中間報告
中間報告
中間報告
16日は仙台で山形担当者との合同会議を行い、終了後は秋田へ移動し、翌17日は秋田市内で会議を行った。同時期、猛烈な寒波が北海道を襲っていたが、秋田も似たような状況で、親子二人で凍えあがっていた。
しかも17日は地吹雪が荒れ狂う青森へ夕刻に到着。まさに最悪のタイミングだ。青森駅から続く新町通りは、メインストリートにも関わらずホワイト・アウト状態。目も開けていられないような猛烈な吹雪に、気がつけば私も息子も雪だるま。
まさか青森まで来て、親子で雪だるまになろうとは思いも寄らなかった。
タクシーを捕まえようにも、そのタクシーが来ない。仕方なく吹雪に逆らいながら歩き続け、ようやくホテルへ辿り着いたのだが、予期せぬ事態に見舞われる。
ベッドに横になっていたら、みぞおちのあたりに痛みが走り出したのだ。鈍痛と言ったらよいだろうか。過去に何度か味わった胃痙攣に似ている。
窓の外は相変らずの吹雪。息子とは夕食を一緒に食べに行く予定だったが、この痛みがなかなか治まらない。
もしかしたら列車の中で食べた駅弁のせいかとも思ったが、同じものを食べた息子は平気だというから食中りではなさそうだ。
なかなか治まりそうもない痛みに、やむなく息子から胃腸薬を分けて貰うことにした。
結局、この晩は夕食を食べに外出するのを止め、部屋でおとなしく過ごすことにした。もっとも外出出来るような天候ではなかったが。

翌日は午前中に青森の担当者たちと会議を行い、終了後は昼食を取る暇もなく盛岡へ移動し、我々を待ち構えていた岩手の担当者たちと合流。会場のホテルで会議を行った。
胃の調子はいまひとつだったが、昨夜ほどの痛みではない。ただ、なんとなく身体がだるい。風邪?まさかインフルエンザ?でも熱はなさそうだ。
岩手での会議がすべて終了した頃には、すっかり日が暮れていた。
今回は息子のお披露目という意味合いもある会議だったが、各県の担当者から好意的に迎え入れてもらうことが出来てひとまず安堵した。
安堵すると腹が急に減って来るもので、二人で盛岡駅近くの焼肉屋に入る。とりあえずの成功を祝して私はビールで、下戸の息子はコーラで乾杯した。

さて、その晩。仙台に戻ってからのこと。
急な悪寒に襲われて、体温計で測ってみたら38℃を超えていた。
おそらくみぞおちの痛みは風邪の前兆であったようだ。
聞けば息子も風邪をひいたという。
結局、土日の2日間は寝て過ごすしかなかった。
しかし、寝ているわけには行かない。今週は月曜日から会津若松市、郡山市、いわき市と会議が待っている。
昔は出張なんてなんでもなかったのに、だんだん億劫になってきた。これも気力体力の衰えか。だからこそ息子に交代するわけなのだが、なんとなく淋しい。
さて、これから後半戦に突入。
まずは皆様への中間報告。
最終報告ではどうなってしまうか。それは見てのお楽しみ~。

雪の青森駅(写真上)
青森・新町通り吹雪の間隙に(写真中)
盛岡・お疲れさんの焼肉(写真下)
12~14日までの3連休は、明日から2週にかけて行う、息子と二人での東北出張の準備にほとんど費やされてしまった。
東北の拠点を回り、大勢の関係者に会い、息子の紹介を兼ねて情報交換や意見聴取などを行う予定なのだ。
息子もだいぶ緊張しているようで、私の家に来ては資料を読み込んだり、質問を浴びせかけたりしていた。しかし、もっと緊張しているのは私かもしれない。
まず、息子が同じ会社に入ったその経緯などから話を始めなくてはならないだろうし、私自身の今後の身の振り方についても尋ねられる可能性がある。
親のいる会社に後から自分の子供が入社してくるようなケースでは、周囲から、かなり厳しい目で見られるものだ。他の新入社員と同じプロセスを経て入社したのかどうか、疑いの目を持って見られるのが普通だろう。特に同じ会社の人間からは尚更そのように見られることだろう。
息子から入社の意向を伝えられた時、一般応募という形で試験を受けるように強く勧めたのはそのためである。
試験官は6名だが、全員私の後輩ばかり。どうせ分かることなので、息子が受験することを伝えたが、それ以上の接触はしないようにした。彼等とは部門がまったく異なるので利害関係もないが、変な噂が立つのも嫌だからだ。あくまでも採用の可否は彼らの判断次第である。また、私もそれで最良の方法であると思ったのだ。
もし、情実的なものが加味されたら、あとで苦しむことになるのは息子本人だからだ。

お陰様で筆記試験も面接も合格となり、正々堂々と入社することが出来たのだが、一番安堵したのはおそらく私と妻のふたりだろう。そしてもうひとつ。今の会社に私が身を置くことが出来るのも、あと僅かになったことがこれで確定したわけだ。
息子に引き継ぐことは沢山あるが、完全には無理だと思う。ある程度の見切り発車は仕方がない。あとは息子がどのように頑張るかだ。
明日からの親子出張は、色々な思いが我らの上に交錯することだろう。

今年の読書始めは
昨年の1月から12月までの間で、自分が購入し、読んだり途中で投げ出した本はおよそ270冊だった。その前の年の2017年は350冊、そして2016年は400冊だった。つまり、自分の読書量は年々減少傾向にあるということだ。
それでもこの数は読書嫌いな人から見れば、異常な数に思えることだろう。ましてや400冊などといったら、呆れられてしまうのではないだろうか。
実際、妻からは随分文句を言われ続けている。なにしろ生活スペースが本によって浸食されているからだ。
一般に女性に比べて男性は収集癖傾向が強いという。私も子供の頃から切手を集めたり、日本中の駅の入場券を集めたりしていた。
只管本を買い求め、それを読んで、そして捨てもせず売りもしないで傍に溜め込んでいく私を、妻や妹は理解出来ないでいる。それはそうだろう。なにより自分自身が己のこの行動を理解出来ないでいるのだから。
近年、電子書籍という新しい媒体が登場した。
これなら場所もスペースもとらずに、しかも大量の本を小さな端末ひとつで楽しむことが出来る。だが、どうしても食指が動かない。それはおそらく、本に求めているものが単に知識や情報の収集だけではなく、「紙の本」というひとつの個体が持つ魅力(装丁やインクの香り、手触りや重さ、ページをめくる音等々)が大きいからではないだろうか。本とは実は五感の大半を使って楽しむものなのかもしれない。
一流の作者と装丁者が作り出す本は、所有するだけでも心を豊かにしてくれるような楽しい気分にさせてくれる。

さて、今年の読書始めはコミックだった。そもそも、私に読書習慣を与えてくれたのはマンガである。若い頃ほどは読まなくなったが、それでもたまにはマンガを読んでいる。
去年の暮れに終了したNHKの大河ドラマ「西郷どん」を毎回観ていた妻が、日本の幕末期に興味があるから勉強し直したいと言い出した。しかし、活字ばかりを読んでいると目が疲れるというので、マンガならば多少は良いだろうということになり、適当な本を探していたところ見つかったのが写真にある「漫画版 日本の歴史」シリーズである。

初刊の「日本のはじまり」から最終15刊「戦争、そして現代へ」まで、クセの無い誰にでも読みやすいタッチのマンガで、わかりやすく日本の通史を学ぶ事が出来る。
とりあえず妻が読むことを前提に、江戸時代中期の10刊から13刊の明治時代後期までを購入し、まず私が読んで、それを妻に渡すというやりかたで現在も読書中である。
本書の監修は歴史学者で東京大学の山本博文教授だが、各刊の巻末には山本教授の他に、作家や女優など各界の著名人の解説が入っているところが面白い。
そのようなこともあり、今年は少しコミック系に挑戦してみようかと思っている。
2019年一回目の「不思議草子」。

話は1月3日まで遡る。
私は今年が後厄なので、厄払いのために某神社へ参拝した。仙台ではとても有名な神社である。
基本的に神社への参拝は午前中に行うのが正しいといわれるが、私もそれに倣って午前8時に神社を訪れた。
しかし祈祷開始が午前10時からと知り、2時間ほど時間を潰さなくてはならなくなった。事前チェックが甘かったと悔やむ。
妻も一緒だったので、広い境内を歩いてみたり、長い石段を上り下りして疲れてみたり、或いは出店をひやかしたりと、少しでも時間を潰そうと試みたのだが、それでも30分も潰せない。
結局、寒いからと社務所の中にある待合室へ戻り、ひたすら時が過ぎるのを待った。
ようやく名前が呼ばれたのは10時過ぎ。神官に導かれて昇殿した時には、すっかり身体が冷え切っていた。
この時、私と一緒に本殿へ入ったのはおよそ百名ほどだった。私は最初の方だったので、本殿の最前部、しかもほぼ中央の場所へ座らせられた。
顔をあげると、依代である大鏡が数メートル先に安置されている。少し身体を斜めにすれば、私の姿が映ったかもしれない。そのくらい本殿の中央部に私は座った訳だが、このあと私に生じた奇妙な現象は、もしかしたらそのせいであったのかもしれないと今になって思っている。

神主のお祓いが始まると、私やその他の人たちも頭を下げた。
その頭上に大麻(おおぬさ)が振られ、そして一人づつの名前と願事が唱えられる。それをじっと目を瞑って聞いている。
私と同じように厄払いで訪れた人、一年の家内安全を願う人、志望校への合格を願う人。そして病気平癒を願う人。
みんな願うことは同じなのだなあと、私は耳を澄ませていた。
と、その時である。
閉じていた目の中が、暗黒から薄墨色に変化してきた。そして、その中央部が隆起するような気配を見せ、それがふいに赤子の顔へと変わった。
口を大きく開けて真っ赤な舌が見える。声こそ聞こえないが、泣いている赤ん坊の顔だ。するとさらにその下から、泡が次々に湧き上がるように沢山の顔が現れてきた。先程の赤ん坊の顔は既に消えている。
泡はどれも大人の顔のようであったが、竃で焼く前の、釉薬を塗った陶器みたいにぬらりとしていた。
その間も神主のお祓いの声は続いている。
私に起こった奇怪なその現象もさらに続いた。
大きい顔、小さい顔が、現れては消え、消えてはまた現れる。
もしやこれは、我が身に憑りついていた厄だったのでは。ふと、そんなことが脳裏を掠めた。
しかし、その数があまりにも多過ぎる。流石に私ひとりの厄ではないのではないかと思うようになった。
そしてそれを裏付けるかのように、神主のお祓いが終ると共にすべての顔は消え、私の目の中は再び闇と化した。
この後、大鏡の前で玉串を捧げ、厄除けの儀式はすべて終了した。

帰りの車の中で、今あったことを妻に話すと
「あそこに詣でた人たちの厄が離れたんじゃないの」と言われた。
神様の正面に座っていたから、祓われていくところが見えたのではと妻は言った。
「でも、祓うって、ホコリを祓うのと同じ意味でしょ?だったらまた着くわよねぇ」
だからこそ、毎年お祓いをする訳だろうが、先程現れた無数の顔は、あの参殿に集まった人たちに憑りついていた厄だったのだろうか。
今年も最初から凄いものを見てしまったものだ。
このあと妻と二人で冷え切った身体を温めるべく、ラーメン屋を探してクルマを走らせたのだった。

電話の向こうから妹の悲鳴のような笑い声が。
どうしたんだ、何か面白いことでもあったのかと尋ねても、ヒーヒーと苦しそうな笑い声をあげるだけだ。
こちらはそんな妹の笑い声を、訝しげに聞いているよりほかにない。
やがて深呼吸をする音が何度か聞き取れた。咳払いをしながら呼吸を整えているようだ。
「ジイサマが...」
ジイサマとは我らが親父のことである。
「ジイサマが...ヒィー」
そこまで言って、妹は再び爆笑モードに入ってしまった。

この後しばらくの間、会話が困難な状態に陥ってしまったので、私が冷静になった妹から聞かされた話を、一切脚色することなくファクトのみお伝えすることにしたいと思う。

親父の家にはトイレが2つある。ひとつは母屋に、そしてもうひとつはスタジオにである。スタジオというのはダンス・スタジオのことで、妹がタップダンスやバレエ等の洋舞を教えているのである。
スタジオのトイレは習いに来ている生徒用のもので、家族は普段は使用しない。しかし、この日に限って親父がそのトイレを使用してしまった。ところが暫くすると、トイレの中から親父の呼ぶ声が聞こえてきたのだそうだ。
『おーい、詰まっちまったぁ。おーい』
その声はどこか弱々しく、母親に怒られるかなあと、心配しながら助けを求める子供のようであったという。
『おーい、詰まっちまった。何とかしてくれぇ』
親父の助けを求める声を聞いた妹は
『自分でなんとかせい!』と応えたそうだ。
妹が言うには、そんな現場を見たくはないということだった。それはそうだろう。
妹に冷たくあしらわれた親父は
『アレあったべ、アレが』とトイレの中で叫んでいる。アレとは即ち棒の先にラバーカップが取り付けられた吸引器のことである。下水管などが詰まった時に使用するアレだ(正式名称がよくわからない)。
『どこにあるのか分からん。自分で探してきて』
妹はまたしても冷たくあしらった。

親父は仕方なくトイレからスゴスゴと出て来ると、表へ出て行ったそうだ。物置に向かったのである。物置の中に確かアレが入っていると思ったのだ。
ところが10分経っても、20分経っても帰ってこない。心配になった妹が見に行こうとしたその時、親父はアレではなく、一本の短いホースを手にして戻って来た。
『吸引するやつ無かったの?』
妹の問いかけに『見つかんねぇ。その代わりホース見つけた』と答えたという。
その時、妹はまさかと思ったそうだ。しかし、そのまさかは真実と化した。
長さ30~40センチほどのゴムホースの片方を、水が溢れそうな便器の中に突っ込むと、親父は大きく深呼吸をして、そのホースに吹き込んだのである。
ブグブグゴゴーッという大きな音。離れて見ていた妹は、親父にこんな肺活量があったことに驚いたそうだ。
親父は再び深呼吸をすると、同じようにホースに思いっ切り息を吹き込んだ。
先程よりも大きな音。しかし溢れそうな便器の水位に変化は見られない。
ところが信じられない光景が、妹の目に飛び込んで来たのであった。
何を間違えたのか、親父はホースを加えたまま吸ってしまったのである。それも思いっ切り。

どこぞの国のマーライオンを、こんな場所で見ようとは、流石の妹も思いもしなかったそうだ。
『ウェーッツ、ペペペッ』
親父の咽る声。
しかし、そんなことで諦める親父ではなかった。気を取りなおした親父は、再びホースを咥えて、もう片方を便器の中へ入れようとした時、
『ウワーァ、ペペペッ。反対の方を咥えちまった!!』

この時から妹の、爆笑は止まらなくなってしまったという。
あまりに笑い過ぎて、顔が浮腫んでしまったと半分怒っていた。
親父ならやりそうなことである。むしろこの話を私は冷静に聞いていた。
正月早々、こんな尾籠な話をブログに書かなければならないこっちのことを考えろ。私は心の片隅で、そんな我が身を呪った。

そして昨日。仕事始め。通勤の満員電車の中。誰かのクシャミを聞いた途端、その光景が目の前に現れてきた。ホースを咥える親父の顔。マーライオン。
「ヒィーッツ」
肩を震わせ、声にならない声をあげ、吊革にすがるように私は笑い続けた。



我が正月の恒例行事
我が正月の恒例行事
今では我が家の恒例行事になってしまった感のある、岩手県一関市への新年小旅行。
この旅行の目的はいくつかあって、まず一つ目は「達谷窟(たっこくのいわや)」へ詣でることと、そこで最強のお札と呼ばれている「牛玉寳印」を受けること。そして世嬉の一酒造で「果報もち膳」を食するというこの三つである。
Uターンで混み合う上り車線を尻目に、東北縦貫道を一関ICで降りると、景勝地として知られる「厳美渓」方面へと向かう。その厳美渓から今度は北へと車を走らせることおよそ5分で達谷窟へ到着する。
達谷窟とは正式名称「達谷窟毘沙門堂 別當達谷西光寺」。パワースポットとして知る人ぞ知る処である。
達谷窟毘沙門堂の歴史は古く、1200年も昔のこと、この窟を砦にして暴虐の限りを尽くしていたという悪路王、赤頭、髙丸らを征伐すべく、桓武天皇が坂野上田村麿公を征夷大将軍に命じられた。そして激戦の末に悪路王たちは討たれたのだったが、この戦勝を毘沙門天のご加護と感じた大将軍は、その御礼にとこの窟に京都の清水寺を模した精舎を創建し、108体の毘沙門天を祀ったといわれる。
高橋克彦の小説「総門谷」にもこの達谷窟が登場するが、私もその本を読んだことがきっかけとなって、初めてここを訪れたのが30年も前のことであった。
毘沙門堂は窟の中にはめ込まれたような懸造構造になっており、このような建造物としては国内最大の規模を誇っている。
2017年、私は前厄を迎えていた。その年の正月はただ何となく此処を訪れたのだが、毘沙門堂で御参りを済ませると、朱盆に載せられている御札に目がいった。それが「牛玉寳印(ごおうほういん)」といわれる護符との出会いだった。
この護符は元日から1月8日にかけて、修正會により二十一箇座の加持祈祷を経て出来上がる「最強の御札」として信者に配られているものだった。
これを玄関や長押に貼っておくことにより、悪鬼邪神を祓い福を招くと言われている。
現在は信者でなくても、希望者は一部千円で受けることが出来るので、これも何かのご縁と授かって来たのである。
さて、そうなると翌年は本厄だからお受けしなければと出かけていき、そして今年も後厄だからと出かけた次第である。
護符が出来上がるのは1月8日なので、実際には予約ということになるが、受付で所定の封筒に千円を入れて宛先を記入してくるだけでいい。
近年では「最強のお札」ということが広がって来て、希望者が増えているという。ただし信者ではないとしても、御参りをした人にのみ頒布されるものなので、いわゆる通販はない。

さて、私が訪れた一関市は、食文化として「餅食」が有名な町である。NHKの朝ドラ「ひよっこ」で、シシド・カフカ演じる久坂早苗は一関市出身という設定になっていた。その彼女が「一関では何かがあると、必ず餅を食べる」というセリフがあった。その言葉を裏付けるように餅料理の数の多さは日本一だと言われている。
昨年、2018年の正月に訪れた時は、JR一関駅前にある三彩館ふじせいで「ひと口もち膳」を食べたが、今年は世嬉の一酒造の「果報餅膳」を食べようということになった。
世嬉の一酒造については私が細々と書くよりも、HPをご覧いただいた方が分かりやすいと思うので、下記のURLから入って頂きたいと思う。
この酒蔵は、文学者たちとも縁が深く、島崎藤村や幸田露伴、北村透谷に内村鑑三などとも関係があった。また、戦後間もなくは井上ひさし一家が、此処の土蔵で暮らしていたという。
さて、私が入った蔵元レストランせきのいちは石造りのモダンなレストランで、早速「果報もち膳」を頂戴したが、写真のように様々な種類の餅が8つの椀に供される(真ん中の椀には酢漬けの大根おろしが入っている)。
ちなみに左上から「沼えび」「じゅうね(エゴマ)」「ごま」、中左から「ずんだ」「甘酢大根」「くるみ」、下左から「納豆」「あんこ」「おろし」となっている。この他に雑煮が付き、二の膳には枡に盛られた菜のものなどが付いてくる。
このもち膳。ちょっとしたお遊びがあり、8つの餅のどれか一つに萩の小枝が隠されている。その小枝の入った餅を何番目に手に取ったかで、幸運日が分かるのだと教えられた。
もし、最初に手にした餅の下に小枝が隠されていたら、今日がその幸運日となる訳だ。
私は5つ目の「沼えび」だったから、4日後が幸運日ということになる。4日後となれば、もう仕事が始まっている。そう思うとちょっとだけ溜め息が漏れたが、柔らかい餅の食感が再び心を和ませてくれた。


https://sekinoichi.co.jp/




年賀状
あけましておめでとうございます。
2019年、最初のブログとなります。
本年もどうぞよろしくお願い致します。

さて、元旦と2日は相変わらずの雑事に追われ、初詣は3日に行ってきました。
今年が後厄だったので、しっかりお祓いを受けて来たのですが、お祓いを受けている最中に早速不可思議なことがありました。それについては日を改めてお話ししたいと思います。

毎年、年賀状は自分で撮影した写真を使っているのですが、今回の年賀状は5月に青森県下北半島へ出かけた際に撮影したものを使用しました。
本州最北端の尻屋崎灯台がそれですが、白亜の灯台を際立たせるために、あえてモノクロで仕上げてみました。

昨年、仕事人生にひとつの区切りを迎えた自分ですが、人生の最終目標はあの灯台のように、まだずうっと先にあるのだということを象徴的に表してみようと思い、撮影を試みた1カットです。
「日暮れて道遠し」
なんだかそんな言葉も聞こえてきそうですね。
とにかく今年も自分のペースで頑張ってみるつもりです。

御礼

2018年12月31日 日常 コメント (8)
平成最後の大晦日をいかがお過ごしでしょうか。
私は年末休暇に入ってからの毎日、馬車馬のように働かされております。
これなら会社で仕事をしていた方がまだましなくらいです。
おかげでこの日記でさえ更新できない有様です。
今、『妻たち』の目を盗んで書いています。
あと数時間で新年を迎えますが、皆様にとって素晴らしい年が訪れますようにお祈り申し上げます。
この1年間、どうもありがとうございました。
来年もよろしくお願いいたします。
今年も残すところあと4日。色々あったけれども、特に大きなトラブルもなく、そういう意味においては穏やかな1年であった。勿論、個人的なことにおいてはであるが。
さて、この年末という多忙な時期に、職場には新人が1名配属された。私がその指導・教育係である。
さて、この新人、顔が実によく私に似ている。私の若い頃にそっくりといっても過言ではない。おまけに体形まで若い頃の私によく似ていて、スラリとした細マッチョである。本当に気味が悪いくらいだ。
ただ一点異なるのは、身長が私よりもはるかに高いということ。並んで歩くと見下ろされるような感じだ。
きっと遠くから見たら、身長が伸びるクスリの投薬前と投薬後みたいに見えることだろう。
まあ、長々と書いたけれども、この新人。なんのことはない。私の息子である。
以前から私の仕事に関心を持っていたのだが、それならば試験を受けてみろということで入社試験にトライしたところ、なんとか合格したというわけである。
同室の女性たちも、我ら親子を見てはクスクス笑う。遣りづらいったらありゃしない。
息子は私のことを役職名で呼ぶ。でも、私は何と呼べばよいのか。
『息子よ』では芝居ががっているし、苗字ではなく名前で呼ぶのも家にいるようで変だ。
周囲の人間は息子のことをジュニアと呼んでいるようだが、そのせいか私のことをみんな「父」と呼び始めた。そのたびに「君の父親になった覚えはない」と、ドラマの科白みたいな返事を繰り返している。

そういえば、今年も有休休暇をほとんど使わなかった。息子も研修中の振替休暇が残っている。
それならばと、世間の大半が28日を仕事納めとする中で、我らふたりは27日を仕事納めにしようということになった。
というわけで、今日は退社後にふたりだけで打ち上げに行く予定である。
そうそう、息子は私と違ってまったくの下戸。私がお酒で息子がソフトドリンク。想像しただけでも様にならない。今までにない仕事納めになりそうだ。
仙台光のページェント
仙台光のページェント
仙台光のページェント
金曜日の夜、妻と待ち合わせて仙台光のページェントを見に行く。場所は仙台市の中心部、一番町に隣接する定禅寺通りだ。
「SENDAI PAGEANT OF STARLIGHT」と銘打たれたこのイベントも、今年で33回目を迎えるという。
この光のページェントを毎年見るたびに、今年も終わりだなあという感慨に浸ってしまう。おそらくそんな思いで、ここを訪れている人も多いことだろう。
今年は私自身、大きな区切りを迎えた年だった。
来年からいったいどのような展開があるのだろうか。まったく想像も出来ない。
不安と僅かばかりの希望。
胸の奥底がキュッと引き締る。

満天の星空という言葉があるが、欅の木の宇宙に広がる60万個の星空を見上げ、妻と二人でその下を黙々と歩いた。
ラテンポップスのスターたち② ラファエル
昨日、あのようなことを書いてしまったので、それを読んだ古い友人のY君が心配してメールをくれた。曰く「疲れているんじゃないか」「休暇を取って仕事から離れてみたら」といった内容だった。
私が余計なことを書いてしまったばかりに、彼に大変心配させてしまったようで、心苦しいばかりだ。そのようなわけで昨夜は只管反省していた次第である。

さて、12月も残りあと僅かとなった。そして来週はクリスマスだ。私も孫のためにクリスマス・プレゼントを買ってきた。電車のオモチャなのだが、喜んでもらえると良いのだが、果たしてどうだろう。
クリスマスといえば、国民の7割以上がカトリック教徒といわれるスペインでは、この時期、ある超大物スターのクリスマス・ソングがバカ売れする。
その超大物スターとはラファエルだ。
もしスペイン人で彼の名前を知らない者がいたら、その人はもぐりのスペイン人である。そのくらいスペインでは有名な歌手なのである。
彼はスペイン歌謡界の頂点に立つ人物と言っても過言ではない。どんなに人気のアーティストがいても、彼だけは常に別格扱いなのだ。また、彼を尊崇するアーティストは数多く、前回ご紹介したアレハンドロ・サンスもその一人である。近年、ラファエルとデュエットしたアルバムを発表したほどだ。
ラファエルの人気はスペインに留まらず、ヨーロッパや中南米諸国、北米のヒスパニックに広がり、特にロシアでの人気は物凄い。
かつては、エド・サリヴァン・ショーに出演したり、イギリスではトム・ジョーンズ・ショーに何度も出演した。フランスのアダモは彼の親友で、コンサートでは共演を果たしている。アダモが書いた「今夜の僕」を大ヒットさせたのもラファエルだった。
日本にも1973年、74年、76年と過去に三度来日しているが、私は74年と76年の公演を観ることが出来た。当時、彼は30代の若さだったが、まさに熱唱と呼ぶにふさわしい公演で、全40曲を歌い切ったのだった。
原信夫とシャープス&フラッツにストリングスを加えた贅沢なオーケストラの演奏も、大変素晴らしかったことを今でも覚えている。
日本ではフリオ・イグレシアスの方が知名度的に高いが、フリオが登場したのはずうっとあとになってからである。まさに知らぬは日本ばかりなりである。

現在はどうか分からないが、ラファエルは自身のコンサートのプログラムに、必ずクリスマス・ソングを入れていた。日本公演の際も「リトル・ドラマー・ボーイ」を歌っている。
そしてスペインのクリスマスでは、彼のクリスマス・ソングを聞くことがお約束になっているフシがある。ラファエルの歌を聞かなければクリスマスが来ない、というところだろうか。
今日ご紹介する番組は、スペイン国営放送が2015年に製作したラファエルの特別番組「Ven A Mi Casa Esta Navidad raphael」(クリスマスよ、我が家へいらっしゃい)。
クリスマスの夜、ラファエルの自宅へ各界の有名人が訪ねてきて、一緒に歌ったり祝ったりという内容である。アダモ作曲の「今夜の僕」(Mi Gran Noche)も番組中で聴くことが出来る。
御年73歳の大スター。まだまだ、第一線から退く気配はなさそうだ。

https://www.youtube.com/watch?v=7LMKQ-QFvr0


彼女を初めて見かけたのは、今年の初夏の頃だったろうか。
毎朝の通勤電車から降りて改札口を通り抜け、地下通路を歩いていると、必ず彼女が私の前を歩いている。前と言っても10~20m先を歩いているのだが、それが毎日のことなので、もしかしたら同じ電車に乗っているのかもしれなかった。
彼女の年齢は20代後半か30代の前半くらい。身長は私よりもやや低い160cmくらいだろう。髪の毛は肩よりも長いのだが、ひとつに束ねて前の方に流している。全体にスラリとした体形で、パンプスを履いて颯爽と歩くその姿は、ファッションモデルのような雰囲気を醸し出している。
そのため大勢の通勤客の中でも、何となく目立ってしまう存在であった。
私も改札口を出ると、無意識のうちに彼女を探していることに気がつく。そして人ごみの中に彼女の姿を見つけると、それを追うように歩いている自分。
もし、職場が同じ方角でなければ、ストーカー行為に思われてしまいそうだ。

やがて地下通路から地上へ出て歩道を歩く。当然彼女も私の前を歩いている。そしてしばらく歩くと、某クリニックの通用口に彼女は入っていくのだった。
おそらくそのクリニックの看護士か医療事務の人なのかもしれない。
私の職場は、そこからさらに数分ほど行った場所にある。通り過ぎざまに通用口を見ると、既に彼女の姿はなかった。
毎日、毎朝、その繰り返しだった。

だが私は、ある時期から違和感を覚えるようになった。もちろん彼女に対してである。そしてその違和感の原因はすぐに分かった。
それは彼女の服装である。
彼女を見かけるようになってから3~4ケ月は経っていた。ところが彼女は初めて私が見かけた時とまったく同じ服装のままなのである。
ファッションには疎いので、着ている服をうまく言い表すことが出来ないが、上着からスカート、そしてストッキングにパンプスまで、いつも同じ物、同じ色(黒)なのだ。大体、あの猛暑の夏でさえ、初夏の頃と変わらぬ恰好をしているのである。さすがにそれはあり得ないだろう。
もしかして経済的にかなり苦しくて、同じ服しか着ることが出来ないというのならまだ分かる。しかし、とてもそのようには思えない。いつも腕から下げているハンドバックは、素人目にも高級そうな物に見える。

私は夕食の洗い物を始めた妻にそのことを話した。
妻は洗い物をしながら黙ってその話を聞いていた。聞き終わってひとこと
「ありえない」と言い放った。
妻に言わせれば、若い女性がいくらなんでも何か月間も同じ恰好のままでいる訳がないという。
そして妻の口から出た言葉は、私の予期せぬものだった。
「その人、生身の人間?」
私は言葉を失った。そんなこと考えてもみなかったからだ。
要するに妻は、この世の人ではないかもしれないと言いたいらしい。
困惑する私を尻目に、妻はいくつかの質問を投げかけて来た。
(会社帰りに会ったことはある?)
(顔はどんな顔をしていたの?)
(電車に乗っていたのを見たことがある?)
答えはいずれも「NO」だ。
だが、私も反論する。
もし仮にそうだとしても、同じ現象が何ケ月も続くものか。それにクリニックへちゃんと入って行くのを見ている。
しかし、妻の次の言葉に私は自信を失くした。
「高校生の頃、亡くなった同級生と、一緒に歩いて帰宅したことがあったんでしょ」
それはこのブログでも過去に紹介した話である。今回の件もその類なのだろうか。

妻から指摘を受けた翌朝。私はいつものように同じ時間、同じ電車に乗って出かけた。
改札口を通り抜け、地下通路をいつものように歩く。そして前方に彼女の姿を探した。だが、大勢の人の中に颯爽と歩く彼女の姿を見つけることは出来なかった。それは今朝も同じである。

4K

2018年12月19日 日常 コメント (4)
4K
某大型家電量販店へプリンターのインクを買いに行った。年賀状の印刷用に買い溜めしておこうと思ったのだ。
それにしても、どうしてこんなにインクは高いのだろう。メーカーはプリンター本体の値段を押さえて、こういう消耗品で稼ごうとしているのか。たった数本買っただけでも7~8千円になってしまった。何かと物入りなことの多いこの時期、これは痛い出費である。明日の昼飯はコンビニのオニギリで済ませるしかないなと、肩を落としながら歩いていると、大画面テレビがズラリと並んだテレビコーナーに通りかかった。

『4Kテレビ』
ふと、その看板が目に留まった。
10台あまりも並んだ65型の大画面テレビ。それらはすべてが4Kテレビのようで、極彩色の鮮やか過ぎる映像が一斉に流されていた。
4Kと言えば過日購入したウエアラブル・カメラも4Kであったことを思い出した。あの超小型カメラで撮影した映像も、ここに並んだテレビで流せばこのように超鮮明で色鮮やかなものになるのだろうか。
私は吸い寄せられるように、テレビの前へと足を向けた。

メーカーや画面サイズで色味が僅かに異なるようだが、今までのテレビに比較すると高画質という1点において、雲泥の差があることに気がつかされる。
かなり傍まで近づいて画面を覗き込んでみても、映像に粗さを感じることはない。現実よりも現実以上の臨場感。とにかく凄いのひとことであった。
気になる値段は、65型で40~50万円台が平均的なようだが、中には20万円台のものがあったり、逆に100万円近いものがあったりと、そのあたりの価格差の違いがよく分からなかった。
テレビコーナーはその場の照明をやや落としているせいもあり、映像の鮮やかさが一層増して見えるようで、私のすぐ傍で同じように見入っていたオジサンも、低周波のような唸り声を上げていた。
例えばこんなテレビで野球中継やフィギュアスケートの実況中継を見ると、その感動は相当大きいだろうなと想像がつく。
でも、でもである。無理だなこれは。
価格もそうだが、住宅事情というものがある。どうせ買うならこのような大型のものが欲しいところだが、そもそもそれを置く場所がない。それにもう一つ心配なことは地震で倒れたりはしないかということだ。
転倒防止のための工夫はされているだろうが、我が宮城県は地震多発県である。あの東日本大震災の時に、倒れて壊れたテレビが多数あったことを知っている。転倒防止用のワイヤーを付けていたにもかかわらずである。それに幼い孫が遊びに来るから、余計に心配だ。

おそらく同じようなことを考えていたのだろうか。
今まで腕組みしながら4Kテレビを睨んでいたあのオジサンは、だらりと腕を下におろすと、肩を落としながらその場を離れて行った。
私もそのオジサンに続くように、それでも未練がましく何度か振り返りながら、その場を離れたのであった。
(ところで4Kって何だ?)

買えない
買わない
買ってみろ
買うものか

以上の4つの頭文字から4Kなのだな。
なるほど。

損する顔 得する顔
「顔」で損をしたことがない。などと書くと大いなる誤解を生じそうなので、きちんとご説明すると、今の仕事に顔の美醜は影響されないということである。
つまりイケメンではなくとも、仕事が可能な業種に就いているのが私というわけである。
しかし、世の中にはそうもいかない仕事をされている方々が沢山いらっしゃる。
例えばモデルさんがそうだし、人気の俳優などもそうだろう。また、芸能界などに限らず、イケメン店員や美人店員がいるお店というただそれだけで、集客に結びつくことも多い。
だが、私の仕事のように本来なら顔の良し悪しは関係の無い筈の業種でさえも、実はその大半が「顔」で採用の可否を決めているとしたら、あなたはどう思うだろう。そのひとつの証拠が、履歴書へ顔写真を貼ることだ。日本人なら当たり前のように思っているこの行為も、諸外国では珍しいことなのだそうだ。
また、就職が有利になるようにプチ整形をする人たちの話は、私も知らないことは無かったが、ある採用担当の話では、能力的に横並びならば「容姿」で判断すると聞かされたことがある。
こんな話を聞かされると、世の中への不公平感が一層募りそうだが、では本当にイケメンや美女は得なのだろうか。
この本の著者である山口真美氏は大学の先生だが、彼女の祖父や父はかなりなイケメンであったという。ちなみに私の妻の父も若い頃は相当なイケメンで、戦前はバンドを組んで、若い女性たちに大いにもてたのだそうだが、これはどうでもいい。
さて、山口氏にも結婚するなら当然イケメンを選べというものと思いきや、彼女の祖母や母は「イケメンとは結婚するものではない」と常々語っていたそうだし、我が妻の母親もまったく同じことを話していたという。
凡人が考えるには、イケメンや美女と結婚出来たら、こんなに良いことはないと単純に思うのが普通だろう。だが、そうではないという彼女たちの真意は何なのか。
ところで、妻の母、すなわち義母はイケメンと結婚するなと娘に教えた。さて、ということは私は義母が望む通りの男だったのか、それとも妻がその教えに背いてまで私と結婚したのか、義母亡き今となっては確かめようもない。
そのことについて妻に尋ねても、口をつぐむばかりである。
しかし、クリスマスが近づいてきたり、自分の誕生日が近づいてきたりすると、妻は息子たちの前で、私に聞こえるように「お母さんはイケメンと結婚した」と言い始める。もちろんその真意は分かっている。

いつの間にか本の話から離れてしまった。
「イケメンとは結婚するものではない」と言った著者の祖母や母の真意、そして最終的に損をする顔、得する顔はあるのかどうか。その答えを知りたい方は是非ご一読を。日本人論としてもなかなか楽しく読むことが出来た。

「損する顔 得する顔」 山口真美 朝日新聞出版 1512円

富士山を撮る
富士山を撮る
富士山を撮る
私の幼馴染みで、このdn仲間のachara氏からメールが届いた。読めば「富士山の写真を年賀状に使いたいので貸してほしい」とある。
そのメールを読んで慌てた。そう、今は12月。すっかり忘れていたが、年賀状を書く季節であったのだ。
本来年賀状というものは、年が明けてから書くべきものという人がいる。確かにその通りだ。しかし、常に慌ただしく生きている私のような人間には、いつ書こうが忙しさと手間暇に変わりがない。
よく急ぎの仕事は忙しそうな人に頼めと言われるけれど、自分をその忙しそうな人に見立てて、「おい、12月中に書いておけ」と自分に指示を出す。毎年、この繰り返しである。
さて、ヒコヒコのもうひとつの顔。それは写真家(自称)である。東京に住んでいた頃は、ひとりで、或いは写真仲間たちと休日の度に写真撮影に出かけたものだ。
もちろん、今回achara氏からオーダーのあった富士山にも撮影に出かけた。
そこで早速ポジフィルムの保管庫を開けて、膨大なフィルムの中から富士山のカットを探し出し、スキャナーにかけた。
私が東京で写真撮影に凝っていた頃は、まだデジカメが普及しておらず、ほぼ100%がフィルム撮影(ネガではなくポジフィルム)だった。そのため、人に渡す時にはフィルムをスキャンしてデジタル化し、そのデータを送るのである。
そして彼に渡した富士山のデータが、このブログに添付した3枚の写真である。
同じ日に早朝から日没まで、河口湖畔で一日中粘って撮影したものだ。
この時は、先日私に青森で同行してくれたMさんも一緒だったが、刻一刻とその表情を変える富士山から目を離すことが出来なくなってしまった。おそらく後にも先にも、これだけ一つの山を見続けたことはないと思う。
さて、この時使用したカメラは中判カメラと呼ばれるもの。フィルムサイズが大きくて描写力が桁違いに良い。今のデジカメで言うところの高画素・高解像度カメラである。
このブログに載せた写真はだいぶ解像度を落としているが、それでも細部まで描写されていることがお分かり頂けるだろう。
撮影にはペンタックス645という風景写真家には評判の良いカメラを使用したのだが、これ以降、このカメラは私の撮影行に必ず同行することになった。
この日撮影したのは数百カット。撮影が無事に終わり、新宿まで辿り着いた時には、私もMさんも口がきけないほど疲れ切っていた。
だが、現像所から上がった写真を見て、ガッツポーズをとったことを今でも覚えている。
ところで私の年賀状。毎年、自分が撮影した風景写真を使っているのだが、今回はどうしよう。今年一番の難問かもしれない。


だいぶ以前の話だが、バルセロナで最も大きな百貨店、エル・コルテ・イングレスに入った。帰国直前だったので、土産代わりにスペインで人気高いアーティストのCDをまとめ買いしていこうと思ったのである。
私がCDコーナーで悩んでいる様子を見ていたのか、年配の女性店員が近づいて来て、今スペインで最も売れているアーティストはこれですと言って、1枚のCDを差し出した。
それはデビューして間もないエンリケ・イグレシアスのCDだった。
エンリケ・イグレシアスといえば、日本でも有名なフリオ・イグレシアスの息子である。
実はこの女性店員に言われるまでもなく、既にその存在は知っていたし、そのCDも入手していた。父親と歌い方までよく似ているなあと思ったが、感想としてはそこまでだった。
私はその女性店員に、既にそのCDは持っていることを伝え、他にお勧めはないか尋ねたところ、アレハンドロ・サンスが若い女性たちに大人気であることを教えられた。
のちにこのアレハンドロ・サンスはグラミー賞を14回も受賞することになるのだが、ラテン・ポップスには詳しい私でも、この時はまだ彼のことを何も知らなかった。

さて、このアレハンドロ・サンス。自ら作詞・作曲するシンガー・ソング・ライターだが、実に美しく、そして切なく、とても印象的な曲を作る人だと思った。そして彼の心から絞り出すハスキーな歌声は、スペイン女性のハートを鷲掴みにしてしまうことも頷ける。
聴いていてどこかにカンタ・フラメンコの節回しを感じるのは、お国柄のせいか。
それにしても、人生や愛を真正面から謳い上げる彼の歌に、スペインの10代、20代の女の子たちが熱狂する姿は、日本ではちょっと考えられないものがある。

※数ある彼の歌の中でも、特に私が好きな歌がこれ。
「Cuando Nadie Me Ve」(誰も私を見はしない)
https://www.youtube.com/watch?v=FXHcO01BYtA
青森の夜は、エルマー・T・リーで。
青森の夜は、エルマー・T・リーで。
Nさんと別れたあと、私に同行してくれたMさんがバーに飲みに行きましょうと誘ってくれた。いつもならカラオケなのだが、お互いに風邪を引いていて声が出ない。かと言って、まっすぐホテルへ帰るのもなんだから、ちょっとアルコールで身体を温めようというわけである。

青森の歓楽街から少し外れにある「バー鬼や」。名前はなんとなく恐ろしいが、優しそうな顔のバーテンダーがひとりで切り盛りしている清潔感のある店だ。
広めの店内には、他に客が3、4人ほど。Mさんと私はカウンター席についた。
私もMさんも好みの銘柄を伝え、ストレートにしてもらう。するとバーテンダーが「ウイスキーの飲み方をご存知ですね」と言うので、なぜと聞き返すと
「日本酒を水で割って飲む人はいませんから。ウイスキーだって同じです」との答え。
スコッチにせよバーボンにせよ、香りも楽しんで欲しいので、そのまま召し上がって頂くのが一番良いと思っているとバーテンダー氏は付け加えた。

風邪で痛めた喉を、ウイスキーが通り過ぎるたびに熱を放つが、そのうちMさんも私も身体から力が抜けていくのを感じた。まさに今日一日の緊張から解放されたという感じだった。
と、その時、Mさんがバーテンダー氏の背後にある洋酒棚に、一本の気になる瓶を見つけた。その瓶を取ってもらうと、Mさんはまじまじと眺め始めた。
「いいね、これ。ラベルの裏側に顔が描かれている」
Mさんはそう言って、私にその瓶を差し出した。
残りがあと1センチも無いその瓶。ラベルの裏側に描かれた肖像画がよく見える。
「エルマー・T・リーですよ。バーボンですが今では貴重品です」
バーテンダー氏の話では、かつてはポピュラーなバーボンとして知られたが、もう日本への輸入予定は無いのだとか。この店でもこれが最後の一本だそうだ。
それならこれも何かの縁とばかりに、瓶の底に残った琥珀色の液体をグラスに注いでもらい、Mさんと私で頂戴した。もちろんストレートで。

それにしても、ラベルの裏側に開発者の肖像画を描くとはなんて奥床しいのだ。
本来この手のものは、俺が作ったんだぞと表側に貼られるはずだが、そうはしなかったのだ。
バーボンが半分も減り出した頃に姿を現し始め、瓶が空になったところで「如何でしたでしょうか」と作者が登場する。
こういう生き方って、なかなか粋ではないか。私も真似をしたくなったが、さて、どこから顔を出せば良いのやら。
Mさんを見れば、その空になった瓶を鞄にしまうところだった。それを見てバーテンダー氏は鬼のような顔になるかと思いきや、ニコニコと仏顔で伝票を差し出したのであった。
ウォークマンを買う
会社への行き帰り、或いは出張の際に愛用しているウォークマン。もう、10年近くも使っているだろうか。
丁寧に使っているつもりでも、外観は擦り傷だらけで、筐体の地色があちこち見え隠れしている。見ようによっては、これはこれでなかなかカッコイイのだが、肝心の音がどうもいけない。
最近、自分の耳がおかしいと思ったら、ウォークマンの方がおかしいことに気がついた。
まず、左右の音のバランスが崩れている。左側だけが音がはっきりしていて、右側のレベルが微妙に低い。この微妙にというのが曲者で、最初は自分の耳に問題があるような感じがした。
「耳の穴をかっぽじって、人の話をよく聞け」などと言うけれど、その通りにしてみてもなんだかよく聞こえない。山登りした時に、気圧の関係で耳が聞こえにくくなるあれに似ている。
それが耳のせいではないことが分かったのは、まったく単純なことだった。
イヤホンの左右を入れ替えて耳に装着してみたのだ。すると今度は左側が聞こえにくくなったという訳である。つまり原因は私ではなく、このウォークマンだった。
そしてもうひとつ。それはノイズが入り出したこと。曲の途中、或いは曲間にジャリジャリとかガガッなどと不快音が入るのだ。それが時に老人の悲鳴のようでもあり、そろそろ替え時かなという決断に結びついた。
そこで色々調べてみると、最近のウォークマンはハイレゾ対応などと、私の知らない間に相当進歩していた様子。また、記憶容量も私の持っているそれとは雲泥の差である。一体、何万曲入るのだろうというくらいの大容量が、あたりまえのように備わっている。
しかしただひとつ、私の愛用しているウォークマンの方が勝っていると思ったのは、その大きさと重さだ。最新のものよりも薄くて軽くてワイシャツの胸ポケットにもすんなりと入る。これは案外大事なことだ。
長めの出張の時などは、少しでも荷物を減らしたいもの。嵩張るものや重いものなどは極力減らしたい。そういう時に、私に負担をかけないでくれるこの古びたウォークマンはありがたい存在だ。
しかし、どんなものにも新旧交代の時はやってくる。これは物事のさだめである。
私は脱腸ではなく断腸の思いで大型家電販売店へ向かった。すると、ありますあります、最新のウォークマンがズラリと並んでいる。ボディカラーも昔に比べたら豊富になったようだ。
値段の違いは容量の差であろうか。でも、倍の容量になっても、そんなに高くは感じないし、小さい容量のものを購入してもSDカードを装着出来るようだから、容量不足の問題はクリアー出来る。
それでも色々悩んだ挙句、一台のウォークマンを選択した。それが写真の機種である。
操作方法に関していえば、今まで使っていたものと大差はない。ただ、スマホと同様に画面をタッチするタイプなので、慣れないと変なところに触れてしまい、私には少々厄介な代物だ。
でも、音は格段に良くなった。これは間違いない。たとえハイレゾ音源の曲ではなくても、それに近い音質に限りなく近づけてくれる。
ところで、古いウォークマンだが、今も私のカバンの中に入っている。使わないまでも行動を共にしているのだ。
少しでも軽くしたいというさっきの話に、まったく矛盾するではないかと言われてしまいそうだが、やはり苦楽を共にした古い友は、どうしても捨てられないのである。

真っ赤なりんご
わたしはまっかな リンゴです
お国は寒い 北の国
リンゴ畑の 晴れた日に
箱につめられ 汽車ポッポ
町の市場へ つきました
リンゴ リンゴ リンゴ
リンゴかわいい ひとりごと


生まれこそ青森ではないけれど、半分は青森人の私。
青森駅に降り立つたびに、『りんごのひとりごと』という童謡を、今でもつい口ずさんでしまう。
青函連絡船が全盛だった昭和30年代から40年代にかけては、青森の町全体に賑わいがあった。その中でも目を引いたのは、青森駅舎の南側にあったりんご市場である。
露店の小さな店がずらりと並び、雪が降ろうが吹雪が吹こうが、かっちゃ(お母さん)たちが真っ赤に熟したりんごを売っていた。
雪がしんしんと降り積もる中、りんご箱に入った真っ赤なりんごは、裸電球の灯りに照らされて、そこだけは暖かな別世界。しもやけで真っ赤になったかっちゃの手で、一個ずつきれいに磨かれたりんごは、今も私の脳裏に鮮やかに甦ってくる。
こんなことがあった。
まだ幼かった私は、一軒の店先で、赤い光沢を放つりんごを眺めていたことがある。するとその店のかっちゃが何かを言いながら、私の手でも掴めるほどの小さなりんごを差し出した。そのりんごがどうなったのかは記憶にないが、やたらに冷たかったことを今でも覚えている。

果物店の おじさんに
お顔をきれいに みがかれて
みんな並んだ お店さき
青いお空を 見るたびに
リンゴ畑を 思いだす
リンゴ リンゴ リンゴ
リンゴかわいい ひとりごと

多感な少年時代に青森を離れることになり、雪のほとんど降らない町に住むことになった。両親はそれをとても喜んだが、私はその町の冬の青空を見上げるたびに、青森のどんよりとのしかかるような曇り空を思い浮かべた。
私の原風景は、きっと曇り空なのかもしれない。
なんとかなるさ
なんとかなるさ
私が青森駅へ着いた時には、駅も街もすっかり夕闇に包まれていた。
一歩駅の外へ出ると、冷たい雨が降っている。慌ててカバンから折り畳みの傘を取り出したが、駅からまっすぐ東へ伸びる新町通りはアーケードだ。これなら傘を出すまでもないとカバンの底へ戻した。
実は今回の出張はあまり気の進まないものだった。何故なら配下のNさんが癌であることが判明し、仕事も含めてこれから先の見通しが立たなくなったからだ。
直接本人に会って、私自身の目で病状を確認し、氏に任せている仕事をどの段階で引き上げるか、ヒアリングをしながら決めるというのが出張の目的だった。
だが、それにしてもショックである。Nさんは私にとって片腕のような存在なので、その彼が抜けてしまう穴は極めて大きい。これをどうカバーしていくか、真剣に考えなければならない。勿論Nさんには仕事のことは一切忘れて、治療に専念してもらいたいし、完治後は仕事の保障も考えている。
ただ、私の仕事は目の前に突き付けられた現実に対し、最善の対処法を見つけ出すことだ。様々な対処法をイメージし、そしてひとつずつ潰していった。
家路を急ぐ人たちには、すれ違う私の顔はきっと暗くて気難しい男の顔に見えたことだろう。

今回私に同行するMさんと、仕事を終えてかけつけたNさんの三人で、まずは慰労を兼ねた夕食に「りんご箱」という郷土料理の店へ入った。このお店では津軽三味線の生演奏が聞けるというので、あつかましくもステージ前に陣取った。
普段なら饒舌を絵にかいたような男三人だが、さすがに今回は会話も途切れがちだった。
Nさんは身体を気遣ってお酒はほとんど飲まなかったが、わざわざ激励に来てくれたと言っては目を潤ませていた。
太宰治の「津軽」にも出て来る「貝焼き味噌」を少しずつ味わいながら、津軽の荒波のごとくに激しく打ち付ける三味線の音色に一時我を忘れ、先程から俯き加減だったNさんの表情にも、やや明るさが戻って来たことを感じながら、
(なんとかなるさ)という気持ちが心の中に再び灯った頃には、店は閉店の時間を迎えていた。

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