東日本大震災からまもなく10年目を迎えようとしている。
そして今朝、宮城県を震源とする比較的大きな地震があった。
このパターンは10年前のあの時と同じだ。
2011年3月9日、大震災が発生する2日前のこと。T大学の某教授と打ち合わせをしている最中に、大きな地震が発生した。研究棟の上層階だったので揺れが大きく、教授室に設置されていたスライド式の大きな書架が右に左に移動を繰り返した。
幸い大きな被害は出なかったが、その時は打ち合わせも早々に切り上げてしまった。
まさかこの2日後に、あの未曾有の大震災が発生しようとは夢にも思わなかった。
よく日本で一番安全な場所はどこかといった話がなされることがある。しかし結論から言うと何処にも無いということだ。
北海道の北部や中国地方などが比較的地震が少ないという人がいる。だが、それは錯覚であり、誤解といっても良いだろう。
世界中で過去に発生した地震を地図上に落とし込んでみると、確かにまったく地震が起きていない場所がある。しかし日本はまるで世界中の地震を一手に引き受けるかのように、集中して発生していることが分かる。
つまり世界規模の観点から見れば、日本は何処も安全な場所は無いということになる。
私はこのところ、空いたペットボトルに水を詰めて保存したり、缶詰やレトルト食品を買い込んだりするのが日課のようになっている。
あまりにペットボトルに水を溜め込むので、家人からは笑われているが、笑われたままで終わることを切に願っている。
10年前のあの繰り返しだけはもう二度と御免である。
そして今朝、宮城県を震源とする比較的大きな地震があった。
このパターンは10年前のあの時と同じだ。
2011年3月9日、大震災が発生する2日前のこと。T大学の某教授と打ち合わせをしている最中に、大きな地震が発生した。研究棟の上層階だったので揺れが大きく、教授室に設置されていたスライド式の大きな書架が右に左に移動を繰り返した。
幸い大きな被害は出なかったが、その時は打ち合わせも早々に切り上げてしまった。
まさかこの2日後に、あの未曾有の大震災が発生しようとは夢にも思わなかった。
よく日本で一番安全な場所はどこかといった話がなされることがある。しかし結論から言うと何処にも無いということだ。
北海道の北部や中国地方などが比較的地震が少ないという人がいる。だが、それは錯覚であり、誤解といっても良いだろう。
世界中で過去に発生した地震を地図上に落とし込んでみると、確かにまったく地震が起きていない場所がある。しかし日本はまるで世界中の地震を一手に引き受けるかのように、集中して発生していることが分かる。
つまり世界規模の観点から見れば、日本は何処も安全な場所は無いということになる。
私はこのところ、空いたペットボトルに水を詰めて保存したり、缶詰やレトルト食品を買い込んだりするのが日課のようになっている。
あまりにペットボトルに水を溜め込むので、家人からは笑われているが、笑われたままで終わることを切に願っている。
10年前のあの繰り返しだけはもう二度と御免である。
コメント
私は東北から都内に来ていて10年前の震災には遭わなかったです。
が、しかし「どこに居ても安心できない」って気持ちになりました。
私は、電車の中。 対面朗読の仕事で、点字図書館へ行く途中でした。
夜は、図書館に泊まったけれど、怖かったです。
今日も、宮城に地震があったとか…。
日本は、どこにいても、地震の恐怖に脅かされますね~。
未曾有という言葉がありますが、まさにそれを実感した震災でしたね。
当時のことはよく覚えています。関東でも計画停電や流通の停滞。
食料品を買うにも並んでいました。
夫は泊まり勤務、私と愛犬まる家にいましたが、相当な揺れで額縁などが落ちました。すぐ余震もありましたよね。緊急地震速報の音やサイレンの音が怖かったです。
被災地の方はどれほどのご苦労と困難がおありだったか…。
自治会が主体となって寄付や物資を運んだりもしましたっけ…。
あの震災は原発が被害に遭った事がより状況を悪くしましたね。なぜすぐに廃炉にしなかった?と。地震大国日本。世界を見ても、え??というところで大地震があったり。地球上安全を担保された場所なんてないですよね。備えても心構えしても私はきっとパニックです。
いざ!という時はどうなるのでしょう??
今日が無事に終わる事って奇跡なんですね。
何処も安全な場所がない。これが日本の現実です。
これは私たち、日本人の宿命と言えるでしょう。
ですから、あとは如何に減災に努めるか。それしかありませんね。
あの日は皆それぞれにドラマがありました。
私は仕事中でしたが、窓の外に立ち並ぶビル群が大きく揺れ動く姿に、もうダメかもしれないと覚悟をした覚えがあります。
私の場合、徒歩でどうにか自宅へ帰れましたので、アミさんのように自宅以外の場所へ泊まることはありませんでしたが、その自宅へ戻っても、どこから手をつけて良いかわからないほどの惨状となっていました。
その晩は余震と寒さに震えながら夜明けを待ちましたが、たまらず表へ出てみると、今まで見たこともないような美しい星空が広がっていました。
あの冷たく深く、そして悲しいまでに澄んだ星空は、一生心に残り続けることでしょう。
東北だけではなく、近隣の関東やその他の地域の方々にも大変な艱難辛苦を与えた大震災でした。
自分の仕事が偶然にも震災復興の一助に繋がるものだったので、それからの五、六年間はそのためだけにひたすらに働いた感があります。というか、もしかしたら自分はこの仕事をするために存在したのではないかとさえ思えました。
原発避難地域へも調査活動で幾度となく出かけましたが、原発の可否についての答えはそう遠くないうちに出されるであろうと実感したものです。
とにかく自然災害から逃れることが出来ないのが日本です。
今までの災害の教訓を活かすことが、私たちの命を守る唯一の方法でしょう。
別の意味で3月11日はマダムMさんの胸に刻まれているようですね。
私の義兄は、3月11日に妻である義姉を入院先の病院へ呼び寄せていたことで、津波から救うことが出来たと語っていました。
義兄がガンで入院していなかったら、間違いなくその日義姉が津波に遭っていた訳で、いわば命をかけて妻を救ったということになります。
それから18日後に義兄は逝ってしまいました。そういうことがこの世にはあるのですね。