震災の記憶 息子が体験したこと
2019年3月12日 日常 コメント (10)お陰様で長男は震災のあった二日後に、泥だらけの恰好で無事に帰宅した。妻は泥だらけで帰宅する息子の姿を夢で見たそうだ。それが現実のものになった。
私の人生の中でこの時ほど嬉しかったことはない。頭からつま先まで泥だらけの息子を、私は思わず抱きしめた。
息子から聞いた話では震災直後に津波襲来の報を受け、ガス製造工場のプラントを停止させたが(息子は産業用ガス製造の技師)、管理棟が低層階であることから近隣の他社ビルへと避難した。そこには同じように避難してきた人たちで一杯だったそうだ。
最上階の部屋から外を見ていると、津波が一気にコンビナートを襲い、ありとあらゆるものを押し流していった。
ちょうど購入したばかりのクルマも流されてしまったが、息子が一番ショックを受けたのは人が流されていくのを見てしまったことだった。その中には既に亡くなった人もいたようで、震災後もその光景が脳裏から離れなかったようだ。
また、夜に入って、目の前のガスタンクが爆発し、巨大な火柱が上がった時には生きた心地はしなかったという。
そのビルの最上階には200名ほどが避難していたそうだが、火柱と轟音の物凄さに誰もがこれで最期だと思ったそうだ。
飢えと寒さと恐怖の一夜を明かした人達は、ここを離れるか、それとも留まって救助を待つかの二択を迫られた。
その後も頻繁に発生する余震。いつまた大きな津波が襲ってくるかも分からない。もし避難中に津波に襲われたらひとたまりもないだろう。といって自分たちのいるこのビルも決して安全とは言えなかった。
ここを脱出するか、それとも残るか。これはもう賭けとしか言いようがなかった。
ビルの周りは水没しており、避難するにしても歩いて行くしか方法が無かった。
しかし、濁り水の中を避難することがどれほど危険なことか。ゴムボートなどあるはずもない。もし穴が開いていたら吸い込まれてしまうだろう。
それでも息子は避難することを選んだ。そして一緒に避難する人たちと身体をロープで結び合い、膝上までくる水の中を慎重に歩き始めた。
幸い避難途中で自衛隊の方々に救助され、そのままボートで駐屯地へ移送されたらしく、そこでまた一晩を明かしたという。毛布や水、そして食料品も与えて貰い大変有難かったそうだ。
三日目の朝になって、自宅に帰るかしばらくここに留まるかは自己責任でと言われ、家のことが心配だった息子は帰宅することにした。
そしてようやく帰宅。
実は息子が音信不通になって、私は私で息子の職場を目指して探しに出かけたのだった。ちょうど避難したビルから自衛隊の駐屯地へ移動した頃だ。
もしかしたら、その時点で息子に会えたかもしれなかった。何故なら自衛隊の駐屯地の前までやって来たものの、その先が水没しているために進む事が出来ず、暫くの間、呆然と水際に佇んでいたからだ。
多分その時には駐屯地内に保護されていたと思われる。
流されてしまったクルマは、すぐには見つからなかった。
息子も半ば諦めていたのだが、信じられないことが起こった。
震災から2ケ月になろうかという頃、職場の駐車場にクルマが戻っていたのだ。
これについては未だに誰が運んでくれたのか分からない。また、息子のクルマだと何故分かったのかも不明である。
外見の大きな損傷は無いようだったが、水を被ってしまったクルマは、もう乗ることは無理のようで、結局廃車となった。
ただ、ダッシュボードから腕時計が見つかったが、それは私が息子に贈った就職祝いの品だった。
防水であったことが幸いして、ちゃんと時を刻んでいた。
息子はこの時計を今も毎日身に付けて仕事に出かけている。
私の人生の中でこの時ほど嬉しかったことはない。頭からつま先まで泥だらけの息子を、私は思わず抱きしめた。
息子から聞いた話では震災直後に津波襲来の報を受け、ガス製造工場のプラントを停止させたが(息子は産業用ガス製造の技師)、管理棟が低層階であることから近隣の他社ビルへと避難した。そこには同じように避難してきた人たちで一杯だったそうだ。
最上階の部屋から外を見ていると、津波が一気にコンビナートを襲い、ありとあらゆるものを押し流していった。
ちょうど購入したばかりのクルマも流されてしまったが、息子が一番ショックを受けたのは人が流されていくのを見てしまったことだった。その中には既に亡くなった人もいたようで、震災後もその光景が脳裏から離れなかったようだ。
また、夜に入って、目の前のガスタンクが爆発し、巨大な火柱が上がった時には生きた心地はしなかったという。
そのビルの最上階には200名ほどが避難していたそうだが、火柱と轟音の物凄さに誰もがこれで最期だと思ったそうだ。
飢えと寒さと恐怖の一夜を明かした人達は、ここを離れるか、それとも留まって救助を待つかの二択を迫られた。
その後も頻繁に発生する余震。いつまた大きな津波が襲ってくるかも分からない。もし避難中に津波に襲われたらひとたまりもないだろう。といって自分たちのいるこのビルも決して安全とは言えなかった。
ここを脱出するか、それとも残るか。これはもう賭けとしか言いようがなかった。
ビルの周りは水没しており、避難するにしても歩いて行くしか方法が無かった。
しかし、濁り水の中を避難することがどれほど危険なことか。ゴムボートなどあるはずもない。もし穴が開いていたら吸い込まれてしまうだろう。
それでも息子は避難することを選んだ。そして一緒に避難する人たちと身体をロープで結び合い、膝上までくる水の中を慎重に歩き始めた。
幸い避難途中で自衛隊の方々に救助され、そのままボートで駐屯地へ移送されたらしく、そこでまた一晩を明かしたという。毛布や水、そして食料品も与えて貰い大変有難かったそうだ。
三日目の朝になって、自宅に帰るかしばらくここに留まるかは自己責任でと言われ、家のことが心配だった息子は帰宅することにした。
そしてようやく帰宅。
実は息子が音信不通になって、私は私で息子の職場を目指して探しに出かけたのだった。ちょうど避難したビルから自衛隊の駐屯地へ移動した頃だ。
もしかしたら、その時点で息子に会えたかもしれなかった。何故なら自衛隊の駐屯地の前までやって来たものの、その先が水没しているために進む事が出来ず、暫くの間、呆然と水際に佇んでいたからだ。
多分その時には駐屯地内に保護されていたと思われる。
流されてしまったクルマは、すぐには見つからなかった。
息子も半ば諦めていたのだが、信じられないことが起こった。
震災から2ケ月になろうかという頃、職場の駐車場にクルマが戻っていたのだ。
これについては未だに誰が運んでくれたのか分からない。また、息子のクルマだと何故分かったのかも不明である。
外見の大きな損傷は無いようだったが、水を被ってしまったクルマは、もう乗ることは無理のようで、結局廃車となった。
ただ、ダッシュボードから腕時計が見つかったが、それは私が息子に贈った就職祝いの品だった。
防水であったことが幸いして、ちゃんと時を刻んでいた。
息子はこの時計を今も毎日身に付けて仕事に出かけている。
コメント
逝った人の分まで、幸せになっていただかないと…。
自然は怖いですね~。
津波どころか浸水も経験したことが無いので、水の怖さは映像からのものですが、息子さん、心の傷になっていないといいですね。聞くところによると、さすが日本のテレビは人が流されている場面は放映されませんでしたが、海外メディアははっきり分かる映像を流したとか。
人間には忘れてはいけない記憶と、忘れた方がいい記憶がありますね。
よくぞご無事で。ええ、きっと息子さんがその体験を忘れる事は無いでしょう、
そして誰よりも生きる事の、生かされている事の尊さを感じていらっしゃると思います。戦時中、災害時、その時々の体験は鮮烈に脳裏に焼きつきますね。あの震災にも負けず時を刻み続けている時計。息子さんにとってはお守りだったんだと思います。
拝見していて都内もよく揺れたあの日を思い出しました。
怖がりではありませんが8Fから階段を使って降りた(本当はしないほうがいいね、と後で夫が云いました)時には生きた心地がしなかったです。
ありがとうございます。息子も喜ぶと思います。
心的外傷後ストレス障害(PTSD)ではないかと思われる症状が見受けられましたが、現在はほぼ快復したように思います。
今は毎日、当時と同じ職場へ通っています。
救助作業や遺体収容作業に関わった方々の多くが、心的外傷後ストレス障害に罹ったという話を聞いています。
気仙沼市に住んでいる知人の女性が、家の前に流されてきた瓦礫や泥を取り除いていたところ、自分の足元から人の腕が出てきてショックを受け、寝込んでしまったということです。
ましてや、毎日のように遺体の収容作業をしていた自衛官、警察官、消防団などの方々の心情を思うと胸が詰まる思いです。多分私ならメンタルがそんなに強くないので、精神が崩壊するかもしれません。
いまもまだ行方不明者が大勢いますが、ひとりでも多く家族の元へ帰ることができたら良いなと思っています。
ありがとうございます。息子は元気に仕事をしています。時々テレビで流れる津波の映像を見ても、最近では動揺することはなくなりました。ただ、人が流されて行った光景は、消し去ることは出来ないようです。
あの津波で新車を流されてしまったことが余程堪えたらしく、時々大きな地震があると、自宅にクルマを置いて電車で出勤したりしています。やはりトラウマになっているのでしょうね。
マダムMさんがおっしゃるように、人間には忘れてはいけない記憶と、忘れた方がいい記憶があると思います。この大震災で起きた様々な事柄も、まさにその通りだと思います。
人の運命とはまったく分からないものですね。この大震災で私の知っている人だけでも、何人かが命を落としました。前の日まで元気だった人が、次の日には考えもしなかった大災害によって命を落とす。当時私はそれが運命だったのだと簡単には決めつけたくはない思いに囚われていました。
息子も命の危機に見舞われて、人生観も変わったようです。普通に生きていることの素晴らしさを実感しているに違いありません。
突然命を絶たれてしまった大勢の人々の無念を思うと、この命は無駄には出来ませんね。
東京も大きく揺れましたから、高層マンションに住まわれている人たちは恐い思いをされたことでしょう。私も子供の頃、十勝沖地震を、これもまた一番被害が大きかった青森で経験しているのですが(achara氏も一緒に)、揺れる階段を同級生たちと降り、すごく怖い思いをしました。
日本から地震が無くなったらどれほど良いでしょうか。せめて予知技術だけでも向上することに期待したいと思うのですが...