最近のニュースはどれも暗い話が多い。その中でも一番辛いニュースは幼児虐待だ。
年端もいかぬ子供がどうしてこんな酷い目に遭わなければならないのかと思うと、居たたまれなくなる。
おそらく今こうしている間にも、日本のどこかで幼児に対する虐待が行われているのではないだろうか。
そう考えると、一刻も早く救いの手を差し伸べなければならないと気ばかり焦る。
しかし悲しいかな我々一般人には何の権限もなく、それが出来るのは公的機関や政治なのだが、残念ながらその頼みの綱が機能しているとは言い難い。
私が子供の頃は、近所づきあいというコミュニティが今よりも遥かに濃密であった。
『遠くの親戚よりも近くの他人』という言葉があるように、狭いエリアの中で近隣の住人同士が助け合って暮らすというのが当たり前の時代があった。
プライバシーが何よりも優先される昨今の風潮からすれば、それを100パーセント良しとする訳ではないが、少なくとも大人たちが地域の子供たちを守るという意識は今よりもすっと高かったように思う。
だが、今はお隣りの子供の様子でさえ分からないことが多い。いや、様子どころか名前さえも分からない。それが当たり前になっている。
ところで、虐待する親たちの弁解に「躾け」という言葉がよく出て来る。
躾けのために叩いたり、或いは食事を与えなかったという話だ。
私も子供の頃は、悪さをするたびに母親から叩かれたり、親父からは「メシを食わせないぞ」と怒られたりしたものだ。だが、それらを1とすると、それ以上の9の愛情を注がれたものである。
おそらく虐待を繰り返す親たちには、この割合が逆転しているのだろう。
学校でのイジメの話も後を絶たない。幼児への虐待も学校でのイジメも、要するに弱いものイジメだ。これは一番卑劣な行為である。言葉を変えれば卑怯者なのである。
ちなみに卑怯の語源は非道から来ているという説がある。つまり人としての道を外れている者をさす。
そう、人間ではないのである。そういうモノたちは。
年端もいかぬ子供がどうしてこんな酷い目に遭わなければならないのかと思うと、居たたまれなくなる。
おそらく今こうしている間にも、日本のどこかで幼児に対する虐待が行われているのではないだろうか。
そう考えると、一刻も早く救いの手を差し伸べなければならないと気ばかり焦る。
しかし悲しいかな我々一般人には何の権限もなく、それが出来るのは公的機関や政治なのだが、残念ながらその頼みの綱が機能しているとは言い難い。
私が子供の頃は、近所づきあいというコミュニティが今よりも遥かに濃密であった。
『遠くの親戚よりも近くの他人』という言葉があるように、狭いエリアの中で近隣の住人同士が助け合って暮らすというのが当たり前の時代があった。
プライバシーが何よりも優先される昨今の風潮からすれば、それを100パーセント良しとする訳ではないが、少なくとも大人たちが地域の子供たちを守るという意識は今よりもすっと高かったように思う。
だが、今はお隣りの子供の様子でさえ分からないことが多い。いや、様子どころか名前さえも分からない。それが当たり前になっている。
ところで、虐待する親たちの弁解に「躾け」という言葉がよく出て来る。
躾けのために叩いたり、或いは食事を与えなかったという話だ。
私も子供の頃は、悪さをするたびに母親から叩かれたり、親父からは「メシを食わせないぞ」と怒られたりしたものだ。だが、それらを1とすると、それ以上の9の愛情を注がれたものである。
おそらく虐待を繰り返す親たちには、この割合が逆転しているのだろう。
学校でのイジメの話も後を絶たない。幼児への虐待も学校でのイジメも、要するに弱いものイジメだ。これは一番卑劣な行為である。言葉を変えれば卑怯者なのである。
ちなみに卑怯の語源は非道から来ているという説がある。つまり人としての道を外れている者をさす。
そう、人間ではないのである。そういうモノたちは。
King&Princeのファン 仙台駅で新幹線を遅らせる
2018年9月26日 ご意見申し上げる コメント (6)三男坊から「仙台駅でアイドルのファンたちが、新幹線の発車を遅らせたんだよ」と教えられた。息子はJRで仕事をしているのだが、仲間からそのことを教えられたらしい。ちょうど同僚がその場に居合わせて、ことの始終を見ていたのだとか。
「アナウンスの駅員がブチ切れて、最初は丁寧に黄色い線までお下がりくださいと言っていたのが、お前ら下がれ!!って叫んだらしい」
駅員がブチ切れたという話は伝聞であるから、果たして正しいかどうかは分からないが、あとからニュース映像を見てさもありなんと思った。
そのアイドルとはジャニーズ事務所の「King&Prince」という六人組だとか。最近の芸能界にはまったく疎い私には、初めて耳にするグループ名だが相当人気があるのだろう。
仙台での公演を終えての出来事だったらしく、追っかけのファンたちが暴走してしまったようだ。
結局新幹線は1分停車のところを6分後に発車となり、5分の遅延になってしまった。
思えば昔は人気アイドルに、たいてい親衛隊なるものがついていた。彼らはファンでありながらも、アイドルを守ることを第一義とし、今回のようなケースでは押しかけるファンの防波堤になったりもした。
中にはアイドルの自宅の周囲を徹夜で警備する者までいたりして、翌朝アイドルが自宅から出てくると「異常ありませんでした」と報告したとか。
私に言わせれば余程あんたの方が異常だよと言いたいところだが、そういう人たちって今はもういないのだろうか。
熱量の今昔は同じだとしても、無分別なファンが以前よりも増えているような気がするのは私だけだろうか。
ちなみに私は柏原芳恵の大ファンで、妻は沢田研二の追っかけであった。どうでも良いことだけど...
「アナウンスの駅員がブチ切れて、最初は丁寧に黄色い線までお下がりくださいと言っていたのが、お前ら下がれ!!って叫んだらしい」
駅員がブチ切れたという話は伝聞であるから、果たして正しいかどうかは分からないが、あとからニュース映像を見てさもありなんと思った。
そのアイドルとはジャニーズ事務所の「King&Prince」という六人組だとか。最近の芸能界にはまったく疎い私には、初めて耳にするグループ名だが相当人気があるのだろう。
仙台での公演を終えての出来事だったらしく、追っかけのファンたちが暴走してしまったようだ。
結局新幹線は1分停車のところを6分後に発車となり、5分の遅延になってしまった。
思えば昔は人気アイドルに、たいてい親衛隊なるものがついていた。彼らはファンでありながらも、アイドルを守ることを第一義とし、今回のようなケースでは押しかけるファンの防波堤になったりもした。
中にはアイドルの自宅の周囲を徹夜で警備する者までいたりして、翌朝アイドルが自宅から出てくると「異常ありませんでした」と報告したとか。
私に言わせれば余程あんたの方が異常だよと言いたいところだが、そういう人たちって今はもういないのだろうか。
熱量の今昔は同じだとしても、無分別なファンが以前よりも増えているような気がするのは私だけだろうか。
ちなみに私は柏原芳恵の大ファンで、妻は沢田研二の追っかけであった。どうでも良いことだけど...
西日本での大雨は、今この現在も甚大な被害をもたらしている。この大雨によって亡くなられた方や安否不明の方が大勢いらっしゃるようでとても心が痛む。また、住宅が壊れたり流されたりした被災者の方々には心よりお見舞い申し上げたい。
私の住まいする仙台市からも、支援物資や市職員の先遣隊が被災地へ出発したようだが、これ以上被害が大きくならないことを祈るばかりである。
先週からこのような自然災害の大きなニュースが日本中を震撼させているが、それともうひとつ大きなニュースは、オオム真理教の教祖や元幹部たちに対する刑が執行されたことだろう。
実は東京の地下鉄でサリンが撒かれた時に、私は危うくその難を逃れたひとりだった。
当時私の職場が永田町にあり、国会議事堂前駅まで毎朝丸ノ内線で通勤していたのだが、いつもよりひとつ早い電車に乗っていたために難を逃れることが出来た。今となっては何故ひとつ早い電車に乗ったのか、その理由をはっきり覚えてはいない。
もし、普段と同じ電車に乗っていたら、私もサリンの被害者のひとりになっていたかもしれない。そう思うと冷や汗が出る。
勤務先のビルの窓から階下を見ると、地下鉄入口の前に多数の緊急自動車が止まり、警察官や救急隊員が出たり入ったりしている。直感的にこれは大きな事故か何かがあったなと、急いで部屋のテレビを点けたところ、霞が関での惨状が飛び込んできた。その時はまだ、それがサリンによるテロだとは思わなかった。
あれから20年以上が経ち、麻原彰晃以下元幹部だった者たちの死刑が執行された。早速、朝日新聞などは死刑制度があるのはG7では米国と日本くらいなものと云った、いつもながらの報道を行っているようだが、日本は言わずと知れた法治国家である。その法がある以上その法に相当する罪を犯したのなら従わなければならない、と思う。
EU諸国は死刑制度がないと言うが、フランスなどはつい最近まで残忍なギロチンによる処刑方法を採っていた。EUは日本を批難したというが、それこそ内政干渉である。
内閣府の世論調査では死刑制度を容認する声が8割とのデータもある。この8割という数字は極めて大きく重い。
死刑制度など無い世の中になるのが理想だが、現実に起こる凶悪な事件を前にすると、その制度に何も物をいうことが出来ない。
私の住まいする仙台市からも、支援物資や市職員の先遣隊が被災地へ出発したようだが、これ以上被害が大きくならないことを祈るばかりである。
先週からこのような自然災害の大きなニュースが日本中を震撼させているが、それともうひとつ大きなニュースは、オオム真理教の教祖や元幹部たちに対する刑が執行されたことだろう。
実は東京の地下鉄でサリンが撒かれた時に、私は危うくその難を逃れたひとりだった。
当時私の職場が永田町にあり、国会議事堂前駅まで毎朝丸ノ内線で通勤していたのだが、いつもよりひとつ早い電車に乗っていたために難を逃れることが出来た。今となっては何故ひとつ早い電車に乗ったのか、その理由をはっきり覚えてはいない。
もし、普段と同じ電車に乗っていたら、私もサリンの被害者のひとりになっていたかもしれない。そう思うと冷や汗が出る。
勤務先のビルの窓から階下を見ると、地下鉄入口の前に多数の緊急自動車が止まり、警察官や救急隊員が出たり入ったりしている。直感的にこれは大きな事故か何かがあったなと、急いで部屋のテレビを点けたところ、霞が関での惨状が飛び込んできた。その時はまだ、それがサリンによるテロだとは思わなかった。
あれから20年以上が経ち、麻原彰晃以下元幹部だった者たちの死刑が執行された。早速、朝日新聞などは死刑制度があるのはG7では米国と日本くらいなものと云った、いつもながらの報道を行っているようだが、日本は言わずと知れた法治国家である。その法がある以上その法に相当する罪を犯したのなら従わなければならない、と思う。
EU諸国は死刑制度がないと言うが、フランスなどはつい最近まで残忍なギロチンによる処刑方法を採っていた。EUは日本を批難したというが、それこそ内政干渉である。
内閣府の世論調査では死刑制度を容認する声が8割とのデータもある。この8割という数字は極めて大きく重い。
死刑制度など無い世の中になるのが理想だが、現実に起こる凶悪な事件を前にすると、その制度に何も物をいうことが出来ない。
新幹線無差別殺傷事件
2018年6月11日 ご意見申し上げるまた暗いニュースが世間を震撼させた。
新幹線での無差別殺傷事件は22歳の男の凶行だった。
襲われた女性を助けようとした一人の男性が殺害されるという、なんとも痛ましい事件に強い憤りを覚える。
私は今回の事件は完全なテロ行為だと思っている。テロとはテロル、すなわち恐怖である。完全な密室状態の新幹線車内で、大勢の乗客はパニックに陥った。最後尾の車両へ追いつめられた乗客たちの恐怖はいかばかりのものであったことだろう。
私事だが、昔スペインの高速鉄道AVEに乗った時に、乗車したアトーチャ駅で荷物検査やボディチェックを受けたことがある。その時、外国では空港以外にも鉄道の駅でさえ厳しいチェックをするのだなと感心したものだ。
しかしその後、このアトーチャ駅を含む3つの駅や3本の列車で爆破事件があり、2000人以上の人達が死傷するという大惨事があった。私も時期を違えていたら、その爆弾テロに巻き込まれていたかもしれないと思うと、今でもぞっとする。
厳重な警戒体制をもってしても、このような大規模テロが発生してしまうのだから、それより数段低い警戒体制の日本では今回のような事件がいつ発生してもおかしくはない。
私などは新幹線を利用することがとても多いので、今回の事件は他人事と受け止めることが出来ないのだ。
東京オリンピックまでもうそれほど時間が無い。組織テロもさることながら、このような個人によるテロについての対策も急務と思うのだが、その策はあるのだろうか。
「安全」と『安心」は決して安価なものではない。日本人はこのことをきちんと考えるべき時に来ている。
新幹線での無差別殺傷事件は22歳の男の凶行だった。
襲われた女性を助けようとした一人の男性が殺害されるという、なんとも痛ましい事件に強い憤りを覚える。
私は今回の事件は完全なテロ行為だと思っている。テロとはテロル、すなわち恐怖である。完全な密室状態の新幹線車内で、大勢の乗客はパニックに陥った。最後尾の車両へ追いつめられた乗客たちの恐怖はいかばかりのものであったことだろう。
私事だが、昔スペインの高速鉄道AVEに乗った時に、乗車したアトーチャ駅で荷物検査やボディチェックを受けたことがある。その時、外国では空港以外にも鉄道の駅でさえ厳しいチェックをするのだなと感心したものだ。
しかしその後、このアトーチャ駅を含む3つの駅や3本の列車で爆破事件があり、2000人以上の人達が死傷するという大惨事があった。私も時期を違えていたら、その爆弾テロに巻き込まれていたかもしれないと思うと、今でもぞっとする。
厳重な警戒体制をもってしても、このような大規模テロが発生してしまうのだから、それより数段低い警戒体制の日本では今回のような事件がいつ発生してもおかしくはない。
私などは新幹線を利用することがとても多いので、今回の事件は他人事と受け止めることが出来ないのだ。
東京オリンピックまでもうそれほど時間が無い。組織テロもさることながら、このような個人によるテロについての対策も急務と思うのだが、その策はあるのだろうか。
「安全」と『安心」は決して安価なものではない。日本人はこのことをきちんと考えるべき時に来ている。
何が腹立たしいかといって、これほど腹立たしい話はない。
毎日のように報道される「幼児虐待」のことだ。
あまりに悲惨で可哀相なニュースに、思わずテレビやラジオのチャンネルを切ってしまうこともしばしばである。
何故幼子をそこまで虐待しなければならないのか。一説には虐待する親もまた、子供の頃に親から虐待を受けていた者が多いなどという話もあるが、だったら尚更のこと、自分が受けた辛い思いを子供にはさせたくないと思えないのだろうか。
私は心理学者でも精神分析医でもないから、そのあたりのことはよく分からない。しかし、犬や猫やその他の動物たちが、我が子を慈しむ姿が写真や動画で流れるたびに『犬畜生にも劣るとはこのことだ』の感を強くする。
このように連日流れる幼児虐待のニュースに、同じ年頃の子を持つ多くの親たちは、きっと胸を痛めているに違いない。
おそらくは、いまこの瞬間にもきっと何処かで幼い子供たちが苦しんでいるとしたら、そう思っただけでいたたまれなくなる。
法改正が必要というのなら、法改正をすればいい。政治家はいつまでも党利党略に時間を費やしているよりも、この切迫した問題を解決するための議論をして欲しい。抗うことの出来ぬ子供たちを救えるのも、やはり大人なのだから。
毎日のように報道される「幼児虐待」のことだ。
あまりに悲惨で可哀相なニュースに、思わずテレビやラジオのチャンネルを切ってしまうこともしばしばである。
何故幼子をそこまで虐待しなければならないのか。一説には虐待する親もまた、子供の頃に親から虐待を受けていた者が多いなどという話もあるが、だったら尚更のこと、自分が受けた辛い思いを子供にはさせたくないと思えないのだろうか。
私は心理学者でも精神分析医でもないから、そのあたりのことはよく分からない。しかし、犬や猫やその他の動物たちが、我が子を慈しむ姿が写真や動画で流れるたびに『犬畜生にも劣るとはこのことだ』の感を強くする。
このように連日流れる幼児虐待のニュースに、同じ年頃の子を持つ多くの親たちは、きっと胸を痛めているに違いない。
おそらくは、いまこの瞬間にもきっと何処かで幼い子供たちが苦しんでいるとしたら、そう思っただけでいたたまれなくなる。
法改正が必要というのなら、法改正をすればいい。政治家はいつまでも党利党略に時間を費やしているよりも、この切迫した問題を解決するための議論をして欲しい。抗うことの出来ぬ子供たちを救えるのも、やはり大人なのだから。
ティルソ・デ・モリーナの名前を知っている人がいたら、かなりの演劇通である。
彼は16世紀から17世紀にかけて、スペインで人気の劇作家だった。
彼の大ヒット作に「セビーリャの色事師と石の招客(まろうど)」という作品がある。
このセビーリャの色事師とは、今では漁色家の代名詞になったドン・ファンことドン・ファン・テノーリオのことだ。
スペインでの大ヒットの後、イタリアでもイタリア版が作られ、フランスではモリエールが喜劇「ドン・ジュアン、あるいは石像の宴」として、こちらもまた人気を博した。さらにはあのモーツァルトが、オペラ「ドン・ジョバンニ」を作り上げた。
ちなみにドン・ファンの最期は哀れだった。なぜなら彼は修道士たちによって殺されてしまうからだ。
タイトルの中に「石の招客」とか「石像の宴」という言葉が付されているのは、ドン・ファンが石像の下敷きになって死んだという噂のためだが、本当は彼を殺した修道士たちによるデマであった。彼が死んだのは「天罰」ということにしたかったのだろう。
さて、現在の日本に目を向けると、毎日のようにある資産家の死が報じられている。その名は野崎幸助氏、美女4000人に30億円を貢いだ男、或いは紀州のドン・ファンと呼ばれた男だ。
一見すると、何処にでもいそうな普通のオッサンである。男の目からみても、イイ男とは言い難い。そんな普通のオッサンが何故そんなにもてるのか。
やはり同性としては気になるところだ。そこでこっそり彼の著作を買って読んでみた(別にこっそり買わなくてもいいのだが)。そこで分かったことがひとつ。
それは美しい女性を手に入れたいという熱量の大きさが、我々一般男性とは比較にならぬほどケタが違うということである。
彼は美女獲得という目的を果たすために、ひとつの結論を導き出したのだが、それが金だった。金さえあれば美女を手に入れることが出来る。そのためには事業を成功させなければならない。ではその事業を成功させるにはどうすれば良いか。
商売とは結局人が相手である。人を惹きつける力がどうしても必要だ。そのためには、美女以前に「人たらし」でなければならなかった。そのあたりは彼の天賦の才能と呼んでもいい。
そして大金を得た彼は、大勢の美女たちを望みどおりに手に入れた。
しかし、人生には陥穽がある。もしかしたらこういう結末になることを彼自身、気がついていたのではないか。
普段からクスリ嫌いを標榜する野崎氏が薬物によって急逝した。まず、本人の意思ではないだろう。であるならば、一体だれがということになる。
寝室でドタドタと物音がしたという証言もある。もしかしたら誰か他に人がいたのだろうか。
果たしてそれもあの「修道士」たちの仕業だったのか。
彼は16世紀から17世紀にかけて、スペインで人気の劇作家だった。
彼の大ヒット作に「セビーリャの色事師と石の招客(まろうど)」という作品がある。
このセビーリャの色事師とは、今では漁色家の代名詞になったドン・ファンことドン・ファン・テノーリオのことだ。
スペインでの大ヒットの後、イタリアでもイタリア版が作られ、フランスではモリエールが喜劇「ドン・ジュアン、あるいは石像の宴」として、こちらもまた人気を博した。さらにはあのモーツァルトが、オペラ「ドン・ジョバンニ」を作り上げた。
ちなみにドン・ファンの最期は哀れだった。なぜなら彼は修道士たちによって殺されてしまうからだ。
タイトルの中に「石の招客」とか「石像の宴」という言葉が付されているのは、ドン・ファンが石像の下敷きになって死んだという噂のためだが、本当は彼を殺した修道士たちによるデマであった。彼が死んだのは「天罰」ということにしたかったのだろう。
さて、現在の日本に目を向けると、毎日のようにある資産家の死が報じられている。その名は野崎幸助氏、美女4000人に30億円を貢いだ男、或いは紀州のドン・ファンと呼ばれた男だ。
一見すると、何処にでもいそうな普通のオッサンである。男の目からみても、イイ男とは言い難い。そんな普通のオッサンが何故そんなにもてるのか。
やはり同性としては気になるところだ。そこでこっそり彼の著作を買って読んでみた(別にこっそり買わなくてもいいのだが)。そこで分かったことがひとつ。
それは美しい女性を手に入れたいという熱量の大きさが、我々一般男性とは比較にならぬほどケタが違うということである。
彼は美女獲得という目的を果たすために、ひとつの結論を導き出したのだが、それが金だった。金さえあれば美女を手に入れることが出来る。そのためには事業を成功させなければならない。ではその事業を成功させるにはどうすれば良いか。
商売とは結局人が相手である。人を惹きつける力がどうしても必要だ。そのためには、美女以前に「人たらし」でなければならなかった。そのあたりは彼の天賦の才能と呼んでもいい。
そして大金を得た彼は、大勢の美女たちを望みどおりに手に入れた。
しかし、人生には陥穽がある。もしかしたらこういう結末になることを彼自身、気がついていたのではないか。
普段からクスリ嫌いを標榜する野崎氏が薬物によって急逝した。まず、本人の意思ではないだろう。であるならば、一体だれがということになる。
寝室でドタドタと物音がしたという証言もある。もしかしたら誰か他に人がいたのだろうか。
果たしてそれもあの「修道士」たちの仕業だったのか。
もし、自分にとって都合の良いことや、おいしい話を提示されたとしたらどうするか。何の疑念も抱かずにすんなりと受け入れるだろうか。
常識人であれば何か変だなと一歩立ち止まり、その真偽のほどを確かめようとするだろう。それが当たり前だ。
しかし、世の中にはすぐに飛びついてしまう人たちが少なくない。それも最高学府まで出たのに、知恵も知識もある筈なのに、いったいどうしてなのだろうか。
目の前にエサを出されたら、周りが見えなくなってしまうのかもしれない。
仮に私が詐欺師だとして、人を騙そうとしたらまずどうするか。
何かを欲しがっている人に、タイミングを計りながら偽物をちらつかせれば飛びついてくる。その時に大事なことは、本物という言葉は決して使わないことだ。
こういう物があるのですとそれだけを言えばいい。のぼせ上がっている相手が、勝手に本物と思い込んでくれる。それが狙いなのだ。これは詐欺師の常套手段でもあり、逃げ道なのである。
さて、前置きが長くなってしまった。
今、ニュースで取り上げられている愛媛県が出してきたメモのこと。
案の定、野党が一斉に飛びついてきた。まるで鬼の首でも取ったかのような騒ぎだ。
辻本議員などは「誰が嘘をついているのか、それはソーリ」などと言って、議員仲間を煽っていたが、今の段階でそんなことを言ってしまって良いのかどうか。その姿を見ていたら悲しくなってしまった。
本来、知性と理性を兼ね備えているべき国会議員の姿にはどうしても見えないからだ。
あなたたち(野党)は、この文書の真贋をきちんと検証したのだろうか。その結果、間違いなく本物であり、書かれた内容は事実であると断言できる域にまで達したのだろうか。
冒頭にも書いたように、まず自分たちにとっておいしい話は真っ先に疑ってかからなければならない。
実は私もお堅い仕事をしているので、公文書や役所からのメールなどを目にすることが多いのだが、実物を見た訳ではないので断言は出来ないけれども、あのメモには不自然な点が多々ある。
特に指摘されているのは、字体が入り混じっている点だ。文書の途中で明朝からゴシックに変わったりしていることだが、私が気になっているのは別なことである。
それは文書をよく見てもらうと、スポット(黒い点)が無数にあることに気が付かれるだろう。
知っている人ならピンと来るはずだ。これはコピーをして、それをまたコピーして、さらにコピーしてと繰り返すうちに現れてくるものだ。このメモの状態だと相当回数を重ねなければこれだけのスポットは出ない。
それを踏まえてまず言えるのはオリジナルからの直接コピーでは無い可能性があること。明らかに複写したものからのコピーのように見える。
では何故オリジナルからコピーしたものが出てこないのだろうか。
それはオリジナルと公開されたものの内容が違うから?
もしオリジナルに切り貼りしたら、その部分が目立ってしまう。それを隠すにはコピーを重ねることで解像度を落とし、切り貼りの跡を目立たなくさせる...
う~ん、これはあくまでも推測の域を出ない話だが、そう考える人間がひとりでも出てきてしまうことを考えれば、野党側はもっと厳密にメモの検証を重ねなければいけないと思うのだがいかがだろう。
今回のメモが第二の永田メール事件になっては、それこそ支持率に伸び悩む野党にとって致命傷を受けることになる。
冷静さを欠いた今の野党には、どうしても私がついていけない所以である。
常識人であれば何か変だなと一歩立ち止まり、その真偽のほどを確かめようとするだろう。それが当たり前だ。
しかし、世の中にはすぐに飛びついてしまう人たちが少なくない。それも最高学府まで出たのに、知恵も知識もある筈なのに、いったいどうしてなのだろうか。
目の前にエサを出されたら、周りが見えなくなってしまうのかもしれない。
仮に私が詐欺師だとして、人を騙そうとしたらまずどうするか。
何かを欲しがっている人に、タイミングを計りながら偽物をちらつかせれば飛びついてくる。その時に大事なことは、本物という言葉は決して使わないことだ。
こういう物があるのですとそれだけを言えばいい。のぼせ上がっている相手が、勝手に本物と思い込んでくれる。それが狙いなのだ。これは詐欺師の常套手段でもあり、逃げ道なのである。
さて、前置きが長くなってしまった。
今、ニュースで取り上げられている愛媛県が出してきたメモのこと。
案の定、野党が一斉に飛びついてきた。まるで鬼の首でも取ったかのような騒ぎだ。
辻本議員などは「誰が嘘をついているのか、それはソーリ」などと言って、議員仲間を煽っていたが、今の段階でそんなことを言ってしまって良いのかどうか。その姿を見ていたら悲しくなってしまった。
本来、知性と理性を兼ね備えているべき国会議員の姿にはどうしても見えないからだ。
あなたたち(野党)は、この文書の真贋をきちんと検証したのだろうか。その結果、間違いなく本物であり、書かれた内容は事実であると断言できる域にまで達したのだろうか。
冒頭にも書いたように、まず自分たちにとっておいしい話は真っ先に疑ってかからなければならない。
実は私もお堅い仕事をしているので、公文書や役所からのメールなどを目にすることが多いのだが、実物を見た訳ではないので断言は出来ないけれども、あのメモには不自然な点が多々ある。
特に指摘されているのは、字体が入り混じっている点だ。文書の途中で明朝からゴシックに変わったりしていることだが、私が気になっているのは別なことである。
それは文書をよく見てもらうと、スポット(黒い点)が無数にあることに気が付かれるだろう。
知っている人ならピンと来るはずだ。これはコピーをして、それをまたコピーして、さらにコピーしてと繰り返すうちに現れてくるものだ。このメモの状態だと相当回数を重ねなければこれだけのスポットは出ない。
それを踏まえてまず言えるのはオリジナルからの直接コピーでは無い可能性があること。明らかに複写したものからのコピーのように見える。
では何故オリジナルからコピーしたものが出てこないのだろうか。
それはオリジナルと公開されたものの内容が違うから?
もしオリジナルに切り貼りしたら、その部分が目立ってしまう。それを隠すにはコピーを重ねることで解像度を落とし、切り貼りの跡を目立たなくさせる...
う~ん、これはあくまでも推測の域を出ない話だが、そう考える人間がひとりでも出てきてしまうことを考えれば、野党側はもっと厳密にメモの検証を重ねなければいけないと思うのだがいかがだろう。
今回のメモが第二の永田メール事件になっては、それこそ支持率に伸び悩む野党にとって致命傷を受けることになる。
冷静さを欠いた今の野党には、どうしても私がついていけない所以である。
義父の死で思ったこと
2014年1月30日 ご意見申し上げる コメント (6)正月だったこともあり、この話を書くことに躊躇いを感じていたのだが、やはり書くことにする。
昨年の大晦日の晩に義父が亡くなった。風呂場で転んで手首を骨折し、そのまま救急車で病院へ搬送され、三週間ほどの入院生活を送ったのだが、そこですっかり体力を落としてしまった。抵抗力を失った義父はまるで別人のように痩せ衰え、言葉もろくに話せない状態になってしまったのである。
94歳という高齢と認知症、それに生来の頑固さもあって、病院の食事を嫌がり、一切口にしなくなってしまったことが、結果的に死期を早めることになった。
ただ、家族としては病院に対する不満がない訳ではない。
義父は「おかゆ」が嫌いだったので、普通のご飯を何度も頼んでいたのだが、ついに最後まで出されることは無かった。
また、そんなおかゆを無理やり口に入れようとするので、嫌がって手で払いのけると、看護士が暴力を振われたと家族が呼びつけられる。
目に見えて弱っていく義父に、病院側のしたことは点滴だけ。それも高カロリーではないので、状態は悪化する一方だった。
もちろん、医師や看護士の方々のご苦労は十分承知しているつもりである。何故ならもう何年も私の母親が、大勢の医師や看護士、ヘルパーさんにお世話になっているのを見ているからだ。身内の者だってやれないような事までしてくれるのには、ただただ頭の下がる思いである。
先の病院の医師からは、とてもここでは書けないような暴言を吐かれた。このような医師の下で働く看護士の方たちも、影響されないわけはないなとつくづく思った次第である。
結局義父は昔から親しくしている近所の病院へ転院することになった。顔見知りの院長先生の顔を見て安心したのだろうか。それから僅か3日後のこと。肺炎を併発してあっという間に亡くなってしまったのである。
その日はかみさんと二人で夕方まで付き添っていたのだが、自宅へ戻るとすぐに亡くなったとの電話がかかってきた。私たちは言葉を失った。
あれから一月が経つ。
昨年の大晦日の晩に義父が亡くなった。風呂場で転んで手首を骨折し、そのまま救急車で病院へ搬送され、三週間ほどの入院生活を送ったのだが、そこですっかり体力を落としてしまった。抵抗力を失った義父はまるで別人のように痩せ衰え、言葉もろくに話せない状態になってしまったのである。
94歳という高齢と認知症、それに生来の頑固さもあって、病院の食事を嫌がり、一切口にしなくなってしまったことが、結果的に死期を早めることになった。
ただ、家族としては病院に対する不満がない訳ではない。
義父は「おかゆ」が嫌いだったので、普通のご飯を何度も頼んでいたのだが、ついに最後まで出されることは無かった。
また、そんなおかゆを無理やり口に入れようとするので、嫌がって手で払いのけると、看護士が暴力を振われたと家族が呼びつけられる。
目に見えて弱っていく義父に、病院側のしたことは点滴だけ。それも高カロリーではないので、状態は悪化する一方だった。
もちろん、医師や看護士の方々のご苦労は十分承知しているつもりである。何故ならもう何年も私の母親が、大勢の医師や看護士、ヘルパーさんにお世話になっているのを見ているからだ。身内の者だってやれないような事までしてくれるのには、ただただ頭の下がる思いである。
先の病院の医師からは、とてもここでは書けないような暴言を吐かれた。このような医師の下で働く看護士の方たちも、影響されないわけはないなとつくづく思った次第である。
結局義父は昔から親しくしている近所の病院へ転院することになった。顔見知りの院長先生の顔を見て安心したのだろうか。それから僅か3日後のこと。肺炎を併発してあっという間に亡くなってしまったのである。
その日はかみさんと二人で夕方まで付き添っていたのだが、自宅へ戻るとすぐに亡くなったとの電話がかかってきた。私たちは言葉を失った。
あれから一月が経つ。
1日は二男の内定式が東京であった。
その日の報道によれば、大学生の就職内定率は55.8%とかなり厳しい状況のようだから、親としてはほっと胸を撫で下ろしているところだ。
息子の場合は内定を貰うまでに、おそらく4~50社は受けたのではないだろうか。遠くは最終面接で大阪まで行ったのだが、駄目だった時にはさすがに親子で落ち込んだものである。
とにかく息子も疲れただろうが、私も本当に疲れた。
私の頃と違い、今は希望業種などと贅沢は言っていられない状態だから、少しでも条件に合うような企業があれば即エントリーの繰り返し。結果、毎回違う業種の志望理由や自己PRを書かねばならず、アドバイスを求められる私も頭を悩ませる日々であった。
息子の書いた文章に駄目出しをしては、添削し、場合によってはすべて書き直させたりもした。
夜中の3時頃に突然叩き起こされて、
「今日提出しなければならないから志望理由を直してくれ」などと言われたり。
寝惚けた頭で添削したものだから、かえって酷い志望理由になってしまったこともあった。
とにかくそんな地獄のような毎日だった。
それでも継続は力なりの言葉通り、志望理由や自己PRの書き方に関しては日増しに腕が上がり(息子ではなく私のほう)、ほとんどの会社で最終面接までは進むようになった。
今になって思えば、ある時期から志望理由などの書き方を大きく変えたことが功を奏したのかもしれない。
例えば私の就活時代では、この会社に入ったら自分は何をやってみたい、何がしたいといった書き方をしたり自己PRをしたものだが、それを一切改めて、自分はこの会社に対してどんな利益をもたらすことが可能である、或いは自分は何が出来るといったことをなるべく具体的に書くようにしたところ、一気に面接通過率が高まったのである。
しかし当の息子は、実際には利益をもたらすどころか何も出来ないような有様だから、そこを如何に工夫して書くか、愚息のちょっとした良い面を、それこそ高出力の増幅器にでもかけるかのごとくに大仰に書き綴らせたのである。
年商二千億円という某業界最大手の人事担当者の話を聞くことが出来たが、今年は学力が高いだけの人物は軒並み落としたということだった。極端な話、一流大学の学生はほとんど落としたのだという。
では、どういう人物を採用したのかというと、氏いわく「好人物です」とのこと。
もちろんその企業の考え方であるから、すべてがそうだとは思わない。
しかし、社会に出て成功する人には、人を惹きつける魅力のある人物が多いことは間違いないだろう。
その日の報道によれば、大学生の就職内定率は55.8%とかなり厳しい状況のようだから、親としてはほっと胸を撫で下ろしているところだ。
息子の場合は内定を貰うまでに、おそらく4~50社は受けたのではないだろうか。遠くは最終面接で大阪まで行ったのだが、駄目だった時にはさすがに親子で落ち込んだものである。
とにかく息子も疲れただろうが、私も本当に疲れた。
私の頃と違い、今は希望業種などと贅沢は言っていられない状態だから、少しでも条件に合うような企業があれば即エントリーの繰り返し。結果、毎回違う業種の志望理由や自己PRを書かねばならず、アドバイスを求められる私も頭を悩ませる日々であった。
息子の書いた文章に駄目出しをしては、添削し、場合によってはすべて書き直させたりもした。
夜中の3時頃に突然叩き起こされて、
「今日提出しなければならないから志望理由を直してくれ」などと言われたり。
寝惚けた頭で添削したものだから、かえって酷い志望理由になってしまったこともあった。
とにかくそんな地獄のような毎日だった。
それでも継続は力なりの言葉通り、志望理由や自己PRの書き方に関しては日増しに腕が上がり(息子ではなく私のほう)、ほとんどの会社で最終面接までは進むようになった。
今になって思えば、ある時期から志望理由などの書き方を大きく変えたことが功を奏したのかもしれない。
例えば私の就活時代では、この会社に入ったら自分は何をやってみたい、何がしたいといった書き方をしたり自己PRをしたものだが、それを一切改めて、自分はこの会社に対してどんな利益をもたらすことが可能である、或いは自分は何が出来るといったことをなるべく具体的に書くようにしたところ、一気に面接通過率が高まったのである。
しかし当の息子は、実際には利益をもたらすどころか何も出来ないような有様だから、そこを如何に工夫して書くか、愚息のちょっとした良い面を、それこそ高出力の増幅器にでもかけるかのごとくに大仰に書き綴らせたのである。
年商二千億円という某業界最大手の人事担当者の話を聞くことが出来たが、今年は学力が高いだけの人物は軒並み落としたということだった。極端な話、一流大学の学生はほとんど落としたのだという。
では、どういう人物を採用したのかというと、氏いわく「好人物です」とのこと。
もちろんその企業の考え方であるから、すべてがそうだとは思わない。
しかし、社会に出て成功する人には、人を惹きつける魅力のある人物が多いことは間違いないだろう。
本はゆっくり読みましょう
2010年7月4日 ご意見申し上げる コメント (3)ずっと以前の話である。大学時代の友人で作家志望のSという男がいた。彼は同業他社へ就職し、偶然にも同じエリアで鎬を削ることになってしまった。
Sは大変な読書家でもあり、仕事カバンの中にはいつも二三冊の本と原稿用紙が入っていた。
週に十冊は読破するという自宅の彼の部屋は、ついに本の重みで床が抜けてしまったほどだ。
私の本読み人生は、少なからずそんな彼の影響を受けていると言っても良いだろう。
或る日Sに「どうしたらそんなに大量の本を読むことが出来るのだ」と訊ねたことがある。
すると彼はこう言った。
「ゆっくり読めばいいんだよ。ゆっくり読めば速く読めるから」
当時はその言葉の意味がよく理解できなかった。ゆっくり読んだら遅くなるだろうにと、素朴な疑問だけが残った。
その後の私はといえば、巷に溢れる「速読術」なるハウ・ツーものを読んでは挑戦し、すべて失敗に終わる繰り返しだった。
ではなぜ失敗に終わったのか。
それらの本にほぼ共通するのは、視線の移動の仕方だとか、頁全体を映像として捉えるといったようなテクニックに主眼が置かれたものばかり。中には目を通しただけでも「潜在意識下」に情報が蓄積されているから、あとから自分の中で再構築すればいいなどという大胆なものさえあった。
これでは例え大量に本を読んだと言っても、ただ数をこなしたという事実があるのみで、それ以上のものは何もない。しかも速読による誤読のリスクが極めて大きい。
なんだか読んでいて(実践してみて)馬鹿馬鹿しくなってしまったからである。
そもそも本の著者は、速読されることを前提に本を書いているのだろうか。答えは否である。じっくり読んでもらうことで、自分が伝えたかったことを酌んでもらいたいと願っているはずだ。
また、小説などは速読に適していない最たるものだ。単に筋が分かればそれでいいというものではないからだ。
読者としては小説の中に登場する人たちの、心の動きや行動をこそ読みたいのであり、それはむしろ筋に付随した部分に多く含まれる。筋だけを追っていたのでは、小説を読む楽しみが大きく損なわれてしまうだろう。
確かに仕事などで、短時間に沢山の本や資料を読み込まなければならないということがある。しかしその時でさえ、速く読むということはリスクが伴うことを理解していなければならない。
趣味的な読書ならともかく、仕事での速読は、もし万が一に誤読があった場合、それが会社に対して、あるいは顧客に対して不利益を与えかねない結果に繋がるからだ。
ひところ、年に二百冊から三百冊を標榜していた私も、最近では百冊台に落ち着いている。それはSが言っていた「ゆっくり読む」ということを心がけるようになったからだ。
数こそ減ったが、ゆっくり読むようになってからの方が、本一冊づつの内容がしっかり頭の中に留まるようになった。
Sが言っていた速く読めるということについては、どんな本でも最初の十頁から二十頁を心を落ち着かせてじっくり読むと、その本の流れの速さに乗ることが出来る。
あとは一度乗ってしまえば、それほど苦労することはない、と理解している。
もちろん難解な本は流れから弾き出されてしまうことしばしばであるが、読者としての自分のレベルを高めるしか方法はない。
Sは大変な読書家でもあり、仕事カバンの中にはいつも二三冊の本と原稿用紙が入っていた。
週に十冊は読破するという自宅の彼の部屋は、ついに本の重みで床が抜けてしまったほどだ。
私の本読み人生は、少なからずそんな彼の影響を受けていると言っても良いだろう。
或る日Sに「どうしたらそんなに大量の本を読むことが出来るのだ」と訊ねたことがある。
すると彼はこう言った。
「ゆっくり読めばいいんだよ。ゆっくり読めば速く読めるから」
当時はその言葉の意味がよく理解できなかった。ゆっくり読んだら遅くなるだろうにと、素朴な疑問だけが残った。
その後の私はといえば、巷に溢れる「速読術」なるハウ・ツーものを読んでは挑戦し、すべて失敗に終わる繰り返しだった。
ではなぜ失敗に終わったのか。
それらの本にほぼ共通するのは、視線の移動の仕方だとか、頁全体を映像として捉えるといったようなテクニックに主眼が置かれたものばかり。中には目を通しただけでも「潜在意識下」に情報が蓄積されているから、あとから自分の中で再構築すればいいなどという大胆なものさえあった。
これでは例え大量に本を読んだと言っても、ただ数をこなしたという事実があるのみで、それ以上のものは何もない。しかも速読による誤読のリスクが極めて大きい。
なんだか読んでいて(実践してみて)馬鹿馬鹿しくなってしまったからである。
そもそも本の著者は、速読されることを前提に本を書いているのだろうか。答えは否である。じっくり読んでもらうことで、自分が伝えたかったことを酌んでもらいたいと願っているはずだ。
また、小説などは速読に適していない最たるものだ。単に筋が分かればそれでいいというものではないからだ。
読者としては小説の中に登場する人たちの、心の動きや行動をこそ読みたいのであり、それはむしろ筋に付随した部分に多く含まれる。筋だけを追っていたのでは、小説を読む楽しみが大きく損なわれてしまうだろう。
確かに仕事などで、短時間に沢山の本や資料を読み込まなければならないということがある。しかしその時でさえ、速く読むということはリスクが伴うことを理解していなければならない。
趣味的な読書ならともかく、仕事での速読は、もし万が一に誤読があった場合、それが会社に対して、あるいは顧客に対して不利益を与えかねない結果に繋がるからだ。
ひところ、年に二百冊から三百冊を標榜していた私も、最近では百冊台に落ち着いている。それはSが言っていた「ゆっくり読む」ということを心がけるようになったからだ。
数こそ減ったが、ゆっくり読むようになってからの方が、本一冊づつの内容がしっかり頭の中に留まるようになった。
Sが言っていた速く読めるということについては、どんな本でも最初の十頁から二十頁を心を落ち着かせてじっくり読むと、その本の流れの速さに乗ることが出来る。
あとは一度乗ってしまえば、それほど苦労することはない、と理解している。
もちろん難解な本は流れから弾き出されてしまうことしばしばであるが、読者としての自分のレベルを高めるしか方法はない。