ。あのヒコヒコって野郎にゃ近づくなって。人の顔を見るたびに「何かくれくれ」ってせがむから、コンビニの前で拾った割り箸をやったら
「これでマツイ棒が作れる」って喜んで持って帰ったよ。
ところでこれ、宝塚音楽学校の2021年度生徒募集案内じゃないか。
どれどれ、ほうほう、ふむふむ
第3次試験まであるんだねぇ。大変だねぇこりゃあ。
ところで熊さんよ。いったいお前さん、何を考えているんだい。
まさか、受験しようなんて考えているんじゃないだろうね。
人生は一度きりだから、自分の力を試してみたい?
そうは思わないかいハチ公って、昔から案外バカかと思っていたけど、本物のバカだったんだね。
この募集にちゃんと書いてあるだろ、2002年4月2日から2006年4月1日までに生まれた女子だって。しかも容姿端麗と書いてある。
えっ、容姿端麗の方は自信があるだって。そうかい、この際だからはっきり言わせて貰うけど、正真正銘のバカだよ。
そんなことよりこれから飲みに行かないか。
どうした。急に顔色が明るくなったね。
タカラジェンヌよりもタカラ焼酎のほうが俺の体に向いているだって。
初めて意見が一致したな。
よし、今日は俺の奢りだ。その前に貸した金返せ!!
年末の大掃除がなかなか捗らないでいた。
風邪をひいて体調が悪いこともあるし、掃除を始めようとすると何やかやと妨害が入ったりする。
気を取り直して掃除機を手にすると、親父から腰が痛いからマッサージしに来てくれと連絡が入ったり。
仕事を辞めて無職にはなったが、無職ってこんなに忙しい「職業」だったのか。
そんなことを考えながら、本棚の上に載せていた古いダンボール箱を降ろしたら、中から大量のカセットテープが出て来た。
それらのカセットテープには、ご丁寧にもインデックスカードに曲名やアーティストの名前が手書きで記されている。
おそらく80年代にFMのエアチェックなどで録音したものだろう。当時は今とは別の意味で時間がたくさんあったから、お気に入りのFM番組から音楽を録音していたのである。
幸い我が家にはカセットデッキが現役で活躍しているので、気になるカセットテープを一本取り出して再生してみた。

サーッというカセットテープ特有のヒスノイズの後、その曲が静かに流れ出した。
この曲、何年振りに聞いただろう。
すっかり忘れていた曲。だけど一瞬にして思い出した。
しばらくその調べに耳を傾けていた。
耳を傾けているうちに涙が滲んで来た。
テープが入っていたプラケースのインデックスに目を落とす。
『ブライアンズ ソング』

ブライアンズ・ソングって確か映画音楽だったな。
映画館で観たのか、それともテレビで観たのかは忘れたが、プロフットボールチームに所属する白人選手と黒人選手の友情の物語だったはず。実話を基に作られた映画だが、悲劇的な結末を迎えることになる。
友情の素晴らしさを教えてくれるこの映画は、今でもアメリカ人にとても人気があるのだそうだ。

「友情」か...
小学校一年生の時から半世紀も続いていたある友人、いや、親友がいたが、ちょっとしたことが元で袂を分かった。兄弟のように育った我々二人だったが、実に呆気なく終わりを告げてしまった。
こちらとしては今でも「嘘だろう」「何で」という気持ちだが、彼は決して許すつもりはないだろう。長い事一緒にいればその性格はよく分かっている。
まあ、それも仕方があるまい。私の説明不足にも原因があるからだ。
だからと言って、その説明をここですることは出来ない。ここで説明すると、私を頼った人の話を、なぜ君に伝えなかったかを話さなければならなくなるからだ。
今度はその人のプライバシーを晒さなければならなくなってしまう。

50年の付き合いも、たった1日の「齟齬」で崩れ去ってしまうものだという事がよく分かった。
高校生の頃、君がある学習雑誌に「友情なんてあり得ない」という一文を寄せていた。それを読んだ時、私は些か反発したものである。しかし今、こうしてみると、それが正しかったことが漸く理解できたよ。
うん、君の勝ちだ。負けを認めるよ。
そして最後に、長い間ありがとう。

※非常にプライベートな内容で困惑された方も多いことでしょう。申し訳ありません。お許しください。
ちなみに「BRIAN’S SONG」はYOU TUBEで検索しますと幾つかヒットしますが、お勧めはやはり作曲者のミッシェル・ルグランでしょう。(Adieu, Michel Legrand - Brian’s Song (2006 concert performance)で検索してみてください。

さてさて、しばらく振りの日記です。
青森から帰ってからというもの、実に様々なアクシデントに襲われておりました。
滅多に罹らない風邪をひいたのもそのひとつ。
最初は例の流行り病かと危惧したのですが、幸いなことにそうではなかった。
だがそれだけでは収まらず、何とパソコンが壊れてしまうという不測の事態。それも自宅で使用している2台のPCが、ほぼ同時に壊れるという確率的には殆ど考えられないような出来事が発生したのでありました。
普段、この2台のPCでDNをアップロードしていましたので、どちらかが直らない限り書き込めないという緊急事態。それなら早く直せよという話ですが、こういう時に怠惰な自分が突然現れてきて、「まあ、急ぐことはない」と自分でも不思議なくらい腰が重い。
尤もこのところ物入りだった事もあって、修理代を考えると懐に厳しいなあというのが正直な話。
しかし、そろそろ年賀状作成なども始めなければならないし、新しいPCを買うほどの余裕も無い。そこでとりあえず2台のうちの使用頻度の高い方を修理に出した訳です。
お陰様で久し振りにキーボードを叩くことが出来ました。今度壊れたら、次は買い替えかななどと思っています。

ところでPCが2台ほぼ同時に壊れたことについて、我が妻にそのことを話すと
「また、何か良からぬものにとり憑かれたんじゃないの」と言われ、はたと手を打ったのであります。
あの青森の夜、カラオケがお流れになって、ひとりトボトボと薄暗い新町通りのアーケードをホテルへ向かって歩いていたのですが、柳町通りの交差点でその角を曲がろうとした時、何気に左後ろを振り向いた私は、思わず声を上げそうになったのです。
なにしろ私の体に今にも触れそうな程の位置に、男がぴったりとくっついて歩いていたからです。
咄嗟に引ったくりかなと思ったのですが、ここは一発怒鳴りつけようと立ち止まり、腹に気合いを入れてもう一度後ろを振り向くと、そこには誰もいませんでした。
一瞬の出来事でしたが、男は黒いキャップを目深に被り、無精髭で黒いジャンバーを着ていました。年の頃は30〜40代というところでしょうか。
私も少々酔ってはいましたが、酩酊しているわけではなく、見間違えるような状態ではありません。それに生身の人間なら、あのくらい側にいたら気配で分かりそうなものです。
(あ〜、また見ちゃったか)

その夜は、ホテルの部屋の電気は点けたまま寝た次第です。
あとで妻にそのことを話すと
「PC壊したの、そいつじゃないの」とのことでした。
でも壊す理由がわからないのであります。
過去に私が書いた内容に「腹を立てている?」のかしらん。
これまで不思議草子に書いた内容に文句があるのかなあ。
もしかして私の読者?
ほんと、分かりません。
今年も庭の花梨の木に、たくさんの実が生った。道路沿いに植えているので、道行く人たちからもよく見える。秋口に入り、ご近所の人たちからは「今年もたくさん実がついたね」と言われていた。
特にお隣りのOさんはカリンの出来を毎年楽しみにしているひとりだ。
何年か前に収穫したカリンの実を何個か差し上げたところ、大いに喜ばれた。それ以来、毎年実が生るとお裾分けをしていた。
Oさんの話ではシロップ漬けにしたりカリン酒にして楽しんでいるという。
カリンは生のままでは食することが出来ない。実が固いということもあるが、毒性があることが一番の理由だ。このことは意外と知られていないようである。私もそのことを知ったのは、つい最近のことである。
そういえば、鳥がその実を啄みに来たのを見たことがない。彼らは毒があることをちゃんと知っているのだろう。だとすれば凄い能力である。
私など腐ったものを気づかずに食べてしまって、あとで大変なことになる。尤も親父などは腐ったものを食べても腹を壊したことがない。それはそれで凄い能力ではあるが。

さて、苗木で買ったときには私の背丈よりも低かったのに、今では倍以上の高さにまで育ってしまった。花梨が高木であることは知っていたが、こんなに速いペースで育っていくとは夢にも思わなかった。
まだ背が低かった頃は実を取るのも簡単だったが、さすがにこうも背が高くなると、木の上の方に生る実は取ることが出来ない。
脚立に上がって取ろうと思ったが、危ないからやめてと妻に言われ、そこで柄の長い熊手を持ち出し、その先に実を引っ掛けてはひとつずつ落とすという作戦に打って出た。
これが案外うまくいって、実がポトリポトリと落ちて来る。木の下は落ち葉や枯草などでクッションになっているので、実が痛むこともない。
今年はどの実も概ね大きいものばかりだが、中には赤子の頭ほどの大きさの物もあった。
早速、その実を拾ってはエコバックの中に詰めていく。この時が一番楽しい。まさに「収穫」しているという感じがする。
周囲にカリンの芳香が漂う中、もう落ちている実はないかと辺りを見回す。と、その時、妻の「あっ」という声が聞こえたような気がした。
カリンッ
私の頭の中で、そんな音が聞こえたような気がした。めまいもほぼ同時だったかもしれない。
イデデデデッ!!
木の枝先に残っていたカリンの実が落ちて、私の頭を直撃したのだった。
私は思わずその場にうずくまった。
少し離れた場所で見ていた妻が駆け寄って来た。
「大丈夫?カリンの実?」
おいおいおい、カリンの実のほうかい。
妻は傍らに落ちていた直撃カリンを拾い上げ、「少し傷がついているけどキレイだね」と私に差し出した。
「頭、大丈夫?」
私の頭は二番目のようである。
「頭に当たった時に、カリンッて音しなかった?」
その妻の言葉にムッとしながら「した」と答えた。





観覧車に乗る
孫にせがまれて、久しぶりに観覧車へ乗った。
前回乗ったのは去年の夏だった。
あの時も孫と乗ったのだが、ゴンドラの中は灼熱地獄。
乗り込んだ瞬間に「しまった」と思ったが、時すでに遅し。
窓際に置かれた団扇の意味が即理解できた。
一周僅か数分ばかりの観覧車だが、それでも下りた時には全身汗だく状態となっていた。
そのようなわけで、景色などゆっくり見ている余裕などなかったが、今回は暑くも寒くもなくとても快適だった。風景もじっくりと堪能出来た。

観覧車が置かれている三井アウトレットパーク仙台港店は、その名の通りすぐそばに仙台港がある。
この港はトヨタ自動車の新車積み込みや太平洋フェリーの中継地となっており、この日も岸壁に係留された大型貨物船や太平洋フェリーの巨体がよく見えた。
いつもは下から見上げる大きな船も、俯瞰で見るとなかなか良いものだ。
観覧車が頂上近くになるにつれ、一緒に乗っている孫からは「あれは何」「これは何」と次々に質問攻めにあう。
去年はまだ二歳と幼かったので、ただニコニコしながら乗っているだけの孫だったが、僅か一年間の成長ぶりに驚きながらも嬉しくなった。

ゴンドラの窓を開けると爽やかな秋風が吹きこんでくる。孫はその窓から小さな手を出して、下で待ち受ける息子夫婦に手を振った。
「今度はパパとママと乗る」

孫には、最初はじいじかばあばと、その次は親と乗るというこだわりがあるようで、結局このあと息子夫婦とゴンドラに再乗車していった。
彼らが下りて来るまでの間、秋の青空に吸い込まれて行くような観覧車をぼおっと眺めていた。

「幸せなひととき」

こんな言葉が心に浮かんだ。
親父に付き添っていつもの整形外科へ行く。待合室の中はいつもながらの混みようだ。
席をひとつずつ空けて座らなければならないので、ただでさえ少ない椅子は既に埋まっていた。
若いカップルのように腕を組んでやって来た我々。もちろん親父がよろめくので支えているだけなのだが、その姿に気がついた一人の年配の女性が、ここへどうぞと席を立った。
するとそのひとつ隣りに座っていた若い女性も席を立った。
慌てて私がお礼を言うと、親父も「これはどうも」と言いながら若い女性が座っていた席へさっさと腰を下ろした。
ここはやはり最初に席を譲ってくれた女性の席へ座るべきだろう。いくら若い女性が好きだからといって、人の道に反した行為をしてはならない。齢九十にもなってまだ分からんのかと親父を睨んだが、「わかりません」というような顔をして座っている。
私は年配の女性に何度も頭を下げて詫び、また若い女性にもお礼を言って、待合室の片隅に移動した。

いつも親父を病院へ連れて来る時には、必ずカバンに文庫本を2、3冊入れて来るのだが、この日に限って忘れてしまったことに気がついた。
そうなると私のような活字中毒の人間には、待ち時間がとても辛いものになる。
おそらく今日の混みようでは最低でも1時間以上、下手をすれば2時間以上は待たされるかもしれない。
マガジンラックの週刊誌などは全て持ち出し中だし、さて、どうしたら良いだろう。
待合室の片隅に立ちながら途方に暮れていたら、壁に様々なポスターが貼られていることに気がついた。
仕方がないので、それらを一枚ずつ順番に読んで行くことにした。
やはり新型コロナウイルスに関するものが一番多かったが、その中で私の目を引いた一枚のポスターがあった。
それは様々な魚の絵と、その魚に含まれているDHAやEPAの含有量が記されたものだった。
DHAやEPAについては、今更説明する必要もないだろうが、簡単に言えば我々の身体に必要な必須脂肪酸というものである。
特にこれらは青魚に多いと言われているし、私もそうだと思い込んでいた。ところがこのポスターをじっくりと見ていたら必ずしもそうではないらしい。
例えばDHAの含有量が一番多い魚は、本マグロのトロで100g中2877mgとある。その次が真鯛で1830mgだ。さらにブリの1785ミリグラムと続く。そして青魚の鯖が僅差の1781mgで続く。
今度はEPAだ。流石にこちらは真鰯が一番多く100g中に1381mgとなっているが、何とその次が本マグロ(トロ)の1288mgではないか。驚きの本マグロが再登場、それもトロである。
以下、鯖(1214mg)、真鯛(1085mg)、ブリ(899mg)と続く。
何だ、結局青魚ばかりではない。むしろ高級魚や値段の高い部位にそれらが多く含まれていることが分かってきた。
ここで私の深読みが始まる。
これはつまり、高級魚にこそそれらの成分が多く含まれているのだが、私のような貧乏人には毎食取るのは無理だろうから、安い青魚を食べていりゃ良いんだよ、ということか。
確かに毎食、本マグロのトロを食していたら破産してしまう。どなたかは知らないが、我が家の家計を心配してくれたんだね。ありがたくて鼻水が出る。

結局、この後1時間少々待たされて、点滴に40分ほどかかり、病院を出た時にはだいぶ日が傾いていた。
「ちょっとスーパーに寄って行きたい」
助手席の親父にそう言うと、近くのスーパーマーケットに立ち寄った。
鮮魚売り場には本マグロも並んでいたが、当然のごとく金額が一桁違う。ここはやむなくマグロの赤身を購入。それでも頭の中にはDHAとEPAの6文字が渦を巻いている。

ところで後から分かったのだが、マグロの赤身にはそれらの成分がとても少ないらしい。
だからトロと表記していたわけだ。
貧乏人の銭失いとはまさにこのことか。
物忘れというか、歌の歌詞が思い出せない。
例えば「浜辺の歌」

あした浜辺を うろつけば~

「うろつけば?」
違うなあ。
今の時期、宮城で浜辺をうろつけば牡蠣どろぼうに間違えられる。

「いとまきまき」の歌
いとまきまき いとまきまき
これは一番目の歌詞

たねまきまき たねまきまき
これは二番目の歌詞の始まり。問題は三番目の歌詞

鼻ほじほじ 鼻ほじほじ
明らかに違うと思う。
何だったっけ?
おそらくふざけて覚えたまま、頭の中に焼き付いてしまったのだ。
これを思い出すのも脳トレになると、あえて正解を探さないようにしている。

思えば子供の頃、歌謡曲を替え歌にして、近所の悪ガキたちと大声で歌ったものである。
ジャッキー吉川とブルーコメッツの「ブルーシャトウ」などはその最たるもの。
森トンカツ 泉ニンニク
これを知っている人は昭和世代の我がお仲間である。

しかし今はそんな遊びをする子供たちを見なくなった。
公園で大声を出して遊んでいる子供など皆無と言っていい。
子供に童謡を歌って聞かせる母親はどれだけいるのだろうか。
今日は我がおふくろの誕生日。生きていたら88歳の米寿であった。
そのおふくろがよく歌を歌ってくれたなあ。
「鼻ほじほじ 鼻ほじほじ...」


マタイキタイナー
マタイキタイナー
マタイキタイナー
函館から帰って来たら、案の定というか危惧していたことが現実のものとなってしまった。
帰って来るなり妹から親父の体調が芳しくないと言われ、翌日には病院へ連れて行ったり、自宅で介護したりと旅行気分は一気に吹き飛んでしまった。
本当なら函館旅行記をじっくりと書きたかったのだが、とてもそのような気分にはなれず、旅行から戻って一週間以上が過ぎた今になっても腰が重い状態である。それでも気を取り直して、なんとか筆ならぬキーボードを叩き始めた次第。
尤も親父も少々大袈裟なところがあり、今にも死にそうなフリをするところがあるからいつも振り回されてしまう。
こちらも聖人君子ではないので、それが積もり積もってイライラすることになる。
そこで、函館にしか店舗がないというハンバーガーショップ「ラッキーピエロ」で買ってきた、これまたラッキーガラナというドリンクを飲みながら、それもなくなったら今度はハコダテキキテクダサイダーというサイダーを口に含みつつ、マタハコダテニイキタイナーと呟きながら、明日の親父の介護を考えるのである。

言霊

2020年9月25日 日常 コメント (11)
言霊。
(ことだま)と呼ぶ。
「言葉には不思議な力が宿る」と言われるが、今回思いも寄らず、その力を目の当たりにすることになった。

先日、この日記にも書いたように、物産展で欲しいものが買えなかったことから、これは北海道に行くしかないなと妻に話したが、それからまだ日も浅いのに、北海道行きが実現することになってしまった。しかも明日である。

なぜそうなったのか細かい話をすると長くなるので、ここでは割愛したい。
ただ、これが私の企てではなく、ある方からのご招待であるということだ。まるで北海道へ行きたいという気持ちが伝わったかのようだ。

今回の行き先は函館だが、もちろん妻も同伴である。妻にとってはこれが三回目の函館ということになる。
それにしても、マイナスなことでなければ、口にしてみるものだなと思う。
気がかりな親父のことについては、妹の他に息子たちが面倒をみるということだし、一泊二日の短期間だ。特に問題は無いだろう。
もちろん彼らからお土産を頼まれたのは言うまでもないが。

函館でのドタバタについては改めてご報告することとして、皆様にも良いことは口に出してみることをお勧めいたします!是非!!
会社を辞めると、当然のことながら通勤する必要がなくなる。クライアントへの訪問や昼食を取りに出かけたり、コンビニへおやつを買いに行ったり会社の中をうろうろ歩き回ることも一切無くなった。その結果どうなったかというと「太る」「肥える」という悲惨な事態を招いたのである。
いくら親父の介護が大変であっても、それはカロリー消費には殆ど繋がらないということに気がついた。
正直に言うと、退職してから僅か3カ月の間に4kgも体重が増えたのだ。これは由々しきことである。1ヶ月におよそ1kgずつ増えたことになるわけだから、この調子でいくと年内中にあと3kg増えることになる。
おそらく今年の年末あたりには「ヒコヒコ通信」も「肥子肥子通信」に改めなければならなくなる。
一説には腹囲を1cm減らすには、およそ10000kcalを消費させなければならないという。これを運動だけで消費させるとなると、私のようなオッサンには相当大変な仕事となる。
だが、1日の食事摂取量を100kcalずつ減らせば、10000÷100=100だからおよそ3ヶ月で1cm減らすことが出来るはずだが、そこへ多少の運動を加えれば、もう少し期間が狭まる可能性もある。
しかし問題は食欲なのである。こればかりは会社勤めをしていた頃と全く変わりがない。この食欲を減らさない限り、減量は到底無理と思われた。

話は変わるが、最近ではテレビも地上波はほとんど観ることがない。理由は簡単。面白くないからだ。
どのチャンネルを回しても同じような顔ぶれの、同じような内容の番組ばかりが流れている。そこで自分の好みに合ったYOU TUBEなどのネット番組を観るようになったのだが、ある時、一人のおじさんの旅行記が目に止まった。
顔出ししていないのだが、その雰囲気から4、50代くらいの勤め人のように思う。
このおじさんが実によく食べるのだ。食べるだけではない。お酒のほうもグイグイやってしまう。
例えば朝、列車に乗った途端に飲み始める。ここまでは良くある話だが、お昼頃に目的地へ着くと、まずランチの店を探し、そして飲みながらバクバク食べる。場合によっては追加オーダーでさらに腹の中とへ放り込む。
流石に次は観光だろうと思うと左にあらず。再びランチの店を探して暖簾を潜ると、まずビール。そして今日初めての食事のように再びランチを食べ始めるのである。
ようやくその店を出たかと思うと、今度はデザートが食べたいと甘味処を探すのだ。
結局この調子で晩飯まで動画は続いて行った。
私はその動画を夕食をとりながら観ていたのだが、デザートのくだりで急に食欲が無くなってしまった。
他人様の食べっぷりを観ているうちに、自分の腹がいっぱいになってしまったのだ。
その時ふと思いついた。
「これだ」

自分の食欲を減退させる方法を見つけたのである。
それ以来、このおじさんのコンテンツを流しながら、私は食事を取るようになった。
その効果が早速現れて来たようで、体重が少しずつ減って来たようだ。
だがその反面、このおじさんに反感を持つようにもなった。
顔出しはしていないが、首から下は画面に出ているのだが、どちらかといえば痩せ型だ。これだけ食べ続けてこんなに痩せているなんて、なんて不公平なんだと思う。
こちらはどうしたら食べないようになるのかと腐心しているのに、このおじさんはそんな人の気持ちも知らないで只管食べ続けている。
そう思ったら急に食欲が出て来てしまった!
いかんいかん、ストレスもまた食欲を誘引するのだそうな。
気をつけよう。
朝の雑事が終わり、これからゆっくり朝食を取ろうと思ったその時だった。妹から突然電話がかかってきた。
こんな時間に電話を寄越すのは珍しい。
何となく胸騒ぎを覚えながら電話に出ると、少し上ずった妹の声が聞こえて来た。親父がちょっと危ない状態だという。
とにかくそっちへ行くからと一旦電話を切り、妻に妹から聞かされた話の内容を手短かに伝えると家を飛び出した。

親父はベッドにぐったりと横になっていたが、私の顔を見るなり
「死んじまう〜」と今にも消え入りそうな声で言いながら、虚ろな目を私に向けた。
今回の「死んじまう〜」はどうやら本物のようだ。
おそらく連日の暑さによる脱水と、胃腸障害での食欲不振のために体力が大きく低下してしまったのだろう。
妹と話し合って、何度もお世話になっている病院へ入院させてもらおうということになった。
しかしそのためには、かかりつけのクリニックの先生に紹介状を書いてもらう必要がある。
妹がそのクリニックへ電話をし、事情を説明。早速私が受け取りに行くことになった。

クリニックではすぐに先生と面会することが出来た。話は既に先生に伝わっており、紹介状を書いてもらうことになったが、病院へ看護士さんが問い合わせると現在満床で受け入れが難しいとのことだった。
病院側の話では三日後なら大丈夫だと言うが、そんな悠長な場合ではない。
すぐにでも処置を施して貰わないと危ないと先生に食い下がった。
すると先生が「わかりました」と言って、病院の先生へ直接交渉してくれるという。

それからしばらく私が待合室で待っていると、看護士さんが私の姿を見つけて駆け寄って来た。
「病院へすぐに連れて来てくださいとの事でしたよ」
その一言に胸を撫で下ろしながら御礼を述べた。
やはり先生から直接交渉してもらうのは違うものだなと感心する。

親父の家へ戻ると妹が入院準備を進めていた。
よろめく親父を支えながらクルマへ乗せて、病院へ向かってクルマを走らせる。
外来の看護士さんにも話は伝わっていたようで、最初に採血と心電図、レントゲン撮影を行う事を伝えられ、診察はその後という事だった。

診察も終わり、担当の先生と話をしたが、やはり私の見立て通りの結果だった。
ベッドは満床と言われていたが、外科病棟に空きがあるとのことでそちらへ入れてもらう事になった。クリニックで言われた満床とは実は消化器科の話だったのである。
『叩けよ、さらば開かれん』とはこの事か。

現在、新型コロナの影響で、入院患者への面会は一切禁止という。それは入院時も同じであり、妹が持って来た着替えなどの荷物は病棟の看護士さんへ渡す事になっていた。
車椅子に乗せられドアの向こうに消えて行く親父を妹と見送りながら、そう言えば朝から何も食べていないことに気がついた。腕時計に目を落とすと午後5時を回っていた。
長い1日だったなあと思った途端、急に腹の虫が鳴り始めた。
「今度はこっちが死んじまう〜」
そう言いながら妹へ虚ろな目を向けると
「ひとりで死ね!」とキツイひとこと。
こいつ、おふくろにそっくりになって来やがった。いや、もしかしたらおふくろが乗り移ったのかもしれないなと苦笑い。
妹からメールが届いた。何だろうと思ったら、大事に育てていたカーネーションが鉢ごと盗まれたという。
実はこのカーネーション、私が母の日に親父の家へ贈り届けたものだ。
おふくろが亡くなって早7年。毎年『赤いカーネーション』を街の花屋で購入し、霊前へ供えていたのだ。
一般に母のいない人は『白いカーネーション』を贈るものと言われているが、私の中ではおふくろは生き続けているので、赤いカーネーションを毎年買い求めていた。
尤も「白い」カーネーションには「あなたへの愛情は生きている」という意味があるけれども、自分としてはおふくろがずうっと生きている感覚なので、あえて赤い色を選んでいた。
今年はサラリーマンとして最後の年だったこともあり、いつも以上に大きなカーネーションを選んだのだが、それがあだになってしまったのだろうか。
親父の家の玄関脇には、様々な観葉植物が鉢植えの状態で置かれている。今回盗まれたカーネーションはその中の一つだった。
きっと他の花よりもひときわ目立ったことが、犯人の目を引いてしまったのかもしれない。
実を言うと、植木鉢が盗まれたのはこれで2回目。前回はシクラメンが盗まれた。これも大きく育てたものだったので、その時は皆で落ち込んだものだ。

親父の家には門扉が無く、その気になれば簡単に敷地の中に入って来られる。とは言え、日中の犯行ではないことは確かだ。
妹の話では前夜の23時頃にはあったという。それが翌朝には無くなっていたのだから、深夜から未明にかけての犯行ということになる。
とは言え、午前4時半頃には明るくなってくるし、夜中でも割と往来が多い所なので、午前零時から4時頃までに運び出したのだろう。
前夜、妹がたっぷり水を与えていたせいで、相当重かった筈である。運び出すには女性ではちょっと無理があるかもしれない。となると犯人は男性の可能性が高い。
シクラメンの時も今回も、最初から狙いをつけていた印象を受けるところから、何度も親父の家の前を通っていたと思われる。そうなると町内の人間だろうか。
同じ町内にそのような人がいるとは思いたくないが、いずれ近い所に住んでいる可能性が高い。

再発防止の観点から言えば、門扉を取り付けるのが一番良いのだが、玄関周りは妹の元へダンスを習いに来る生徒さん達のために駐車場になっている。
もし取り付けるとなると20mほどの長い門扉になってしまうので、施工費用などを考えれば現実的ではない。
結局これからは玄関脇に置いていた観葉植物を庭の奥へ引っ込めることにし(それでも奥に置いていたシクラメンは盗まれたのだけど)、センサーライトや防犯カメラの設置を決めた。
それらの設置については私の従兄弟が電気屋なので、全てを任せることにした。
ただ、そうは決めても、この心のモヤモヤが消えたわけではない。
それは妹も同じだったようだ。
二人で顔を付き合わせて考え込んでいたら、不意に妹が「貼り紙しようか」と言い出した。
例えば
『持って行ったカーネーション。大事に育ててくださいね』
なんてどうかと言う。
「何だか寛容さを装って、偽善者っぽいな」と私が答える。そこで今度は私が
『あのカーネーションは危険です。呪われていますのですぐに返してください』はどうかと妹に話すと、
「呪われているって何に」と言うので「おふくろに」と答える。
それを聞いて妹は大きく頷き
「確かに怖かったもんね」と変に納得した様子。
それじゃ、こんなのはと
『あなたが盗んだカーネーションは血に飢えています!あなたの命が危ないので三日以内に返しなさい』
と言いながらほくそ笑んだ。
「リトル・ショップ・オブ・ホラーズだな」と私。

結局名案が浮かばないまま、貼り紙の話はボツになった。
親父には大切にしていたカーネーションが盗まれたことを告げたが
「そりゃあ良がった...」と言いながら、ベッドに横になった。

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