今年の冬は本当に寒い。
寒がりの我が親父は、自分の寝ている部屋の中で、エアコン暖房、オイルヒーター、石油ストーブを一緒につけて、さらに布団の中には電気アンカを入れているという有様だ。
これではまるで、アフリカから寒い北国の動物園へ連れてこられたライオンみたいだ。
もっともこれは、高気密住宅ならぬ低気密住宅のなせる技である。暖気が何処からともなくどんどん逃げて行く。
壁や床には断熱材を入れている筈なのに、これは一体どうしたことだろう。いわゆる欠陥住宅なのかもしれないが、築40年以上経っていて今更欠陥住宅もないだろう。
さて、こんなに寒い毎日で、おもてへ出るのも嫌になるが、そうもばかりは言っていられない。
お隣りさんへ回覧板を届けたり、ゴミを出しに行ったり、あるいは買い物へ出かけたりと、嫌でも外へ出なければならない。そんな時、つい鼻歌が出てしまうのだが、それは「北風小僧の寒太郎」である。
この歌はNHKの「みんなのうた」で放送されたと記憶しているが、私の頭の中では堺正章さんバージョンで常に再生されている。
多分、放送されてから50年近い歳月が流れているだろうが、こうして今もつい口ずさんでしまうところから、個人的にはまぎれもない名曲だと思っている。
ところでこの「みんなのうた」。中には理解不能な歌もある。いや、むしろその歌詞をよく聴くと、背筋が寒くなるようなものさえある。
その代表的な歌はといえば、「さとるくん」という歌。
その歌詞はこうなっている(強調部分は私)。
小さいころあたしにはよく遊んだともだちがいた
夕暮れ迫るころの公園に必ずひとりで来てた
何度も遊んだはずなのに なぜか顔も覚えていないの
何度も聞いてたはずなのに なぜか家もわからないの
不思議な不思議なこなの さとるくん
みんながあのコにいじわるするの 見えないふりをしてるの
だからあたしはあのコとよく砂場で遊んだげたの
でもとっても恥ずかしがり屋だから お母さんが来るといないの
とても恥ずかしがり屋だったから ガラス戸にも映らないの
不思議な不思議なコだね さとるくん
あたしにだけ聞かせてくれた おかしなおかしな話
あるときとなりのじいちゃんのさよならの話したら
次の日じいちゃん家にはたくさんの黒い靴がならんだ
みんながうつむいてじいちゃんとの さよならをしていた
不思議な不思議なコだった さとるくん
不思議な不思議なコだった さとるくん
あたしが大人になってふと彼に 会いたいと思ったから
ともだちみんなに聞いてみたけれど 答えはひとつだけ
いつかまた会えたらいいね さとるくん
以上が「さとるくん」という歌だ。
歌詞の内容から察するに、さとるくんという子供は、我々とは住んでいる世界が違うようである。
最後のじいちゃんの件りに至っては、この歌全体が「死」の世界と繋がっていることを想起させる。
一説にはこの歌が「みんなのうた」で放送されたものではないという。しかしNHKで放送されたことは事実のようである。
それはともかく、このさとるくんという子を思うと、なぜか切なさが胸に沸き起こる。
因みに「泣いていた女の子」という歌もあるが、これはさとるくんの女の子バージョンか。
これも切なく怖い歌だ。
この歌については次回ということで。
寒がりの我が親父は、自分の寝ている部屋の中で、エアコン暖房、オイルヒーター、石油ストーブを一緒につけて、さらに布団の中には電気アンカを入れているという有様だ。
これではまるで、アフリカから寒い北国の動物園へ連れてこられたライオンみたいだ。
もっともこれは、高気密住宅ならぬ低気密住宅のなせる技である。暖気が何処からともなくどんどん逃げて行く。
壁や床には断熱材を入れている筈なのに、これは一体どうしたことだろう。いわゆる欠陥住宅なのかもしれないが、築40年以上経っていて今更欠陥住宅もないだろう。
さて、こんなに寒い毎日で、おもてへ出るのも嫌になるが、そうもばかりは言っていられない。
お隣りさんへ回覧板を届けたり、ゴミを出しに行ったり、あるいは買い物へ出かけたりと、嫌でも外へ出なければならない。そんな時、つい鼻歌が出てしまうのだが、それは「北風小僧の寒太郎」である。
この歌はNHKの「みんなのうた」で放送されたと記憶しているが、私の頭の中では堺正章さんバージョンで常に再生されている。
多分、放送されてから50年近い歳月が流れているだろうが、こうして今もつい口ずさんでしまうところから、個人的にはまぎれもない名曲だと思っている。
ところでこの「みんなのうた」。中には理解不能な歌もある。いや、むしろその歌詞をよく聴くと、背筋が寒くなるようなものさえある。
その代表的な歌はといえば、「さとるくん」という歌。
その歌詞はこうなっている(強調部分は私)。
小さいころあたしにはよく遊んだともだちがいた
夕暮れ迫るころの公園に必ずひとりで来てた
何度も遊んだはずなのに なぜか顔も覚えていないの
何度も聞いてたはずなのに なぜか家もわからないの
不思議な不思議なこなの さとるくん
みんながあのコにいじわるするの 見えないふりをしてるの
だからあたしはあのコとよく砂場で遊んだげたの
でもとっても恥ずかしがり屋だから お母さんが来るといないの
とても恥ずかしがり屋だったから ガラス戸にも映らないの
不思議な不思議なコだね さとるくん
あたしにだけ聞かせてくれた おかしなおかしな話
あるときとなりのじいちゃんのさよならの話したら
次の日じいちゃん家にはたくさんの黒い靴がならんだ
みんながうつむいてじいちゃんとの さよならをしていた
不思議な不思議なコだった さとるくん
不思議な不思議なコだった さとるくん
あたしが大人になってふと彼に 会いたいと思ったから
ともだちみんなに聞いてみたけれど 答えはひとつだけ
いつかまた会えたらいいね さとるくん
以上が「さとるくん」という歌だ。
歌詞の内容から察するに、さとるくんという子供は、我々とは住んでいる世界が違うようである。
最後のじいちゃんの件りに至っては、この歌全体が「死」の世界と繋がっていることを想起させる。
一説にはこの歌が「みんなのうた」で放送されたものではないという。しかしNHKで放送されたことは事実のようである。
それはともかく、このさとるくんという子を思うと、なぜか切なさが胸に沸き起こる。
因みに「泣いていた女の子」という歌もあるが、これはさとるくんの女の子バージョンか。
これも切なく怖い歌だ。
この歌については次回ということで。
「あまびえ」という妖怪をご存知だろうか。
今回の新型コロナウイルス騒動下で再三再四メディアが取り上げていたから、一度は耳にされた方も多いのではないだろうか。
江戸時代に現在の熊本県(肥後地方)に現れたという妖怪が「あまびえ」である。
その外見は鳥のような人魚のような、なんとも奇妙な姿形をしており、「疫病が流行ったら私の写し絵を人々に見せよ」と言い残し、海に消えて行ったという。
それにしても、今よく目にするこの「あまびえ」ちゃんの絵は、妖怪と呼ぶにはなんとも可愛らしく見える。実物?は本当にこんな姿をしていたのだろうか。
子供の頃、伝言ゲームなる遊びに嵌ったことがある。
或る文章を次々に耳打ちして行き、最後の人まで正しく伝わったかどうかを楽しむゲームだ。
これは人数が多いほど面白い。最初の文章がとんでもない文章に変わってしまって、一同大笑いで終了する。
そこでこの「あまびえ」ちゃん。人から人へと模写されていくうちに、現在のような姿になってしまったのではないかと推察する。
そもそも不知火の海から現れた妖怪である。蜃気楼が発生する海から現れた妖怪はこんなユーモラスな姿ではなかったと思われる。
きっと誰かがもう少し怖くないように描き直したのか、それとも絵の下手な人が描きうつしたのが、そのまま残ってしまったのか、そのあたりは分からない。
でも、こういう話が出て来たことで、殺伐としたこの年に少しだけ息抜きというか光が差したような気がした。
さて、そんな訳で、今日はこの「仙台伊澤家 勝山酒造」の「疫病退散」を謹んで頂戴することにしたい。
身体の中にあまびえちゃんを取り込んだ方が、きっと効果絶大に違いない。
今回の新型コロナウイルス騒動下で再三再四メディアが取り上げていたから、一度は耳にされた方も多いのではないだろうか。
江戸時代に現在の熊本県(肥後地方)に現れたという妖怪が「あまびえ」である。
その外見は鳥のような人魚のような、なんとも奇妙な姿形をしており、「疫病が流行ったら私の写し絵を人々に見せよ」と言い残し、海に消えて行ったという。
それにしても、今よく目にするこの「あまびえ」ちゃんの絵は、妖怪と呼ぶにはなんとも可愛らしく見える。実物?は本当にこんな姿をしていたのだろうか。
子供の頃、伝言ゲームなる遊びに嵌ったことがある。
或る文章を次々に耳打ちして行き、最後の人まで正しく伝わったかどうかを楽しむゲームだ。
これは人数が多いほど面白い。最初の文章がとんでもない文章に変わってしまって、一同大笑いで終了する。
そこでこの「あまびえ」ちゃん。人から人へと模写されていくうちに、現在のような姿になってしまったのではないかと推察する。
そもそも不知火の海から現れた妖怪である。蜃気楼が発生する海から現れた妖怪はこんなユーモラスな姿ではなかったと思われる。
きっと誰かがもう少し怖くないように描き直したのか、それとも絵の下手な人が描きうつしたのが、そのまま残ってしまったのか、そのあたりは分からない。
でも、こういう話が出て来たことで、殺伐としたこの年に少しだけ息抜きというか光が差したような気がした。
さて、そんな訳で、今日はこの「仙台伊澤家 勝山酒造」の「疫病退散」を謹んで頂戴することにしたい。
身体の中にあまびえちゃんを取り込んだ方が、きっと効果絶大に違いない。
お彼岸だからねぇ、そういうこともあるのでしょう
2020年9月23日 不思議草子 コメント (12)お彼岸ということで、妻の実家へ墓参りに出かけた。
以前の日記にも書いたが、現在は義姉がひとりで大きな家を守っている。妻にとっては兄嫁ということで、だから血は繋がっていない。
妻から見れば義姉は他人だが、しかしふたりはとても気が合うようだ。傍から見ているとまるで本物の姉妹のようだ。
いや、本物の姉妹だから仲が良いとは言えないが、気の置けない存在と言った方が良いだろうか。
久しぶりに義姉に会えるということで、妻も嬉しそうだった。
義姉には前日に訪問することは伝えておいたが、なるべく遅い時間に来て欲しいと頼まれた。
田舎は近所づきあいが多い。また、親類縁者も大勢いるので、特にお彼岸の時などは来客がひっきりなしだ。そのため客が帰った頃に来て欲しいということなのだ。
そこで私と妻は先に墓参りを済ませて、もう来客者もいない頃だろうと見計らった上で実家を訪問したのだが、どうやらまだお客はいるようだった。
田舎の家特有の広々とした玄関。上がり框に並べられた私と妻の分のスリッパ。
「こんにちは」と声を上げると、奥の方から義姉の「どうぞ」という返事と、来客者の笑い声が聞こえて来た。
玄関の右手は居間になっており、ちらりと中を覗くと、食卓のテーブルにこちらに背を向けた男性が座っていた。
頭のてっぺんが薄くなっているが、年齢は七十代くらいだろうか。後ろ姿に見覚えが無い。親類縁者だったらだいたい分かるのだが、きっと近所の人かもしれないと思った。
妻は玄関の左手にある仏間に入って持参した供物を仏壇に供えていた。
私も仏壇の前に座り、線香に火をつけた。その時、線香立てを見てあることに気がついた。
線香立てにはすでに線香が三本、煙りをくゆらせていた。その線香の立て方がいつもと違うのである。
ちょうど正三角形の頂点にそれぞれ一本ずつ立てられているのだが、さらにそれらが正三角形の中心に向けて傾けられているのだ。
義姉はこんな線香の立て方はしない。多分、いまこの家に来ているお客さんが供えたのだろう。
それにしてもこういう線香の立て方をされると、どこに立てたらよいか分からなくなる。
少々困惑しながら私と妻は炉の隅の方へ一本ずつ線香を立てた。
「こっちでお茶でもどうぞ」
義姉に呼ばれて、妻とふたりで居間へと移動する。
先程の見知らぬ男性に何と言って挨拶しようかと考えながら、居間に入ると義姉と妻の従姉妹の女性が食卓についていた。
(あれ。さっきのおじさんは何処に行ったのだろう)
あの男性が座っていた席は空いていた。
食卓の上には我々の分と、彼女たちの分の茶器があるだけで、あのおじさんの痕跡はまったくない。
それを見た時、あのえもいわれぬ感覚が身体の奥から湧き上がって来た。
しかし私はそのことには一切触れずに彼女たちと談笑した。
話をしながら来客は妻の従姉妹のみであることを確認。やはりあの男性は存在しない人のようだ。
帰りのクルマの中で、ずうっと黙っていたんだけどと言って妻にそのことを話すと、特に驚きもせずに
「お彼岸だからねぇ、そういうこともあるのでしょう」と言って微笑んだ。
そう言えば線香立てにあった三本の線香。
なんで三本だったのだろう。
義姉、従姉妹。もう一本は誰が立てたのか。
まあいいか。考えるのはやめよう。
以前の日記にも書いたが、現在は義姉がひとりで大きな家を守っている。妻にとっては兄嫁ということで、だから血は繋がっていない。
妻から見れば義姉は他人だが、しかしふたりはとても気が合うようだ。傍から見ているとまるで本物の姉妹のようだ。
いや、本物の姉妹だから仲が良いとは言えないが、気の置けない存在と言った方が良いだろうか。
久しぶりに義姉に会えるということで、妻も嬉しそうだった。
義姉には前日に訪問することは伝えておいたが、なるべく遅い時間に来て欲しいと頼まれた。
田舎は近所づきあいが多い。また、親類縁者も大勢いるので、特にお彼岸の時などは来客がひっきりなしだ。そのため客が帰った頃に来て欲しいということなのだ。
そこで私と妻は先に墓参りを済ませて、もう来客者もいない頃だろうと見計らった上で実家を訪問したのだが、どうやらまだお客はいるようだった。
田舎の家特有の広々とした玄関。上がり框に並べられた私と妻の分のスリッパ。
「こんにちは」と声を上げると、奥の方から義姉の「どうぞ」という返事と、来客者の笑い声が聞こえて来た。
玄関の右手は居間になっており、ちらりと中を覗くと、食卓のテーブルにこちらに背を向けた男性が座っていた。
頭のてっぺんが薄くなっているが、年齢は七十代くらいだろうか。後ろ姿に見覚えが無い。親類縁者だったらだいたい分かるのだが、きっと近所の人かもしれないと思った。
妻は玄関の左手にある仏間に入って持参した供物を仏壇に供えていた。
私も仏壇の前に座り、線香に火をつけた。その時、線香立てを見てあることに気がついた。
線香立てにはすでに線香が三本、煙りをくゆらせていた。その線香の立て方がいつもと違うのである。
ちょうど正三角形の頂点にそれぞれ一本ずつ立てられているのだが、さらにそれらが正三角形の中心に向けて傾けられているのだ。
義姉はこんな線香の立て方はしない。多分、いまこの家に来ているお客さんが供えたのだろう。
それにしてもこういう線香の立て方をされると、どこに立てたらよいか分からなくなる。
少々困惑しながら私と妻は炉の隅の方へ一本ずつ線香を立てた。
「こっちでお茶でもどうぞ」
義姉に呼ばれて、妻とふたりで居間へと移動する。
先程の見知らぬ男性に何と言って挨拶しようかと考えながら、居間に入ると義姉と妻の従姉妹の女性が食卓についていた。
(あれ。さっきのおじさんは何処に行ったのだろう)
あの男性が座っていた席は空いていた。
食卓の上には我々の分と、彼女たちの分の茶器があるだけで、あのおじさんの痕跡はまったくない。
それを見た時、あのえもいわれぬ感覚が身体の奥から湧き上がって来た。
しかし私はそのことには一切触れずに彼女たちと談笑した。
話をしながら来客は妻の従姉妹のみであることを確認。やはりあの男性は存在しない人のようだ。
帰りのクルマの中で、ずうっと黙っていたんだけどと言って妻にそのことを話すと、特に驚きもせずに
「お彼岸だからねぇ、そういうこともあるのでしょう」と言って微笑んだ。
そう言えば線香立てにあった三本の線香。
なんで三本だったのだろう。
義姉、従姉妹。もう一本は誰が立てたのか。
まあいいか。考えるのはやめよう。
妻の親友の病気平癒を祈念するために、一緒に鹽竈(しおがま)神社に詣でた。
久しぶりに訪れた鹽竈神社だったが、境内に一歩足を踏み入れると身も心も浄化される思いがする。
神社という場所が俗世との結界であると言われているが頷ける話だ。
鹽竈神社の創建年代は定かではないとされているが、その起源は奈良時代以前にあるとされている。
私ごとではあるが、息子たちも孫たちも、お宮参りは鹽竈神社であった。その理由はと問われるとはっきりした答えが出せない。みんなの総意というか、自然の流れというか、気がつけばこの「鹽竈さま」へ詣でることになってしまった。こういうのを「ご縁」があるというのだろう。
さて、残念なことにコロナ禍の影響で、手水舎は柄杓が使えず直接流水で手を清めたり、また鈴の緒を掴むことも叶わないため、柏手を打つだけになってしまった。
妻と二人で友人の病気平癒を祈り、併せて孫たちの健やかな成長も祈念した。
ところでずっと気になっていたのだが、我々が本殿に着いた時から、一心に祈りを捧げている若い女性がいた。
その脇でこちらもお参りしたのであるが、我々が終えても一向に祈りを止める気配がない。
必死に何かを祈っているその姿には、鬼気迫るものを感じてしまった。
妻も同様だったらしく、
「何か余程のことがあったんだろうね」とその場を離れてから話しかけてきた。
本殿に向かって右手には別宮があり、願い事はここで行うことになっている。だから、今回のような病気平癒のお願いも、正式にはこちらで行うようなのだが、我々もその仕来りに則り、再度お願いをする。
一通り祈りを終えて最初に顔を上げた妻が、「ひっ」と小さな声を上げた。
その声に私も顔を上げると、一体いつ来たのだろうか。我々のすぐ隣で先ほどの女性が顔の真正面で手を合わせ、祈りを捧げているではないか。
微動だにせず、瞑目しながら何かを祈り続けている。
本殿ではよく分からなかったが、改めてその女性を見ると、二十代後半から三十代前半で主婦のようにもOLのようにも見える。
妻は何かを感じたのだろうか。逃げるようにその場を離れてしまった。
別宮の南側に御札やお守りの授与所があり、妻はそこで友人のためにお守りを受けていたが、その側で私が別宮を振り向くと、やはりあの女性が先ほどと同じ姿勢のまま祈り続けていた。
こうなってくると、私の悪い癖で妄想が止まらなくなる。
せっかく清められたはずの心の中に、様々な良からぬシチュエーションが出現し、そして消えていく。そんな私の様子に気づいたのか、妻が腕を引っ張った。
鹽竈神社の社殿から東側へ暫く離れた場所に志波彦神社がある。なぜか鹽竈神社の境内にあるという神社だが、我々がその神社の前に差し掛かった時、参道の奥、御本殿の前で祈る一人の女性の姿を見つけた。
一体いつの間に。
私と妻は無言でその場を離れた。
久しぶりに訪れた鹽竈神社だったが、境内に一歩足を踏み入れると身も心も浄化される思いがする。
神社という場所が俗世との結界であると言われているが頷ける話だ。
鹽竈神社の創建年代は定かではないとされているが、その起源は奈良時代以前にあるとされている。
私ごとではあるが、息子たちも孫たちも、お宮参りは鹽竈神社であった。その理由はと問われるとはっきりした答えが出せない。みんなの総意というか、自然の流れというか、気がつけばこの「鹽竈さま」へ詣でることになってしまった。こういうのを「ご縁」があるというのだろう。
さて、残念なことにコロナ禍の影響で、手水舎は柄杓が使えず直接流水で手を清めたり、また鈴の緒を掴むことも叶わないため、柏手を打つだけになってしまった。
妻と二人で友人の病気平癒を祈り、併せて孫たちの健やかな成長も祈念した。
ところでずっと気になっていたのだが、我々が本殿に着いた時から、一心に祈りを捧げている若い女性がいた。
その脇でこちらもお参りしたのであるが、我々が終えても一向に祈りを止める気配がない。
必死に何かを祈っているその姿には、鬼気迫るものを感じてしまった。
妻も同様だったらしく、
「何か余程のことがあったんだろうね」とその場を離れてから話しかけてきた。
本殿に向かって右手には別宮があり、願い事はここで行うことになっている。だから、今回のような病気平癒のお願いも、正式にはこちらで行うようなのだが、我々もその仕来りに則り、再度お願いをする。
一通り祈りを終えて最初に顔を上げた妻が、「ひっ」と小さな声を上げた。
その声に私も顔を上げると、一体いつ来たのだろうか。我々のすぐ隣で先ほどの女性が顔の真正面で手を合わせ、祈りを捧げているではないか。
微動だにせず、瞑目しながら何かを祈り続けている。
本殿ではよく分からなかったが、改めてその女性を見ると、二十代後半から三十代前半で主婦のようにもOLのようにも見える。
妻は何かを感じたのだろうか。逃げるようにその場を離れてしまった。
別宮の南側に御札やお守りの授与所があり、妻はそこで友人のためにお守りを受けていたが、その側で私が別宮を振り向くと、やはりあの女性が先ほどと同じ姿勢のまま祈り続けていた。
こうなってくると、私の悪い癖で妄想が止まらなくなる。
せっかく清められたはずの心の中に、様々な良からぬシチュエーションが出現し、そして消えていく。そんな私の様子に気づいたのか、妻が腕を引っ張った。
鹽竈神社の社殿から東側へ暫く離れた場所に志波彦神社がある。なぜか鹽竈神社の境内にあるという神社だが、我々がその神社の前に差し掛かった時、参道の奥、御本殿の前で祈る一人の女性の姿を見つけた。
一体いつの間に。
私と妻は無言でその場を離れた。
先日、身内のMが入院している話を書いたが、その病院で起きる怪現象。
毎朝4時になると4人部屋に居る誰かの点滴のアラームが鳴るという話。
我が家ではその話で結構盛り上がった。
(それは霊的現象だ)と言う者もいれば、(ただの設定ミスか機械の不具合だよ)と取り合わない者もいる。
そんな中、長男と二男が見舞いに出かけた。そこで二人は少々怖い話を聞かされて帰って来た。
その話とはこうだ。
トイレの前の洗面所には洗面ボウルが4つ並んでいる。その正面の壁にはそれぞれ鏡が据え付けられており、朝、Mが一番右端の洗面台を使って顔を洗っていたら、いつの間に来たのか、一番左端で自分と同じように顔を洗っている女性の姿が視野に入った。
顔に洗顔フォームがついたままだったので、洗い落としてから挨拶をしようと思い、さっとひと洗いして顔を上げたら、そこにはもう誰もいなかったという。
その間、わずかに10秒ほどのこと。
もしかしたらトイレにでも入ったのかと思い、中を覗いてみたが誰もいない。しかも一番左端の洗面台は濡れてもおらず使った形跡すら無かった。
身内のMからそんな話を聞かされた二人は、やっぱりあのアラームはその女性のせいではないかと思ったそうだ。何故なら、その洗面台は問題の病室のすぐ前だったからだ。
その女性が姿を現したせいなのかどうか。今朝届いたMからのメールには、珍しくアラームが鳴らなかったと書かれてあった。
毎朝4時になると4人部屋に居る誰かの点滴のアラームが鳴るという話。
我が家ではその話で結構盛り上がった。
(それは霊的現象だ)と言う者もいれば、(ただの設定ミスか機械の不具合だよ)と取り合わない者もいる。
そんな中、長男と二男が見舞いに出かけた。そこで二人は少々怖い話を聞かされて帰って来た。
その話とはこうだ。
トイレの前の洗面所には洗面ボウルが4つ並んでいる。その正面の壁にはそれぞれ鏡が据え付けられており、朝、Mが一番右端の洗面台を使って顔を洗っていたら、いつの間に来たのか、一番左端で自分と同じように顔を洗っている女性の姿が視野に入った。
顔に洗顔フォームがついたままだったので、洗い落としてから挨拶をしようと思い、さっとひと洗いして顔を上げたら、そこにはもう誰もいなかったという。
その間、わずかに10秒ほどのこと。
もしかしたらトイレにでも入ったのかと思い、中を覗いてみたが誰もいない。しかも一番左端の洗面台は濡れてもおらず使った形跡すら無かった。
身内のMからそんな話を聞かされた二人は、やっぱりあのアラームはその女性のせいではないかと思ったそうだ。何故なら、その洗面台は問題の病室のすぐ前だったからだ。
その女性が姿を現したせいなのかどうか。今朝届いたMからのメールには、珍しくアラームが鳴らなかったと書かれてあった。
翌朝、息子がぼおっとした顔で階下へ降りてきた。
朝の情報番組を観ていた私は、待ってましたとばかりに息子へ問いかけた。
「〇〇君からの電話は何だった。また、いつものような話か」
急に私に尋ねられた息子は、ああ、というような顔をして
「あいつらおかしいよ。UFOがまたやって来たんだって」
そう言いながらボサボサの頭を掻いた。
息子から聞いた話の詳細はこうである。
双子の○○君たちは実家のある岩手県R市へ帰省した。ここは東日本大震災でも特に大きな被害があった町として知られ、彼らの実家も危うく津波に飲みこまれるところだったらしい。
現在は土地の大規模なかさあげ工事が行われ、すっかり町の印象が変わってしまった。
久しぶりに帰省した彼らは、実家へ帰るとすぐに川へ魚釣りに出かけたという。
川と言っても実家の裏手を流れる小さな流れだ。子どもの頃から遊びや釣りに来ていた場所だった。
ふたりは竿を手にやって来ると、既に地元の小学生たちが釣り糸を垂れていた。皆、彼らには関心がなさそうに、釣り糸の先を黙って見降ろしている。
ふたりは互いに少し離れた場所で、釣り糸を降ろしたという。しかし、三十分経っても、一時間経っても、兄弟揃ってあたりが来ない。
(今日は駄目かな)
兄の方がそう思った時だった。
ふと視線を上げると、彼らの前方300mほどのところに、見たことも無い縦長の物体が浮かんでいる。しかも下部が七色に変化しながら光っている。
離れているのでその物体の大きさはよく分からないが、おそらく数メートルはあると思われた。
兄は慌てて弟の方へ声を掛け、その物体へ向かって指を差した。
弟もそれを確認すると、声にならない声をあげた。
そんなふたりの異変に気がついた小学生たちも、その未確認飛行物体を目の当たりにして、大変な騒ぎになったという。
さらに空中へ静止したままのその物体のところへ、なんともうひとつの同じような物体が突然現れて、接近したり離れたりを繰り返す。しかも不思議なことに、まったく音がしない。
時刻はまだ午後の四時を過ぎたあたりだ。日没までにはまだ時間があった。
雲ひとつない晴れ渡った空で、信じられないような光景が繰り広げられている。
彼らは呆然とその謎の物体を見上げていたが、弟が思い出したようにポケットからスマホを取り出した。この奇怪な飛行物体を撮影しようと思ったのだ。
すると、まるでその意図を見抜いたかのように、その謎の物体は一瞬にして姿を消してしまったのだという。
興奮した彼らは、近くにいた小学生たちをつかまえて
「お前たちも見たよな、見たよな」と、自分たちだけの目の錯覚ではないことを確かめた。
以上が昨夜の電話の内容だった。
息子は呆れたような顔で「あいつら、しょっちゅうなんだよな」と半分笑っている。
私自身もこれまでにUFOを何度か見ているので、彼らの話がまったくの出鱈目とは思えなかった。
昔、何かの本で読んだことがあるが、人知を超えるような物が目の前にあると、それを認識しないことがあるという。
日本が生んだ巨大戦艦大和が、ある島の湾に係留していた時、その島の原住民には大和の巨大な姿が見えなかったそうだ。
世の中にはまだまだ不思議なことが沢山存在する。
朝の情報番組を観ていた私は、待ってましたとばかりに息子へ問いかけた。
「〇〇君からの電話は何だった。また、いつものような話か」
急に私に尋ねられた息子は、ああ、というような顔をして
「あいつらおかしいよ。UFOがまたやって来たんだって」
そう言いながらボサボサの頭を掻いた。
息子から聞いた話の詳細はこうである。
双子の○○君たちは実家のある岩手県R市へ帰省した。ここは東日本大震災でも特に大きな被害があった町として知られ、彼らの実家も危うく津波に飲みこまれるところだったらしい。
現在は土地の大規模なかさあげ工事が行われ、すっかり町の印象が変わってしまった。
久しぶりに帰省した彼らは、実家へ帰るとすぐに川へ魚釣りに出かけたという。
川と言っても実家の裏手を流れる小さな流れだ。子どもの頃から遊びや釣りに来ていた場所だった。
ふたりは竿を手にやって来ると、既に地元の小学生たちが釣り糸を垂れていた。皆、彼らには関心がなさそうに、釣り糸の先を黙って見降ろしている。
ふたりは互いに少し離れた場所で、釣り糸を降ろしたという。しかし、三十分経っても、一時間経っても、兄弟揃ってあたりが来ない。
(今日は駄目かな)
兄の方がそう思った時だった。
ふと視線を上げると、彼らの前方300mほどのところに、見たことも無い縦長の物体が浮かんでいる。しかも下部が七色に変化しながら光っている。
離れているのでその物体の大きさはよく分からないが、おそらく数メートルはあると思われた。
兄は慌てて弟の方へ声を掛け、その物体へ向かって指を差した。
弟もそれを確認すると、声にならない声をあげた。
そんなふたりの異変に気がついた小学生たちも、その未確認飛行物体を目の当たりにして、大変な騒ぎになったという。
さらに空中へ静止したままのその物体のところへ、なんともうひとつの同じような物体が突然現れて、接近したり離れたりを繰り返す。しかも不思議なことに、まったく音がしない。
時刻はまだ午後の四時を過ぎたあたりだ。日没までにはまだ時間があった。
雲ひとつない晴れ渡った空で、信じられないような光景が繰り広げられている。
彼らは呆然とその謎の物体を見上げていたが、弟が思い出したようにポケットからスマホを取り出した。この奇怪な飛行物体を撮影しようと思ったのだ。
すると、まるでその意図を見抜いたかのように、その謎の物体は一瞬にして姿を消してしまったのだという。
興奮した彼らは、近くにいた小学生たちをつかまえて
「お前たちも見たよな、見たよな」と、自分たちだけの目の錯覚ではないことを確かめた。
以上が昨夜の電話の内容だった。
息子は呆れたような顔で「あいつら、しょっちゅうなんだよな」と半分笑っている。
私自身もこれまでにUFOを何度か見ているので、彼らの話がまったくの出鱈目とは思えなかった。
昔、何かの本で読んだことがあるが、人知を超えるような物が目の前にあると、それを認識しないことがあるという。
日本が生んだ巨大戦艦大和が、ある島の湾に係留していた時、その島の原住民には大和の巨大な姿が見えなかったそうだ。
世の中にはまだまだ不思議なことが沢山存在する。
急に我が家へ泊ることになった息子。
風呂に入り食事を済ませ、最近の出来事をああでもないこうでもないと話しているうちに、時計を見れば午前零時をとっくに回っていた。
「明日も早いから寝る」と言いながら息子は席を立った。
テーブルに置いてあった自分のスマホを取り上げて、ちらりと目をやる。するとその表情がにわかに曇った。
「〇〇から着信があった。気がつかなかった」
息子は発信元にその場でコールバックをした。
○○とは息子の大学時代の友人で、今でも付き合いがある若者だ。ただし一卵性の双子で、兄弟のどちらとも息子は仲が良い。
今回電話をかけて来たのは兄の方だった。仕事は異なるが、兄弟で岩手県に住んでいる。
息子が〇〇からの電話があったと知った時、表情がにわかに曇ったのには理由があった。その双子の兄弟が電話をしてくる時は、たいてい彼らの身の上に異変が起きた時だからだ。
「なんだ、出ないなあ」
息子はそう言って、スマホを耳から離した。と、その途端、着信の振動音が低いうなり声をあげた。慌てて息子が電話に出る。
(やあ)だとか、(おお)だとか、そして(ええっ)と言った短いフレーズばかりの会話が続く。相手が一方的に話しまくっている。それを聞く息子はただ驚きの声をあげるばかりだ。
私は本を読みながら、その様子を黙って窺っていた。
彼らの話はいつも驚きの内容ばかりだった。おそらく今回もそうなのだろう。本の内容がまったく頭に入って来なくなってしまった。
息子はそんな私を気にしたのか、話をしながら二階へ上がって行ってしまった。
(なんだ、つまらん)
彼らの突拍子もない話を聞けると思ったのだが、明日の朝、息子に聞いてみよう。私は再び本に目を落とした。
【彼らの突拍子もない話 その1】
東日本大震災の翌年のこと。
やはり夜半に息子へ電話がかかってきた。
当時彼らは仙台市内の新幹線高架橋近くのアパートに住んでいた。窓の外はお寺の墓地。
2階の部屋だったので、墓地全体がよく見渡せたという。
彼らの話はこうだった。
深夜、二人が寝ていたら、窓の外が明るくなっているのに気がついたのは弟だった。時刻は午前2時頃だったという。
最初はクルマのヘッドライトかと思ったが、考えてみたら窓の外は墓地だ。そんな明かりが入る筈がない。
弟は寝ていた兄を揺り起こし、そっと窓を開けてみた。すると、そこには驚愕の光景が。
墓地のちょうど真上に大きなUFOが音もなく浮かんでいたという。
よく映画などに出て来るような葉巻型のUFOだ。それが墓地の上空10~15m位のところに静止して、その周辺を照らし出していたという。
仰天したふたりは急いで窓を閉め、布団に潜り込んでじっとしていたそうである。
もしかしたら、今回もそんな話なのだろうか。
その結果は次回に。
風呂に入り食事を済ませ、最近の出来事をああでもないこうでもないと話しているうちに、時計を見れば午前零時をとっくに回っていた。
「明日も早いから寝る」と言いながら息子は席を立った。
テーブルに置いてあった自分のスマホを取り上げて、ちらりと目をやる。するとその表情がにわかに曇った。
「〇〇から着信があった。気がつかなかった」
息子は発信元にその場でコールバックをした。
○○とは息子の大学時代の友人で、今でも付き合いがある若者だ。ただし一卵性の双子で、兄弟のどちらとも息子は仲が良い。
今回電話をかけて来たのは兄の方だった。仕事は異なるが、兄弟で岩手県に住んでいる。
息子が〇〇からの電話があったと知った時、表情がにわかに曇ったのには理由があった。その双子の兄弟が電話をしてくる時は、たいてい彼らの身の上に異変が起きた時だからだ。
「なんだ、出ないなあ」
息子はそう言って、スマホを耳から離した。と、その途端、着信の振動音が低いうなり声をあげた。慌てて息子が電話に出る。
(やあ)だとか、(おお)だとか、そして(ええっ)と言った短いフレーズばかりの会話が続く。相手が一方的に話しまくっている。それを聞く息子はただ驚きの声をあげるばかりだ。
私は本を読みながら、その様子を黙って窺っていた。
彼らの話はいつも驚きの内容ばかりだった。おそらく今回もそうなのだろう。本の内容がまったく頭に入って来なくなってしまった。
息子はそんな私を気にしたのか、話をしながら二階へ上がって行ってしまった。
(なんだ、つまらん)
彼らの突拍子もない話を聞けると思ったのだが、明日の朝、息子に聞いてみよう。私は再び本に目を落とした。
【彼らの突拍子もない話 その1】
東日本大震災の翌年のこと。
やはり夜半に息子へ電話がかかってきた。
当時彼らは仙台市内の新幹線高架橋近くのアパートに住んでいた。窓の外はお寺の墓地。
2階の部屋だったので、墓地全体がよく見渡せたという。
彼らの話はこうだった。
深夜、二人が寝ていたら、窓の外が明るくなっているのに気がついたのは弟だった。時刻は午前2時頃だったという。
最初はクルマのヘッドライトかと思ったが、考えてみたら窓の外は墓地だ。そんな明かりが入る筈がない。
弟は寝ていた兄を揺り起こし、そっと窓を開けてみた。すると、そこには驚愕の光景が。
墓地のちょうど真上に大きなUFOが音もなく浮かんでいたという。
よく映画などに出て来るような葉巻型のUFOだ。それが墓地の上空10~15m位のところに静止して、その周辺を照らし出していたという。
仰天したふたりは急いで窓を閉め、布団に潜り込んでじっとしていたそうである。
もしかしたら、今回もそんな話なのだろうか。
その結果は次回に。
尾道の通称「猫の細道」を下っていたら、どこからともなく一匹の猫が現れた。私に無関心を装いながらも、品定めを始めたようだった。
「もう良いですか」
私はその猫氏に品定めが終ったか尋ねると
(ああ、いいよ。ちょいと頼みがあるんだが...)
そう言って、私の顔を見上げた。
(あんたには不釣り合いなほどの良いカメラをぶら下げてるじゃあないか。そのカメラでオレを撮ってくれないかな)
猫氏はそう言うと大きな欠伸をした。
そうそう、言い忘れたが、私はかの南方熊楠と同様に猫の言葉が分かるのである。戌年生まれのくせに猫の言葉が分かるなんておかしな話だが、こればかりはどうしようもない。
「そりゃあ構いませんが、どこで撮りましょうか」
私がそう言うと、猫氏はくるりと背を向けて、急な石段を登り始めたではないか。私は慌ててそのあとを追いかけた。
やがてとある茶房のウッドデッキにひょいと飛び乗ると、私に目で合図を送って来た。
(ここ)
「ここですか」
(そう、オレのお気に入りの場所)
「それでは早速」
(おうおう、ちょっと待ってくれ。ポーズを決めるからさ)
猫氏はウッドデッキの柱に身体を寄せて、にゃあと一声鳴いてみせた。どうやらそれが準備OKの合図らしかった。
私はカメラを構え、おすまし顔の猫氏にレンズを向けると立て続けにシャッターを切った。
「すみません。目線ください」
(こうか?)
「ハイ、良いですねぇ。決まってますよ」
こうしてにわかに始まった撮影会は終了した。
別れしなに「出来上がった写真はどうしましょうか」と尋ねると、ウッドデッキの上にでんと腰をおろしたまま「ここへ送ってくれよ」とそれが当然であるかのような顔をした。
私は困惑して「住所が分かりません」と答えると「それなら届けておくれ」と、これまた当たり前のような顔をしてみせた。
「届けてくれと言われても私は旅の者でして、もうここには来れないかもしれないのです」
申し訳なさそうにそう言うと、一瞬考え込むような表情を見せた猫氏は静かに私の方を向き直り(いや、あんたはまたここへ来るよ。必ずな)と言った。
やけに自信ありげなその言葉に
「そうですかねぇ。来ますかねぇ」と答えると、猫氏はまた大欠伸をひとつ。
その時、坂道を一陣の風が吹き抜けて行った。思わず目を瞑る私。そしてふたたび目を開けた時には、例の猫氏の姿はどこにも見えなかった。
「こんなことってあるんですねぇ。また来ましょうか、尾道へ」
独り言のように呟きながら、私は石段をゆっくりと降りて行った。
「もう良いですか」
私はその猫氏に品定めが終ったか尋ねると
(ああ、いいよ。ちょいと頼みがあるんだが...)
そう言って、私の顔を見上げた。
(あんたには不釣り合いなほどの良いカメラをぶら下げてるじゃあないか。そのカメラでオレを撮ってくれないかな)
猫氏はそう言うと大きな欠伸をした。
そうそう、言い忘れたが、私はかの南方熊楠と同様に猫の言葉が分かるのである。戌年生まれのくせに猫の言葉が分かるなんておかしな話だが、こればかりはどうしようもない。
「そりゃあ構いませんが、どこで撮りましょうか」
私がそう言うと、猫氏はくるりと背を向けて、急な石段を登り始めたではないか。私は慌ててそのあとを追いかけた。
やがてとある茶房のウッドデッキにひょいと飛び乗ると、私に目で合図を送って来た。
(ここ)
「ここですか」
(そう、オレのお気に入りの場所)
「それでは早速」
(おうおう、ちょっと待ってくれ。ポーズを決めるからさ)
猫氏はウッドデッキの柱に身体を寄せて、にゃあと一声鳴いてみせた。どうやらそれが準備OKの合図らしかった。
私はカメラを構え、おすまし顔の猫氏にレンズを向けると立て続けにシャッターを切った。
「すみません。目線ください」
(こうか?)
「ハイ、良いですねぇ。決まってますよ」
こうしてにわかに始まった撮影会は終了した。
別れしなに「出来上がった写真はどうしましょうか」と尋ねると、ウッドデッキの上にでんと腰をおろしたまま「ここへ送ってくれよ」とそれが当然であるかのような顔をした。
私は困惑して「住所が分かりません」と答えると「それなら届けておくれ」と、これまた当たり前のような顔をしてみせた。
「届けてくれと言われても私は旅の者でして、もうここには来れないかもしれないのです」
申し訳なさそうにそう言うと、一瞬考え込むような表情を見せた猫氏は静かに私の方を向き直り(いや、あんたはまたここへ来るよ。必ずな)と言った。
やけに自信ありげなその言葉に
「そうですかねぇ。来ますかねぇ」と答えると、猫氏はまた大欠伸をひとつ。
その時、坂道を一陣の風が吹き抜けて行った。思わず目を瞑る私。そしてふたたび目を開けた時には、例の猫氏の姿はどこにも見えなかった。
「こんなことってあるんですねぇ。また来ましょうか、尾道へ」
独り言のように呟きながら、私は石段をゆっくりと降りて行った。
土地の名前の由来を調べてみると、これがなかなか面白い。例えば「青森県」は海から現在の青森市を見ると青い森が見えたそうだ。漁師たちはそれを目印にしたそうだが、それがそのまま県名になった。また私の住む「宮城県」は、遠い昔、多賀城に陸奥国府や鎮守府が置かれ、「宮なる城の所在地」ということで宮城になったと言われている。
このように青森や宮城が実際にあったものから名付けられたその一方で、岩手はちょっと変わっている。
私はその岩手の名前の起源となったと或る神社を訪れた。その神社の名前は三ツ石神社という。
境内のお社のすぐ脇には、岩手山が噴火した時に飛んできたという巨石が三つ並んでいた。
昔々、「羅刹鬼(らせつき)」という鬼がいた。この鬼は悪さを働いては人々や旅人を困らせていた。そこで地元の民はこの鬼を退治してくれるように三ツ石様にお願いしたところ、神様はその願い通りに鬼を懲らしめ、そしてその巨石に縛り付けてしまったのである。
神様によって懲らしめられた鬼は、二度と悪さをしない、二度とこの地に帰ってこないと約束し、その証としてこの巨石に手形を残していったという。これが「岩手」の名の起こりだと言われている。
石川啄木の名句「不来方(こずかた)の お城の草に寝ころびて 空に吸はれし十五の心」の不来方とは、あの羅刹鬼が二度とこの地に来ないようにと言い現した言葉である。
今でもその鬼の手形の跡を見ることが出来ると聞き、それらしいものがないかと探したのだが、結局分からなかった。
写真はおそらくこれかなと思うものを撮ったのだが確証はない。私はむしろ、この地を去った羅刹鬼のその後の行方が気になった。
言い伝えによれば、羅刹鬼はそののち京の羅生門に棲みつき、やはり悪さを働いたという。そして一条戻橋の上で渡辺綱(わたなべのつな)に腕を切り落とされたとも。こうなると完全に伝奇ロマンだが、岩手という県名には他県にはないそんな話が隠されているところが面白い。
ちなみに私の頬に、妻の手形が残されることのないよう、これからも真面目に生きることを三ツ石様に誓い、岩手を後にしたのだった。
※秘密日記あり リンクして頂いている皆様へ
このように青森や宮城が実際にあったものから名付けられたその一方で、岩手はちょっと変わっている。
私はその岩手の名前の起源となったと或る神社を訪れた。その神社の名前は三ツ石神社という。
境内のお社のすぐ脇には、岩手山が噴火した時に飛んできたという巨石が三つ並んでいた。
昔々、「羅刹鬼(らせつき)」という鬼がいた。この鬼は悪さを働いては人々や旅人を困らせていた。そこで地元の民はこの鬼を退治してくれるように三ツ石様にお願いしたところ、神様はその願い通りに鬼を懲らしめ、そしてその巨石に縛り付けてしまったのである。
神様によって懲らしめられた鬼は、二度と悪さをしない、二度とこの地に帰ってこないと約束し、その証としてこの巨石に手形を残していったという。これが「岩手」の名の起こりだと言われている。
石川啄木の名句「不来方(こずかた)の お城の草に寝ころびて 空に吸はれし十五の心」の不来方とは、あの羅刹鬼が二度とこの地に来ないようにと言い現した言葉である。
今でもその鬼の手形の跡を見ることが出来ると聞き、それらしいものがないかと探したのだが、結局分からなかった。
写真はおそらくこれかなと思うものを撮ったのだが確証はない。私はむしろ、この地を去った羅刹鬼のその後の行方が気になった。
言い伝えによれば、羅刹鬼はそののち京の羅生門に棲みつき、やはり悪さを働いたという。そして一条戻橋の上で渡辺綱(わたなべのつな)に腕を切り落とされたとも。こうなると完全に伝奇ロマンだが、岩手という県名には他県にはないそんな話が隠されているところが面白い。
ちなみに私の頬に、妻の手形が残されることのないよう、これからも真面目に生きることを三ツ石様に誓い、岩手を後にしたのだった。
※秘密日記あり リンクして頂いている皆様へ
座敷わらしの宿 緑風荘宿泊体験記
2019年3月1日 不思議草子 コメント (11)
某番組において、持ち込み企画という名目で、日本全国の座敷わらしが出没するという宿を紹介していた。俳優のH氏が「出る」と言われる部屋に宿泊し、実際に座敷わらしが現れるのか自ら確認するというもの。
客室の中に設置された複数のカメラが、その部屋で起こる不思議な現象を捉えるのだが、結論から言うと甚だ疑問である。
このシリーズは今まで何回放送されたか分からないが、私の見る限り、本物と言えるのは2本くらい。あとはその客室に憑依しているただの霊体ではないかと思われる。
「座敷わらし」の存在が世間にその名を知らしむるようになったのは、柳田國男の「遠野物語」からではないだろうか。民俗学の範疇で扱われる「遠野物語」だが、よく読めば完全なる心霊本である。今でいうところの実話系怪談と言ってもよい。
大学生の頃、民俗学に興味を抱いていた私が「遠野物語」に出会うのにそう時間はかからなかった。一度読んだだけですっかり魅せられてしまい、実際岩手県の遠野市へも何度か足を運んだ。
そんな或る日、同じ大学の友人Oから、岩手県の金田一温泉というところに座敷わらしが現れるという旅館があるから、一度泊まりに行かないかと誘われた。
座敷わらしはその家の守り神であり、幸福と繁栄をもたらすと言われている。ただし、その家から離れてしまうと、一気に没落してしまうともいわれ、或る意味怖い存在だ。
今ならネットがあるから簡単に調べることが出来るが、当時はそんなものはない。友人と苦労して情報を集め、さらに詳しく調べてみると、緑風荘という旅館がそうだと分かった。そして座敷わらしが現れるのは「槐(えんじゅ)の間」という部屋にどうやら限定されているらしいことも。
そこで早速緑風荘に電話をかけて、不躾にも「座敷わらしが出る部屋に泊めて欲しい」と申し出たら、構いませんよとのこと。今にして思えば、まだブームが来る遥か以前のことだから、簡単に予約することが出来たのだろう。
私と友人のOは、まるで化物退治にでも向かうような意気込みで出かけたのである。
当時はJRではなく、国鉄の時代だ。まだ東北新幹線も無かった頃で、鈍行列車を乗り継ぎながらようやく金田一駅に着いたころには、日が傾きかけていた。
国道4号線を徒歩で北へ向かい、途中から温泉へ続く道に入って行く。駅から歩くこと30分あまりでついに温泉街へと到着した。
数件の温泉宿があったが、目指す緑風荘はすぐに見つかった。
正面玄関の前には、国語辞書でお馴染みの金田一京助博士の碑が建っている。
ここ金田一は、金田一先生の祖先の土地でもあるのだ。
かなり広い敷地には2階建ての宿泊棟もあるが、我々が通されたのは平屋部分の最奥部にある「槐の間」だ。先導する仲居さんが障子を開けると、本当に何の変哲もない普通の和室がそこにあった。あまりに普通過ぎて、私とOは拍子抜けしてしまった。いかにも妖怪が出そうな、陰気でオドロオドロしい部屋を期待していたからだ。尤も、そんな妖怪が幸福の神様である筈はないのだが。
後年、テレビ番組などでこの部屋が紹介されているのを見ると、床の間には人形だとかオモチャがびっしりと隙間なく供えられているが、我々が宿泊した時にはそのようなお供え物は一切なかった。この頃はそれだけ認知度が低かったのである。
部屋での夕食が終り、他に何もすることがないOと私は、つまらないテレビ番組をぼおっと眺めていた。すると「ごめんください」と女性の声がする。
障子を開けて顔を出したのは、我々をこの部屋へ案内してくれた仲居さんだった。どうしたのだろうと思ったら
「主人がお会いしたいと言っていますが、よろしいですか」と思いも寄らぬご招待を受けた。
断る理由など何もない我々は、仲居さんのあとに続いて、暗くて長い廊下をどこまでも歩いて行った。
やがて灯りの点いた障子の前で仲居さんは立ち止まると、我々に「こちらです」と言って廊下に跪き、障子を開けた・
そこには大きな炬燵に入り、ニコニコとほほ笑むとても温厚そうな老人が我々を待っていた。
頭はすっかり禿げ上がっていたが、眉毛は太く鼻も大きい。七福神にこんな神様がいたなあと思いながら、我々は挨拶をした。
その老人は五日市栄一さんといい、この時のご当主であった。この人こそ、初めて座敷わらしに遭遇し、その後も数々の体験とそれにまつわる不可思議な出来事に見舞われた人物だった。
我々は五日市さんと同じ炬燵に入りながら、とても沢山の話を聞かせて頂いた。
毎晩現れた狐狸妖怪
五日市さんの若かりし頃、村の若者たちがこの家に集って酒盛りをしていた。その部屋が例の槐の間である。
皆が帰った後、すっかり酒に酔った五日市さんは、散らかった部屋に一人で横になっていた。すると急に身体が動かなくなったという。酔ってはいたけれども意識ははっきりしているので、これはどうしたことだろうと思っていると、縁側からひとりの童子が現れた。歳の頃なら四五歳くらいだろうか。このあたりでは見たことのない子供だ。着物を着てちゃんちゃんこを羽織っている。
その見たことのない童子は、五日市さんの寝ている周りを二三度回ると、再び縁側の方へと歩いて行った。そして姿が見えなくなると、五日市さんの身体に自由が戻って来たという。
「私はこの時、狐狸妖怪の仕業だと思いました」
五日市さんは狐や狸が悪さをしにやって来たと思ったそうだ。
「もし、今度現れたら退治してやろうと思い、次の日の晩から猟銃を持って待ち構えていたのです」
そしてそれは現れたという。だが、身体は金縛りに遭い、引き金にかけた指はぴくりとも動かず、縁側からすたすたと入って来た童子は、部屋の中を二三度回ると外へ出て行ってしまった。
「一週間、同じ部屋で待ち構えたけれど、そのたびに身体は動かなくなるし、結局退治どころではなかった」
五日市さんはそう言って笑った。
不合格になった入隊検査
戦争が始まって五日市さんにも召集令状が届いた。五日市さんだけではなく、この村からも何人かの若者が出征することになったそうだ。
五日市さんたちは大勢の村人に見送られて、村を後にしたそうだ。そして入隊検査が行われた。所謂、健康診断である。身体には自信があったので当然合格するものと思っていた。実際、どこにも異常はなく、最後に軍医が合格の判を押すだけだったのだが、ここで信じられないことが起きた。
軍医が誤って、不合格の欄に判を押してしまったのである。それを見て驚いたのは五日市さんである。これは何かの間違い、どうか合格にしてくださいと軍医に懇願したそうだ。不合格とあっては恥ずかしくて村に帰ることが出来ないと、それこそ泣きついたのだそうだ。
しかし、軍医からついに合格の言葉を聞くことは出来ず、最後には「天皇陛下の命令に背くつもりか」と一喝されてしまった。
こうして五日市さんは、ひとり泣く泣く村に帰って来たのである。だが、その時に合格となった若者たちは、大陸へ渡る輸送船が撃沈されて全員戦死してしまったのだった。
それを知った時、五日市さんは初めて自分が何者かに守られていることを感じたそうだ。
騒ぐお客
五日市さんが体験した話はそれだけではない。或る詐欺師に騙されて、旅館の改築費用として蓄えた大金を騙し取られてしまった。これはもう首を括るしかないと諦めたところ、郵便受けに包みが入っていたそうだ。開けてみるとそこには騙し取られたお金がそのまま入っていた。
この話はもしかしたら現金ではなく、小切手だったかもしれない。なにしろ遠い昔の話なので私もうる覚えのところがある。しかし、次の話は今でもよく覚えている。
この旅館に座敷わらしが出るという話が、割と知られるようになってからのこと。或る日旅館に小包が届いたので中を開けてみると、絣の着物、それも子供の着物が入っていたそうだ。一緒に手紙も添えられてあり、この着物を是非座敷わらしに着せて欲しいと書かれてあった。
(着せて欲しいといわれても)
五日市さんは困ってしまった。そこで庭にある祠に収めることにしたのだった。
そんな或る日、東京からやって来たという男性が例の槐の間に泊まった。すると翌朝のこと、その男性が仲居さんをつかまえて騒いでいる。
それを見た五日市さんは「どうしましたか」と尋ねると、「夜中に小さな子供が現れた」ということだった。そこで五日市さんは「どんな格好をしていましたか」と再度尋ねると、「絣の着物を着ていたような気がする」と答えたそうだ。
それを聞いて五日市さんは思わず笑顔になったそうな...
この時、他にも沢山の話を聞かせて貰ったのだが、ほとんど忘れてしまったのが何とも残念である。
「今夜見れるといいですね」
五日市さんはそう言ってくれた。
部屋に戻ると床が敷かれてあり、私とOは昼の疲れもあってすぐに眠りに落ちた。
何時頃だろう。私はふと目が覚めた。障子には風に揺れる樹木の陰が月明かりに照らし出されている。
(結局何も起こらないまま朝になるのかな)
私は暗い天井を見上げながらそう思った。と、その時である。
風の音に混じって、ミシッという音が聞こえた。木の軋む音のようだ。
すると再びミシッと音が聞こえた。どこからだろう。蒲団の中で耳を澄ませる。
だが、その後いくら待っても音は聞こえない。風の悪戯だったのかなとそう思った時だった。
パシッ!という大きな音が部屋に響いた。その大きな音に一瞬身構えたが、それ以上の異変は起こらない。
隣りに寝ているOはまったく気がつかない様子で眠りこけている。そして私もいつしか眠り込んでしまったのだった。
翌朝、朝食会場のある広間に向かって廊下を歩いていると、五日市さんが立っていた。もしかしたら我々のことを待っていたのかもしれない。そう思ったら、五日市さんの方から昨夜と同じにこやかな顔で話しかけてきた。
「ゆうべはどうでしたか」
つまり座敷わらしを見たかということだ。そこで私は
「残念ながら姿は見ることは出来ませんでした」と答えた。すると
「何か音は聞こえませんでしたか」と言うので
「木の枝が折れるような音がしました」と答えた。
「音がきこえましたがぁ。それは良かったですなあ」と五日市さん。
なんでも音や気配を感じるだけでもご利益があるのだとか。
ちなみにこの緑風荘に宿泊して成功を収めた有名人には次の人たちがいる。
原敬(第19代内閣総理大臣)
米内光政(第37代内閣総理大臣)
福田赳夫(第67代内閣総理大臣)
本田宗一郎(本田技研工業創業者)
松下幸之助(パナソニック創業者)
稲森和夫(京セラ)
三浦哲郎(作家、ユタと不思議な仲間たちの作者)
遠藤周作(作家、座敷わらしに遭遇した話を作品化)
水木しげる(漫画家、槐の間で座敷わらしに遭遇)
つのだじろう(漫画家、座敷わらしの絵を奉納。その絵の眼球が動いた)
水戸泉(元大相撲力士、槐の間に宿泊後の平成4年7月場所優勝)
ゆず(音楽グループ、メジャーデビューを果たす)
2009年(平成21年)、この緑風荘は火災により焼失してしまった。この報を聞き、私は愕然としたのだが、2016年より新しく建て直されて営業が行われている。
火事が起こった時、子供がひとりで消火活動をしていたという目撃談があるそうだ。しかも一人の怪我人も出なかったとか。
座敷わらしちゃんは頑張っているようだ。私も頑張らねば。
客室の中に設置された複数のカメラが、その部屋で起こる不思議な現象を捉えるのだが、結論から言うと甚だ疑問である。
このシリーズは今まで何回放送されたか分からないが、私の見る限り、本物と言えるのは2本くらい。あとはその客室に憑依しているただの霊体ではないかと思われる。
「座敷わらし」の存在が世間にその名を知らしむるようになったのは、柳田國男の「遠野物語」からではないだろうか。民俗学の範疇で扱われる「遠野物語」だが、よく読めば完全なる心霊本である。今でいうところの実話系怪談と言ってもよい。
大学生の頃、民俗学に興味を抱いていた私が「遠野物語」に出会うのにそう時間はかからなかった。一度読んだだけですっかり魅せられてしまい、実際岩手県の遠野市へも何度か足を運んだ。
そんな或る日、同じ大学の友人Oから、岩手県の金田一温泉というところに座敷わらしが現れるという旅館があるから、一度泊まりに行かないかと誘われた。
座敷わらしはその家の守り神であり、幸福と繁栄をもたらすと言われている。ただし、その家から離れてしまうと、一気に没落してしまうともいわれ、或る意味怖い存在だ。
今ならネットがあるから簡単に調べることが出来るが、当時はそんなものはない。友人と苦労して情報を集め、さらに詳しく調べてみると、緑風荘という旅館がそうだと分かった。そして座敷わらしが現れるのは「槐(えんじゅ)の間」という部屋にどうやら限定されているらしいことも。
そこで早速緑風荘に電話をかけて、不躾にも「座敷わらしが出る部屋に泊めて欲しい」と申し出たら、構いませんよとのこと。今にして思えば、まだブームが来る遥か以前のことだから、簡単に予約することが出来たのだろう。
私と友人のOは、まるで化物退治にでも向かうような意気込みで出かけたのである。
当時はJRではなく、国鉄の時代だ。まだ東北新幹線も無かった頃で、鈍行列車を乗り継ぎながらようやく金田一駅に着いたころには、日が傾きかけていた。
国道4号線を徒歩で北へ向かい、途中から温泉へ続く道に入って行く。駅から歩くこと30分あまりでついに温泉街へと到着した。
数件の温泉宿があったが、目指す緑風荘はすぐに見つかった。
正面玄関の前には、国語辞書でお馴染みの金田一京助博士の碑が建っている。
ここ金田一は、金田一先生の祖先の土地でもあるのだ。
かなり広い敷地には2階建ての宿泊棟もあるが、我々が通されたのは平屋部分の最奥部にある「槐の間」だ。先導する仲居さんが障子を開けると、本当に何の変哲もない普通の和室がそこにあった。あまりに普通過ぎて、私とOは拍子抜けしてしまった。いかにも妖怪が出そうな、陰気でオドロオドロしい部屋を期待していたからだ。尤も、そんな妖怪が幸福の神様である筈はないのだが。
後年、テレビ番組などでこの部屋が紹介されているのを見ると、床の間には人形だとかオモチャがびっしりと隙間なく供えられているが、我々が宿泊した時にはそのようなお供え物は一切なかった。この頃はそれだけ認知度が低かったのである。
部屋での夕食が終り、他に何もすることがないOと私は、つまらないテレビ番組をぼおっと眺めていた。すると「ごめんください」と女性の声がする。
障子を開けて顔を出したのは、我々をこの部屋へ案内してくれた仲居さんだった。どうしたのだろうと思ったら
「主人がお会いしたいと言っていますが、よろしいですか」と思いも寄らぬご招待を受けた。
断る理由など何もない我々は、仲居さんのあとに続いて、暗くて長い廊下をどこまでも歩いて行った。
やがて灯りの点いた障子の前で仲居さんは立ち止まると、我々に「こちらです」と言って廊下に跪き、障子を開けた・
そこには大きな炬燵に入り、ニコニコとほほ笑むとても温厚そうな老人が我々を待っていた。
頭はすっかり禿げ上がっていたが、眉毛は太く鼻も大きい。七福神にこんな神様がいたなあと思いながら、我々は挨拶をした。
その老人は五日市栄一さんといい、この時のご当主であった。この人こそ、初めて座敷わらしに遭遇し、その後も数々の体験とそれにまつわる不可思議な出来事に見舞われた人物だった。
我々は五日市さんと同じ炬燵に入りながら、とても沢山の話を聞かせて頂いた。
毎晩現れた狐狸妖怪
五日市さんの若かりし頃、村の若者たちがこの家に集って酒盛りをしていた。その部屋が例の槐の間である。
皆が帰った後、すっかり酒に酔った五日市さんは、散らかった部屋に一人で横になっていた。すると急に身体が動かなくなったという。酔ってはいたけれども意識ははっきりしているので、これはどうしたことだろうと思っていると、縁側からひとりの童子が現れた。歳の頃なら四五歳くらいだろうか。このあたりでは見たことのない子供だ。着物を着てちゃんちゃんこを羽織っている。
その見たことのない童子は、五日市さんの寝ている周りを二三度回ると、再び縁側の方へと歩いて行った。そして姿が見えなくなると、五日市さんの身体に自由が戻って来たという。
「私はこの時、狐狸妖怪の仕業だと思いました」
五日市さんは狐や狸が悪さをしにやって来たと思ったそうだ。
「もし、今度現れたら退治してやろうと思い、次の日の晩から猟銃を持って待ち構えていたのです」
そしてそれは現れたという。だが、身体は金縛りに遭い、引き金にかけた指はぴくりとも動かず、縁側からすたすたと入って来た童子は、部屋の中を二三度回ると外へ出て行ってしまった。
「一週間、同じ部屋で待ち構えたけれど、そのたびに身体は動かなくなるし、結局退治どころではなかった」
五日市さんはそう言って笑った。
不合格になった入隊検査
戦争が始まって五日市さんにも召集令状が届いた。五日市さんだけではなく、この村からも何人かの若者が出征することになったそうだ。
五日市さんたちは大勢の村人に見送られて、村を後にしたそうだ。そして入隊検査が行われた。所謂、健康診断である。身体には自信があったので当然合格するものと思っていた。実際、どこにも異常はなく、最後に軍医が合格の判を押すだけだったのだが、ここで信じられないことが起きた。
軍医が誤って、不合格の欄に判を押してしまったのである。それを見て驚いたのは五日市さんである。これは何かの間違い、どうか合格にしてくださいと軍医に懇願したそうだ。不合格とあっては恥ずかしくて村に帰ることが出来ないと、それこそ泣きついたのだそうだ。
しかし、軍医からついに合格の言葉を聞くことは出来ず、最後には「天皇陛下の命令に背くつもりか」と一喝されてしまった。
こうして五日市さんは、ひとり泣く泣く村に帰って来たのである。だが、その時に合格となった若者たちは、大陸へ渡る輸送船が撃沈されて全員戦死してしまったのだった。
それを知った時、五日市さんは初めて自分が何者かに守られていることを感じたそうだ。
騒ぐお客
五日市さんが体験した話はそれだけではない。或る詐欺師に騙されて、旅館の改築費用として蓄えた大金を騙し取られてしまった。これはもう首を括るしかないと諦めたところ、郵便受けに包みが入っていたそうだ。開けてみるとそこには騙し取られたお金がそのまま入っていた。
この話はもしかしたら現金ではなく、小切手だったかもしれない。なにしろ遠い昔の話なので私もうる覚えのところがある。しかし、次の話は今でもよく覚えている。
この旅館に座敷わらしが出るという話が、割と知られるようになってからのこと。或る日旅館に小包が届いたので中を開けてみると、絣の着物、それも子供の着物が入っていたそうだ。一緒に手紙も添えられてあり、この着物を是非座敷わらしに着せて欲しいと書かれてあった。
(着せて欲しいといわれても)
五日市さんは困ってしまった。そこで庭にある祠に収めることにしたのだった。
そんな或る日、東京からやって来たという男性が例の槐の間に泊まった。すると翌朝のこと、その男性が仲居さんをつかまえて騒いでいる。
それを見た五日市さんは「どうしましたか」と尋ねると、「夜中に小さな子供が現れた」ということだった。そこで五日市さんは「どんな格好をしていましたか」と再度尋ねると、「絣の着物を着ていたような気がする」と答えたそうだ。
それを聞いて五日市さんは思わず笑顔になったそうな...
この時、他にも沢山の話を聞かせて貰ったのだが、ほとんど忘れてしまったのが何とも残念である。
「今夜見れるといいですね」
五日市さんはそう言ってくれた。
部屋に戻ると床が敷かれてあり、私とOは昼の疲れもあってすぐに眠りに落ちた。
何時頃だろう。私はふと目が覚めた。障子には風に揺れる樹木の陰が月明かりに照らし出されている。
(結局何も起こらないまま朝になるのかな)
私は暗い天井を見上げながらそう思った。と、その時である。
風の音に混じって、ミシッという音が聞こえた。木の軋む音のようだ。
すると再びミシッと音が聞こえた。どこからだろう。蒲団の中で耳を澄ませる。
だが、その後いくら待っても音は聞こえない。風の悪戯だったのかなとそう思った時だった。
パシッ!という大きな音が部屋に響いた。その大きな音に一瞬身構えたが、それ以上の異変は起こらない。
隣りに寝ているOはまったく気がつかない様子で眠りこけている。そして私もいつしか眠り込んでしまったのだった。
翌朝、朝食会場のある広間に向かって廊下を歩いていると、五日市さんが立っていた。もしかしたら我々のことを待っていたのかもしれない。そう思ったら、五日市さんの方から昨夜と同じにこやかな顔で話しかけてきた。
「ゆうべはどうでしたか」
つまり座敷わらしを見たかということだ。そこで私は
「残念ながら姿は見ることは出来ませんでした」と答えた。すると
「何か音は聞こえませんでしたか」と言うので
「木の枝が折れるような音がしました」と答えた。
「音がきこえましたがぁ。それは良かったですなあ」と五日市さん。
なんでも音や気配を感じるだけでもご利益があるのだとか。
ちなみにこの緑風荘に宿泊して成功を収めた有名人には次の人たちがいる。
原敬(第19代内閣総理大臣)
米内光政(第37代内閣総理大臣)
福田赳夫(第67代内閣総理大臣)
本田宗一郎(本田技研工業創業者)
松下幸之助(パナソニック創業者)
稲森和夫(京セラ)
三浦哲郎(作家、ユタと不思議な仲間たちの作者)
遠藤周作(作家、座敷わらしに遭遇した話を作品化)
水木しげる(漫画家、槐の間で座敷わらしに遭遇)
つのだじろう(漫画家、座敷わらしの絵を奉納。その絵の眼球が動いた)
水戸泉(元大相撲力士、槐の間に宿泊後の平成4年7月場所優勝)
ゆず(音楽グループ、メジャーデビューを果たす)
2009年(平成21年)、この緑風荘は火災により焼失してしまった。この報を聞き、私は愕然としたのだが、2016年より新しく建て直されて営業が行われている。
火事が起こった時、子供がひとりで消火活動をしていたという目撃談があるそうだ。しかも一人の怪我人も出なかったとか。
座敷わらしちゃんは頑張っているようだ。私も頑張らねば。
ハンコ屋さんの未来予言サービス
2019年2月21日 不思議草子 コメント (10)私が使っている印鑑は、二十歳の時に親父が作ってくれたものだ。認印と実印のふたつだが、認印は柘植材で実印は象牙である。ワシントン条約締結国である日本は、現在国内にある象牙を使い切ってしまったら国外から輸入することは出来なくなるので、いずれこの象牙の実印は貴重なものになるだろう。
ところで、この印鑑を作ったハンコ屋さん。実は親父の知り合いだった。どのようなことで知り合ったのかは分からないが、その関係でおふくろもこのハンコ屋さんに印鑑を作ってもらったようだ。
今はもう廃業されてしまったようだが、「大越」という名前であったと記憶している。
一見、普通のハンコ屋さんのようだが、ここでハンコを作ると、或る特典があった。それはこの大越さん、特殊能力の持ち主、未来が見えると言う予言者でもあったのだ。
あの頃、親父が「よく当たるんだ」と言っていたのは、この大越さんのことだった。
占いの類をほとんど信じない親父がそう言うくらいだから、余程当たるのだろう、当時私はそう思ったものだ。
さて、親父が印鑑を作ってくれた特典として、私も未来を占ってもらえることになった。
大越さんに会うと、本当に普通のおじさんである。背広を着ているので会社員のようだった。とても占い師のようには見えない。
なにせ遠い昔の話だから、この時どのようなことを言われたのかすべてを思い出すことは出来ないが、それでも記憶に残っていることが幾つかある。
まず、健康面で気管支系が弱いから気をつけること。結婚は26歳の時。子供は3人出来る。この3つだけは覚えていたが、結果はまったくその通りとなった。
社会人になってから、私は慢性気管支炎で悩まされることになったし、確かに26歳で結婚もした。そして今、3人の子供の父親になっている。
と、こう書くと、なんだ、それならよくある占いの話ではないかと言われてしまいそうだが、本当の凄さはここからなのである。
この時、私はまだ妻とは知り合っていなかった。その妻が仕事による体調不良で会社を辞め、アルバイト生活をしている時に、偶然この大越さんというハンコ屋さんを知ることになった。
アルバイト仲間がこのハンコ屋さんを知っていたのである。仕事がきつくて体調を壊してばかりいた妻は、開運と健康快復を願って印鑑を作ることにしたのだが、その際に大越さんから未来を占ってもらったのである。
するとこう言われたそうだ。
まもなく結婚する相手と出会うことだろう。将来、子供は3人出来る。それは全員が男の子である。結婚相手は年下である云々。
そして最後に一言こう告げられたという。その人の名前には「ひ」という文字が付く筈だと。
信じる信じないは、あなた次第です。
ところで、この印鑑を作ったハンコ屋さん。実は親父の知り合いだった。どのようなことで知り合ったのかは分からないが、その関係でおふくろもこのハンコ屋さんに印鑑を作ってもらったようだ。
今はもう廃業されてしまったようだが、「大越」という名前であったと記憶している。
一見、普通のハンコ屋さんのようだが、ここでハンコを作ると、或る特典があった。それはこの大越さん、特殊能力の持ち主、未来が見えると言う予言者でもあったのだ。
あの頃、親父が「よく当たるんだ」と言っていたのは、この大越さんのことだった。
占いの類をほとんど信じない親父がそう言うくらいだから、余程当たるのだろう、当時私はそう思ったものだ。
さて、親父が印鑑を作ってくれた特典として、私も未来を占ってもらえることになった。
大越さんに会うと、本当に普通のおじさんである。背広を着ているので会社員のようだった。とても占い師のようには見えない。
なにせ遠い昔の話だから、この時どのようなことを言われたのかすべてを思い出すことは出来ないが、それでも記憶に残っていることが幾つかある。
まず、健康面で気管支系が弱いから気をつけること。結婚は26歳の時。子供は3人出来る。この3つだけは覚えていたが、結果はまったくその通りとなった。
社会人になってから、私は慢性気管支炎で悩まされることになったし、確かに26歳で結婚もした。そして今、3人の子供の父親になっている。
と、こう書くと、なんだ、それならよくある占いの話ではないかと言われてしまいそうだが、本当の凄さはここからなのである。
この時、私はまだ妻とは知り合っていなかった。その妻が仕事による体調不良で会社を辞め、アルバイト生活をしている時に、偶然この大越さんというハンコ屋さんを知ることになった。
アルバイト仲間がこのハンコ屋さんを知っていたのである。仕事がきつくて体調を壊してばかりいた妻は、開運と健康快復を願って印鑑を作ることにしたのだが、その際に大越さんから未来を占ってもらったのである。
するとこう言われたそうだ。
まもなく結婚する相手と出会うことだろう。将来、子供は3人出来る。それは全員が男の子である。結婚相手は年下である云々。
そして最後に一言こう告げられたという。その人の名前には「ひ」という文字が付く筈だと。
信じる信じないは、あなた次第です。
2019年一回目の「不思議草子」。
話は1月3日まで遡る。
私は今年が後厄なので、厄払いのために某神社へ参拝した。仙台ではとても有名な神社である。
基本的に神社への参拝は午前中に行うのが正しいといわれるが、私もそれに倣って午前8時に神社を訪れた。
しかし祈祷開始が午前10時からと知り、2時間ほど時間を潰さなくてはならなくなった。事前チェックが甘かったと悔やむ。
妻も一緒だったので、広い境内を歩いてみたり、長い石段を上り下りして疲れてみたり、或いは出店をひやかしたりと、少しでも時間を潰そうと試みたのだが、それでも30分も潰せない。
結局、寒いからと社務所の中にある待合室へ戻り、ひたすら時が過ぎるのを待った。
ようやく名前が呼ばれたのは10時過ぎ。神官に導かれて昇殿した時には、すっかり身体が冷え切っていた。
この時、私と一緒に本殿へ入ったのはおよそ百名ほどだった。私は最初の方だったので、本殿の最前部、しかもほぼ中央の場所へ座らせられた。
顔をあげると、依代である大鏡が数メートル先に安置されている。少し身体を斜めにすれば、私の姿が映ったかもしれない。そのくらい本殿の中央部に私は座った訳だが、このあと私に生じた奇妙な現象は、もしかしたらそのせいであったのかもしれないと今になって思っている。
神主のお祓いが始まると、私やその他の人たちも頭を下げた。
その頭上に大麻(おおぬさ)が振られ、そして一人づつの名前と願事が唱えられる。それをじっと目を瞑って聞いている。
私と同じように厄払いで訪れた人、一年の家内安全を願う人、志望校への合格を願う人。そして病気平癒を願う人。
みんな願うことは同じなのだなあと、私は耳を澄ませていた。
と、その時である。
閉じていた目の中が、暗黒から薄墨色に変化してきた。そして、その中央部が隆起するような気配を見せ、それがふいに赤子の顔へと変わった。
口を大きく開けて真っ赤な舌が見える。声こそ聞こえないが、泣いている赤ん坊の顔だ。するとさらにその下から、泡が次々に湧き上がるように沢山の顔が現れてきた。先程の赤ん坊の顔は既に消えている。
泡はどれも大人の顔のようであったが、竃で焼く前の、釉薬を塗った陶器みたいにぬらりとしていた。
その間も神主のお祓いの声は続いている。
私に起こった奇怪なその現象もさらに続いた。
大きい顔、小さい顔が、現れては消え、消えてはまた現れる。
もしやこれは、我が身に憑りついていた厄だったのでは。ふと、そんなことが脳裏を掠めた。
しかし、その数があまりにも多過ぎる。流石に私ひとりの厄ではないのではないかと思うようになった。
そしてそれを裏付けるかのように、神主のお祓いが終ると共にすべての顔は消え、私の目の中は再び闇と化した。
この後、大鏡の前で玉串を捧げ、厄除けの儀式はすべて終了した。
帰りの車の中で、今あったことを妻に話すと
「あそこに詣でた人たちの厄が離れたんじゃないの」と言われた。
神様の正面に座っていたから、祓われていくところが見えたのではと妻は言った。
「でも、祓うって、ホコリを祓うのと同じ意味でしょ?だったらまた着くわよねぇ」
だからこそ、毎年お祓いをする訳だろうが、先程現れた無数の顔は、あの参殿に集まった人たちに憑りついていた厄だったのだろうか。
今年も最初から凄いものを見てしまったものだ。
このあと妻と二人で冷え切った身体を温めるべく、ラーメン屋を探してクルマを走らせたのだった。
話は1月3日まで遡る。
私は今年が後厄なので、厄払いのために某神社へ参拝した。仙台ではとても有名な神社である。
基本的に神社への参拝は午前中に行うのが正しいといわれるが、私もそれに倣って午前8時に神社を訪れた。
しかし祈祷開始が午前10時からと知り、2時間ほど時間を潰さなくてはならなくなった。事前チェックが甘かったと悔やむ。
妻も一緒だったので、広い境内を歩いてみたり、長い石段を上り下りして疲れてみたり、或いは出店をひやかしたりと、少しでも時間を潰そうと試みたのだが、それでも30分も潰せない。
結局、寒いからと社務所の中にある待合室へ戻り、ひたすら時が過ぎるのを待った。
ようやく名前が呼ばれたのは10時過ぎ。神官に導かれて昇殿した時には、すっかり身体が冷え切っていた。
この時、私と一緒に本殿へ入ったのはおよそ百名ほどだった。私は最初の方だったので、本殿の最前部、しかもほぼ中央の場所へ座らせられた。
顔をあげると、依代である大鏡が数メートル先に安置されている。少し身体を斜めにすれば、私の姿が映ったかもしれない。そのくらい本殿の中央部に私は座った訳だが、このあと私に生じた奇妙な現象は、もしかしたらそのせいであったのかもしれないと今になって思っている。
神主のお祓いが始まると、私やその他の人たちも頭を下げた。
その頭上に大麻(おおぬさ)が振られ、そして一人づつの名前と願事が唱えられる。それをじっと目を瞑って聞いている。
私と同じように厄払いで訪れた人、一年の家内安全を願う人、志望校への合格を願う人。そして病気平癒を願う人。
みんな願うことは同じなのだなあと、私は耳を澄ませていた。
と、その時である。
閉じていた目の中が、暗黒から薄墨色に変化してきた。そして、その中央部が隆起するような気配を見せ、それがふいに赤子の顔へと変わった。
口を大きく開けて真っ赤な舌が見える。声こそ聞こえないが、泣いている赤ん坊の顔だ。するとさらにその下から、泡が次々に湧き上がるように沢山の顔が現れてきた。先程の赤ん坊の顔は既に消えている。
泡はどれも大人の顔のようであったが、竃で焼く前の、釉薬を塗った陶器みたいにぬらりとしていた。
その間も神主のお祓いの声は続いている。
私に起こった奇怪なその現象もさらに続いた。
大きい顔、小さい顔が、現れては消え、消えてはまた現れる。
もしやこれは、我が身に憑りついていた厄だったのでは。ふと、そんなことが脳裏を掠めた。
しかし、その数があまりにも多過ぎる。流石に私ひとりの厄ではないのではないかと思うようになった。
そしてそれを裏付けるかのように、神主のお祓いが終ると共にすべての顔は消え、私の目の中は再び闇と化した。
この後、大鏡の前で玉串を捧げ、厄除けの儀式はすべて終了した。
帰りの車の中で、今あったことを妻に話すと
「あそこに詣でた人たちの厄が離れたんじゃないの」と言われた。
神様の正面に座っていたから、祓われていくところが見えたのではと妻は言った。
「でも、祓うって、ホコリを祓うのと同じ意味でしょ?だったらまた着くわよねぇ」
だからこそ、毎年お祓いをする訳だろうが、先程現れた無数の顔は、あの参殿に集まった人たちに憑りついていた厄だったのだろうか。
今年も最初から凄いものを見てしまったものだ。
このあと妻と二人で冷え切った身体を温めるべく、ラーメン屋を探してクルマを走らせたのだった。
Who is she?
2018年12月20日 不思議草子 コメント (8)彼女を初めて見かけたのは、今年の初夏の頃だったろうか。
毎朝の通勤電車から降りて改札口を通り抜け、地下通路を歩いていると、必ず彼女が私の前を歩いている。前と言っても10~20m先を歩いているのだが、それが毎日のことなので、もしかしたら同じ電車に乗っているのかもしれなかった。
彼女の年齢は20代後半か30代の前半くらい。身長は私よりもやや低い160cmくらいだろう。髪の毛は肩よりも長いのだが、ひとつに束ねて前の方に流している。全体にスラリとした体形で、パンプスを履いて颯爽と歩くその姿は、ファッションモデルのような雰囲気を醸し出している。
そのため大勢の通勤客の中でも、何となく目立ってしまう存在であった。
私も改札口を出ると、無意識のうちに彼女を探していることに気がつく。そして人ごみの中に彼女の姿を見つけると、それを追うように歩いている自分。
もし、職場が同じ方角でなければ、ストーカー行為に思われてしまいそうだ。
やがて地下通路から地上へ出て歩道を歩く。当然彼女も私の前を歩いている。そしてしばらく歩くと、某クリニックの通用口に彼女は入っていくのだった。
おそらくそのクリニックの看護士か医療事務の人なのかもしれない。
私の職場は、そこからさらに数分ほど行った場所にある。通り過ぎざまに通用口を見ると、既に彼女の姿はなかった。
毎日、毎朝、その繰り返しだった。
だが私は、ある時期から違和感を覚えるようになった。もちろん彼女に対してである。そしてその違和感の原因はすぐに分かった。
それは彼女の服装である。
彼女を見かけるようになってから3~4ケ月は経っていた。ところが彼女は初めて私が見かけた時とまったく同じ服装のままなのである。
ファッションには疎いので、着ている服をうまく言い表すことが出来ないが、上着からスカート、そしてストッキングにパンプスまで、いつも同じ物、同じ色(黒)なのだ。大体、あの猛暑の夏でさえ、初夏の頃と変わらぬ恰好をしているのである。さすがにそれはあり得ないだろう。
もしかして経済的にかなり苦しくて、同じ服しか着ることが出来ないというのならまだ分かる。しかし、とてもそのようには思えない。いつも腕から下げているハンドバックは、素人目にも高級そうな物に見える。
私は夕食の洗い物を始めた妻にそのことを話した。
妻は洗い物をしながら黙ってその話を聞いていた。聞き終わってひとこと
「ありえない」と言い放った。
妻に言わせれば、若い女性がいくらなんでも何か月間も同じ恰好のままでいる訳がないという。
そして妻の口から出た言葉は、私の予期せぬものだった。
「その人、生身の人間?」
私は言葉を失った。そんなこと考えてもみなかったからだ。
要するに妻は、この世の人ではないかもしれないと言いたいらしい。
困惑する私を尻目に、妻はいくつかの質問を投げかけて来た。
(会社帰りに会ったことはある?)
(顔はどんな顔をしていたの?)
(電車に乗っていたのを見たことがある?)
答えはいずれも「NO」だ。
だが、私も反論する。
もし仮にそうだとしても、同じ現象が何ケ月も続くものか。それにクリニックへちゃんと入って行くのを見ている。
しかし、妻の次の言葉に私は自信を失くした。
「高校生の頃、亡くなった同級生と、一緒に歩いて帰宅したことがあったんでしょ」
それはこのブログでも過去に紹介した話である。今回の件もその類なのだろうか。
妻から指摘を受けた翌朝。私はいつものように同じ時間、同じ電車に乗って出かけた。
改札口を通り抜け、地下通路をいつものように歩く。そして前方に彼女の姿を探した。だが、大勢の人の中に颯爽と歩く彼女の姿を見つけることは出来なかった。それは今朝も同じである。
毎朝の通勤電車から降りて改札口を通り抜け、地下通路を歩いていると、必ず彼女が私の前を歩いている。前と言っても10~20m先を歩いているのだが、それが毎日のことなので、もしかしたら同じ電車に乗っているのかもしれなかった。
彼女の年齢は20代後半か30代の前半くらい。身長は私よりもやや低い160cmくらいだろう。髪の毛は肩よりも長いのだが、ひとつに束ねて前の方に流している。全体にスラリとした体形で、パンプスを履いて颯爽と歩くその姿は、ファッションモデルのような雰囲気を醸し出している。
そのため大勢の通勤客の中でも、何となく目立ってしまう存在であった。
私も改札口を出ると、無意識のうちに彼女を探していることに気がつく。そして人ごみの中に彼女の姿を見つけると、それを追うように歩いている自分。
もし、職場が同じ方角でなければ、ストーカー行為に思われてしまいそうだ。
やがて地下通路から地上へ出て歩道を歩く。当然彼女も私の前を歩いている。そしてしばらく歩くと、某クリニックの通用口に彼女は入っていくのだった。
おそらくそのクリニックの看護士か医療事務の人なのかもしれない。
私の職場は、そこからさらに数分ほど行った場所にある。通り過ぎざまに通用口を見ると、既に彼女の姿はなかった。
毎日、毎朝、その繰り返しだった。
だが私は、ある時期から違和感を覚えるようになった。もちろん彼女に対してである。そしてその違和感の原因はすぐに分かった。
それは彼女の服装である。
彼女を見かけるようになってから3~4ケ月は経っていた。ところが彼女は初めて私が見かけた時とまったく同じ服装のままなのである。
ファッションには疎いので、着ている服をうまく言い表すことが出来ないが、上着からスカート、そしてストッキングにパンプスまで、いつも同じ物、同じ色(黒)なのだ。大体、あの猛暑の夏でさえ、初夏の頃と変わらぬ恰好をしているのである。さすがにそれはあり得ないだろう。
もしかして経済的にかなり苦しくて、同じ服しか着ることが出来ないというのならまだ分かる。しかし、とてもそのようには思えない。いつも腕から下げているハンドバックは、素人目にも高級そうな物に見える。
私は夕食の洗い物を始めた妻にそのことを話した。
妻は洗い物をしながら黙ってその話を聞いていた。聞き終わってひとこと
「ありえない」と言い放った。
妻に言わせれば、若い女性がいくらなんでも何か月間も同じ恰好のままでいる訳がないという。
そして妻の口から出た言葉は、私の予期せぬものだった。
「その人、生身の人間?」
私は言葉を失った。そんなこと考えてもみなかったからだ。
要するに妻は、この世の人ではないかもしれないと言いたいらしい。
困惑する私を尻目に、妻はいくつかの質問を投げかけて来た。
(会社帰りに会ったことはある?)
(顔はどんな顔をしていたの?)
(電車に乗っていたのを見たことがある?)
答えはいずれも「NO」だ。
だが、私も反論する。
もし仮にそうだとしても、同じ現象が何ケ月も続くものか。それにクリニックへちゃんと入って行くのを見ている。
しかし、妻の次の言葉に私は自信を失くした。
「高校生の頃、亡くなった同級生と、一緒に歩いて帰宅したことがあったんでしょ」
それはこのブログでも過去に紹介した話である。今回の件もその類なのだろうか。
妻から指摘を受けた翌朝。私はいつものように同じ時間、同じ電車に乗って出かけた。
改札口を通り抜け、地下通路をいつものように歩く。そして前方に彼女の姿を探した。だが、大勢の人の中に颯爽と歩く彼女の姿を見つけることは出来なかった。それは今朝も同じである。
昨日の話。
まもなく午後の7時になろうという頃、仕事場には私ひとりが残って溜まった伝票の整理をしていた。
トントン
部屋のドアをノックする音が響く。こんな時間に誰だろう。一瞬、返事をするのを躊躇った。するとまた
トントン
再びドアをノックする音が響く。その音には重さが無く、部屋の中に誰かいませんかと窺っているような感じでもある。
時々、こんな時間にセールスが訪れることもあるので、おそらくこれもそうなのだろうと思い
「どうぞ」と返事をした。今度は何を売りつけに来たのだろう。返事をしながら私は自分の席へと戻った。ちょうどドアの正面が見える位置に私の席はある。
トントン
なんだ、聞こえないのか。またノックする音の主に、ややイラッとしながら、
「開いてますよ、どうぞ」と少し大きめの声で返事をした。
すると、ちょっと間をおいてから、ドアノブがカチャッと回る音がした。そして少しだけドアが開いた。
営業マンにしては何だか消極的な感じだなと思ったその時、さらにもう少しドアが開くと、おそらく若い女性だろう。ドアの陰から斜めにこちらを覗き込む顔が現れた。ところが何も言葉を発しないまま、ドアがスッと閉じられたのである。
「はい?」
私は声をかけた。しかし、反応がない。不審に思ってドアのところまで小走りに駆けよると、「どうぞ」と言いながらドアを開けた。しかし、そこには誰もいない。左右に伸びる廊下に人の気配はまったく無かった。
私がドアに駆け寄るまでに要した時間は10秒ほどだ。隣室のドアまでは普通に歩くと10秒ほどかかるが、そこへ入るにしてもドアを閉める音が聞こえる筈だ。
私はドアを閉めながら、あの女性の顔を思い出そうとした。
若い女性、おそらく20代前半くらいだろうか。ドアから斜めに顔を出したので、服装は見えなかったが、髪の毛はショートっぽかった気がした。髪の色は黒のように見えたが、この時間、廊下の灯りが減光されているので確かとは言えない。
では、目鼻立ちはどうだったか。
ところが不思議なことにはっきりとしない。勿論、目も鼻も眉毛もあったが、何故か印象が薄いのだ。
例えそれが一瞬のこととはいえ、人にはファーストインプレッションというものがある。なにかしら記憶に残るものなのだが、いくら思い出そうとしても思い浮かばない。
ふいに背筋に悪寒が走った。
風邪のせいかもしれない。いや、そうじゃないかも。
私はそそくさと帰り支度を始めると、部屋の灯りを落としてドアのノブに手をかけようとした。と、その時、
トントン
今度は隣りの部屋のドアを叩く音が聞こえてきた。
私は闇の中で、廊下に出るべきかどうか躊躇った。
まもなく午後の7時になろうという頃、仕事場には私ひとりが残って溜まった伝票の整理をしていた。
トントン
部屋のドアをノックする音が響く。こんな時間に誰だろう。一瞬、返事をするのを躊躇った。するとまた
トントン
再びドアをノックする音が響く。その音には重さが無く、部屋の中に誰かいませんかと窺っているような感じでもある。
時々、こんな時間にセールスが訪れることもあるので、おそらくこれもそうなのだろうと思い
「どうぞ」と返事をした。今度は何を売りつけに来たのだろう。返事をしながら私は自分の席へと戻った。ちょうどドアの正面が見える位置に私の席はある。
トントン
なんだ、聞こえないのか。またノックする音の主に、ややイラッとしながら、
「開いてますよ、どうぞ」と少し大きめの声で返事をした。
すると、ちょっと間をおいてから、ドアノブがカチャッと回る音がした。そして少しだけドアが開いた。
営業マンにしては何だか消極的な感じだなと思ったその時、さらにもう少しドアが開くと、おそらく若い女性だろう。ドアの陰から斜めにこちらを覗き込む顔が現れた。ところが何も言葉を発しないまま、ドアがスッと閉じられたのである。
「はい?」
私は声をかけた。しかし、反応がない。不審に思ってドアのところまで小走りに駆けよると、「どうぞ」と言いながらドアを開けた。しかし、そこには誰もいない。左右に伸びる廊下に人の気配はまったく無かった。
私がドアに駆け寄るまでに要した時間は10秒ほどだ。隣室のドアまでは普通に歩くと10秒ほどかかるが、そこへ入るにしてもドアを閉める音が聞こえる筈だ。
私はドアを閉めながら、あの女性の顔を思い出そうとした。
若い女性、おそらく20代前半くらいだろうか。ドアから斜めに顔を出したので、服装は見えなかったが、髪の毛はショートっぽかった気がした。髪の色は黒のように見えたが、この時間、廊下の灯りが減光されているので確かとは言えない。
では、目鼻立ちはどうだったか。
ところが不思議なことにはっきりとしない。勿論、目も鼻も眉毛もあったが、何故か印象が薄いのだ。
例えそれが一瞬のこととはいえ、人にはファーストインプレッションというものがある。なにかしら記憶に残るものなのだが、いくら思い出そうとしても思い浮かばない。
ふいに背筋に悪寒が走った。
風邪のせいかもしれない。いや、そうじゃないかも。
私はそそくさと帰り支度を始めると、部屋の灯りを落としてドアのノブに手をかけようとした。と、その時、
トントン
今度は隣りの部屋のドアを叩く音が聞こえてきた。
私は闇の中で、廊下に出るべきかどうか躊躇った。
大地震を予知した男の不思議 椋平虹の謎
2018年9月14日 不思議草子 コメント (8)
今回の北海道大地震もそうだが、巨大地震を事前に察知出来ないものだろうかといつも思う。もしそれが可能となれば、被害を大幅に減らせるだろうことは誰の目にも明らかだ。しかし研究を進めれば進めるほど、それが極めて難しいということが逆に分かってくるという。
だいたい、あと30年の間に○○パーセントの確率で大地震が発生するなどと言われてもピンとこないし、そんなのは予知でも何でもない。
結局、常に高い防災意識を持続して、いつ大地震が発生しても良いように身構えているしかないという、ほぼ常人には不可能な結論に辿り着くのである。
現に北海道大地震はいまだに大きな余震が続いているし、南海トラフでは最近気になる兆候が現れているという。もうあまり時間が無いような気がしてならないのである。
ところで「椋平虹(むくひらにじ)」という言葉をご存知だろうか。
椋平廣吉というひとりの若い地震研究家が、京都は天橋立、宮津湾に架かる虹から地震を予知することが出来ると言うのである。
この椋平青年から京都帝国大学の石野友吉博士に一本の電報が届いた。
「アス アサ イヅ 四ジ ジシンアル ムクヒラ」
それは昭和5年11月26日午前8時のことだった。
この電報が発信されたのは、京都天橋立局。発信日時は11月25日午後0時25分となっている。着信されたのは同0時50分であった。つまりこの電報は前日に発信されていたのだが、果たして椋平の予知通りに翌26日午前4時3分、北伊豆を中心とするマグニチュード7.3、最大震度6という大地震が発生した(していた)のである。
この地震による死者及び行方不明者は272名、負傷者572名、全壊半壊を併せると7000戸近い家屋が被害を受けた。いわゆるこれが北伊豆地震であったのだが、電報を受け取った石野博士はその内容が合致していることに驚愕したのだった。
椋平はその後も宮津湾に架かる虹を独自の理論と方法により観測し、得られた結果を研究者等に郵送したのである。そしてそのほとんどが予知通りになったという。その的中率はおよそ9割と極めて高いものだった。
この椋平の研究に対して、アインシュタインやエジソンまでもが賛辞を送っている。
だがしかし、話はこれで終わらなかった。どうやらこれがインチキ、トリックではないのかと疑われ始めたからである。
まず、予言は必ず葉書で送られてきたこと。それも地震発生の後ばかりだった。京大の地震学者であった三木晴男は「椋平虹を観測したら、その時点で電話をするよう」説得したものの、椋平は最後までそれを拒んだことも疑念を深める結果となった。
ただ、いくら疑念が深まっても葉書の消印が前日であることには間違いなく、地震予知はされていたというアリバイの根拠となっていたのだが、そのトリックを一人の新聞記者が見抜いたのである。
その名は横山裕道。のちに毎日新聞の論説委員を務めた人物である。
彼は椋平が出した葉書を詳細に調べ上げたところ、宛先が一度消されていることに気がついたのである。つまり、椋平は自分宛てに鉛筆で書いた葉書を出して、それが戻ってくると宛名を消し、大きな地震の発生を知るたびに、研究者の宛名と予知を書いて、おそらくその本人の郵便受けなどに自ら投函していたものと思われる。
こうして椋平廣吉は地震学の世界から追放されたのである。
だが、ひとつ思い出して頂きたい。
北伊豆地震の際に、石野博士に知らせた媒体は何であったのかを。
それは葉書ではなく電報だった。
そして世間から完全に抹殺されてしまった椋平は、その後どうしていたのかと言えば、死ぬまで椋平虹を研究していたというのである。
これをどう受け止めるべきか。
謎はいまだ残ったままである。
だいたい、あと30年の間に○○パーセントの確率で大地震が発生するなどと言われてもピンとこないし、そんなのは予知でも何でもない。
結局、常に高い防災意識を持続して、いつ大地震が発生しても良いように身構えているしかないという、ほぼ常人には不可能な結論に辿り着くのである。
現に北海道大地震はいまだに大きな余震が続いているし、南海トラフでは最近気になる兆候が現れているという。もうあまり時間が無いような気がしてならないのである。
ところで「椋平虹(むくひらにじ)」という言葉をご存知だろうか。
椋平廣吉というひとりの若い地震研究家が、京都は天橋立、宮津湾に架かる虹から地震を予知することが出来ると言うのである。
この椋平青年から京都帝国大学の石野友吉博士に一本の電報が届いた。
「アス アサ イヅ 四ジ ジシンアル ムクヒラ」
それは昭和5年11月26日午前8時のことだった。
この電報が発信されたのは、京都天橋立局。発信日時は11月25日午後0時25分となっている。着信されたのは同0時50分であった。つまりこの電報は前日に発信されていたのだが、果たして椋平の予知通りに翌26日午前4時3分、北伊豆を中心とするマグニチュード7.3、最大震度6という大地震が発生した(していた)のである。
この地震による死者及び行方不明者は272名、負傷者572名、全壊半壊を併せると7000戸近い家屋が被害を受けた。いわゆるこれが北伊豆地震であったのだが、電報を受け取った石野博士はその内容が合致していることに驚愕したのだった。
椋平はその後も宮津湾に架かる虹を独自の理論と方法により観測し、得られた結果を研究者等に郵送したのである。そしてそのほとんどが予知通りになったという。その的中率はおよそ9割と極めて高いものだった。
この椋平の研究に対して、アインシュタインやエジソンまでもが賛辞を送っている。
だがしかし、話はこれで終わらなかった。どうやらこれがインチキ、トリックではないのかと疑われ始めたからである。
まず、予言は必ず葉書で送られてきたこと。それも地震発生の後ばかりだった。京大の地震学者であった三木晴男は「椋平虹を観測したら、その時点で電話をするよう」説得したものの、椋平は最後までそれを拒んだことも疑念を深める結果となった。
ただ、いくら疑念が深まっても葉書の消印が前日であることには間違いなく、地震予知はされていたというアリバイの根拠となっていたのだが、そのトリックを一人の新聞記者が見抜いたのである。
その名は横山裕道。のちに毎日新聞の論説委員を務めた人物である。
彼は椋平が出した葉書を詳細に調べ上げたところ、宛先が一度消されていることに気がついたのである。つまり、椋平は自分宛てに鉛筆で書いた葉書を出して、それが戻ってくると宛名を消し、大きな地震の発生を知るたびに、研究者の宛名と予知を書いて、おそらくその本人の郵便受けなどに自ら投函していたものと思われる。
こうして椋平廣吉は地震学の世界から追放されたのである。
だが、ひとつ思い出して頂きたい。
北伊豆地震の際に、石野博士に知らせた媒体は何であったのかを。
それは葉書ではなく電報だった。
そして世間から完全に抹殺されてしまった椋平は、その後どうしていたのかと言えば、死ぬまで椋平虹を研究していたというのである。
これをどう受け止めるべきか。
謎はいまだ残ったままである。
この季節、激しい雷雨に見舞われることが多い。
どうも昔から雷は苦手で、遠くの方でゴロゴロと音が聞こえ始めただけで身構えてしまう。
2005年5月27日の私のブログに「カミナリにまつわる話」として、中学校時代の同級生O君の体験談を書いたが、世の中には思いも寄らぬ不思議なことがあるものだ。まさに「事実は小説よりも奇なり」である。
詳しくはその時のブログを読んで頂きたいのだけれど、ちょうどその頃、学級担任による家庭訪問が行われている最中だったことから、O君は「雷さまが先に家庭訪問に来た」と言って笑っていた。
しかし本物の先生の家庭訪問が終わったその晩、O君は両親からカミナリを落とされたらしく、そちらのダメージの方が大きかったそうだ。
これは昔、農業を営んでいた義父から聞かされた話だが、田圃に雷が落ちると、その田の稲の生育が良いのだとか。はっきりした原因は分からないようだが、それでも幾つかの説があるらしく、害虫駆除説もそのひとつだ。
雷撃の電気ショックによって害虫が死んでしまうから、その田圃の稲がよく育つということらしい。
ちなみに神社で見られる注連縄には、御幣と呼ばれる紙飾りが下がっているが、雲(注連縄)から雷(御幣)が田圃へ落ちている姿を表したものだとか。
五穀豊穣を祈念したものらしいが、先人たちは雷が田へ落ちると豊作になることを経験則として知っていたのだろう。
そういえば、我が家にも雷様がいらっしゃった。
時々激しく落雷を起こすので、全員その場から避難することがある。
というか、私がいつも避雷針の役目を果たしている。
ただひたすら高圧電流を吸い取っては、夜の巷に放電してくるという切ない作業。家庭の平和と安寧のため、今日も避雷針は頑張っている。
どうも昔から雷は苦手で、遠くの方でゴロゴロと音が聞こえ始めただけで身構えてしまう。
2005年5月27日の私のブログに「カミナリにまつわる話」として、中学校時代の同級生O君の体験談を書いたが、世の中には思いも寄らぬ不思議なことがあるものだ。まさに「事実は小説よりも奇なり」である。
詳しくはその時のブログを読んで頂きたいのだけれど、ちょうどその頃、学級担任による家庭訪問が行われている最中だったことから、O君は「雷さまが先に家庭訪問に来た」と言って笑っていた。
しかし本物の先生の家庭訪問が終わったその晩、O君は両親からカミナリを落とされたらしく、そちらのダメージの方が大きかったそうだ。
これは昔、農業を営んでいた義父から聞かされた話だが、田圃に雷が落ちると、その田の稲の生育が良いのだとか。はっきりした原因は分からないようだが、それでも幾つかの説があるらしく、害虫駆除説もそのひとつだ。
雷撃の電気ショックによって害虫が死んでしまうから、その田圃の稲がよく育つということらしい。
ちなみに神社で見られる注連縄には、御幣と呼ばれる紙飾りが下がっているが、雲(注連縄)から雷(御幣)が田圃へ落ちている姿を表したものだとか。
五穀豊穣を祈念したものらしいが、先人たちは雷が田へ落ちると豊作になることを経験則として知っていたのだろう。
そういえば、我が家にも雷様がいらっしゃった。
時々激しく落雷を起こすので、全員その場から避難することがある。
というか、私がいつも避雷針の役目を果たしている。
ただひたすら高圧電流を吸い取っては、夜の巷に放電してくるという切ない作業。家庭の平和と安寧のため、今日も避雷針は頑張っている。
ちょっとゾクっとする話
2018年8月2日 不思議草子 コメント (10)1日は仙台で37.3℃と観測史上一番の暑さを記録した。寒さには割と平気な私も暑さには滅法弱い。北国育ちのせいもあるのだろうが、汗腺の数が西日本の人達に比べて少ないのではないだろうか。だから熱が身体に籠ってしまうのだろうと勝手に思い込んでいる。
さて、そんな昨日、ちょっとゾクッとする話を仕入れた。お化けや幽霊の類ではないと思うのだが、この話を聞き終わった後、自分の周りの温度が1℃は下がったように感じた。
これはノンフィクション作家の工藤美代子氏とそのご主人である加藤康男氏の話である。加藤康男氏もノンフィクション作家だが、かつて集英社の「すばる」の編集長や恒文社の専務を務められた方だ。
この二人の住まいは高台にあり、近所の家々の屋根が見渡せるのだそうな。屋上のある家も多いらしく、洗濯物を干している奥さん方の姿が目に入る。
或る日、3,4軒先の豪邸の屋上で若い女性が物干し竿にシーツを干し始まった。細身で色白でとても美しい女性。
ご主人の加藤氏は「彼女はあの家に嫁に来たんだよ。それで舅と姑に洗濯をさせられているんだ。それを旦那は見て見ぬふりをしている。可哀相な人なんだよ」と勝手な想像を始めたという。
奥さんの工藤氏は「そんなの分からないじゃない。敷き蒲団のマットまで干しているのは介護の必要な老人がいるからかもしれないけれど、幸福か不幸なんて勝手に決めつけられません」と反論すると、「いや、彼女はこんな筈じゃなかったと思いながら舅や姑の面倒を見ているに違いない。悩みがあるならボクが相談に乗ってやってもいいんだけどなあ」と応える。
「変なおじいさんがうろうろしていたら、ストーカーだと思われるわよ」と工藤氏は呆れた。
それでもご主人は毎日、朝ごはんの時間になると窓の外をきょろきょろ見回して白いブラウスの女性を探したのだとか。
そんなある朝、衝撃的な光景を目にする。件の女性が背中に男の子の赤ちゃんを背負って出てきたのである。
その光景を見てご主人はみるみる不機嫌になった。
「子供がいるから我慢しているんだなあ」
そんなご主人の姿を見て、工藤氏はせせら笑った。
その翌日、若奥さんはやはり子供を背負って洗濯物を干していた。干し終わると、背中の子供をあやすように小走りにちょっと走ってみる。子供のキャッキャッという声が聞こえてくるようだった。
するとそこへ彼女の夫らしき30代の男性が現れた。若夫婦は仲睦まじそうに赤ちゃんの顔を覗き込み微笑んでいる。
「ほら見なさい。あの奥さんには、ちゃんと優しい旦那さんがいるの。あなたが心配しなくてもいいのよ」
「いや、ボクはやっぱり彼女に不幸の影を見るよ。ああやって笑っているのは真の姿じゃない。実に悲哀に満ちた眼差しじゃないか」
ふたりの意見は対立したままだったが、それからしばらくは若奥さんの姿が眺められたという。
しかし、12月に入ると彼女はまったく姿を現さなくなった。それどころか家中の電気が消えたままだ。
「年末だからハワイにでも行ってるんじゃないの」
「いや、違う。何かが彼女の身の上に起こっているんだ。どうしたんだろうなあ」
「なにバカなこと言ってんのよ」
しかし、それから幾日経っても、彼女は屋上に姿を現すことはなかった。
それは2月の或る日、工藤氏は近所に買い物に行った帰りに、自分の家の前で、白いブラウスを着た女性が赤ちゃんを抱いて、向こうから歩いてくるのと鉢合わせになった。
モナリザの絵みたいな微笑みを浮かべて彼女は真っ直ぐにこちらへ歩いて来る。
ああ!この顔は洗濯物を干していた奥さんじゃないか。間違いない。
驚いている工藤氏の横を彼女はすり抜けた。整った顔の周囲がぼんやりと光っている。そして彼女の後姿を見て気がついた。
今は真冬。それなのに彼女も赤ちゃんも夏服のままだった。なんで?どうして?
母子は横道に曲がって行った。それはあの屋上のある家に続く道だった。
工藤氏とご主人の加藤氏は、それ以来二度と再び彼女の姿を見ることはなかったという。
如何でしたか?
ちょっとゾクッとしたでしょう。
ノンフィクション作家として名を上げたお二人の話ですから、作り話とは思えないのですが。
ちなみに私の住む町は高齢者の町です。間違っても若くて美しい女性は...
おっと、アブナイ、アブナイ。
さて、そんな昨日、ちょっとゾクッとする話を仕入れた。お化けや幽霊の類ではないと思うのだが、この話を聞き終わった後、自分の周りの温度が1℃は下がったように感じた。
これはノンフィクション作家の工藤美代子氏とそのご主人である加藤康男氏の話である。加藤康男氏もノンフィクション作家だが、かつて集英社の「すばる」の編集長や恒文社の専務を務められた方だ。
この二人の住まいは高台にあり、近所の家々の屋根が見渡せるのだそうな。屋上のある家も多いらしく、洗濯物を干している奥さん方の姿が目に入る。
或る日、3,4軒先の豪邸の屋上で若い女性が物干し竿にシーツを干し始まった。細身で色白でとても美しい女性。
ご主人の加藤氏は「彼女はあの家に嫁に来たんだよ。それで舅と姑に洗濯をさせられているんだ。それを旦那は見て見ぬふりをしている。可哀相な人なんだよ」と勝手な想像を始めたという。
奥さんの工藤氏は「そんなの分からないじゃない。敷き蒲団のマットまで干しているのは介護の必要な老人がいるからかもしれないけれど、幸福か不幸なんて勝手に決めつけられません」と反論すると、「いや、彼女はこんな筈じゃなかったと思いながら舅や姑の面倒を見ているに違いない。悩みがあるならボクが相談に乗ってやってもいいんだけどなあ」と応える。
「変なおじいさんがうろうろしていたら、ストーカーだと思われるわよ」と工藤氏は呆れた。
それでもご主人は毎日、朝ごはんの時間になると窓の外をきょろきょろ見回して白いブラウスの女性を探したのだとか。
そんなある朝、衝撃的な光景を目にする。件の女性が背中に男の子の赤ちゃんを背負って出てきたのである。
その光景を見てご主人はみるみる不機嫌になった。
「子供がいるから我慢しているんだなあ」
そんなご主人の姿を見て、工藤氏はせせら笑った。
その翌日、若奥さんはやはり子供を背負って洗濯物を干していた。干し終わると、背中の子供をあやすように小走りにちょっと走ってみる。子供のキャッキャッという声が聞こえてくるようだった。
するとそこへ彼女の夫らしき30代の男性が現れた。若夫婦は仲睦まじそうに赤ちゃんの顔を覗き込み微笑んでいる。
「ほら見なさい。あの奥さんには、ちゃんと優しい旦那さんがいるの。あなたが心配しなくてもいいのよ」
「いや、ボクはやっぱり彼女に不幸の影を見るよ。ああやって笑っているのは真の姿じゃない。実に悲哀に満ちた眼差しじゃないか」
ふたりの意見は対立したままだったが、それからしばらくは若奥さんの姿が眺められたという。
しかし、12月に入ると彼女はまったく姿を現さなくなった。それどころか家中の電気が消えたままだ。
「年末だからハワイにでも行ってるんじゃないの」
「いや、違う。何かが彼女の身の上に起こっているんだ。どうしたんだろうなあ」
「なにバカなこと言ってんのよ」
しかし、それから幾日経っても、彼女は屋上に姿を現すことはなかった。
それは2月の或る日、工藤氏は近所に買い物に行った帰りに、自分の家の前で、白いブラウスを着た女性が赤ちゃんを抱いて、向こうから歩いてくるのと鉢合わせになった。
モナリザの絵みたいな微笑みを浮かべて彼女は真っ直ぐにこちらへ歩いて来る。
ああ!この顔は洗濯物を干していた奥さんじゃないか。間違いない。
驚いている工藤氏の横を彼女はすり抜けた。整った顔の周囲がぼんやりと光っている。そして彼女の後姿を見て気がついた。
今は真冬。それなのに彼女も赤ちゃんも夏服のままだった。なんで?どうして?
母子は横道に曲がって行った。それはあの屋上のある家に続く道だった。
工藤氏とご主人の加藤氏は、それ以来二度と再び彼女の姿を見ることはなかったという。
如何でしたか?
ちょっとゾクッとしたでしょう。
ノンフィクション作家として名を上げたお二人の話ですから、作り話とは思えないのですが。
ちなみに私の住む町は高齢者の町です。間違っても若くて美しい女性は...
おっと、アブナイ、アブナイ。
我が親父と妹の二人は、ほぼ毎日のように塩竈神社へ参拝に出かけている。
この二人、決して信心深い訳ではない。むしろその逆で、宝くじが当たりますようにと、あくまで欲深なお願いに日参しているのである。
神様も最初はなんて欲が深いのだと怒っていたかもしれないが、毎日のように参拝にやって来てはお賽銭をあげていくのだから、いまどき感心な二人だとそろそろ思い直されたかもしれない。
そして、そのご利益なのか広い境内を歩いているためなのか、長年苦しんでいた親父の腰痛も、かなり良くなったという。
そんな二人には、時々私から或る忠告を行っている。
それは、神社には早朝か、もしくは午前中のうちに参拝を済ませるようにと。間違っても夕方に神社を参拝しては駄目だぞとも教えている。
私にそう言われて、二人はぽかんとしていたが、このことは多くの神社或いは宮司さんも認めていることなのだ。
しかし、その理由を知る人は意外と少ない。そこで今日は特別にその理由をお教えしたいと思う。
神社には天照大神様いらっしゃるのだが、夕方になると天岩土(あまのいわと)へお帰りになられるのだ。他の神々もそうである。ようするに夕方から深夜にかけては、神様方の休憩時間なのだ。神様が不在なのに参拝しても意味が無いということになる。
それからもうひとつ。実はこちらの方が怖くて深刻な話である。
ご存知のように、神社は神様の力によって結界が張られている神聖な場所だ。そのために悪しき者たちは入り込むことが出来ないのだが、神様が不在になったその時間になると、入り込んで来るというのだ。
その魔物たちに出会うことのないように、夕方は参拝してはいけないというのが本当の理由らしい。
その話を聞いても親父などは「夕方神社に行っても、なんにもねえなぁ。何にも遭わねえぞ」とすまし顔だ。
『親父たちが悪しき者だ』と言おうと思ったが、やめた。
それはさておき、この塩竈神社の境外末社のひとつに御竃(おかま)神社がある。
この神社には塩竈の名前の起こりとなった神様の釜、神竃があるのだが、毎年7月4日から6日まで藻鹽焼神事が執り行われ、塩が作られるのである。
この竃は写真のように四口あり、いつもは海水で満たされている。そしてその水の色は赤褐色に濁っている。この水はどんな時でも減ることも増えて溢れることはない不思議な水と言われている。
さらに何か異変がある時は、その前兆として水の色が変わると言うのだ。
江戸時代にはもし水の色が変わったならば、すぐに藩に知らせなければならなかったらしい。
そして、あの3月11日、東日本大震災の朝、8時頃、御釜の水の色が赤褐色から透明に変化しているのが確認された。あとはいうまでもないだろう。
まだまだ、この世には未知の領域があるのだと改めて思う。
この二人、決して信心深い訳ではない。むしろその逆で、宝くじが当たりますようにと、あくまで欲深なお願いに日参しているのである。
神様も最初はなんて欲が深いのだと怒っていたかもしれないが、毎日のように参拝にやって来てはお賽銭をあげていくのだから、いまどき感心な二人だとそろそろ思い直されたかもしれない。
そして、そのご利益なのか広い境内を歩いているためなのか、長年苦しんでいた親父の腰痛も、かなり良くなったという。
そんな二人には、時々私から或る忠告を行っている。
それは、神社には早朝か、もしくは午前中のうちに参拝を済ませるようにと。間違っても夕方に神社を参拝しては駄目だぞとも教えている。
私にそう言われて、二人はぽかんとしていたが、このことは多くの神社或いは宮司さんも認めていることなのだ。
しかし、その理由を知る人は意外と少ない。そこで今日は特別にその理由をお教えしたいと思う。
神社には天照大神様いらっしゃるのだが、夕方になると天岩土(あまのいわと)へお帰りになられるのだ。他の神々もそうである。ようするに夕方から深夜にかけては、神様方の休憩時間なのだ。神様が不在なのに参拝しても意味が無いということになる。
それからもうひとつ。実はこちらの方が怖くて深刻な話である。
ご存知のように、神社は神様の力によって結界が張られている神聖な場所だ。そのために悪しき者たちは入り込むことが出来ないのだが、神様が不在になったその時間になると、入り込んで来るというのだ。
その魔物たちに出会うことのないように、夕方は参拝してはいけないというのが本当の理由らしい。
その話を聞いても親父などは「夕方神社に行っても、なんにもねえなぁ。何にも遭わねえぞ」とすまし顔だ。
『親父たちが悪しき者だ』と言おうと思ったが、やめた。
それはさておき、この塩竈神社の境外末社のひとつに御竃(おかま)神社がある。
この神社には塩竈の名前の起こりとなった神様の釜、神竃があるのだが、毎年7月4日から6日まで藻鹽焼神事が執り行われ、塩が作られるのである。
この竃は写真のように四口あり、いつもは海水で満たされている。そしてその水の色は赤褐色に濁っている。この水はどんな時でも減ることも増えて溢れることはない不思議な水と言われている。
さらに何か異変がある時は、その前兆として水の色が変わると言うのだ。
江戸時代にはもし水の色が変わったならば、すぐに藩に知らせなければならなかったらしい。
そして、あの3月11日、東日本大震災の朝、8時頃、御釜の水の色が赤褐色から透明に変化しているのが確認された。あとはいうまでもないだろう。
まだまだ、この世には未知の領域があるのだと改めて思う。
睡眠時間が少ないと医者から言われた。年代にもよるのだろうが、私くらいの年齢なら7~9時間が必要らしい。でも実際にはそれを大きく下回る。
しかし目覚めはいつもスッキリしているのはどうしてだろう。よほど眠りが深いのだろうか。
でも、それもおかしな話だ。何故なら毎晩のように夢を見るからだ。それもかなりはっきりとした夢をである。
ここから先の話は、半分聞き流して欲しい。信じられない人には絶対に信じられない話だからだ。
いつも夢の中に出てくる街がある。通りは広く、歩道は石畳だ。そんなに高くない建物が通りの両側に並んでいる。しかし、歩く人の姿も走っているクルマもいない。
看板の類は一切無く、夜なのだろうか、空は漆黒の闇だ。なのに空以外は昼間のように明るい。
自分はそんな街をただ歩いている。知らない街の筈なのに、その街角を曲がると何があるのか分かっている。そして、街角を曲がると...
いつの間にやら自分は建物の中にいる。それも決まって板張りの長い廊下の途中にいて、窓の外を見ている。しかし、窓の外はただ明るいだけで何も見えない。
ここは古い公共施設、例えば役所とか公会堂とか、学校のような場所にも思える。
左右に目をやると、長い廊下には自分以外に誰もいない。
こんなシチュエーションなら疑問に思うところだが、全然不思議に思わないのはやはり「夢」だからなのだろう。
さて、夢はこのあたりから日によって変化する。
そのまま廊下で終わってしまうこともあれば、次のシーンに飛ぶ日もある。
例えば誰か知らない人の家で、大きな食卓を見知らぬ人たちと囲んでいたりする。
或いはベッドに寝ている自分は実は眠ってなどいなくて、枕元に並んで座っている二人の女性に黙って頭を撫でられている。二人の女性の顔も見えないのに、それが女性であることが分かり、しかも昔から知っている人物なのだ。もちろん誰かは分からないのだが。
私の夢を分析すると、導入部分はほとんど同じ街が現れ、そこを歩いているうちに次のシーンへ展開していくというパターンである。
そのくらいの夢なら、自分もあるよという人もいるだろう。
だが、私の夢は二男の一言で予想もしない方向へ動き出した。
週末になると孫を連れて我が家へやって来る二男と、私が毎晩見る夢の話になった。すると息子も同じような夢を見るという。
それは、私が歩いている街並みと同じような場所を歩いているのだという。
そして次の一言に私は自分の耳を疑った。
「お父さん、長い廊下に立ってたでしょ」
信じるか信じないか、あなた次第です。
しかし目覚めはいつもスッキリしているのはどうしてだろう。よほど眠りが深いのだろうか。
でも、それもおかしな話だ。何故なら毎晩のように夢を見るからだ。それもかなりはっきりとした夢をである。
ここから先の話は、半分聞き流して欲しい。信じられない人には絶対に信じられない話だからだ。
いつも夢の中に出てくる街がある。通りは広く、歩道は石畳だ。そんなに高くない建物が通りの両側に並んでいる。しかし、歩く人の姿も走っているクルマもいない。
看板の類は一切無く、夜なのだろうか、空は漆黒の闇だ。なのに空以外は昼間のように明るい。
自分はそんな街をただ歩いている。知らない街の筈なのに、その街角を曲がると何があるのか分かっている。そして、街角を曲がると...
いつの間にやら自分は建物の中にいる。それも決まって板張りの長い廊下の途中にいて、窓の外を見ている。しかし、窓の外はただ明るいだけで何も見えない。
ここは古い公共施設、例えば役所とか公会堂とか、学校のような場所にも思える。
左右に目をやると、長い廊下には自分以外に誰もいない。
こんなシチュエーションなら疑問に思うところだが、全然不思議に思わないのはやはり「夢」だからなのだろう。
さて、夢はこのあたりから日によって変化する。
そのまま廊下で終わってしまうこともあれば、次のシーンに飛ぶ日もある。
例えば誰か知らない人の家で、大きな食卓を見知らぬ人たちと囲んでいたりする。
或いはベッドに寝ている自分は実は眠ってなどいなくて、枕元に並んで座っている二人の女性に黙って頭を撫でられている。二人の女性の顔も見えないのに、それが女性であることが分かり、しかも昔から知っている人物なのだ。もちろん誰かは分からないのだが。
私の夢を分析すると、導入部分はほとんど同じ街が現れ、そこを歩いているうちに次のシーンへ展開していくというパターンである。
そのくらいの夢なら、自分もあるよという人もいるだろう。
だが、私の夢は二男の一言で予想もしない方向へ動き出した。
週末になると孫を連れて我が家へやって来る二男と、私が毎晩見る夢の話になった。すると息子も同じような夢を見るという。
それは、私が歩いている街並みと同じような場所を歩いているのだという。
そして次の一言に私は自分の耳を疑った。
「お父さん、長い廊下に立ってたでしょ」
信じるか信じないか、あなた次第です。
夏にはちょっと早いけれど、少しだけ怖い話をしようか
2018年5月21日 不思議草子
息子夫婦と1歳半になる孫は、私の家の比較的近くに住んでいるので、休みの日などは時々遊びにやって来る。やって来た日はみんなで夕餉の食卓を囲んだり、孫を風呂に入れてやったりと、いつも楽しいひとときを過ごすのだが、気になることがひとつだけあった。
それは我が家の階段のことだ。写真(イメージ)と似たような木製のリビング階段があるのだが、手摺と手摺子がある見た目はとても古風な作りのものだ。ハウスメーカーに無理に頼んで、規格外ではあったが取り付けてもらった。
その階段にどうやら何かが潜んでいるらしい。
1歳になる以前から、孫は我が家にやって来ると、決まって階段の上を見上げては指を差したり、声を上げたり、或いは笑い出したりするのである。
そんな孫を見ていると、まるで目に見えない何者かが、階段の上からあやしているように思えてくる。
息子夫婦に聞くと、マンションでも誰もいない玄関に向かって手を振ったり、笑ったりしているのだとか。
こういう事例が他にもあるのかどうか、気になってネットで調べてみたら、結構多いことに驚いた。
ネットに書き込まれた沢山の事例を読んでいるうちに、孫のような乳児や幼児には、大人は持っていない「機能」があるのではないかと思えてきた。
孫がそういう行動を取ることについては、親父や妹や息子たちすべてが承知していたが、最初はみんな私の亡くなったおふくろなのではないかと言い合っていた。
曾孫可愛さに面白い顔でもして見せているのだろう、というのが一応の結論だった。
しかしそれも変だなと。
何故、いつも階段の上からなのだと。
曾孫が可愛かったら、もっと近くに来てもいいのではないか。まるで階段から外には出ていけないようだ。
実はこの家を建てて間もなくの頃、階下で夕食を取っていたら、長男とかみさんが突然「あれっ?」という小さな声をあげて階段を見上げた。私もふたりの声に階段を振り返って見上げたら、2階から3、4段降りたあたりの手摺子と手摺子の間から、フワリと白いレースのような切れ端が一瞬出てきたのに気がついた。
それはすぐに引っ込んでしまったが、長男とかみさんはお互いに目を合わせて
「今の足だよね」「そうだね」
と言っている。
2男も3男も食卓についているので、2階には誰もいないはずだ。
そんな馬鹿なと思いつつ、私と長男のふたりで2階に上がってみたのだが、何の変化も無い。しかし、3人で同時に錯覚を見るものだろうか。
異変はそのあとも続き、やはり夕食の最中に、吹き抜けの2階から物が落ちて来たようなドンッ!!という、大きな音が鳴り響いたことがあった。
もちろん何も落ちてはいない。
(新しい家なのだから、そんなことあるわけないしなあ)
それ以来、かみさんはひとりの時には2階に上がれなくなってしまった。
それは偶然だった。
何かの番組をたまたま見ていたら、除霊にはファブリーズが良いですよと。
芳香は邪霊には苦手なものなのだとか。
それを聞いて冗談だろうと思いながらも、面白半分試してみようかということになった。
そこで一般的なリビング用芳香・消臭剤を買ってきて、階段の途中に置いてみたのである。
今、孫が我が家にやって来ても、あれほど階段を気にしていたのが嘘のように関心を示さなくなってしまった。本当に効果があったのだろうか。もし本当に効果があるのだとすれば、効能書きに「消臭・除霊」のひとことを付け加えてみたらとメーカーに提案しようか。
そうそう、その代わり、あっと言う間に空になってしまうのには困っている。
同時に買って別な場所に置いた芳香剤は、ほとんど減らないのに、階段に置いたものは1週間ももたない。
信じるか信じないかはあなた次第です。
(こんな番組あったなあ)
それは我が家の階段のことだ。写真(イメージ)と似たような木製のリビング階段があるのだが、手摺と手摺子がある見た目はとても古風な作りのものだ。ハウスメーカーに無理に頼んで、規格外ではあったが取り付けてもらった。
その階段にどうやら何かが潜んでいるらしい。
1歳になる以前から、孫は我が家にやって来ると、決まって階段の上を見上げては指を差したり、声を上げたり、或いは笑い出したりするのである。
そんな孫を見ていると、まるで目に見えない何者かが、階段の上からあやしているように思えてくる。
息子夫婦に聞くと、マンションでも誰もいない玄関に向かって手を振ったり、笑ったりしているのだとか。
こういう事例が他にもあるのかどうか、気になってネットで調べてみたら、結構多いことに驚いた。
ネットに書き込まれた沢山の事例を読んでいるうちに、孫のような乳児や幼児には、大人は持っていない「機能」があるのではないかと思えてきた。
孫がそういう行動を取ることについては、親父や妹や息子たちすべてが承知していたが、最初はみんな私の亡くなったおふくろなのではないかと言い合っていた。
曾孫可愛さに面白い顔でもして見せているのだろう、というのが一応の結論だった。
しかしそれも変だなと。
何故、いつも階段の上からなのだと。
曾孫が可愛かったら、もっと近くに来てもいいのではないか。まるで階段から外には出ていけないようだ。
実はこの家を建てて間もなくの頃、階下で夕食を取っていたら、長男とかみさんが突然「あれっ?」という小さな声をあげて階段を見上げた。私もふたりの声に階段を振り返って見上げたら、2階から3、4段降りたあたりの手摺子と手摺子の間から、フワリと白いレースのような切れ端が一瞬出てきたのに気がついた。
それはすぐに引っ込んでしまったが、長男とかみさんはお互いに目を合わせて
「今の足だよね」「そうだね」
と言っている。
2男も3男も食卓についているので、2階には誰もいないはずだ。
そんな馬鹿なと思いつつ、私と長男のふたりで2階に上がってみたのだが、何の変化も無い。しかし、3人で同時に錯覚を見るものだろうか。
異変はそのあとも続き、やはり夕食の最中に、吹き抜けの2階から物が落ちて来たようなドンッ!!という、大きな音が鳴り響いたことがあった。
もちろん何も落ちてはいない。
(新しい家なのだから、そんなことあるわけないしなあ)
それ以来、かみさんはひとりの時には2階に上がれなくなってしまった。
それは偶然だった。
何かの番組をたまたま見ていたら、除霊にはファブリーズが良いですよと。
芳香は邪霊には苦手なものなのだとか。
それを聞いて冗談だろうと思いながらも、面白半分試してみようかということになった。
そこで一般的なリビング用芳香・消臭剤を買ってきて、階段の途中に置いてみたのである。
今、孫が我が家にやって来ても、あれほど階段を気にしていたのが嘘のように関心を示さなくなってしまった。本当に効果があったのだろうか。もし本当に効果があるのだとすれば、効能書きに「消臭・除霊」のひとことを付け加えてみたらとメーカーに提案しようか。
そうそう、その代わり、あっと言う間に空になってしまうのには困っている。
同時に買って別な場所に置いた芳香剤は、ほとんど減らないのに、階段に置いたものは1週間ももたない。
信じるか信じないかはあなた次第です。
(こんな番組あったなあ)