回転する誕生会
三男の誕生日。今年で満26歳になった。26歳といえば私が結婚した年齢でもある。息子の顔を見ていると、自分はもっと大人びた顔をしていたような気がするのだが、どうなのだろう。
さて、いつもならささやかな誕生祝いを行うのだが、今回はなにかと忙しく、また我が親父の体調不良や二男のお嫁ちゃんの緊急入院などがあって、結局、長男と私の三人だけで食事会をすることになった。
三男のリクエストにより寿司に決まったが、当然のことながら「廻らない寿司」は却下。でも、最近の回転寿司は馬鹿に出来ない。ネタの良さを売りにしている店もあるし、メニューも実に豊富だ。
余談だが、三年ほど前に金沢へ遊びに行った折に、駅近くの回転寿司に入ったが、日本海の幸がとても豊富で、のどぐろなども普通に回ってくるのでいたく感動したことがある。

仕事帰りに三人で待ち合わせて、私お勧めの回転寿司屋へ入る。ここは仙台でも1、2を争う人気店だ。
ボックス席につくと、さあ、宴の始まりである。
私と長男は生ビールで、下戸の三男はウーロン茶で乾杯。
寿司にロウソクを立ててもらおうかと言ったら、まったくの無視。
三男からはオーダーの邪魔をするなよと言わんばかりの顔をされた。
この店もタッチパネル式のタブレットを使って注文するのだが、気遣いの長男は比較的安いものばかりを選んでいるのに対して、そんなことお構いなしの三男は、ここぞとばかりに高級ネタの寿司を選んでいる。皿の色を見れば、一皿500円や600円のものばかり。もしこれが我が子でなければ殺意を覚えたかもしれない。

そんな息子たちを見ていると、この間の焼肉屋を思い出した。二人の食べっぷりを見ているだけでこちらの腹が一杯になってくる。
それでも十代の頃の息子たちに比べたら、随分食べる量は減ったと思う。当時は一人に一つずつ炊飯器を与えようかと真剣に考えたことさえあったくらいだ。
毎月の米の消費量は息子三人で60キロ。およそ米俵1俵分だ。もし妻の実家が農家でなければ毎月の米代だけでも馬鹿にならない金額だった。
妻の実家を訪ねるたびに、その帰り際、義父が倉庫の大型冷蔵庫から30キロ入りの米袋を出しては持たせてくれた。その義父も息子たちが社会人になるのを見届けると、まるで自分の役目を終えたかのように亡くなった。今はただ、義父に感謝である。

昔のことを思い浮かべているうちにも、テーブルの上には皿が積み上がって行く。見方を変えれば息子たちが元気であるという証拠だ。これは親としては嬉しいことなのである。
(さあ、息子たちよ。金はいくらでもある。今宵は好きなだけ食べろよ)と、口元まで出かかったその言葉を、ビールで押し戻したのだった。

我が家にアリが大量発生。特にキッチンや洗面所、それに2階の子供部屋が酷い。今までこんなことは一度も無かった。一体どこから侵入してきたのだろう。
きっと彼らを惹きつける何かがあるに違いない。
そう思って妻と二人で深夜遅くまで侵入箇所の特定作業と、彼らの目的(目標物)の探索を行った。
私は勝手口から侵入して来たのではないかと予想したのだが、勝手口には一匹も見当たらない。妻は洗面所の壁と床の隙間から入って来るのではないかと予想。だが、どうも違うようだ。
ただし、彼らの目的が何であったのかは判明した。それはゴミの袋。キッチンの脇に置いてあったゴミ袋の中に、アリがうじゃうじゃ居たのである。
さらによく観察すると、捨ててあった菓子袋に一番群がっているようだった。
それにしても、よく分かるものだと感心する。甘い物を探す事においてはプロフェッショナルと呼ばざるを得ない。
だが、感心ばかりもしていられない。ゴミ袋を片付けたとしても、きっとまたやって来るに違いない。
そこでアリの撃退法について色々調べてみたら、これがなかなか面白い。
まずスプレー式殺虫剤では即効性はあるものの、根絶するには至らない。巣を壊滅状態に持っていかないと、再び彼らはやって来る。そこで効果的なのは薬物を巣に運ばせるタイプの、具体的には「アリの巣コロリ」のような殺虫剤が良いようだ。
ただし彼らはバカではない。バカではないどころか非常に警戒心が強いのである。
一度置いたアリの巣コロリの場所が少しでも動いてしまうと、二度とその中に入ろうとはしない。また、エサの大きさも重要で、小さなアリには顆粒状のものよりも液体の方が良いようだ。
しかし中にはアリの巣コロリが効かないものもいる。そういうアリには「アリメツ」という駆除剤が効果的らしい。
私はアリなら皆同じと思っていたのだが、雑食性のアリと吸蜜性のアリに大別出来るようで、それぞれ駆除法が異なるのだそうだ。つまり、アリの種類を確認しないと正しい駆除が出来ないという事になる。
それも面倒な話だなと思い、何かうまい方法が他にないものかと探してみたら、これがあったのである。
砂糖:1 ベーキングパウダー:3 の割合で混ぜ合わせ、これをアリの通りそうな場所に置いておく。すると砂糖につられてやって来たアリがベーキングパウダーを食べ、そして体内で発生した二酸化炭素によって腹が膨らみ、昇天してしまうというものだ。
さぞや苦しい事だろうと思うが、薬剤を使用しない為に、人間には優しい駆除法という事になる。
サディスティックな方法にも思えるが、試してみる価値はあるかもしれない。
まあ、こんなことを書いている自分の腹も、ベーキングパウダーを使った訳でもないのに、見事に膨らんでいるのだけれども...

「佐武と市捕物控」
土曜日の午後。ショッピング・モールに出かけて、本屋で立ち読みをしていたら、懐かしいタイトルが目に入って来た。それが「佐武と市捕物控」だ。
石ノ森章太郎が描いた時代劇(推理物)漫画である。
アニメやドラマにもなったのでご存知の方も多いだろう。
この漫画が初めて世に出た頃は、私はまだ小学生だったが、掲載誌の週刊少年サンデー(のちに月刊ビックコミック)は愛読していたからその漫画の存在自体は知っていた。ただし、小学生が江戸の風物や人情話を理解できるような年端ではない。いつもその頁は読み飛ばしていたのだった。
そんな私が再びこの漫画と出会ったのは、社会人になってからのこと。営業で外回りをしていた頃、いつも時間潰しに使っていた喫茶店に「佐武と市捕物控」の漫画本が置いてあったのだ。
長い時間を経て再び手にした「佐武と市捕物控」だったが、その世界に自分が取り込まれていくのに時間はそうかからなかった。
最初は単なる時間潰しのために立ち寄っていた喫茶店だったが、そのうちにその漫画を読むために通うようになってしまった。
「佐武と市捕物控」の読みたい巻が他の客の手にある時に、たまたま小池一夫原作の「弐十手物語」に手を出したのだが、こちらの方ものめり込んでしまった。
そんな私を見た他社の営業マンたちからは「おや、時代劇ブームの到来ですか」などとからかわれたものだ。
そんな昔のことが急に甦ってきて、私は迷うことなくレジへとその本を持って行った。
今回購入したのは「佐武と市捕物控 江戸暮らしの巻」だが、毎月続刊が発売されるようで楽しみである。

「佐武と市捕物控」筑摩書房 780円 文庫版

オッサンの目にも涙
オッサンの目にも涙
オッサンの目にも涙
某月某日。仕事が早く終わったその日、このまま真っ直ぐ家に帰るのももったいないなと思い、映画でも観て帰ることにした。
平日の夕方、映画館のロビーは人もまばら。さて、何を見ようかと上映中のポスターに目をやる。すると一枚のポスターに目が止まった。
「君は月夜に光り輝く」

さて、これはSF映画だろうか。それともホラーか。
月夜で思い出すのはオオカミ男だ。でもポスターはそんな感じではない。若い男女が楽し気に手を繋いで見つめ合い微笑んでいる。
察するところ、これは青春恋愛ストーリーのようだ。となると私の守備範囲外である。
これはダメだなと他のポスターに目をやろうとしたその時、その映画のヒロインの名前が目に飛び込んできた。
(この間までの朝ドラの子じゃないか)
永野芽郁。「半分、青い」でヒロインだった。テレビで観ていた時と雰囲気が違ったのですぐに分からなかったのだ。
「俺物語」の仙台ロケの際、彼女は我が母校にやって来た。そういうこともあって、以前から親近感を抱いていたのだが、それならば観てみようという気持ちになった。

館内はほとんど空席状態だ。見渡すと若いカップルが数組ほど。女性客も2、3人。そして私。
そこで初めて自分が場違いな場所にいることに気づく。これはもう、映画館の闇に紛れているしかない。私は椅子の中に隠れるように身を屈めた。
館内が減光されスクリーンには本編前のCMが流れ始めた。するとバタバタと一人の中年男性が駆け込んできた。草臥れたスーツに曲がったネクタイ、ビジネスバックを肩から下げて、手にはポップコーンとコーラを持っている。薄暗くなった館内で自分の席を探しながら、次第に私の方へと上がって来た。
やがて自分の席がある列を見つけたようで、横に移動を始めた。それは私の席の4列前。そして偶然にも私と同じ並びだった。
移動するその横顔は私よりも若そうだったが、頭はすっかり薄くなっている。身長もさほど高くはないようで、椅子に腰かけると背もたれから薄くなった頭だけが出ていた。
(君も月夜に光り輝くか…)
せっかくの援軍に対して、どうも私の悪い癖である。そんな言葉が自然に浮かんでくる。

映画は、「発光病」という原因不明の病に侵された余命0の少女まみず。そのまみずのもとへクラスメート達からの寄せ書きを届けに病院へやって来た卓也。
病院から外へ出ることが出来ないという彼女の願望を代行することになってしまった卓也は、その代行体験をまみずへ伝えるのだった。
やがてふたりは互いに惹かれ合うようになっていくのだが、最後の時間は刻々と迫っていた。そしてまみずの命が消えようとするその瞬間に、まみずは最後の代行体験を卓也に託すのだった。

時々、あのオッサンの頭が気になりながらも、最後まで映画の世界にはまってしまった。
いわゆる「病もの」ではあったが、少しだけ若い人たちの感覚に触れたような思いがして、なかなかの佳作だと思った。
エンドロールが終わり、見終えた人たちがそろそろと席を立ち始める。あのオッサンはといえば、エンドロールが終わっても、しばらく画面を見つめたままだった。きっと余韻に浸っているのだろう。その外見には見合わず、なかなか繊細な感性の持ち主なのかもしれない。
するとオッサンは身体を斜めにしてポケットから何かを取り出そうとしている。後ろからなのでよく分からないが、ハンカチを取り出して目元を拭っているようだ。
(もしかして、泣いてたのか)
オッサンの目にも涙。そんなフレーズがまた私の中に浮かび上がってきた。
しかし、そういう私の右手にもハンカチは握られていたのであった。

月1回、妻がいない夜がある。
それを皆は「真・母の日」と呼んでいる。
参加者はシン・ゴジラのような、否、妖艶で見目麗しく、熟しすぎて樹の枝から今にも落ちそうな熟女ばかりである。
二男が中高大一貫校だったので、その時の仲が良かった母親たちが、毎月のように集まっては飲んで食べてカラオケをやって親交を深めているのである。
ちょっと面白いのは、同学年の母親達だけではなく、先輩、後輩と学年を跨いでの母親達であることだ。兎に角、その結束力の強さには恐れ入る。
多分、こういう集まりが苦手という方もいることだろう。私もそのひとりだ。だから母親の集まりで良かったとつくづく思う。もしこれが父の会だったら、脱退もしくは除名処分になるはずだ。
さて、息子たちは卒業してからもう何年にもなるのに、いまだにこの会が続いているところをみると、これは「真・母の日」に名を借りたストレス発散の催しと私は見ている。
それはそれで良いのだが、この日の晩は、私も息子たちも自分たちで晩飯を考えなくてはならない。
今回もそれぞれが仕事から帰って来て、食事の準備というのも面倒なので、それじゃあ飯でも食いに行こうかという話になってしまった。というか、これがいつものパターンなのである。
長男と三男、そして私の三人で鳩首会議を行い、2対1で焼肉屋に決まってしまった。もちろん「1」は私である。
自宅からクルマで5分ほどの場所に、全国チェーンで有名な焼肉屋があり、結局あの店この店と言いながら最後は此処に落ち着いた。
料金別に設定されたコースを選択し、さて、戦闘開始である。タッチパネルにはラストオーダーまでの残り時間が表示される。
30代の長男と20代の三男は、タッチパネルを操作しては次々にオーダーしていくが、私はそんなふたりを見ているだけで腹が一杯になってくる。
次から次と網の上で焼けて行く肉を、息子たちは片っ端から平らげて行く。私も若い頃はこうだったのだろうなあと思いながら、奴らが取ろうとしない焦げた肉片を口に運んだ。
結局、焼肉と飲み物で1万5千円。ごちそうさまでしたと二人から言われてしまい、薄い財布が一層薄くなった。

その夜遅く、妻が帰宅。
「痛い、痛い」というからどうしたと聞けば、カラオケでタンバリンを担当。ノリノリで叩いていたら指の付け根に痣が出来てしまったと言って、青黒くなったその部分を見せられた。
満腹で動けない息子たち。打撲するぐらいタンバリンを討ち続けた妻。
私は「ふん」と一言だけいうと、読みかけの本に再び目を落とした。

しばらく前から、息子が住んでいるマンションの近くで、不審火が相次いで発生している。最初は神社の境内で、そして孫がよく遊びに行く公園のトイレの中で連続して発生した。
一度は終息したかに見えた不審火だったが、数日前には近所にある工事中のマンションで、明らかに不審火と思われる跡が見つかった。幸い、いずれもが大事には至らなかったものの、住宅地での犯行だけにもし火事になったらと思うと怖いやら腹立たしいやら。
この界隈には交番が無いため、最近は頻繁にパトカーが巡回するようになった。それはそれで結構なことなのだが、犯人は依然として捕まっていない。困ったものである。
この事件については全国ニュースでも取り上げられたが、ほとんど同じエリアの中で繰り返されているのが特徴だ。
となると犯人は同じ町内に住んでいる者なのか、それとも他所からわざわざやって来て犯行に及んでいるのか。
いずれにせよ放火は重罪である。息子夫婦や孫が住んでいる町での事件だけに、私や妻は毎日心配でならないのだ。
今は一刻も早く犯人が捕まることを願っている。
小説 アルキメデスの大戦
そういえば、必ずクラスにひとりかふたり数学の出来る奴がいた。数学の時間に先生にあ
てられると、嬉々として前に出て、黒板に数式を書き表していた。それを横で目を細めな
がら見ている先生の顔が今でも忘れられない。
この「小説アルキメデスの大戦」を読んでいるうちに、そんなことがふと思い出された。
原作は同名のコミックだそうで、私が今回読んだのはそのノベライズ版。今年7月には菅田将暉主演で映画が公開されるようだ。
その物語は太平洋戦争へ向かって時代が加速し始める1933年、巨大戦艦こそが日本を救うと信じて疑わない海軍上層部と、彼らが提示した建造見積に虚偽を感じ取った山本五十六などの空母推進派は、ある一人の天才数学者、櫂直(かいただし)に目をつけた。彼の高度な数学力をもって、いかにその見積が虚偽のものであるかを暴こうと目論見たのだ。
しかし彼は民間人。軍の機密事項に触れることは絶対に出来ない。そこで軍人嫌いの櫂をどうにか説得し、海軍主計少佐としての地位を与えたまでは良かったが、いくら櫂が数学の天才とはいえ、巨大戦艦の正確な建造費用を算出するにはどうしても設計図が必要だった。
だが戦艦などの設計図は最高軍機に属するものであり、大艦巨砲主義派の上層部が櫂や山本たち反対派においそれとは見せるわけがなかった。
戦艦か空母か、その決定会議が迫る中、櫂がとった行動は自らが巨大戦艦の設計図を一から作成し、建造費用を算出しようというあまりにも無謀かつ大胆なものだった。
果たして櫂は見積の不正を暴き、巨大戦艦建造を阻止することが出来るのか。
毎度のことながらこれ以上書くとネタバレになってしまうので、書きたい気持ちをぐっと抑えることにするが、この巨大戦艦が「大和」であることは既にお気づきのことだろう。
全長263m、排水量71,659トン、45口径46cm主砲3基9門、60口径15.5cm3連装砲塔2基、40口径12.7cm連装高角砲12基、25mm3連装機銃52基、搭載機7機という世界に類を見ない巨大戦艦だった。
6月23日は沖縄で全戦没者追悼式があったが、大和はその沖縄へ向けて昭和20年4月7日、天一号作戦として出撃、九州坊ノ岬沖で撃沈された。撃沈したのはアメリカ軍の機動部隊、すなわち航空戦力によるものだった。それは山本五十六たちが予見した大艦巨砲主義の終焉の瞬間だった。

櫂直は架空の人物である。歴史的事実において戦艦大和の建造を阻止するという彼の行為が実を結ばないことは最初から分かっていた。その彼がどのように大艦巨砲派を追い込み、そして敗れて行くのか、そこが知りたくて読み始めたこの小説。
これから公開される映画も、そして原作のコミックも読んでみたくなった。

「小説 アルキメデスの大戦」佐野晶(著) 三田紀房(原作) 講談社

福山城へ
福山城へ
福山城へ
福山駅前のホテルに宿泊した私は、いつものように午前六時前には目を覚ました。
ホテルの朝食会場に顔を出すと、まだ早朝にもかかわらず宿泊客でいっぱいだった。しかもそのほとんどは欧米人と思われる団体客だ。おまけにドギツイ香水の匂いと食べ物の匂いが入り混じり、朝食会場は咽かえるような臭気に満ちていた。
匂いには人一倍敏感な私は、すっかり食欲が失せてしまい、それならば再び食欲が戻るまでの間、散歩がてら福山城まで行ってみようと思い立った。
福山城はJR福山駅の目と鼻の先にある。私はこれまでに数々の城を訪れてきたが、駅と城がこれほど近いところが他にあっただろうか。プラットホームからお城の写真が間近に撮れる駅は、全国広しと言えどもこの福山駅くらいかもしれない。
あとで分かったことだが、そもそも福山駅は、山陽線の線路を最短で敷設するためにお城の敷地に建てられたのだ。お城と駅が近過ぎるのは当然のことだったのである。

福山駅の中央通路を通って北口を出ると、すぐ目の前には見事なという表現が相応しい石垣と月見櫓が現れた。駅へ向かう通勤客や学生の流れに逆らって公園のような場所をしばらく歩くと、天守閣へ向かう坂道へ辿り着いた。
こんなことを言うと福山の方々に怒られるかもしれないが、福山城がこんなに立派な城だとは思っていなかった。やはり譜代大名の城は違うものだと感心する。
実は駅を出た時から「GOPRO7」で動画を撮影していたのだ。スチールと違ってあとから映像を見ると、実際の距離感などが良く分かるからだ。
ジョギングする人たちと挨拶を交わしながら、本丸の東側へと辿り着いた。そこには藩祖水野勝成公の銅像があったので、まずは初来訪のご挨拶を。
この水野勝成公は、徳川譜代大名の中でも有数のエピソードを持つ人物といわれている。
なんでも相当な暴れん坊だったようで、戦いそのものを楽しむような野放図さがあったという。
その父忠重は豪勇な人物であったが、小牧・長久手の戦いのさなかに勝成は父の勘気を蒙り、流浪の旅に出ることになってしまう。その理由というのが、忠重の寵臣を勝成が斬ったためと言われている。
おそらく日頃より身勝手な振る舞いの多かった勝成を諌めたのが、その刃傷の原因であったと思われる。
行く先々、勝成を受け入れようとする諸家に対して倅の勝成を招き入れることのないようにと、父忠重は書面を送りつけていたらしい。もし、倅の面倒を見ようものならば、今後は一切の援助をしないというような脅しだったようだ。
そこまで我が子を憎んだということなら、時代が時代であるから、命を奪うこともあり得ただろう。なのにそれをしなかった...
一説には陰ながら勝成に護衛を付けていたという話もある。もしそれが本当なら、そこには何か隠された意図があったのかもしれない。単なる親子の確執とみるか、それは見せかけのものだったのか。
私はその後15年にも及ぶ流浪の生活を送った勝成公に思いを馳せながら、動画を回し続けた。
天守前の広場に出ると、そこにはゲートボールに興じる高齢者の人たちがいた。突然現れた私にはまったく興味はなさそうに、彼らはゲートボールに集中していた。
そんな彼らの歓声をあとに、再建された御湯殿(湯殿)へ足を向け、そして本丸御殿跡の石碑前に出た。
本丸とは城主の居館である。ここに居住したのは、初代藩主の水野勝成と二代藩主の勝俊だけだという。三代藩主の勝貞は三の丸東側に新たな御殿を造営したということだ。

腕時計に目をやると、ホテルを出てから一時間ほど過ぎている。歩き回ったせいか、腹の虫も泣き始めた。朝食会場も少しは空いた頃だろう。
私は本丸正面に位置する筋鉄御門を出て、福山駅側の坂道を降り始めた。ここからは駅のプラットホームがよく見える。平日だったので通勤・通学客でホームは溢れていたが、その光景に現実の世界へ引き戻されたような錯覚を覚えた。
私は何度も城を振り返りながら、やがて人の群れに巻き込まれて行った。

大原美術館
大原美術館
大原美術館
一度しかない自分の人生を無駄にしてしまう3つの「ない」があるという。
ひとつは「時間がない」。二つ目は「金がない」。そして三つ目は「自信がない」。
つい口に出してしまうこれらの言葉が、自分の人生をつまらないものにしてしまうのだとか。
そう言われてみれば確かにそうかもしれないし、そんなこと言われても実際にそうなんだから無理だよと反発したくもなる。
ただ、今までの自分を振り返ってみると、これらの言葉に逃げていた自分がいたことも事実だ。要するに「言い訳」である。
この3つの「ない」を或る人に言われて、少しだけ目覚めた私は、とっくに折り返し地点を過ぎた自分の残り人生、これからは好きにさせてもらいますとばかりに、長い間ずうっと行きたいと思っていた「大原美術館」へと出かけたのだった。

岡山で新幹線から伯備線に乗り換えて倉敷で降りる。美観地区方面へと十五分ほど歩くと、目指す「大原美術館」へ到着した。
ここは日本で初めて建てられた私設の西洋美術館である。正面玄関はまるで神殿のような造りだ。そしてこの建物が本館だが、昭和5年に建築された当時のままとなっている。
正面玄関を入るとすぐに展示室となっており、展示室の入り口で音声ガイドの機器を借りることが出来る。
この大原美術館は倉敷の実業家大原孫三郎が、岡山に生まれた洋画家児島虎次郎に出会い、彼の才能と美術に対する見識の高さ、そして情熱を高く評価して、のちに虎次郎にヨーロッパでの洋画蒐集を指示するのだった。
大原より作品の募集を許された虎次郎は、精力的にその仕事に没頭し、印象派の巨匠モネをジベルニーのアトリエに訪ね「睡蓮」を購入、それからもマチス、マルケのアトリエからと次々と画家を訪ねては作品を直接購入して行った。その数は27点だったという。
その蒐集作品の展覧会を倉敷において開催したが、全国各地から大勢の観衆を集め、大きな反響を呼んだのである。
その後、アマン・ジャンや斉藤豊作に依頼していた西洋画も届き、再び展覧会を開催したところ、これもまた大好評を博したことに力を得た大原孫三郎は、さらなるコレクションの充実を図るため、虎次郎に募集を命じたのである。
大原美術館にはエル・グレコの「受胎告知」やゴーギャン、セガンティニ、ロートレック、ホドラー、ミレ、モロー、シャヴァンヌの名画があるが、これらはその時に蒐集されたものだった。
こうして集められた名画等は大原コレクションとして世に知られるようになったのだが、その大きな役割を担った児島虎次郎は昭和4年3月に47歳の若さで早逝してしまった。
大原は彼の死を悼み、その画家としての業績と、彼の念願であった西洋美術の公開を実現させるために美術館の建設に着手したのであった。それがこの大原美術館というわけである。
本館を見た後、日本の近代洋画や現代アートなどが展示されている分館を訪れ、岸田劉生や今話題の草間彌生の作品を鑑賞した。また、工芸・東洋館では私の小学校の大先輩である棟方志功画伯の作品に接することが出来て感無量であった。
私はこうして、大原美術館に展示された数々の名立たる絵画や彫刻を前にして、ひとつ夢が叶ったことを実感していた。
そしてもうひとつ、以前から日本の名城を巡ることも頭に描いていた私は、お隣りの福山市にある福山城へと足を運んだのだった。

JR倉敷駅:写真上
大原美術館正面玄関:写真中
倉敷美観地区付近:写真下
父の日を明日に控えた父の日の前日に、父の日を祝おうと親父を誘い、父の日祝いに一杯飲みに行こうと父に言ったら、父(嬉々)として喜び、そして親父が好きな日本料理屋へ父(一)目散に出かけた。
すっかり足腰が弱っている父の歩みは父(遅々)として進まず、まるでアベックのように腕を組んで、料理屋の暖簾を潜ったのだった。
親父はいつもこの店で頼んでいる鯛の兜煮とビールに日本酒、私は海鮮盛りとビールでスタート。
私と親父が飲むと、決まってくだらない話ばかりになる。真面目な話は一切なし。あまりにくだらなすぎて、ここに書くのも憚られるものばかりだ。
そう言われると、聞きたくなるのが人というもの。そこで少しだけご披露することにしたい。その代わりこの話はご内密に。

「オラ(父)が昔、戦争が終わってまだすぐの頃になあ。バスは木炭を焚いて走ってたんだ。だがら、力が無くてなぁ。坂道だとすぐに止まってしまうんだ」
親父のその話はこれで五度目だった。
「その日、バスにはオラと客が五、六人。運転手に女の車掌が一人だったんだが、上り坂に来ると止まっちまったんだなあ。そこで運転手がオラたぢに降りてバスを押せって言うんだ」
「ほうほう、それで」
この返事も五度目である。
「あづい夏だったんだが、オラたぢは汗だぐになってバスを押したんだ。そしたらな、運転席からキャッキャ、キャッキャど女の笑い声が聞こえで来るんだ」
親父はそこでビールを一気に飲み干した。
「なじょしたと思って運転席を覗いだらな、運転手のオヤジが車掌の女を抱っこしてな、運転させてたんだ。ったぐなあ、嬉しそうに」
この、嬉しそうにという部分で、いつも親父の声に力が入る。多分、この話の核の部分だと思われる。
私は相槌を打ちながら黙ってビールを飲んでいた。
「腹立ったがらな、オラだちみんなで手を放しだんだ。そしだらなぁ、バスがどんどん後ろさ下がり始めでなあ。それまでキャッキャ、キャッキャ言ってだ声がキャーア、キャーアになったんだ。あ~あ、おもしぇかっだ(面白かった)!」
親父はそう言って嬉しそうな顔を見せた。
そのあとバスはどうなったのか、毎回この話の後に聞くのだが、親父は覚えていないというばかり。私はそのたびに運転手と車掌の無事を祈るのであった。

「戦争前にはどごの家にも囲炉裏があってなあ。みんな寝る前には乾かした草を囲炉裏にくべて燃やすんだ。すると煙がもうもうと出て来るべ。それを吸うとな、何故かみんな眠くなるんだ。ぐっすり眠れるんだ」
その話は初めてであった。
「親父よ。それってもしかして今でいう違法薬物の大○ではないのか」
「そんなの知らねえ。どこの家でもみんな囲炉裏にくべて寝てたんだ。昔はそれが大○だとか何だとか、名前なんてちっともわがらねえ。ただ、これを燃やすとよぐ眠れるということだけは分がってたんだなあ。先人の知恵だなあ」
お断りしておくが、これは戦前の話である。大○が違法とされる以前の話である。いや、大○かどうかも定かではない。
親父たちは、いや、その集落の人々は経験則から、ある種の植物を乾燥させて燃やし、その煙を吸い込むと眠りにつける。いやいや言葉が綺麗過ぎるな。要するにラリッてしまうことを知っていたわけだ。

というふうに、こんな話が延々と続くのである。
このほか、スイカ泥棒完全犯罪の話だとか、タイムワープした話だとか、まあ、色々と出てくるわ出てくるわ。
話が終る頃には、親父の足腰も軟体動物のようになり、再び私はふらつく親父の腕を取って店の外へと出るのである。

さて、父の日のイブはこうして終わった。
明日は本父の日。
また、同じ話を聞かされることになるのだろうなあ。


苦渋の...
苦渋の...
苦渋の...
久しぶりの秋田出張。
出発した時は、今にも降り出しそうな天気だったが、秋田は見事に晴れ渡っていた。私もだいぶくたびれては来たが、まだまだ晴れ男の効力は残っているようだ。
しかし、そんな天気とは裏腹に、今回の仕事の内容は実に気が進まないものだった。
永年仕事を頼んできた人への契約解除通告だ。要するにクビの宣告とその理由を告げに来たのである。
ただし、一方的にクビを宣告する訳ではなく、一応は相手の言い分も聞く。言いたいことはすべて言わせる。溜まったものを全部吐き出させた上で、こちらの考えを伝えるのだ。それが私のやり方である。
実はもうだいぶ以前から、彼には幾度となく指導・勧告、そして改善依頼をしてきたのだが一向に良くならない。それどころか益々悪い方向へと突き進んでいく。
業務にも支障を来すようになったし、第三者まで巻き込み始めた。さすがにそうなると放置しておくことは出来ない。
私とは二十年来の付き合いだったが、契約解除という苦渋の決断をしたのだった。

テーブルを挟んで私の説明を黙って聞く彼は、今まで見たこともない虚ろな顔をしていた。年齢だって私とほとんど変わらない。今の仕事を失ったら、いったいどうするのか。そう思うと私の方が悔しくなって来た。
(今更、そんな呆然としたような顔をするなよ。そんな顔を見せるくらいなら、何故こちらの言うことを聞かなかったのか)
説明をしているうちに、次第に腹立たしさが込み上げてきた。
私の説明に異論はないということで話は纏まった。
彼は席を立って頭を下げると、私に背を向けて歩き始めた。
「長い間、お疲れ様でした」
その後ろ姿に、そう言葉をかけるのがやっとだった。
去って行く彼の頭は白いものが多かった。二十年前に初めて会った時は、まだ黒々としていたことを思い出す。人のことは言えないが。

帰りの新幹線まで時間があったので駅前を散策する。
千秋公園のお濠には蓮の花が咲き始めていた。これから、この広いお濠一面を真っ赤な蓮の花が埋め尽くすのだろう。でも、自分は蓮の花を見るたびに今日のことを思い出すかもしれない。
またひとり戦友を失った日だった。

賢治さんのクッキー
賢治さんのクッキー
盛岡市内を流れる北上川。その畔に光原社という民芸品等を扱う店がある。この店の名付け親があの宮沢賢治だ。
宮沢賢治が生前唯一の童話集「注文の多い料理店」を出版したのがこの光原社である。
この店の創業者及川四郎が花巻農学校の教師だった宮沢賢治を訪ね、膨大な童話の原稿を預かったのだが、この原稿にあったのが「注文の多い料理店」だと言われている。
二人はもともと盛岡高等農林学校の先輩後輩の間柄だったらしい。意気投合した二人は、童話のタイトルや光原社という社名について熱く語りあったようだ。
さて、私はそんな光原社へ盛岡を訪れるたびにほぼ毎回のごとく訪問している。現在は賢治の頃のような出版事業は行ってはいないが、民芸品や南部鉄器、陶器、漆器、ガラス製品等の工芸品、さらに岩手県産の食材、衣類等々を取り扱っている。
材木町通りから奥に細長い敷地には、マヂエル館や可否館などがあり、特に私は可否館で、賢治の世界に浸りながらコーヒーを飲むのが好きだ。
ところで「注文の多い料理店」の「序」にはこのような賢治の思いが記されている。
『わたしたちは、氷砂糖をほしいくらゐもたないでも、きれいにすきとほつた風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
 またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびらうど羅紗や、寶石いりのきものに、かはつてゐるのをたびたび見ました。
 わたくしは、さういふきれいなたべものやきものをすきです(以下省略)』
そう、賢治は(さういふきれいなたべものやきものをすき)と書いている。そのきれいな食べ物のひとつが木の実だったのではないか。なぜなら賢治の童話には木の実がしばしば登場する。
そんな木の実を使ったクッキーが光原社で販売されている。それが写真の「くるみクッキー」だ。
甘さ控えめで素朴な味わいのこのクッキーは、光原社のモーリオで販売されている。この日も次々に売れていて、店員さんが在庫確認に追われていた。
パッケージも簡素だし、化粧箱のデザインもシンプルだ。
それではクッキーを食べながら、注文の多い料理店の続きを読むことにしよう。

尾道へ行く
尾道へ行く
尾道へ行く
そもそも、何故尾道へ行こうと思ったのか。それは古いビデオを整理していた時に見つかった一本の映画がきっかけだった。
その映画とは大林宣彦監督の「転校生」だ。1982年の公開というから、今から37年も前の映画である。
ストーリーは中学3年生の斉藤一夫と、彼の学校に転校してきた斉藤一美のふたりを主人公にしたファンタジーだ。
このふたりは幼い頃、家が近所だった幼馴染み。久しぶりに再会したふたりだったが、学校帰りに神社の石段から一緒に転げ落ちてしまう。するとふたりの心と身体が入れ替わってしまったのだった。しかしそのことに気がつかないまま、それぞれの自宅に帰ったふたりだが、そこで初めて自分があいつで、あいつが自分になっていることに気がつく。こんなとんでもない状況に戸惑うふたりだったが、とにかくお互いになりきって生活を続けることにしようということになった。だがしかし、そこは性格の異なるふたり。人が変わってしまったような一夫や一美の言動や行動に、周囲の人たちも不審には思うものの、まさか入れ替わっているとは思わない。ふたりの身の上に降りかかるは様々なトラブルを潜り抜けるうちに、いつしかお互いにしか分からない絆が芽生え始める。そしてそんなふたりにやがて別れの時がやって来て...というお話。
当時、主演の小林聡美の体当たりの演技や尾美としのりの女の子の演技が話題になった。
この映画を私はリアルタイムで観てはいないのだが、観て来たという周囲の連中から「尾美としのりってお前に似ている」とよく言われたものだ。
尾美としのりのことを知らなかった私は、似ていると言われてもただ困惑するだけだったが、あとから彼の映画を観て納得した。確かにどこか似ているところがある。外見というよりも雰囲気がそうだったのかもしれない。
後年、NHKの朝ドラ「あまちゃん」で、主人公アキの父親役をしていたが、私の妻は「あっ、あなたが出ている」と笑いながら言っていた。
何となくボオッとしたところと、イラッとさせるところが似ていたのだろう。
いけない。話が逸れてしまった。
映画の中の尾道を見ているうちに、その町の中に自分も入ってみたい、その町を歩いてみたい、そんな衝動が心の中を突き上げて来たのだった。
そう思うと決断は速い。仕事の間隙を縫うようにスケジュールを組んでみた。
ネットや本から情報を集め、行きたい場所や時間等をチェックしていく。この辺は普段出張が多いので慣れたものだ。
せっかく行くのだから、この旅のモチーフになった映画のロケ地も見てみよう。尾道ラーメンも食べてみたい。ポンポン岩に寝転んで、船が行き交う尾道水道を見下ろしたい。
行くことが決まると様々な欲求が溢れるように湧き上がって来る。
もちろん妻も連れて行かなければ禍根を残すことになる。そのことを妻に伝えると、思わぬサプライズ旅行に舞い上がった。
さて、晴れ男の私と晴れ女の妻。ふたりでモダンな尾道駅を一歩外に出ると、急に雨が降り出した。雨に降られてしまうなんてついていないなと思ったら、地元の人曰く
「雨の日は瓦屋根が綺麗だよ」とのこと。確かにしっとりとした甍の海は、とてもフォトジェニックだった。これはむしろツイているというべきか。
映画「転校生」のロケ地も見て回り、ああ、こういう場所で撮影したんだなと長い時を隔てて納得した。
普段からファンタジーは好きじゃないという妻も、この時ばかりは映画と同じ場所に居る自分に興奮気味だった。
尾道ラーメンもポンポン岩の上で寝転ぶことも出来て、ひとつの夢はここに叶った。
「転校生」でふたりが転がり落ちた石段の前で、冗談半分に妻へ「転がり落ちてみようか」と言うと、「嫌だ」とひとこと。でも、その顔はどこか嬉しそうだった。
遠く尾道まで来た甲斐があった。そう思った瞬間だった。

写真上:小林聡美が一気に自転車で駆け上がった陸橋への坂道
写真中:ふたりが入れ替わった御袖天満宮の石段
写真下:千光寺公園から尾道水道、尾道大橋を望む

ネコの細道
ネコの細道
ネコの細道
尾道の通称「猫の細道」を下っていたら、どこからともなく一匹の猫が現れた。私に無関心を装いながらも、品定めを始めたようだった。
「もう良いですか」
私はその猫氏に品定めが終ったか尋ねると
(ああ、いいよ。ちょいと頼みがあるんだが...)
そう言って、私の顔を見上げた。
(あんたには不釣り合いなほどの良いカメラをぶら下げてるじゃあないか。そのカメラでオレを撮ってくれないかな)
猫氏はそう言うと大きな欠伸をした。
そうそう、言い忘れたが、私はかの南方熊楠と同様に猫の言葉が分かるのである。戌年生まれのくせに猫の言葉が分かるなんておかしな話だが、こればかりはどうしようもない。
「そりゃあ構いませんが、どこで撮りましょうか」
私がそう言うと、猫氏はくるりと背を向けて、急な石段を登り始めたではないか。私は慌ててそのあとを追いかけた。
やがてとある茶房のウッドデッキにひょいと飛び乗ると、私に目で合図を送って来た。
(ここ)
「ここですか」
(そう、オレのお気に入りの場所)
「それでは早速」
(おうおう、ちょっと待ってくれ。ポーズを決めるからさ)
猫氏はウッドデッキの柱に身体を寄せて、にゃあと一声鳴いてみせた。どうやらそれが準備OKの合図らしかった。
私はカメラを構え、おすまし顔の猫氏にレンズを向けると立て続けにシャッターを切った。
「すみません。目線ください」
(こうか?)
「ハイ、良いですねぇ。決まってますよ」
こうしてにわかに始まった撮影会は終了した。

別れしなに「出来上がった写真はどうしましょうか」と尋ねると、ウッドデッキの上にでんと腰をおろしたまま「ここへ送ってくれよ」とそれが当然であるかのような顔をした。
私は困惑して「住所が分かりません」と答えると「それなら届けておくれ」と、これまた当たり前のような顔をしてみせた。
「届けてくれと言われても私は旅の者でして、もうここには来れないかもしれないのです」
申し訳なさそうにそう言うと、一瞬考え込むような表情を見せた猫氏は静かに私の方を向き直り(いや、あんたはまたここへ来るよ。必ずな)と言った。
やけに自信ありげなその言葉に
「そうですかねぇ。来ますかねぇ」と答えると、猫氏はまた大欠伸をひとつ。
その時、坂道を一陣の風が吹き抜けて行った。思わず目を瞑る私。そしてふたたび目を開けた時には、例の猫氏の姿はどこにも見えなかった。

「こんなことってあるんですねぇ。また来ましょうか、尾道へ」
独り言のように呟きながら、私は石段をゆっくりと降りて行った。

鬼の手形
鬼の手形
鬼の手形
土地の名前の由来を調べてみると、これがなかなか面白い。例えば「青森県」は海から現在の青森市を見ると青い森が見えたそうだ。漁師たちはそれを目印にしたそうだが、それがそのまま県名になった。また私の住む「宮城県」は、遠い昔、多賀城に陸奥国府や鎮守府が置かれ、「宮なる城の所在地」ということで宮城になったと言われている。
このように青森や宮城が実際にあったものから名付けられたその一方で、岩手はちょっと変わっている。
私はその岩手の名前の起源となったと或る神社を訪れた。その神社の名前は三ツ石神社という。
境内のお社のすぐ脇には、岩手山が噴火した時に飛んできたという巨石が三つ並んでいた。
昔々、「羅刹鬼(らせつき)」という鬼がいた。この鬼は悪さを働いては人々や旅人を困らせていた。そこで地元の民はこの鬼を退治してくれるように三ツ石様にお願いしたところ、神様はその願い通りに鬼を懲らしめ、そしてその巨石に縛り付けてしまったのである。
神様によって懲らしめられた鬼は、二度と悪さをしない、二度とこの地に帰ってこないと約束し、その証としてこの巨石に手形を残していったという。これが「岩手」の名の起こりだと言われている。
石川啄木の名句「不来方(こずかた)の お城の草に寝ころびて 空に吸はれし十五の心」の不来方とは、あの羅刹鬼が二度とこの地に来ないようにと言い現した言葉である。
今でもその鬼の手形の跡を見ることが出来ると聞き、それらしいものがないかと探したのだが、結局分からなかった。
写真はおそらくこれかなと思うものを撮ったのだが確証はない。私はむしろ、この地を去った羅刹鬼のその後の行方が気になった。
言い伝えによれば、羅刹鬼はそののち京の羅生門に棲みつき、やはり悪さを働いたという。そして一条戻橋の上で渡辺綱(わたなべのつな)に腕を切り落とされたとも。こうなると完全に伝奇ロマンだが、岩手という県名には他県にはないそんな話が隠されているところが面白い。
ちなみに私の頬に、妻の手形が残されることのないよう、これからも真面目に生きることを三ツ石様に誓い、岩手を後にしたのだった。

※秘密日記あり リンクして頂いている皆様へ

新婚の家
新婚の家
新婚の家
私と妻が結婚生活を始めたのは、岩手県の滝沢村(現:滝沢市)。「チャグチャグ馬っこ」のスタート地点としても知られる村だ。独身時代からその滝沢村に借り上げ社宅として住んでいたボロアパートが、チャグチャグ馬っこ同様、我ら夫婦のスタート地点となったのである。
大工である大家が廃材を集めて作ったというこのボロアパートは、ひとりで住むには十分すぎる広さがあったが、妻の嫁入り道具が入った途端に手狭になってしまった。
けれどもストーブとテレビしかなかった六畳三部屋の空間が、急に人の棲家に変わったことが私には嬉しかった。
朝、玄関のドアを開けると、目の前に岩手山と姫神山の麗しい山容が姿を現す。このふたつの山は地元では夫婦だと言われているが、若かった妻は自分たちのようだねと言って喜んでいた。
綾小路きみまろではないけれど、あれから35年。今では走って逃げる2歳の孫にも追いつかない有様である。
そんな私と妻が訪れたのは、盛岡市内にある石川啄木新婚の家。26歳で夭折した天才歌人が、新婚の明治38年から3週間ほどを過ごした家である。
宿泊したホテルからも近かったので、脱水症状から回復した妻と歩いて訪れたのだが、午前中であるにも関わらず既に数組の観光客が訪れていた。
実は私、盛岡には数えきれないほど訪れているのに、啄木新婚の家には一度も来たことがなかったのだ。
盛岡市内に現存する唯一の武家屋敷だというその家は、いかにも質素な佇まいをみせていた。
玄関には石川啄木の名が記された表札があり、板ガラスがはめ込まれた引き戸を開けると上り框まで敷き詰められた畳の間があった。その左隣りには二間続きの部屋があったが、奥の部屋では花婿のいない結婚式が行われたという。
私たちのあとから入って来たふたりの女子大生が、突然その部屋でゴロリと大の字に横たわると、
「ここかあ」
「ここだね」
と大きな声を上げたのには驚いた。
おそらく花婿不在という奇妙な結婚式がこの部屋で行われたことを知っていたのだろう。人目があるにも関わらず、平気でゴロリと大の字になったこのふたりの女子大生に幸あらんことをと祈る。
そんな彼女たちの傍らを通り過ぎ、小さな囲炉裏のある小部屋へと入る。そこには小さな文机と年季の入った小振りの和箪笥がひとつだけ置かれていた。この部屋は啄木の書斎兼夫婦の部屋として使われた。
啄木の随筆「閑天地」はきっとこの部屋で書かれたのだろう。また、この部屋での生活は随筆「我が四畳半へ」にも書き記されている。
「僅か三週の間なりしとは云え、我が半生に於ける最大の安慰と幸福とを与へたりしかの陋苦しき四畳半」(「我が四畳半へ」より)
それにしても僅か3週間しかこの家には住んでいなかったとは、まさに漂泊の歌人といわれるだけはある。
この後、啄木は妻や家人を残し、ひとり北海道へと渡って行くのである。

一通り啄木新婚の家を見て回った私たちは、35年前に二人で暮らし始めたボロアパートのことを互いに思い浮かべていた。

写真上:石川啄木の表札
写真中:奥の八畳間で花婿不在の結婚式が行われた
写真下:書斎兼啄木と節子の部屋

新車で岩手旅 その2
新車で岩手旅 その2
ホテルの部屋に入ると、さすがに疲れてベッドの上にごろりと横になったのだが、先程から妻の様子がおかしい。
どうかしたのかと尋ねると、頭痛がするとか身体の半分だけが冷たいとか言い出した。明らかに顔色が悪い。
とにかく横になれとベッドに寝かせたのだが、この時は今日の疲れが出たのではないかと思った。
ひと眠りしたら食事にでも出かけようと思ったが、妻が辛そうな顔をしているので再び大丈夫かと尋ねると、冷や汗が出て来たというではないか。
その言葉を聞いた時、以前も同じような事があったことを思い出した。確かあの時は病院に行って点滴を受けた筈だと。そしてその時下された診断は「脱水症状」ではなかったか。
たまたま部屋に備え付けのミネラル・ウォーターがあったので、急いでそれを飲ませたが、普通の水では吸収率が悪い。確か近所にドラッグ・ストアがあったので、私は経口補水液を買いに出かけた。
普段、妻はあまり水分を摂らない。昔からそうだった。水をゴクゴクと飲んだ記憶がないとまで言う。
そんな妻をよく冗談で「お前はコアラか」と揶揄したものだが、今日の妻の行動を振り返ってみると、脱水症状を起こすには十分過ぎる条件が揃っていた。
兎に角、はしゃぐ孫を追いかけて広い園内を走り回っていたし、気温も高め、それに空気も乾燥していた。それでいて水分補給をしないから、脱水症状を起こしてしまったに違いない。
私は買ってきた経口補水液を飲ませながら、今夜はどこにも出かけずにコンビニ食だなと肩を落とした。
翌朝、補水液が功を奏したのか、すっきりした顔で起き出して来た妻。それでも食欲はあまり無いようで、ビュッフェ・スタイルの朝食も写真のようにほんのわずか取っただけ。私のそれとは大違いだ。
結局、この少しばかりの朝食もほとんど残してしまい、もったいないからと私が食べる羽目になってしまった。
結婚前にルパン3世のようだと言われた私の体型が、次第次第に山田ルイ53世に近づきつつあるのは、長年に亘る妻の脱水症状~食欲不振を遠因にしていることは否めないであろう。

写真上:妻の朝食
写真下:私の朝食と比較

新車が納車されて一週間が経った。すると私に断りなく、息子が勝手に岩手の温泉宿へ予約を入れて、家族旅行の計画を立ててしまった。当然、クルマのオーナーである私は温泉へご招待されるものとばかり思っていたら、自分達だけで行くつもりだったらしい。
(おい!それはないだろうよ!)
呆れて言葉も出ない。
買った本人がまだ遠出もしていないクルマなのに、息子はちゃっかりそのクルマで旅行に出かけようなんて図々しいにも程がある。こんな息子に育てた覚えは...少し、ある。
(使えるものは親でも使え。モラルに反することでないならば)
昔、酔っ払った勢いで息子に言って聞かせたその言葉。まさか、今この時に実行されようとは思わなかった。
私と妻の不機嫌が息子に伝わったようで、自分たちが申し込んだ温泉宿へ人数の追加を申し込んだのだが、既に時間切れでアウト。
「もう駄目だって」
息子はそう言って複雑な笑みを浮かべた。
結局、私と妻は盛岡市内のホテルに泊まることになった。

岩手への小旅行。出発前にこんなごたごたがあったが、いざ出かけてみるとやはり楽しい。
クルマも快適だし天気も良い。途中、一関市で高速を降りて世嬉の一酒造で昼食をとる。皆が食べたがっていた果報餅御膳。八種類の餅に雑煮もついて、お腹が満ちたところで再び高速に乗り、盛岡市を目指す。
息子の嫁のリクエストで小岩井農場へと向かうが、農道の脇には菜の花の黄色い帯が何処までも続いている。
緑鮮やかな牧草地に放牧された牛たち。そんな牧歌的な風景の中をクルマはまきば園へとひた走る。
土曜日の午後だったが、まきば園の広大な駐車場はほぼ満車状態。しかし、園内に入るとあまりに広い敷地のためにとても混んでいるようには見えない。バレーボールをして遊ぶ若い人たちや思いっ切りボールを蹴って走り回る子供たち。普通の公園なら文句が出そうな光景だが、ここでは全然邪魔にならない。それくらい広いのだ。
残雪が残る岩手山と新緑の森。そして手入れが行き届いた芝生。太陽の光は強いが吹き渡る風がとても爽やかだ。孫も喜んで走り回っている。妻もカメラを手にしてそんな孫を追いかけている。
遊んだあとは小岩井農場のソフトクリームや牛乳を味わい、ハロウミチーズやカチョカバロといったここでしか買うことが出来ない手作りチーズを買ってみたりと、楽しい時間はあっという間に過ぎて行った。
息子に盛岡市内のホテルまで送ってもらい、彼らは温泉宿へと向かって行った。
「行きたかったなあ、温泉」
走り去っていく自分のクルマを恨めしげに眺めながら、溜息をもらす私。
何となく諦めきれない思いのままホテルへチェックインしたのだが、このあと思いも寄らない事態が起こってしまった。その話はまた明日。

昼休み。会社へ財布を忘れたことに気がつき、一度表へ出たものの会社へと引き返す。そして再び外へ出ると久しく行っていない蕎麦屋を急に思い出し、道路の反対側へ渡ろうと横断歩道で信号待ちをした。
会社の前の道路は片側3車線で中央分離帯には銀杏の樹が植えられている、合計6車線の割と幅の広い道路だ。
横断歩道の信号待ちをしていたのは、私を含めて6~7人ほど。やがて歩行者信号が青になったので歩き始めた。
この時、一番前に並んでいたこともあり、私が先頭を歩く形になった。そして3車線目に差し掛かろうとしたその時、視界の片隅に猛スピードで突っ込んでくる自動車の姿が。
私は咄嗟に一歩前に踏み出すのをこらえた。
それは3車線目を、つまり中央分離帯寄りの車線を、信号無視して暴走してきた小型乗用車だった。
私の目の前を、紙一枚の隔たりで、暴走車が通り過ぎて行った。あと半歩も前に出ていたら、確実にドアミラーかボンネットにぶつかっていただろう。
暴走車は20メートルほど通り過ぎたところで急停車した。運転者がこちらを振り返っているのが見える。私は突然のことに言葉も出なかったが、振り向いているその運転者の顔を睨みつけた。
最近頻発している高齢ドライバーによる事故。これもその口かと思ったのだが、どうやら20~30代の男性のようであった。
私や他の歩行者が彼の方を見ていることに気がついたのか、降りてきて謝るでもなく、再び急発進してその場から逃げて行った。
おそらく脇見か、それとも他のことに気を取られていたのだろうか、赤信号の見落としだったと思われる。
幸い跳ね飛ばされるという最悪の事態には至らなかったが、もう少し歩みを速めていたらどうなっていたか分からない。まさに一寸先は闇である。
そういえばこの日、朝の情報番組の星座占いで私は第1位だった。思いも寄らない幸運に見舞われるとか。
普段、星座占いなどは一番当たらないと思っていた私だが、この日ばかりは信じざるを得なかった。

米沢牛ステーキへの旅
米沢牛ステーキへの旅
大型連休もまもなく終わろうとしている5月4日。家事と孫の育児から解放された私は、ひとり旅に出かけた。ちなみにこの日は、妻が友人と連れ立って「浅田真央サンクスツアー」を盛岡市まで観に出かけたのだ。この好機を逃がすわけには行かなかった。
妻は仙台駅を午前8時台の新幹線に乗り込んで行ったが、私はそれより1時間ほどあとに仙山線山形行きの車上の人となった。
この日は天気も上々。車窓には目に眩しいほどの新緑が、次々に映し出されては流れ去っていく。
車内は観光客が目立ったが、大半は途中の山寺で降りて行った。これから山寺の長い石段を登るのだろうが、5月の爽やかな気候に参拝もきっと気持ちが良いことだろう。
さて、電車はほどなくして山形駅の手前、霞城公園のお濠端にさしかかる。桜の花はほぼ散っていたが、水面にはまだ若干の花筏が見られた。
山形駅で奥羽本線の普通列車に乗り換えて、一路目的地の米沢市を目指す。仙山線ほどの混み様ではないが、小学生くらいの子供を連れた家族が目立った。何かのイベントがあるのだろうかと思ったら、なんと彼らは「茂吉記念館前駅」で降りたのには驚いた。
茂吉とはあの斎藤茂吉のことである。山形の小学生は郷土が生んだ大歌人について、家族ぐるみでこうして学んでいるのだろうか。
私などは齋藤茂吉といわれて思い浮かぶのは「アララギ」とか「赤光」(しゃっこう)という言葉くらいだ。名前こそよく知ってはいるものの、その人や作品についての知識は実に乏しい。短歌そのものに縁が無かったとはいえ、常識としてもっと勉強しておくべきだったと反省する。
それにしても、車窓から見える朝日連峰は美しかった。雲ひとつない青空の下に、粉砂糖を降りかけたような山嶺と青い山並みが続いている。今年に入って松本市で目にした北アルプスの山々を彷彿とさせるものだった。
美しい山形の景色に目を奪われているうちに電車は終点の米沢駅のプラットホームに滑り込んだ。仙台からおよそ2時間半の鈍行列車の旅は終わった。
ちょうど反対側には山形新幹線の車両が停車していた。どうしてだろう。新幹線の窓から見える乗客たちの顔はどこか気難しそうに見える。その点こちらは気が抜けたような顔をしていたかもしれない。これも「スピード旅」と「のんびり旅」の違いだろうか。
私が降りた米沢駅は外観がレンガを使わないで建てた東京駅みたいな建物だ。この米沢駅を背にして、まっすぐ西へ伸びる道路を歩いて行く。目指すは「上杉神社」である。
かつて米沢藩30万石の城下町として栄えた米沢だが、駅の近くにはその歴史を感じる遺構の類はほとんど見受けられなかった。が、しかし、最上川に架かる橋を渡ると次第に町の雰囲気が変わり始め、上杉神社の近くまでやって来ると蔵を改造したような建物などが散見されるようになった。派手さはどこにも無く、むしろ地味と言っても良いくらいの街並みは、きっと質素倹約を旨とする上杉鷹山公の教えのせいなのかもしれないと思った。
およそ2キロの距離を歩いて来てもほとんど人とすれ違うことが無かったのだが、上杉神社に辿り着いてみると、驚くほど大勢の人たちで溢れていた。
令和に改元されたこともあってか、参道には大勢の参拝客が並んでいた。きっと御朱印を拝受しようとする人も多かったに違いない。
私も折角仙台から出かけて来たのだから、上杉謙信公をお祀りしようと参道の行列に並んだが、これがなかなか前へ進まない。急ぎ旅ではないものの既に時刻は午後の1時を回っており、腹の方も虫がしきりに鳴いている。
聞き分けのない腹の虫と格闘しながら、ようやく参拝できたのは並び始めてから40分ほど経ってのことだった。
(どうか美味しい米沢牛ステーキを食べることができますように)
もっと他に頼みようがあった筈なのに、上杉謙信公へのお願いはそんな低次元のレベルとなったのも、すべては腹の虫のせいである。

事前にステーキハウスなどの情報は仕込んでおいたものの、有名店のほとんどがここから離れた場所にある。移動するのも面倒だと思ったその時、確かこの神社の近くに上杉伯爵邸という記念館兼料理店があることを思い出した。
それは米沢城址のお濠端、いかにも殿様の御殿というような風格ある建物であった。初めて訪れた人は、まさかここがステーキハウスだなどとは思いもしないだろう。
あまりの大邸宅とその風格に敷居を跨ぐことが躊躇われたが、相変わらず鳴きやまない腹の虫には勝つことが出来ずに靴を脱いだのだった。
奥から出てきた黒服の給仕さんに導かれて通されたのは、百畳ほどはあろうかという大広間であった。そこには10卓余ほどのテーブルが配置され、既に三割ほどの席が埋まっていた。
この大広間からは浜離宮を模したと云われる美しい庭園を望むことが出来て、完全なる非日常の世界に没入する自分を感じることが出来る。
こんなところで米沢牛の最高級ステーキを食することが叶うとは、なんという贅沢な話であろうか。
再び現れた黒服の給仕さんからメニューを渡されて、心を落ち着けながらざっと目を通す。
(ふむふむ。思った通り金額も殿様級だ)
はるか仙台から鈍行列車に乗ってやって来たのだ。往復の特急料金分を払ったと思えば何でもない。私はサーロインステーキをミディアムレアで頼むと、黒服の給仕さんはかしこまりましたと低頭した。
やがて目の前に現れたステーキは写真の通り。もう何も言いますまい。そして書きますまい。そのお味はあなたが想像する味を少しだけ上回るもの。
大型連休の最後、至福の時間を過ごすことが出来た幸運を、柔らかい肉と一緒に噛み締めたのだった。

写真:上 注文したサーロインステーキ
   下 上杉伯爵邸正面玄関 これがステーキハウスとは!

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 >

 

最新の日記 一覧

<<  2025年4月  >>
303112345
6789101112
13141516171819
20212223242526
27282930123

お気に入り日記の更新

この日記について

日記内を検索