今、我が家は静寂に包まれている。
べつに人がいないわけではない。私も妻も息子たちもいる。
なのに言葉を発しようとする者はいない。
食卓で私は「たんこぶ」の出来た頭をさすりながら本を読み、妻や息子たちは居間のソファや安楽椅子で銘々がスマホをいじっている。
時々、誰ともつかずため息が漏れる。そのたびに皆の動作一瞬止まり、そしてまた元の動作に戻る。
重苦しいと言えば重苦しい。薄っぺらと言えば薄っぺらなこの場の雰囲気。
なぜこうなったのか。
前回の日記をお読みになった方ならもうお分かりだろう。
私の頭よりも、カリンをとった妻。
私の頭を直撃したカリンを、お隣りのOさんに「縁起ものです」と言って渡した妻。そのカリンを神棚にでも祭れば、きっと宝くじは大当たりに違いない。
そう言って渡したに違いないはずだ、と思う。
昔、アメリカとソ連は冷戦状態にあった。
今は私と妻が冷戦状態にある。
最初に口をきいた方が負けであると互いが認識している。
果たしてこの状態がいつまで続くことだろう。
因みに今年に入って、このような冷戦状態は10回を数える。その結果はと言えば口惜しいかな0勝10敗で私の負け。
驚くべき妻の胆力。女の底力。息子たちの無視。
来年は実の固くない柚子でも植えよう。
孤独な男の戦いは続く。
三男坊の「訛り(なまり)」が酷い。しかも本人は訛っているという意識が全くない。
我が息子たちは長男、二男、三男と三人いるが、三男坊だけが何故か訛っている。
なのにヤツだけが東京のそれも文京区生まれなのだ。これではまるでNHKの朝ドラ「あまちゃん」ではないか。
東京生まれ東京育ちの主人公天野アキが、北三陸市に移り住むと、まるで生まれた時からそこに住んでいたかのように馴染んでしまう。もちろん言葉もだ。
今にして思えば、まるで三男坊をモデルにしたのではないかと思えてしまうほど似ているのである。

或る日のこと、三男坊が夕食の後に
「父ちゃん、俺、訛ってっかやあ」と問いかけて来た。
ちょうど読んでいた「女の口説き方」という本を静かに閉じて、
「十分訛っている」と答えた。
「ええっ!そんなはずねえべ」と息子は口を尖らせた。
「お前、耳まで訛ってしまったのか。重症だな」
今度は私が口を尖らせた。
「会社の人だぢがら随分訛ってるねぇと言われだ。どごの生まれって聞がれだがら、オラ東京だって答えだら、みんな目をまん丸ぐしだんだ」
「そりゃあ驚くだろうよ。東京生まれが宮城の人間よりも訛っていたら」
息子は納得のいかない様子で
「捨て子がらも訛っでいるっで言われだ」
捨て子とは前回の日記で紹介した息子の友人である。
「いいか、お前には甥っ子が二人もいるんだから、標準語も話せないと親たちから会わせてもらえないぞ」
親たちとは二男夫婦のことである。
「ええっ、なんでぇ!!」
「何でって、3歳4歳は言葉を一番吸収しやすい時期なんだから、訛りなんかすぐに覚えてしまうんだ。最初に覚える言葉は標準語。その次が方言だ」
「次は英語でねえのが」
うっ、と言葉に詰まる。しかしここで負けてはならじと
「父は幼い頃、青森で育った。津軽弁は世界で一二を争うほど難しい言葉だ。英語よりも遥かに難しいと言われている。アメリカから青森へ留学した学生が、津軽弁を覚えて帰国したため、本国どころか日本のどこでもまったく通用しなかったという話さえあるくらいだ。その難しい津軽弁を父は同時通訳出来る」
息子は首を傾げている。
「つまりだ。英語も方言もレベルとしては同位と言っても良い。だから標準語の次に覚えるのが方言であっても英語であっても構わないということになる」
「なんだが、わがったようなまったぐ分がらないような」
父である私もまったく分からなかった。
「そうだ。毎日少しずつお前の言葉を矯正しよう」
「ええっ、おら嫌だ」
「では最初にお父ちゃんではなく、お父さんと呼んでみろ」
息子は照れ臭そうにニヤリと笑うと
「おどう...」
「余計悪いわ!おどうじゃなくてお父さんだ」
「おどうざん」
「それじゃ今度はお母ちゃんじゃなくてお母さんだ」
「母ちゃん」
「おを取っただけじゃないか。だめだ、もう一回」
「父ちゃん」
「違う」
「かちゃ」
「母さんだ。いや、お母さんだ」
「パパ」
「馬鹿!」
「マミー」
「ふざけるな」
「おら、やってらんねえ」
「あまちゃんか、おめえは!」
「お父さま」
「親を舐めるんでねえぇぞぉ、このワラシ」
「とうちゃんも訛ってるべ」

こうして、現在週一回のペースで「ヒコヒコ訛り矯正講座」を開催している。


長男と三男の三人で夕餉の食卓を囲んでいた。
特にこれといった会話も無く、暫く三人で無言の食事が進んでいた。
と、不意に三男の箸が止まり、小刻みに体が震えだしたかと思うと、俯きながら
「イヒヒヒヒッ」と小さな笑い声を上げだした。
私と長男が訝し気に三男を睨むと、今度は肩が大きく波打ちだし
「アーヒヒヒヒィッ」とさらに笑い声が大きくなった。
思わず私が
「気持ち悪いから、思い出し笑いはやめろ」と注意する。するとその言葉に逆らうかのように、それまで俯いていた顔を思いっ切り天井にむけて
「ワーァハッハァ~」と大声で笑い始まった。
今度は長男が
「なんだお前!食事中に気持ち悪いぞ」と兄らしく落ち着いた態度で注意する。
しかし、それでも三男の笑いは止まらない。
そこで私が一言
「思い出し笑いする時は、事前に思い出したことを話した上で笑え」と叱る。
そう言いながら、そんな無茶なと自分で思う。
ところがそんな無茶な指示にもかかわらず、素直な三男は顔を笑いと苦しさに醜く歪めながら、思い出した内容を説明しようとし始めた。
「と、友だちに捨て子ってあだ名の、イヒヒヒヒッ、や、奴がいてぇヘヘヘ、な、なんで、す、捨て子って言うかというと、アハハハ、ヒャヒャヒャッ、土日になると親から家を追い出されるんだって。ホホホォ。そんでもって、行くとこないから〇〇〇川の河川敷で野宿するんだってさ、アハハハ。そしたらこの間、夜中に警察官に職質されて『君、仕事は』って聞かれたら『捨て子です』って答えたんだって。27歳なのにワーハッハ!!」
長男の口から「プッ」と米粒が飛び出した。
それまで恐い顔でその話を聞いていた私。なにか一言言わねばと思い
「そんな人の、ふ、不幸を笑うんじゃ...プッ」
イーヒッヒ!!
ワーハッハ!!
アハハハッ!!

人の不幸を笑ってはいけません。
そういうお話でした。


「昨日の夜、豆まきをした」
二男から突然そう言われて驚いた。節分から一週間以上も経っているからだ。
息子の話では、三日は忙しくて豆まきが出来なかったからだという。じゃあ四日はと聞けば、それから一週間は単純に忘れていたとのこと。
たまたま観たテレビ番組の中で、豆を使った料理が出て来たので思い出したのだという。
「鬼もびっくりしたろうな。節分が終ってほっとしていたろうに」
私が少し皮肉をこめてそう言うと
「油断大敵ってやつだな」と言いながら息子はニヤリと笑った。

そんな二男をとても可愛がったのが、祖母とおふくろである。祖母は二男がお腹の中にいる時から、よく妻のお腹をさすっては「元気で早く生まれておいで」と声をかけていたものだ。そしておふくろもまた然り。
昨日13日はこの祖母とおふくろの命日だった。
偶然にも二人の命日は同じ日なのである。思えば母親思いのおふくろだったが、まさか同じ日を自分の命日にするとは思いも寄らなかった。
きっとあの世で私や家族のことを眺めながら、ああでもないこうでもないと仲良く話し合っていることだろう。
このところ私も二男への仕事の引継ぎやら教育やらでとても忙しく、墓参りにも行っていない。今度の休みの日には家族を伴って墓参りに出かけることにしようか。その時に、あなた方が可愛がった二男に、もう一人子供が出来たことを報告することにしよう。その知らせを聞いて、二人で大喜びする姿が目に浮かぶようだ。

驚くほど久し振りに「風邪」をひいてしまった。
たぶん7、8年ぶりか、それ以上だろう。
そのため最初は風邪だと気がつかなかったくらいだ。
「なんだか身体が変だ」
「元気が出ない」
「食欲がない」
カミサンに愁訴しても
「身体がへん?体型がでしょ」
「元気が出ない?もう出さないで!!」
「食欲がない!ちょうどいいくらいよ」
と言って相手にしてもらえない。
そのうち身体がゾクゾクしてきたので、これはもしかしたらとカミサンに寒気を訴えると、
「ストーブついているのにねぇ」と首を傾げる。
あまりの無反応ぶりに
「もしかしたら風邪かもしれないなあ」と呟いてみせた。
すると「あらら、珍しい。風邪ひくんだ」とほざいた。
ダンナが人であることを忘れていたらしい。
それでも一応心配な素振りをみせて「薬はどうする」というので、それじゃあ飲もうかなと言うと、カミサンおもむろに薬箱を持ってきて中身を取り出し始めた。
しかし、風邪薬の類が見つからない。
「これでも飲んでおく?」
そう言って出されたのは生理痛の薬。
「あのさ、俺、子宮ないし、生まれる前から生理終わってるし」と抗議すると、
「生理痛の方じゃなくて、解熱って書いてるからよ」と呆れた顔をする。
結局、熱もなかったので、おとなしく寝ていることにした。
日中寝ていることなどほとんど無かったので、なかなか寝付かれず、結局布団の中での読書タイムとなってしまった。
しかし、これが良くなかった。
本が面白くて集中してしまい、かえって具合が悪くなってしまったのだ。
再び布団から起き出した時には、目は赤く充血し、空腹で身体もふらふら。まるで幽鬼のような様相で家族の前へと姿を現した。
結局、空腹を満たしたら調子が良くなり、次の日には何事もなかったかのように会社へ出かけた。
そう、あれは本物の風邪ではなく、一時的な体調不良もしくは空腹からくる気の迷いだったのかもしれない。
昨年の後半くらいから、私の大事にしていたウイスキーが微妙に減りだした。
「天使の取り分」なら仕方が無いとは思いつつも、ついには日本酒まで減り始めたので、もしや天使は日本酒党だったのかと思いながらも、とりあえず我が家に生息する3人の堕天使たちを疑った。
この中で最も怪しいのは、7月に20歳を迎えたばかりの三男である。以前から父親がお酒を飲んでいる姿を見ては「おいしいのか」「旨いのか」「楽しいのか」と尋ねてくるのである。他の2人には無かったことだ。
その度にこちらも「まずい」「ひどい」「つらい」と答えていた。
そんなある日、かみさんからタレこみがあった。やはりヤツが隠れて飲んでいたそうだ。それもウイスキーをコーラで割って飲んでいたという。
ここは父親として、ちゃんとした飲み方を教えてやらねばなるまい、そう決心した私は成人式を終えた息子と2人で居酒屋に行ったのである。
居酒屋での作法として、まずはビールから始めようとすると、コークハイが良いと言い出す始末。父親のウイスキーを隠れて飲んでいた証拠の一端を、遂に捉えた瞬間である。
しかしそんなことはお構いなしに、普段家では食べられないようなものを次々に注文し出すのには参った。
「もう少しゆっくり食べろ」「もう少しゆっくり飲め」という父親の忠告が虚しく響く。
これはもう飲み方・食べ方を教えるどころか、開眼させてしまったのである。
いわゆる「やぶ蛇」となった今回の飲み方教室は、レジで高い授業料を払わせられて幕となった。
帰り道、息子が「楽しかった。お父さんは?」と尋ねてきたので「つらかった」といつもの返事で応えた。
15日は銀婚式だった。
もちろん私たち夫婦のである。
結婚してから25年経ちましたよと言われてもピンとこない。
なにしろ結婚式当日のことは、ついこの間のことのように鮮明に覚えているし、感覚的には10年くらいしか経っていない。
それにカミさんの顔が童顔なのも、感覚を狂わす一因かもしれない。もともと童顔だったのだが、筋金入りの童顔の持ち主であったとは25年経つまで分からなかった。
なんだか私ひとりが老けていくようで、複雑な心境である。

でも、確かに25年は経ったのだ。
長男は社会人として働いているし、二男も就職活動を始めている。三男は父親の身長を完全に超えてしまった。
それに結婚式の集合写真を見ると、写っている親族の多くが既に鬼籍に入っている。
本当に時の流れの速さと重さを感ぜずにはいられない。

それにしても、銀婚式だというのに特別お祝いをするでもなく、いつもと変わらぬ一日を過ごしてしまった。

そうそう、ひとつだけいつもと違うことをしたっけ。

赤飯を二人だけで食べました。

菜の花の道
天気が良かったので、母を家の外へ連れ出すことにした。
外へ連れ出すといっても、車椅子での散歩なのだが、
今日はたまたま孫たちがみんな揃っていたので、彼らにも手伝わせることにした。
私の母はALSという難病中の難病を患っている。
もう十年以上も寝たきりの母を、こうして休日には散歩に連れて行く生活が続いている。
簡単に散歩といっても、介護者にとってはかなり負担が大きい。
まず、散歩の際には車椅子に人工呼吸器を積み込まなければならない。
この人工呼吸器がかなり重いのである。
今までは、持ち上げて、屈み込んで、車椅子の下に取り付ける作業を私ひとりで行っていた。
この作業は腕と腰に結構負担がくる。だが、生命維持装置だからショックを与えるわけにはいかない。
どんなに身体が辛くても慎重に設置しなければならないのだ。
でも最近では、子供たちがこの作業を代わってくれるようになった。
母にとっては孫たちであるから、祖母孝行というところだろうか。
私がウンウンと唸りながら行っていた作業を、いとも簡単にやってしまう。
若い力にはかなわないと改めて思う。
しかし、本当に大変なのは寝たきりの母を車椅子に乗せる時と降ろす時である。
我が家の場合は、大人5人がかりとなる。
こうして何とか車椅子に乗せると、部屋から庭へ降りるためのスロープを設置する。
この時点で、車椅子の重量は相当なものになっている。予備のバッテリーを積み込んだ場合には、さらに重さが増す。
そして妹は、もしもの場合に備えて、アンビュー(手動式呼吸器)を忘れない。
今日もこうして散歩へでかけた。
ふと思いついて、川の土手へ行ってみることにした。
ちょうど菜の花が満開となっている。
天気もどんどん良くなり、母と私は晴れ女、晴れ男と言われたことを思い出す。
むせ返るような菜の花の香りの中を、孫たちが交代で車椅子を押して行く。
何となく母の顔にも、笑みが浮かんだような気がしたが、私の錯覚であったかもしれない。
なにしろ今では、すべての筋肉を動かすことが出来ないのであるから。
昔、この同じ土手の小径を、母と歩いたことがあった。
その時も菜の花が満開であった。
でも、いくら思い出そうとしても、その時の会話が浮かんでこない。
いや、浮かんでこない方がいいのだと思った。

我が妹に頼まれて、某ドラッグ・ストアまで連れて行った。
休日になると、いつもお抱え運転手の役をさせられるのである。
一緒に店内に入って商品を見ていたら、妹がヘアコンディショナーのテスターを手にとって、ブツブツ言っていたので
「どうした」と訊ねると
「酷いダメージに、って書いてる」と言いながら、自分の髪の毛につけ始まったので、
「そのまま顔にも塗れ」と言ったらケンカになった。



我が妹に頼まれて、某デパートへ連れて行った。
ヴァレンタインのプレゼントを、甥たちや私に買ってくれるのだという。
動物のリアルなチョコレートがあったので、それぞれのイメージに合わせて買い込んでいた。
甥たちにはマウンテン・ゴリラだとかカバだとか、クマを選んでいたようだが、私の息子たちを普段そういう目で見ていたのかと初めて知った。
そして「ないなあ...」と妹。
「何がないのだ」と私。
すると私に「兄の分。ブタ」とひとこと。
ケンカになった。

心的ストレスか、それとも真似をしているうちにそうなってしまったのか。
末っ子が吃音症、すなわち「どもり」になってしまったようだ。
(ようだ)と書いたのは、常時そういう状態ではないからなのだが、何かの時に症状が出てしまうのだ。
たとえば、人に知らせたい、教えたいことがある時や、兄弟喧嘩の時、あるいは母親に叱られて口ごたえする時などである。
家族に同じような者がいると、うつってしまう場合があるらしいが、私を含めて誰もいない(心の中はいつもオドオドしているのだが、こういうのは心的吃音状態とでもいうのだろうか。イカンイカン、話がそれてしまった)。

私もかみさんも、なんとか早い段階で矯正しなければと思い、色々と試みているところなのだが、これといった手立てが見つからない。
「おど、おど、おどうさん、ぼ、ぼ、ぼくはどうして、ど、ど、ど、ども、ども、どもってしまうんだろう」
「あせ、あせ、あせらず、ゆ、ゆ、ゆっくり話せばいいんじゃないか」
家族にいると感染するというのは本当らしい。

昔、井上ひさしの「日本人のへそ」という戯曲だっただろうか。吃音者の矯正をテーマにした芝居を観た記憶がある。その話では、芝居の科白や歌を歌っている時にはどもらなくなるということを利用して、矯正治療を行うというのが大雑把な筋だったと記憶している。
なれば我が家でも、歌を利用して矯正を試みようかとも思ったが、家の中が下手なミュージカル劇場になってしまう可能性が大だったので却下した。
また、どもりの原因には、イントネーションを間違えていることによって起こる場合があるとも聞いたが、そもそも我が親父を始めとする「なまり軍団」の環境下、いったい正しいイントネーションで話をしている者がいるのかどうかさえ分からない。
どなたか、効果的な吃音矯正法をご存知の方、お教えいただければ幸いです。

信じる

2005年5月1日 家族との会話
 車椅子に人工呼吸器を積み込む。これが相当重い。椅子の座面の下に入れるのだが、中腰でこれをやると結構ひどい。遠出をする時などは、補助のバッテリーを積むこともあるが、このバッテリーも見かけ以上に重くて大変だ。
 寝たきりのおふくろを、この車椅子に移すのも大人四人がかりの作業である。だが、こういう介護も、気がつけばもう七年くらいになるだろうか。
 指一本さえ動かすことが出来ない母親を、気分転換のために散歩へ連れ出すわけだが、それが出来るのもこの暖かさになったからだ。
 午後の暖かい日差しの中を、近くの小学校に咲いた桜を見せに連れて行く。見事に満開になった桜の樹の下を通りながら、あと何回こういう春を迎えることが出来るのだろうかと思う。
 おふくろの車椅子に、妹やカミさんや孫たちが続く。遠く自宅の前では、親父が心配そうにこちらを見ている。その姿を孫たちが見つけて、特に腕白坊主の三男が「ハゲ、ハゲッ!」を連発する。何も知らない親父は喜んで手を振っている。

 おふくろが難病に倒れた頃は、どうしてこんな目に遭わなければならないのだろうかと毎日悲嘆にくれたものだ。しかし、月日が流れ、気持ちも落ち着いてくると、考え方が少しずつ変わっていった。おふくろが倒れてから、むしろそのことで家族が以前にも増して結束するようになっていったからだ。
 最初は皆つとめて明るく振舞うようにしていた。しかしいつしかそれが本物の明るさになっていった。

 不幸なことではあったけれども、いつまでも不幸に浸かったままではいれないのも人であると思う。心の癒し方は自分で見つける以外にはないだろうが、きっと見つけることが出来ると今なら信じて疑わない。

黒幕

2004年8月13日 家族との会話
サーバー故障のため日記がご無沙汰となった。
日記も毎日だから、きっと夏バテしたのだろう。
まあ、いいでしょう。担当様、復旧作業お疲れでした。

さて、今日からこの日記に家族のことを書いてみたい。
親父とのやりとりはまだまだあるが、
血の繋がった息子たちにも、確かにDNAが受け継がれているようだ。
そこで初回は三人いる息子たち。その中でも一番手のかかる三男について。

我が家の三男はどこか宇宙人。
日本語自体が怪しいのだ。時々滅茶苦茶な文法の日本語を話す。
真面目に聞いていると疲れてしまう。
日本語はそれなりに教えたつもりなのだが
親父のところに頻繁に出入りしていたせいか?
責任転嫁はいけないけれど...

三男は小学5年生だが、体つきは小柄な中学1年生よりは大きい。
そのくせ一番の甘えん坊である。
そのため兄たちからいつも些細なことで怒られている。
今回も夏休みの宿題のことで家族全員から怒られた。
最初のうちはブツブツ反論していたが
そのうち言葉が途切れた。
今度ばかりはお灸が効いたかな、と思ったら
「俺、明日旅に出る」とボソリ。
その言葉に家族みんなが顔を見合わせる。
カミさんは可笑しさを堪えて俯いている。

「旅に出るって、何処へ行くんだ」
私の問いかけに三男の視線は暫く宙を泳いでいたが
やがて「...茨城」と一言。
イバラギ!?
またしても家族が顔を見合わせる。
「なんで茨城に家出すんだよっ!」
長兄が声をあげる。すると三男は兄を睨みつけて
「水戸コーモンに会いに行くんだよ、バーカッ」と怒鳴る。

三男のその一言に兄たちは呆れ顔で部屋へ引き上げていく。
そういえば親父とよくテレビを観ていたっけ。
なにやら三男の質問にも怪しげな回答をしていたようだったが
やっぱり黒幕は親父だった。

過去形で教えてくれよ、親父!

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