◎職場の中の携帯電話が一斉に警報を鳴らし始め、それが警報と分からずに皆で
顔を見合わせたこと。その直後の激しい揺れ。机に必死にしがみついているだ けだった。壁の時計は2時46分。

◎揺れが収まりそうになると、再び強い揺れが襲ってくる。そして次もまた。長過ぎる。これは普通じゃない。まったく初めての経験だ。嫌な予感が過る。
向かいのビルが左右に大きく揺れていた。ビルってこんなにしなるものなのか。

◎揺れが収まらない中を、灯りの落ちてしまった暗い階段を1階まで降りる。ビルの前に出ると、この界隈にはこんなにも大勢の人間がいたのかと思う程、道路に人が溢れていた。

◎短い間隔で襲ってくる余震。余震といっても震度5クラスはある。そのたびにあちこちから悲鳴があがる。

◎雪が降り始め、寒さが身に沁みる。しかし誰も建物の中へ戻ろうとはしない。持ってきた携帯ラジオをからは、津波警報が流れている。仙台港で20~30メートルの高さになるから早く避難するようにとアナウンサーが叫んでいる。いや、どこそこでは40メートルと言っていたような...
嘘だろ。

◎職場が仙台港のすぐ傍にある長男へ携帯から電話をする。
しばらくすると「ああ、俺だけど、こっちは大丈夫...」
息子がそう言いかけた時に受話器からゴォーッという音が聞こえ、そして電話が途切れた。

◎発生から一時間半が経った。余震も少し収まってきたようだ。少しづつ外へ出ていた人たちが建物の中へ入り始めた。私も覚悟を決めて建物の中へと入る。
部屋のドアを開けようとすると、全然開かない。どうやら部屋の中の什器類がドアの前に立ち塞がっているようだ。
何度も体当たりをして、少しづつスペースを空け、ようやく身体を潜り込ませることが出来た。

◎本社とは連絡が取れず。職場にいた人たちに安全確保の上帰宅するように命じ、私も戸締りや電源等の火災発生リスクがないかどうかを確認する。その間も頻繁に地震警報の不快音が響き渡る。通話が途切れた息子のことが気になる。

◎全員が退去したことを確認し、最後に会社を出る。この頃には帰宅を急ぐ人たちで街は溢れていた。道のあちこちには崩れた壁や、ビルから落ちてきた窓ガラスなどが散乱していた。

◎公共交通機関はすべてがストップしていたので、徒歩で帰宅するしか方法はない。途中コンビニに立ち寄るも、ほとんどの商品は売り切れ状態だった。

◎携帯電話で家族への連絡を試みるが繋がらず。国道は瓦礫が散乱しているため、途中から脇道に入る。そして自宅の近くまで流れている川の堤を歩くことにした。だが、しばらくの間、築堤の上を歩いていると、下流の方からゴーッッという音が聞こえてきた。見ると真っ黒い壁のような波が遡ってくる。津波だ。

◎自分が立っている築堤の周囲に逃げ込むところはない。遡ってくる津波が、私の歩いている築堤を超えて溢れるようだったら助からない。せめて自分の最期をと手にした携帯電話を動画モードにして、迫りくる津波を撮影した。
だが、津波は築堤を超えることなく上流へと流れて行った。助かった。

◎電気は止まっているはずだ。人工呼吸器をつけているおふくろはどうなったか。

◎2時間以上かかってようやく自宅に辿り着く。カギを開けて中に入るが誰もいない。洋食器やグラスなどを収めていた家具は転倒し、壊れた食器類が床に散乱していた。風呂場に行ってバスタブに水を溜め始める。これは今まで何度も大地震を経験したことで学んだ知恵。完全に断水になるまでまだ時間はあるはずだ。ここで溜めた水はきっと役に立つ。

◎親父や妹、そして病床のおふくろがいる家へ行ってみる。妻もそこにいた。おふくろの人工呼吸器は本体内のバッテリーで稼働している。予備バッテリーもあるからあと24時間は大丈夫なはずだ。だが、それ以降はどうするか。

◎親父が物置から発電機を出してくる。おふくろのことを考えて、親父が最近購入したものだった。まさかこんなにすぐに役立つことになろうとは。人工呼吸器とは直接繋げないが、バッテリーの充電には使える。ついでに室内の家電にも繋いでみたところ、部屋の灯りやテレビを点けることが出来た。
備えあれば憂いなし、とはこのことか。しかし、新たな問題が。

◎深夜になって二男やその彼女(現在は嫁)、そして三男も帰ってくる。いないのは長男だけだ。ラジオからはどこそこで200名ほどの遺体が見つかったとか、300名の遺体が収容されたといったニュースが流されている。その間にも緊急地震速報が流れ、そのたびに緊張が走る。

◎その晩は皆で親父の家に泊まった。発電機は助かるが、問題は燃料のガソリンだ。とりあえずガソリン缶には20リットル残っている。そのあと確保できるかどうかは不明だ。

◎燃料節約のために発電機を止め、懐中電灯の明かりの中で遅い夕食を取る。果たして長男は無事なのか。電話が途切れる瞬間の轟音が、気になって仕方がない。
余震が続く中、家の外へ出てみた。夜空には今まで見たこともないくらいの星が瞬いていた。まるで亡くなった人たちの魂のようだ。
コンビナートでタンクが爆発して、東の空が赤く光っている。その爆発したタンクのすぐ隣に息子は勤務している。妻は気丈にしているが私は泣きたい気分だった。
そしてもう一度、星空を見上げた。

本当の戦いがここから始まるとは、この時はまだ思いも寄らなかった。

コメント

まるこ
2019年3月11日17:20

生々しい描写に被災地の方の恐怖と不安が伝わって来ます。
そしてその後のご苦労も…。
ヒコヒコさんご一家ご無事で本当に良かった…


マダムM
2019年3月11日18:32

実際に体験された生々しいお話、当時の映像が浮かんできます。
私は川崎の実家で(電車が止まった)両親とテレビで視ていました。被災地の方には申し訳ないのですが、とても現実の事とは思えず、ただただテレビ画面に見入っていました。川崎でも夜中に何度も緊急地震速報が流れ、そのたびに目が覚めました。地域的に誤報でしたが、それでもビクっとしました。
夫は娘が家にいたので、徒歩と都営地下鉄を乗り継ぎ帰宅してくれました。娘とはメールのやり取りをずっとしていました。やはり一人で家に居るのは不安だったので、電話は通じないからメールが頼りでした。
ご長男さんの安否については、どんなに心配されたか想像に難くないです。
災害は被災後の方が大変ですよね、思い出したくないでしょうが是非お話して下さい。私たちはマスコミの報道で偏った情報しか、知る事が出来ないのですから。

この時、実家に泊まり父と過したのが、元気な父との最後の時間でした。震災より10日後にあっけなく逝ってしまたので。

ヒコヒコ
2019年3月11日23:52

まるこさま
お陰様で息子は二日後に戻って来ました。近くのビルに逃げ込み、最上階で200名ほどの人たちと一夜を明かしたようです。ただし、目の前のタンクが爆発した時はもうだめだと覚悟したそうです。
翌日は自衛隊の駐屯地で保護され、さらにその翌日は自己責任ということで各自帰宅したそうです。息子は息子できっと自宅は津波に流されていると思ったそうです。
我が家はただただ運が良かったと、それだけです。

ヒコヒコ
2019年3月12日0:12

マダムMさま
お陰様で我が家はひとりも欠けることはありませんでしたが、知人などには家族を失った人も多く、手放しでは喜べませんでした。
長男の安否が掴めなかったのが一番辛かったですが、妻は絶対に帰ってくると固く信じていたようです。
ご指摘のように被災後の方が大変で、様々な苦難の連続でした。なにしろ病人を抱えていましたので、電源喪失は命に係わります。そのひとりの命を繋ぐために、家族や周囲の方々との連携がとても大事なことでした。
この経験がいつか誰かの役に立つならと、改めて書き残したいと思います。

マダムMさんもお父上とこの震災によって、お過ごしになることが出来たとか。その後すぐにご逝去されたのは誠に残念ですが、思わぬ形で最後の時間を過ごすことが出来たのは何よりの親孝行でした。

あとから皆の話を聞くと、ひとりひとりにドラマがあったことが分かり、生きることの意味を考えさせられたものです。

マサムネ
2019年3月12日1:42

そうなんですよね。これを機に僕も実家で不動になってる発電機オーバーホールして動くようにしておこう・・・。 水は雨水を貯めてあるのでトイレや洗い物はすぐ困ることはないですね。 灯油を多めにストックしてあるので万が一はストーブで煮炊きできる。ガソリンタンクは持ってますが、気温の安定した倉庫がないのでストックできないですね・・・。最悪の場合父親のトラックごと借りて軽油の発電機を回して電力確保ですかね。 震災直後、多賀城に住んでいた友人が夜は無法地帯(多くがガソリンを求めてなにかやっている)になっていたと言ってました。常日頃からライフラインの維持のために備えておかないといけないですね。ためになります!

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