今年もあの日が近づいて来た。
そして未明に発生した震度4の地震。
崩れ落ちそうな本の山を見回しながら、蒲団の中で揺れの様子を窺っていた。
これは前兆なのだろうか。
そういえば最近、食料品店に行くと、必ず非常食になりそうなものを買い漁っていた。例えばフリーズドライ食品やレトルト食品、それにパックごはんやカップ麺、そして缶詰など。
水は業者が2週間に1度配達してくれる12リットル入りのボトルを、いつもより少し多めに発注したり、5年間保存可能な水も箱買いした。
そうそう、この間はカセットコンロのガスボンベも買い足ししたし、もう1台くらいコンロも買っておこうかなどと考えている。
8年前の大震災で不便だったことを今また思い出しながら、30年のうちに90%の確率で発生するという大地震に備えている。
ずうっと先の様に聞こえるが、30年以内ということは今日か明日かもしれない。
そうだ、クルマもガソリンを満タンにしておこう。ついでに灯油もだ。乾電池も必要だし、ラップなどもあの時はとても重宝した。口内洗浄のためにリンスはみがきも役に立ったっけ。風呂にも入れなくなるから、ボディーシートも必要かもしれない...
あなたは何か準備をしていますか?
そして未明に発生した震度4の地震。
崩れ落ちそうな本の山を見回しながら、蒲団の中で揺れの様子を窺っていた。
これは前兆なのだろうか。
そういえば最近、食料品店に行くと、必ず非常食になりそうなものを買い漁っていた。例えばフリーズドライ食品やレトルト食品、それにパックごはんやカップ麺、そして缶詰など。
水は業者が2週間に1度配達してくれる12リットル入りのボトルを、いつもより少し多めに発注したり、5年間保存可能な水も箱買いした。
そうそう、この間はカセットコンロのガスボンベも買い足ししたし、もう1台くらいコンロも買っておこうかなどと考えている。
8年前の大震災で不便だったことを今また思い出しながら、30年のうちに90%の確率で発生するという大地震に備えている。
ずうっと先の様に聞こえるが、30年以内ということは今日か明日かもしれない。
そうだ、クルマもガソリンを満タンにしておこう。ついでに灯油もだ。乾電池も必要だし、ラップなどもあの時はとても重宝した。口内洗浄のためにリンスはみがきも役に立ったっけ。風呂にも入れなくなるから、ボディーシートも必要かもしれない...
あなたは何か準備をしていますか?
産医師 異国に向こう...
2019年3月6日 エッセイ コメント (6)子供たちのいらなくなった教科書や参考書などを整理していたら、数学や科学の本が出て来た。いずれも自分の苦手な教科だ。教科書を見ただけでも、頭が痛くなってくる。
それでも大事な物が挟まっていないかペラペラと頁を捲ってみると、数式やら記号などが雪崩のように一気に目に飛び込んでくる。
こりゃあたまらんと、すぐに本を閉じた。
こんな具合だったから、数学の先生や科学の先生からは目をつけられて、よく怒られたものだ。特に数学の先生とはそりが合わなかった。
或る時、円周率を言えるところまで言ってみろといわれ「3.14」で止まってしまったことがある。
どうやらそれが宿題だったらしく、他の生徒たちは結構答えていた。知らなかったのはどうやら自分だけのようだった。
何故なら風邪かなにかで休んだ時に出された宿題だったようで、そのことを誰も教えてくれなかったのである。
あの時は悔しい恥ずかしいという気持ちよりも、ひとり取り残されたような悲しい思いにとらわれたことを今でも覚えている。
今日の数学のトラウマは、おそらくこのあたりにあるのかもしれない。
しかしその後、あの数学の先生や何も教えてくれなかった同級生たちへのリベンジとばかりに、猛烈に円周率の暗記を始めたのである。
私はこれでも案外気が強い方なのだ。これはおふくろ譲りかもしれない。
そこで私は語呂合わせで覚えることにした。
産医師 異国に向こう (3.14159265)
産後薬なく 産婦みやしろに (3589793238462)
虫散々 闇に泣くころにや (6433832795028)
弥生 急な色草 (841971693)
九九 見ないと (9937510)
小屋に置く 仲良く獅子子 (58209749445)
国去れなば 医務用務に病むに (923078164062862)
お役悔むに やれ見よや (089986280348)
不意惨事に 言いなれむな (25342117067)
ところが、そもそも語呂の言葉自体、使い慣れない言葉ばかりなので頭に入ってこない。おまけに私は文意に意味を求めてしまうので、意味不明な文章を覚えることは至難の業だった。それに、何とか覚えた円周率もリベンジの場が無い。
誰かをつかまえて、円周率を覚えたから聞いてくれと言っても聞いてくれるわけがない。
結局その時はそれで終わってしまったのである。
近年、ゆとり教育の影響で、円周率は3でも良いという時期があった。ちなみに円周率は2000兆桁まで正確な計算がされているそうだが、それを考えると0.14違っても良さそうな気がするが、やはり駄目なのだそうだ。
厳密に計算すると、円周率は3以上4以下となるので、つまり3のみということはあり得ない。だから3ではダメということだ。
そう言えば科学でもそうだった。
元素記号。あれも暗記した。水平リーベ、ぼくの船、というやつ。
これもなんとかかんとか覚えたが、それだけでは意味が無いような話を聞かされて愕然となったことがある。
その暗記で大切なことは、配列そのものを覚えることが大切なのだと。
表のどの位置にその元素があるのか、それを覚えないと意味が無いと教えられた。要は縦に並んだ元素は性質が似ているので、それを知らないと覚えたうちには入らないということらしい。
ああ、面倒くさい!
この国を離れて、どこか異国に向かいたい...
それでも大事な物が挟まっていないかペラペラと頁を捲ってみると、数式やら記号などが雪崩のように一気に目に飛び込んでくる。
こりゃあたまらんと、すぐに本を閉じた。
こんな具合だったから、数学の先生や科学の先生からは目をつけられて、よく怒られたものだ。特に数学の先生とはそりが合わなかった。
或る時、円周率を言えるところまで言ってみろといわれ「3.14」で止まってしまったことがある。
どうやらそれが宿題だったらしく、他の生徒たちは結構答えていた。知らなかったのはどうやら自分だけのようだった。
何故なら風邪かなにかで休んだ時に出された宿題だったようで、そのことを誰も教えてくれなかったのである。
あの時は悔しい恥ずかしいという気持ちよりも、ひとり取り残されたような悲しい思いにとらわれたことを今でも覚えている。
今日の数学のトラウマは、おそらくこのあたりにあるのかもしれない。
しかしその後、あの数学の先生や何も教えてくれなかった同級生たちへのリベンジとばかりに、猛烈に円周率の暗記を始めたのである。
私はこれでも案外気が強い方なのだ。これはおふくろ譲りかもしれない。
そこで私は語呂合わせで覚えることにした。
産医師 異国に向こう (3.14159265)
産後薬なく 産婦みやしろに (3589793238462)
虫散々 闇に泣くころにや (6433832795028)
弥生 急な色草 (841971693)
九九 見ないと (9937510)
小屋に置く 仲良く獅子子 (58209749445)
国去れなば 医務用務に病むに (923078164062862)
お役悔むに やれ見よや (089986280348)
不意惨事に 言いなれむな (25342117067)
ところが、そもそも語呂の言葉自体、使い慣れない言葉ばかりなので頭に入ってこない。おまけに私は文意に意味を求めてしまうので、意味不明な文章を覚えることは至難の業だった。それに、何とか覚えた円周率もリベンジの場が無い。
誰かをつかまえて、円周率を覚えたから聞いてくれと言っても聞いてくれるわけがない。
結局その時はそれで終わってしまったのである。
近年、ゆとり教育の影響で、円周率は3でも良いという時期があった。ちなみに円周率は2000兆桁まで正確な計算がされているそうだが、それを考えると0.14違っても良さそうな気がするが、やはり駄目なのだそうだ。
厳密に計算すると、円周率は3以上4以下となるので、つまり3のみということはあり得ない。だから3ではダメということだ。
そう言えば科学でもそうだった。
元素記号。あれも暗記した。水平リーベ、ぼくの船、というやつ。
これもなんとかかんとか覚えたが、それだけでは意味が無いような話を聞かされて愕然となったことがある。
その暗記で大切なことは、配列そのものを覚えることが大切なのだと。
表のどの位置にその元素があるのか、それを覚えないと意味が無いと教えられた。要は縦に並んだ元素は性質が似ているので、それを知らないと覚えたうちには入らないということらしい。
ああ、面倒くさい!
この国を離れて、どこか異国に向かいたい...
それは突然のことだった。
差し歯が一本ポロリと落ちた。前歯である。正確には側切歯というらしい。
だいぶ昔のことだが、知人からのお土産に貰った堅焼き煎餅を齧ったら、歯の途中からポッキリ折れた。慌てて歯医者に行って処置をしてもらったのがこの差し歯である。
それにしても、どうして一本歯が抜け落ちるだけで、間抜けな顔になるのだろうか。
鏡の前でニヤッと笑ってみたら、ただの間抜けなオッサンである。もし歯が全部無くなったらどんな顔になってしまうことだろう。そう思ったら、ふいに親父の顔が目に浮かんだ。
親父は総入れ歯だ。一本も歯が無い。だからたまに入れ歯を外した親父の顔を見ることがあるが、顔がまるめて捨てた紙屑みたいだった。
嗚呼、自分もやがてあのような顔になるのだろうか。そう思ったら急に気分が塞ぎ込んだ。
もう一度、鏡の前でニヤッと笑ってみる。
でも、案外愛嬌のある顔ではないか。仕事柄、普段は難しそうな顔をしているけれども、一本歯が抜けただけで性格まで変わったように見える。
サ・シ・ス・セ・ソ
息漏れの検査をしてみる。
サ・シィ・スゥ・セ・ソに聞こえる。
試しに自分のニックネームを言ってみる。
シコシコ
後悔した。
「皆様のセイコーがスゥチズン(七時)のおすぃらせを致します」
「松田スェイコ」
「ラルク・アン・スゥエル」
鏡の前で発声練習をしていたら、突然妻が現れた。あまりに急だったのであっと驚いたら、歯の抜けた顔を見られてしまった。妻は思わず目を丸くして
「どちらさまでしょうか」と言いながら、底意地の悪そうな笑みを浮かべた。
このあと、長男にも見つかってしまった。その長男は表情を変えることなくただ一言「別人みたいだ」と言った。真面目な顔だった。
バンドの練習から帰ってきた三男にも見つかった。私の発した「おかえり」のひとことで気がつかれてしまったのだ。
三男も目を丸くして「ああ」と一言。だが、それ以上は何も言わずに自分の部屋へ行ってしまった。
(ああ、の続きはなんなんだ!)息子たちの態度に次第に腹が立ってくる。
もう一度洗面所へ行って鏡を見る。そしてニヤッと笑ってみる。その顔に気分が和らいでくる。
(いいじゃないか、この顔)
天の声が聞こえたような気がした。
「良くない!!」
私は天の声を打ち消すように首を強く振った。
差し歯が一本ポロリと落ちた。前歯である。正確には側切歯というらしい。
だいぶ昔のことだが、知人からのお土産に貰った堅焼き煎餅を齧ったら、歯の途中からポッキリ折れた。慌てて歯医者に行って処置をしてもらったのがこの差し歯である。
それにしても、どうして一本歯が抜け落ちるだけで、間抜けな顔になるのだろうか。
鏡の前でニヤッと笑ってみたら、ただの間抜けなオッサンである。もし歯が全部無くなったらどんな顔になってしまうことだろう。そう思ったら、ふいに親父の顔が目に浮かんだ。
親父は総入れ歯だ。一本も歯が無い。だからたまに入れ歯を外した親父の顔を見ることがあるが、顔がまるめて捨てた紙屑みたいだった。
嗚呼、自分もやがてあのような顔になるのだろうか。そう思ったら急に気分が塞ぎ込んだ。
もう一度、鏡の前でニヤッと笑ってみる。
でも、案外愛嬌のある顔ではないか。仕事柄、普段は難しそうな顔をしているけれども、一本歯が抜けただけで性格まで変わったように見える。
サ・シ・ス・セ・ソ
息漏れの検査をしてみる。
サ・シィ・スゥ・セ・ソに聞こえる。
試しに自分のニックネームを言ってみる。
シコシコ
後悔した。
「皆様のセイコーがスゥチズン(七時)のおすぃらせを致します」
「松田スェイコ」
「ラルク・アン・スゥエル」
鏡の前で発声練習をしていたら、突然妻が現れた。あまりに急だったのであっと驚いたら、歯の抜けた顔を見られてしまった。妻は思わず目を丸くして
「どちらさまでしょうか」と言いながら、底意地の悪そうな笑みを浮かべた。
このあと、長男にも見つかってしまった。その長男は表情を変えることなくただ一言「別人みたいだ」と言った。真面目な顔だった。
バンドの練習から帰ってきた三男にも見つかった。私の発した「おかえり」のひとことで気がつかれてしまったのだ。
三男も目を丸くして「ああ」と一言。だが、それ以上は何も言わずに自分の部屋へ行ってしまった。
(ああ、の続きはなんなんだ!)息子たちの態度に次第に腹が立ってくる。
もう一度洗面所へ行って鏡を見る。そしてニヤッと笑ってみる。その顔に気分が和らいでくる。
(いいじゃないか、この顔)
天の声が聞こえたような気がした。
「良くない!!」
私は天の声を打ち消すように首を強く振った。
ほぼ毎日のように本屋へ通っている。世間では本離れ、活字離れが叫ばれて久しいが、私には一切関係なし。面白そうな本があったり、知らないジャンルの本を見つけたりするとすぐに飛びついてしまう。
信じられないかもしれないが、稀に本が私を呼ぶこともある。特に大きな書店でそれは起こる。
いつもは書評や広告などを見て本屋に入ることが多いのだが、購入する本を決めずにぶらっと入ると、磁石に吸い寄せられるように店内を歩き出す。やがてある本棚の前で立ち止まると目の前に背表紙が光って(イメージとして)見える本がある。著作者もタイトルも知らない本だ。手に取ってパラパラと捲ってみると、なんとなく面白そう。そこでそのままレジへと向かうのである。
このようにして見つけた本は、そのほとんどが読んで良かったと思う本ばかりだった。長年本屋と付き合っていると、こんな能力が生じてくるのだろうと自分なりに思っている。
さて、それだけ本屋に通い詰めていると、店員さんに顔を覚えられてしまうようで、時々すれ違いざまに挨拶されたり、「今日はお探しの本は見つかりましたか」などと声を掛けられる。それはそれで嬉しいのだが、逆に彼女らは私の読書傾向、購買傾向を知っているということになりはしないか。
本屋の店員さんたちは、普段から様々な本に触れ、時にはPOPも書いたりするという本のプロだ。本や作家などに対する見識も相当高いだろう。そうなると、下手な本を持ってレジへ行くのは考え物だ。特に私のように顔を覚えられている者にとっては尚更である。
(あれ、こんな本を読むんですか?)
(あらまあ、アンタも好きねぇ!)
レジの際に、微笑みを浮かべながら精算している彼女たちの表情の奥には、きっと軽蔑の色を湛えたもうひとつの顔が隠されているに違いない、そんな妄想を思い抱いてしまうのだ。
だから時には難しい本を持ってレジへ行くと、
(またあぁ、ご冗談を!本当に読めるんですかぁ?)
(お客様、これは何かの間違いでは?いつもの児童書ではございませんよ)
(睡眠薬がわりにお使いですか。それならこの本は最適です)
「次のお客様、どうぞ」
その声に目を覚ます。
慌ててレジで小銭をぶちまける。
周りのお客の冷たい視線を感じながら、今日も本屋通いは止まらない。
信じられないかもしれないが、稀に本が私を呼ぶこともある。特に大きな書店でそれは起こる。
いつもは書評や広告などを見て本屋に入ることが多いのだが、購入する本を決めずにぶらっと入ると、磁石に吸い寄せられるように店内を歩き出す。やがてある本棚の前で立ち止まると目の前に背表紙が光って(イメージとして)見える本がある。著作者もタイトルも知らない本だ。手に取ってパラパラと捲ってみると、なんとなく面白そう。そこでそのままレジへと向かうのである。
このようにして見つけた本は、そのほとんどが読んで良かったと思う本ばかりだった。長年本屋と付き合っていると、こんな能力が生じてくるのだろうと自分なりに思っている。
さて、それだけ本屋に通い詰めていると、店員さんに顔を覚えられてしまうようで、時々すれ違いざまに挨拶されたり、「今日はお探しの本は見つかりましたか」などと声を掛けられる。それはそれで嬉しいのだが、逆に彼女らは私の読書傾向、購買傾向を知っているということになりはしないか。
本屋の店員さんたちは、普段から様々な本に触れ、時にはPOPも書いたりするという本のプロだ。本や作家などに対する見識も相当高いだろう。そうなると、下手な本を持ってレジへ行くのは考え物だ。特に私のように顔を覚えられている者にとっては尚更である。
(あれ、こんな本を読むんですか?)
(あらまあ、アンタも好きねぇ!)
レジの際に、微笑みを浮かべながら精算している彼女たちの表情の奥には、きっと軽蔑の色を湛えたもうひとつの顔が隠されているに違いない、そんな妄想を思い抱いてしまうのだ。
だから時には難しい本を持ってレジへ行くと、
(またあぁ、ご冗談を!本当に読めるんですかぁ?)
(お客様、これは何かの間違いでは?いつもの児童書ではございませんよ)
(睡眠薬がわりにお使いですか。それならこの本は最適です)
「次のお客様、どうぞ」
その声に目を覚ます。
慌ててレジで小銭をぶちまける。
周りのお客の冷たい視線を感じながら、今日も本屋通いは止まらない。
座敷わらしの宿 緑風荘宿泊体験記
2019年3月1日 不思議草子 コメント (11)
某番組において、持ち込み企画という名目で、日本全国の座敷わらしが出没するという宿を紹介していた。俳優のH氏が「出る」と言われる部屋に宿泊し、実際に座敷わらしが現れるのか自ら確認するというもの。
客室の中に設置された複数のカメラが、その部屋で起こる不思議な現象を捉えるのだが、結論から言うと甚だ疑問である。
このシリーズは今まで何回放送されたか分からないが、私の見る限り、本物と言えるのは2本くらい。あとはその客室に憑依しているただの霊体ではないかと思われる。
「座敷わらし」の存在が世間にその名を知らしむるようになったのは、柳田國男の「遠野物語」からではないだろうか。民俗学の範疇で扱われる「遠野物語」だが、よく読めば完全なる心霊本である。今でいうところの実話系怪談と言ってもよい。
大学生の頃、民俗学に興味を抱いていた私が「遠野物語」に出会うのにそう時間はかからなかった。一度読んだだけですっかり魅せられてしまい、実際岩手県の遠野市へも何度か足を運んだ。
そんな或る日、同じ大学の友人Oから、岩手県の金田一温泉というところに座敷わらしが現れるという旅館があるから、一度泊まりに行かないかと誘われた。
座敷わらしはその家の守り神であり、幸福と繁栄をもたらすと言われている。ただし、その家から離れてしまうと、一気に没落してしまうともいわれ、或る意味怖い存在だ。
今ならネットがあるから簡単に調べることが出来るが、当時はそんなものはない。友人と苦労して情報を集め、さらに詳しく調べてみると、緑風荘という旅館がそうだと分かった。そして座敷わらしが現れるのは「槐(えんじゅ)の間」という部屋にどうやら限定されているらしいことも。
そこで早速緑風荘に電話をかけて、不躾にも「座敷わらしが出る部屋に泊めて欲しい」と申し出たら、構いませんよとのこと。今にして思えば、まだブームが来る遥か以前のことだから、簡単に予約することが出来たのだろう。
私と友人のOは、まるで化物退治にでも向かうような意気込みで出かけたのである。
当時はJRではなく、国鉄の時代だ。まだ東北新幹線も無かった頃で、鈍行列車を乗り継ぎながらようやく金田一駅に着いたころには、日が傾きかけていた。
国道4号線を徒歩で北へ向かい、途中から温泉へ続く道に入って行く。駅から歩くこと30分あまりでついに温泉街へと到着した。
数件の温泉宿があったが、目指す緑風荘はすぐに見つかった。
正面玄関の前には、国語辞書でお馴染みの金田一京助博士の碑が建っている。
ここ金田一は、金田一先生の祖先の土地でもあるのだ。
かなり広い敷地には2階建ての宿泊棟もあるが、我々が通されたのは平屋部分の最奥部にある「槐の間」だ。先導する仲居さんが障子を開けると、本当に何の変哲もない普通の和室がそこにあった。あまりに普通過ぎて、私とOは拍子抜けしてしまった。いかにも妖怪が出そうな、陰気でオドロオドロしい部屋を期待していたからだ。尤も、そんな妖怪が幸福の神様である筈はないのだが。
後年、テレビ番組などでこの部屋が紹介されているのを見ると、床の間には人形だとかオモチャがびっしりと隙間なく供えられているが、我々が宿泊した時にはそのようなお供え物は一切なかった。この頃はそれだけ認知度が低かったのである。
部屋での夕食が終り、他に何もすることがないOと私は、つまらないテレビ番組をぼおっと眺めていた。すると「ごめんください」と女性の声がする。
障子を開けて顔を出したのは、我々をこの部屋へ案内してくれた仲居さんだった。どうしたのだろうと思ったら
「主人がお会いしたいと言っていますが、よろしいですか」と思いも寄らぬご招待を受けた。
断る理由など何もない我々は、仲居さんのあとに続いて、暗くて長い廊下をどこまでも歩いて行った。
やがて灯りの点いた障子の前で仲居さんは立ち止まると、我々に「こちらです」と言って廊下に跪き、障子を開けた・
そこには大きな炬燵に入り、ニコニコとほほ笑むとても温厚そうな老人が我々を待っていた。
頭はすっかり禿げ上がっていたが、眉毛は太く鼻も大きい。七福神にこんな神様がいたなあと思いながら、我々は挨拶をした。
その老人は五日市栄一さんといい、この時のご当主であった。この人こそ、初めて座敷わらしに遭遇し、その後も数々の体験とそれにまつわる不可思議な出来事に見舞われた人物だった。
我々は五日市さんと同じ炬燵に入りながら、とても沢山の話を聞かせて頂いた。
毎晩現れた狐狸妖怪
五日市さんの若かりし頃、村の若者たちがこの家に集って酒盛りをしていた。その部屋が例の槐の間である。
皆が帰った後、すっかり酒に酔った五日市さんは、散らかった部屋に一人で横になっていた。すると急に身体が動かなくなったという。酔ってはいたけれども意識ははっきりしているので、これはどうしたことだろうと思っていると、縁側からひとりの童子が現れた。歳の頃なら四五歳くらいだろうか。このあたりでは見たことのない子供だ。着物を着てちゃんちゃんこを羽織っている。
その見たことのない童子は、五日市さんの寝ている周りを二三度回ると、再び縁側の方へと歩いて行った。そして姿が見えなくなると、五日市さんの身体に自由が戻って来たという。
「私はこの時、狐狸妖怪の仕業だと思いました」
五日市さんは狐や狸が悪さをしにやって来たと思ったそうだ。
「もし、今度現れたら退治してやろうと思い、次の日の晩から猟銃を持って待ち構えていたのです」
そしてそれは現れたという。だが、身体は金縛りに遭い、引き金にかけた指はぴくりとも動かず、縁側からすたすたと入って来た童子は、部屋の中を二三度回ると外へ出て行ってしまった。
「一週間、同じ部屋で待ち構えたけれど、そのたびに身体は動かなくなるし、結局退治どころではなかった」
五日市さんはそう言って笑った。
不合格になった入隊検査
戦争が始まって五日市さんにも召集令状が届いた。五日市さんだけではなく、この村からも何人かの若者が出征することになったそうだ。
五日市さんたちは大勢の村人に見送られて、村を後にしたそうだ。そして入隊検査が行われた。所謂、健康診断である。身体には自信があったので当然合格するものと思っていた。実際、どこにも異常はなく、最後に軍医が合格の判を押すだけだったのだが、ここで信じられないことが起きた。
軍医が誤って、不合格の欄に判を押してしまったのである。それを見て驚いたのは五日市さんである。これは何かの間違い、どうか合格にしてくださいと軍医に懇願したそうだ。不合格とあっては恥ずかしくて村に帰ることが出来ないと、それこそ泣きついたのだそうだ。
しかし、軍医からついに合格の言葉を聞くことは出来ず、最後には「天皇陛下の命令に背くつもりか」と一喝されてしまった。
こうして五日市さんは、ひとり泣く泣く村に帰って来たのである。だが、その時に合格となった若者たちは、大陸へ渡る輸送船が撃沈されて全員戦死してしまったのだった。
それを知った時、五日市さんは初めて自分が何者かに守られていることを感じたそうだ。
騒ぐお客
五日市さんが体験した話はそれだけではない。或る詐欺師に騙されて、旅館の改築費用として蓄えた大金を騙し取られてしまった。これはもう首を括るしかないと諦めたところ、郵便受けに包みが入っていたそうだ。開けてみるとそこには騙し取られたお金がそのまま入っていた。
この話はもしかしたら現金ではなく、小切手だったかもしれない。なにしろ遠い昔の話なので私もうる覚えのところがある。しかし、次の話は今でもよく覚えている。
この旅館に座敷わらしが出るという話が、割と知られるようになってからのこと。或る日旅館に小包が届いたので中を開けてみると、絣の着物、それも子供の着物が入っていたそうだ。一緒に手紙も添えられてあり、この着物を是非座敷わらしに着せて欲しいと書かれてあった。
(着せて欲しいといわれても)
五日市さんは困ってしまった。そこで庭にある祠に収めることにしたのだった。
そんな或る日、東京からやって来たという男性が例の槐の間に泊まった。すると翌朝のこと、その男性が仲居さんをつかまえて騒いでいる。
それを見た五日市さんは「どうしましたか」と尋ねると、「夜中に小さな子供が現れた」ということだった。そこで五日市さんは「どんな格好をしていましたか」と再度尋ねると、「絣の着物を着ていたような気がする」と答えたそうだ。
それを聞いて五日市さんは思わず笑顔になったそうな...
この時、他にも沢山の話を聞かせて貰ったのだが、ほとんど忘れてしまったのが何とも残念である。
「今夜見れるといいですね」
五日市さんはそう言ってくれた。
部屋に戻ると床が敷かれてあり、私とOは昼の疲れもあってすぐに眠りに落ちた。
何時頃だろう。私はふと目が覚めた。障子には風に揺れる樹木の陰が月明かりに照らし出されている。
(結局何も起こらないまま朝になるのかな)
私は暗い天井を見上げながらそう思った。と、その時である。
風の音に混じって、ミシッという音が聞こえた。木の軋む音のようだ。
すると再びミシッと音が聞こえた。どこからだろう。蒲団の中で耳を澄ませる。
だが、その後いくら待っても音は聞こえない。風の悪戯だったのかなとそう思った時だった。
パシッ!という大きな音が部屋に響いた。その大きな音に一瞬身構えたが、それ以上の異変は起こらない。
隣りに寝ているOはまったく気がつかない様子で眠りこけている。そして私もいつしか眠り込んでしまったのだった。
翌朝、朝食会場のある広間に向かって廊下を歩いていると、五日市さんが立っていた。もしかしたら我々のことを待っていたのかもしれない。そう思ったら、五日市さんの方から昨夜と同じにこやかな顔で話しかけてきた。
「ゆうべはどうでしたか」
つまり座敷わらしを見たかということだ。そこで私は
「残念ながら姿は見ることは出来ませんでした」と答えた。すると
「何か音は聞こえませんでしたか」と言うので
「木の枝が折れるような音がしました」と答えた。
「音がきこえましたがぁ。それは良かったですなあ」と五日市さん。
なんでも音や気配を感じるだけでもご利益があるのだとか。
ちなみにこの緑風荘に宿泊して成功を収めた有名人には次の人たちがいる。
原敬(第19代内閣総理大臣)
米内光政(第37代内閣総理大臣)
福田赳夫(第67代内閣総理大臣)
本田宗一郎(本田技研工業創業者)
松下幸之助(パナソニック創業者)
稲森和夫(京セラ)
三浦哲郎(作家、ユタと不思議な仲間たちの作者)
遠藤周作(作家、座敷わらしに遭遇した話を作品化)
水木しげる(漫画家、槐の間で座敷わらしに遭遇)
つのだじろう(漫画家、座敷わらしの絵を奉納。その絵の眼球が動いた)
水戸泉(元大相撲力士、槐の間に宿泊後の平成4年7月場所優勝)
ゆず(音楽グループ、メジャーデビューを果たす)
2009年(平成21年)、この緑風荘は火災により焼失してしまった。この報を聞き、私は愕然としたのだが、2016年より新しく建て直されて営業が行われている。
火事が起こった時、子供がひとりで消火活動をしていたという目撃談があるそうだ。しかも一人の怪我人も出なかったとか。
座敷わらしちゃんは頑張っているようだ。私も頑張らねば。
客室の中に設置された複数のカメラが、その部屋で起こる不思議な現象を捉えるのだが、結論から言うと甚だ疑問である。
このシリーズは今まで何回放送されたか分からないが、私の見る限り、本物と言えるのは2本くらい。あとはその客室に憑依しているただの霊体ではないかと思われる。
「座敷わらし」の存在が世間にその名を知らしむるようになったのは、柳田國男の「遠野物語」からではないだろうか。民俗学の範疇で扱われる「遠野物語」だが、よく読めば完全なる心霊本である。今でいうところの実話系怪談と言ってもよい。
大学生の頃、民俗学に興味を抱いていた私が「遠野物語」に出会うのにそう時間はかからなかった。一度読んだだけですっかり魅せられてしまい、実際岩手県の遠野市へも何度か足を運んだ。
そんな或る日、同じ大学の友人Oから、岩手県の金田一温泉というところに座敷わらしが現れるという旅館があるから、一度泊まりに行かないかと誘われた。
座敷わらしはその家の守り神であり、幸福と繁栄をもたらすと言われている。ただし、その家から離れてしまうと、一気に没落してしまうともいわれ、或る意味怖い存在だ。
今ならネットがあるから簡単に調べることが出来るが、当時はそんなものはない。友人と苦労して情報を集め、さらに詳しく調べてみると、緑風荘という旅館がそうだと分かった。そして座敷わらしが現れるのは「槐(えんじゅ)の間」という部屋にどうやら限定されているらしいことも。
そこで早速緑風荘に電話をかけて、不躾にも「座敷わらしが出る部屋に泊めて欲しい」と申し出たら、構いませんよとのこと。今にして思えば、まだブームが来る遥か以前のことだから、簡単に予約することが出来たのだろう。
私と友人のOは、まるで化物退治にでも向かうような意気込みで出かけたのである。
当時はJRではなく、国鉄の時代だ。まだ東北新幹線も無かった頃で、鈍行列車を乗り継ぎながらようやく金田一駅に着いたころには、日が傾きかけていた。
国道4号線を徒歩で北へ向かい、途中から温泉へ続く道に入って行く。駅から歩くこと30分あまりでついに温泉街へと到着した。
数件の温泉宿があったが、目指す緑風荘はすぐに見つかった。
正面玄関の前には、国語辞書でお馴染みの金田一京助博士の碑が建っている。
ここ金田一は、金田一先生の祖先の土地でもあるのだ。
かなり広い敷地には2階建ての宿泊棟もあるが、我々が通されたのは平屋部分の最奥部にある「槐の間」だ。先導する仲居さんが障子を開けると、本当に何の変哲もない普通の和室がそこにあった。あまりに普通過ぎて、私とOは拍子抜けしてしまった。いかにも妖怪が出そうな、陰気でオドロオドロしい部屋を期待していたからだ。尤も、そんな妖怪が幸福の神様である筈はないのだが。
後年、テレビ番組などでこの部屋が紹介されているのを見ると、床の間には人形だとかオモチャがびっしりと隙間なく供えられているが、我々が宿泊した時にはそのようなお供え物は一切なかった。この頃はそれだけ認知度が低かったのである。
部屋での夕食が終り、他に何もすることがないOと私は、つまらないテレビ番組をぼおっと眺めていた。すると「ごめんください」と女性の声がする。
障子を開けて顔を出したのは、我々をこの部屋へ案内してくれた仲居さんだった。どうしたのだろうと思ったら
「主人がお会いしたいと言っていますが、よろしいですか」と思いも寄らぬご招待を受けた。
断る理由など何もない我々は、仲居さんのあとに続いて、暗くて長い廊下をどこまでも歩いて行った。
やがて灯りの点いた障子の前で仲居さんは立ち止まると、我々に「こちらです」と言って廊下に跪き、障子を開けた・
そこには大きな炬燵に入り、ニコニコとほほ笑むとても温厚そうな老人が我々を待っていた。
頭はすっかり禿げ上がっていたが、眉毛は太く鼻も大きい。七福神にこんな神様がいたなあと思いながら、我々は挨拶をした。
その老人は五日市栄一さんといい、この時のご当主であった。この人こそ、初めて座敷わらしに遭遇し、その後も数々の体験とそれにまつわる不可思議な出来事に見舞われた人物だった。
我々は五日市さんと同じ炬燵に入りながら、とても沢山の話を聞かせて頂いた。
毎晩現れた狐狸妖怪
五日市さんの若かりし頃、村の若者たちがこの家に集って酒盛りをしていた。その部屋が例の槐の間である。
皆が帰った後、すっかり酒に酔った五日市さんは、散らかった部屋に一人で横になっていた。すると急に身体が動かなくなったという。酔ってはいたけれども意識ははっきりしているので、これはどうしたことだろうと思っていると、縁側からひとりの童子が現れた。歳の頃なら四五歳くらいだろうか。このあたりでは見たことのない子供だ。着物を着てちゃんちゃんこを羽織っている。
その見たことのない童子は、五日市さんの寝ている周りを二三度回ると、再び縁側の方へと歩いて行った。そして姿が見えなくなると、五日市さんの身体に自由が戻って来たという。
「私はこの時、狐狸妖怪の仕業だと思いました」
五日市さんは狐や狸が悪さをしにやって来たと思ったそうだ。
「もし、今度現れたら退治してやろうと思い、次の日の晩から猟銃を持って待ち構えていたのです」
そしてそれは現れたという。だが、身体は金縛りに遭い、引き金にかけた指はぴくりとも動かず、縁側からすたすたと入って来た童子は、部屋の中を二三度回ると外へ出て行ってしまった。
「一週間、同じ部屋で待ち構えたけれど、そのたびに身体は動かなくなるし、結局退治どころではなかった」
五日市さんはそう言って笑った。
不合格になった入隊検査
戦争が始まって五日市さんにも召集令状が届いた。五日市さんだけではなく、この村からも何人かの若者が出征することになったそうだ。
五日市さんたちは大勢の村人に見送られて、村を後にしたそうだ。そして入隊検査が行われた。所謂、健康診断である。身体には自信があったので当然合格するものと思っていた。実際、どこにも異常はなく、最後に軍医が合格の判を押すだけだったのだが、ここで信じられないことが起きた。
軍医が誤って、不合格の欄に判を押してしまったのである。それを見て驚いたのは五日市さんである。これは何かの間違い、どうか合格にしてくださいと軍医に懇願したそうだ。不合格とあっては恥ずかしくて村に帰ることが出来ないと、それこそ泣きついたのだそうだ。
しかし、軍医からついに合格の言葉を聞くことは出来ず、最後には「天皇陛下の命令に背くつもりか」と一喝されてしまった。
こうして五日市さんは、ひとり泣く泣く村に帰って来たのである。だが、その時に合格となった若者たちは、大陸へ渡る輸送船が撃沈されて全員戦死してしまったのだった。
それを知った時、五日市さんは初めて自分が何者かに守られていることを感じたそうだ。
騒ぐお客
五日市さんが体験した話はそれだけではない。或る詐欺師に騙されて、旅館の改築費用として蓄えた大金を騙し取られてしまった。これはもう首を括るしかないと諦めたところ、郵便受けに包みが入っていたそうだ。開けてみるとそこには騙し取られたお金がそのまま入っていた。
この話はもしかしたら現金ではなく、小切手だったかもしれない。なにしろ遠い昔の話なので私もうる覚えのところがある。しかし、次の話は今でもよく覚えている。
この旅館に座敷わらしが出るという話が、割と知られるようになってからのこと。或る日旅館に小包が届いたので中を開けてみると、絣の着物、それも子供の着物が入っていたそうだ。一緒に手紙も添えられてあり、この着物を是非座敷わらしに着せて欲しいと書かれてあった。
(着せて欲しいといわれても)
五日市さんは困ってしまった。そこで庭にある祠に収めることにしたのだった。
そんな或る日、東京からやって来たという男性が例の槐の間に泊まった。すると翌朝のこと、その男性が仲居さんをつかまえて騒いでいる。
それを見た五日市さんは「どうしましたか」と尋ねると、「夜中に小さな子供が現れた」ということだった。そこで五日市さんは「どんな格好をしていましたか」と再度尋ねると、「絣の着物を着ていたような気がする」と答えたそうだ。
それを聞いて五日市さんは思わず笑顔になったそうな...
この時、他にも沢山の話を聞かせて貰ったのだが、ほとんど忘れてしまったのが何とも残念である。
「今夜見れるといいですね」
五日市さんはそう言ってくれた。
部屋に戻ると床が敷かれてあり、私とOは昼の疲れもあってすぐに眠りに落ちた。
何時頃だろう。私はふと目が覚めた。障子には風に揺れる樹木の陰が月明かりに照らし出されている。
(結局何も起こらないまま朝になるのかな)
私は暗い天井を見上げながらそう思った。と、その時である。
風の音に混じって、ミシッという音が聞こえた。木の軋む音のようだ。
すると再びミシッと音が聞こえた。どこからだろう。蒲団の中で耳を澄ませる。
だが、その後いくら待っても音は聞こえない。風の悪戯だったのかなとそう思った時だった。
パシッ!という大きな音が部屋に響いた。その大きな音に一瞬身構えたが、それ以上の異変は起こらない。
隣りに寝ているOはまったく気がつかない様子で眠りこけている。そして私もいつしか眠り込んでしまったのだった。
翌朝、朝食会場のある広間に向かって廊下を歩いていると、五日市さんが立っていた。もしかしたら我々のことを待っていたのかもしれない。そう思ったら、五日市さんの方から昨夜と同じにこやかな顔で話しかけてきた。
「ゆうべはどうでしたか」
つまり座敷わらしを見たかということだ。そこで私は
「残念ながら姿は見ることは出来ませんでした」と答えた。すると
「何か音は聞こえませんでしたか」と言うので
「木の枝が折れるような音がしました」と答えた。
「音がきこえましたがぁ。それは良かったですなあ」と五日市さん。
なんでも音や気配を感じるだけでもご利益があるのだとか。
ちなみにこの緑風荘に宿泊して成功を収めた有名人には次の人たちがいる。
原敬(第19代内閣総理大臣)
米内光政(第37代内閣総理大臣)
福田赳夫(第67代内閣総理大臣)
本田宗一郎(本田技研工業創業者)
松下幸之助(パナソニック創業者)
稲森和夫(京セラ)
三浦哲郎(作家、ユタと不思議な仲間たちの作者)
遠藤周作(作家、座敷わらしに遭遇した話を作品化)
水木しげる(漫画家、槐の間で座敷わらしに遭遇)
つのだじろう(漫画家、座敷わらしの絵を奉納。その絵の眼球が動いた)
水戸泉(元大相撲力士、槐の間に宿泊後の平成4年7月場所優勝)
ゆず(音楽グループ、メジャーデビューを果たす)
2009年(平成21年)、この緑風荘は火災により焼失してしまった。この報を聞き、私は愕然としたのだが、2016年より新しく建て直されて営業が行われている。
火事が起こった時、子供がひとりで消火活動をしていたという目撃談があるそうだ。しかも一人の怪我人も出なかったとか。
座敷わらしちゃんは頑張っているようだ。私も頑張らねば。
心にゆとりが出来たのか、このところ毎週1回は会社帰りに映画館へ立ち寄っている。昨年まではこんなことは一切無かった。今年に入り、息子に仕事を任せたことも、心にゆとりが出来たせいかもしれない。
先週は「マスカレード・ホテル」を、その前の週は「七つの会議」を、そして昨夜は「フォルトゥナの瞳」を観てきた。平日の夜にも関わらず、7割程度の入りであったが、その大半は若いカップルか女性のグループで、私のようなオッサンがひとりで観ている姿は他に見当たらなかった。
この映画も前回、前々回同様、原作本を既に読んでいたので結末は分かっている。だから、どのようなアレンジが施され映像化されるのか、そこに興味があった。
原作は百田尚樹氏の「フォルトゥナの瞳」だ。人の運命(死)が見えるという特殊能力を備えたひとりの青年の物語。
他人の死を救うたびに、自分は死へ一歩近づいていく。そして愛する彼女に死が迫っていることを知った青年が取った行動は...
映画の終盤、あちこちから鼻水を啜る音が聞こえてくる。そして私も鼻水が。
この歳になっても、恋愛映画に感動する心を持ち合わせている自分に驚く、と書きたいところだが、おそらく花粉症かもしれない。
それにしても百田尚樹という作家は、実に守備範囲の広い人だ。あの容貌からは考えられないこういう恋愛物も書けば、時代劇やスポーツ、評伝物、そして「永遠の0」といった戦争をテーマにした作品等々、実に多岐に渡っている。
幻冬舎の見城徹社長が「稀代のエンターティナー」と評するのもよく分かる。
まだ私が大学生の頃、仙台駅前に複数の映画館が入ったビルがあった。
親父がそこのオーナーと知り合いだったので、毎月各映画館の招待券を貰っていた。その中の1館はいわゆるにっかつ系の成人映画だったのだが、『使わないで捨てるつもりか。そんな罰当たりなことをしたら神様に叱られるではないか』と入館をためらう自分を厳しく叱責し、何度も利用させて貰った。
やがて私が映画館の招待券を毎月たくさん貰っているということが、友人たちの間で一気に広まってしまい、昼飯代にも困るような生活をしていた私は、1枚200円、ただしにっかつは400円で譲っていた。勿論、あっという間に完売である。貧乏学生だった我々には、映画館代は当時でも高かったのだ。
それだけではない。毎週のように女の子を誘っては映画館デートをしたのもその頃だ。
なにしろ招待券があるからお金の心配はない。必要なのは映画が終わったあとに飲むコーヒー代くらいなもの。
女の子たちの間では「安全な男」という有難くないレッテルを貼られていたので、声をかけると「いいよ」と二つ返事で映画に行ってくれる。
それにしても、学生時代に何本の映画を観ていたのだろう。随分観たような気がするし、その割には覚えていないのはどうしたことか。映画を観ながら他のことを考えていたのだろうか。まあ、どうせろくでもないことを考えていたのだろうが、今となってはそれすら覚えていない。
綺麗で快適になった映画館。
暗闇の中でふと思い出すのは、そんな若い頃の映画の思い出だった。
ポップコーンセットを抱え、ひとりポリポリ齧りながら、さて来週は何を観ようか...
先週は「マスカレード・ホテル」を、その前の週は「七つの会議」を、そして昨夜は「フォルトゥナの瞳」を観てきた。平日の夜にも関わらず、7割程度の入りであったが、その大半は若いカップルか女性のグループで、私のようなオッサンがひとりで観ている姿は他に見当たらなかった。
この映画も前回、前々回同様、原作本を既に読んでいたので結末は分かっている。だから、どのようなアレンジが施され映像化されるのか、そこに興味があった。
原作は百田尚樹氏の「フォルトゥナの瞳」だ。人の運命(死)が見えるという特殊能力を備えたひとりの青年の物語。
他人の死を救うたびに、自分は死へ一歩近づいていく。そして愛する彼女に死が迫っていることを知った青年が取った行動は...
映画の終盤、あちこちから鼻水を啜る音が聞こえてくる。そして私も鼻水が。
この歳になっても、恋愛映画に感動する心を持ち合わせている自分に驚く、と書きたいところだが、おそらく花粉症かもしれない。
それにしても百田尚樹という作家は、実に守備範囲の広い人だ。あの容貌からは考えられないこういう恋愛物も書けば、時代劇やスポーツ、評伝物、そして「永遠の0」といった戦争をテーマにした作品等々、実に多岐に渡っている。
幻冬舎の見城徹社長が「稀代のエンターティナー」と評するのもよく分かる。
まだ私が大学生の頃、仙台駅前に複数の映画館が入ったビルがあった。
親父がそこのオーナーと知り合いだったので、毎月各映画館の招待券を貰っていた。その中の1館はいわゆるにっかつ系の成人映画だったのだが、『使わないで捨てるつもりか。そんな罰当たりなことをしたら神様に叱られるではないか』と入館をためらう自分を厳しく叱責し、何度も利用させて貰った。
やがて私が映画館の招待券を毎月たくさん貰っているということが、友人たちの間で一気に広まってしまい、昼飯代にも困るような生活をしていた私は、1枚200円、ただしにっかつは400円で譲っていた。勿論、あっという間に完売である。貧乏学生だった我々には、映画館代は当時でも高かったのだ。
それだけではない。毎週のように女の子を誘っては映画館デートをしたのもその頃だ。
なにしろ招待券があるからお金の心配はない。必要なのは映画が終わったあとに飲むコーヒー代くらいなもの。
女の子たちの間では「安全な男」という有難くないレッテルを貼られていたので、声をかけると「いいよ」と二つ返事で映画に行ってくれる。
それにしても、学生時代に何本の映画を観ていたのだろう。随分観たような気がするし、その割には覚えていないのはどうしたことか。映画を観ながら他のことを考えていたのだろうか。まあ、どうせろくでもないことを考えていたのだろうが、今となってはそれすら覚えていない。
綺麗で快適になった映画館。
暗闇の中でふと思い出すのは、そんな若い頃の映画の思い出だった。
ポップコーンセットを抱え、ひとりポリポリ齧りながら、さて来週は何を観ようか...
ラテンポップスのスターたち③ ジャネット
2019年2月27日 音楽
久し振りにこのテーマでお話をしましょうか。
前回、前々回と男性アーティストばかりをご紹介したので、このあたりで女性を登場させましょう。彼女はスペインにおいては今では大御所と言っても良い大スターです。
残念ながら日本では知る人ぞ知るといった程度ですが、彼女たちの歌は各国語に訳されて世界中で発売されているのです。
日本の場合、英語圏でヒットした音楽は、ほぼリアルタイムで入って来ますが、それ以外の音楽に関してはお寒いばかりです。
さて、最初はジャネット(Jeanette)です。彼女は1951年ロンドン生まれですが、12歳の時に両親が離婚したのを機に母親や弟、妹とスペインのバルセロナへ移りました。この頃はまだ英語しか話せなかったのですが、近所の子供たちがスペイン語を教えてくれたそうです。
その後、ピクニックというグループを結成して音楽活動をするのですが、それもうまくいかずに解散し、結婚した彼女はウィーンへ引っ越してしまいます。しかし、彼女の音楽活動は止まることは無く、ソロでの活動が続きました。
そんな中で彼女はスペインの作詞作曲家でプロデューサーでもあるマヌエル・アレハンドロに見い出されます。マヌエル・アレハンドロは前回ご紹介したラファエルの盟友であり、彼のヒット曲の大半を手掛けた人物です。バルセロナ・オリンピックの時には音楽監督も務めていました。
ジャネットはアレハンドロが作った曲を立て続けに大ヒットさせ、一躍スターダムへとのし上がります。その中でも特にヒットした曲が「Corazón de poeta」、詩人の心という歌です。
ジャネットの作詞でマヌエル・アレハンドロが作曲、編曲をしていますが、スペインでは発売から10週間トップを独走しました。
印象的な導入部はアレハンドロお得意の曲作りですが、彼女のふんわりとした声がよくマッチしていると思います。
コラソン・デ・ポエタ
https://www.youtube.com/watch?v=mlg4fV1MEQ8&list=RDmlg4fV1MEQ8&start_radio=1
前回、前々回と男性アーティストばかりをご紹介したので、このあたりで女性を登場させましょう。彼女はスペインにおいては今では大御所と言っても良い大スターです。
残念ながら日本では知る人ぞ知るといった程度ですが、彼女たちの歌は各国語に訳されて世界中で発売されているのです。
日本の場合、英語圏でヒットした音楽は、ほぼリアルタイムで入って来ますが、それ以外の音楽に関してはお寒いばかりです。
さて、最初はジャネット(Jeanette)です。彼女は1951年ロンドン生まれですが、12歳の時に両親が離婚したのを機に母親や弟、妹とスペインのバルセロナへ移りました。この頃はまだ英語しか話せなかったのですが、近所の子供たちがスペイン語を教えてくれたそうです。
その後、ピクニックというグループを結成して音楽活動をするのですが、それもうまくいかずに解散し、結婚した彼女はウィーンへ引っ越してしまいます。しかし、彼女の音楽活動は止まることは無く、ソロでの活動が続きました。
そんな中で彼女はスペインの作詞作曲家でプロデューサーでもあるマヌエル・アレハンドロに見い出されます。マヌエル・アレハンドロは前回ご紹介したラファエルの盟友であり、彼のヒット曲の大半を手掛けた人物です。バルセロナ・オリンピックの時には音楽監督も務めていました。
ジャネットはアレハンドロが作った曲を立て続けに大ヒットさせ、一躍スターダムへとのし上がります。その中でも特にヒットした曲が「Corazón de poeta」、詩人の心という歌です。
ジャネットの作詞でマヌエル・アレハンドロが作曲、編曲をしていますが、スペインでは発売から10週間トップを独走しました。
印象的な導入部はアレハンドロお得意の曲作りですが、彼女のふんわりとした声がよくマッチしていると思います。
コラソン・デ・ポエタ
https://www.youtube.com/watch?v=mlg4fV1MEQ8&list=RDmlg4fV1MEQ8&start_radio=1
宇宙本 はやぶさ2によせて
2019年2月26日 読書 コメント (9)
宇宙航空研究開発機構(JAXA)の探査機「はやぶさ2」が、小惑星「リュウグウ」への着陸に成功したことは周知の通りである。
そして今回はタッチダウン、即ち着陸した直後に離陸するという方法を採用した。タッチダウンの際、「サンプラーホーン」という装置から金属製の5グラムの弾丸が、秒速300メートルの速さで地表面に撃ち込まれる。その衝撃によって砕け散った岩石などを採取するというわけだ。
JAXAの発表によれば、そのシーケンスは無事に成功したという。初代「はやぶさ」に続く快挙である。日本の宇宙探査能力の高さがまたひとつ証明されたと言っても良い。
科学、特に宇宙物理学にはまったくご縁の無い私だが、そういう話を見聞きすると、すぐに触手を伸ばしたくなるのが悪い癖だ。
分かりもしないくせに「はやぶさ2」の快挙に刺激されて、今回も宇宙関連の本を読み漁った。
以前購入して積読状態だった本や、新たに購入した本を同時並行で読んでみたのだが、その結果はといえば、わからんの一言。どうもこの分野への着陸はヒコヒコには無理のようである。それこそタッチダウンで逃げ出すしかなさそうだ。
ところで気になったのは小惑星「リュウグウ」のことだ。この小惑星のことを詳しく知っている一般人はどれほどいるのだろうか。また、なぜリュウグウなどという日本昔話のようなネーミングになったのだろう。ふと、私の中に疑問が浮かんだ。
そこで気になる点をいくつか調べてみたところ、意外なことが分かった。
まず、この「リュウグウ」が発見されたのは、1999年5月のこと。LINEAR(リンカーン地球近傍小惑星探査・自動観測プログラム)によって発見された。
2015年10月にはJAXAから小惑星センターのリストに「Ryugu」の名称が記載されたことが公表されたのだが、ここで第一の疑問。なぜ「Ryugu」なのか。
それについては、昔話の「浦島太郎」もモチーフになっているようだ。
ご存知のように浦島太郎は竜宮城から玉手箱を持ち帰る話だが、「はやぶさ2」もまたサンプルをカプセルに入れて持ち帰るため、そのイメージが重なること。
また、この小惑星(正式名称:1999 JU3)は水を含む岩石があると期待されており、水を想起させる名称案であること。さらに、既存の小惑星の名称に類似するものが無いことや、「神話由来の名称が望ましい」とする国際天文学連合の定めたルールに合致することなどから決定されたらしい。
このように名前ひとつ決めるにも、色々と決まり事があるのだ。今までそれすら知らなかったのだから、やはり勉強はするものである。
「リュウグウ」について調べていたら、もうひとつ気になる言葉を見つけた。それが「PHA」である。これは「Potentially Hazardous Asteroid」の略だが、日本語では「潜在的に危険な小惑星」と訳される。早い話が地球にぶつかる可能性の高い小惑星だということだ。また、万が一衝突した場合には地球に与える影響が大きい小惑星の分類に入るのだそうで、そう思うと、とても怖い星なのである。
そういうことで、どうぞはやぶさ2よ。持ち帰るのはサンプルだけにしておくれと今からお願いしておこう。
写真上:併読した宇宙関連本
写真下:サンプラーホーン
そして今回はタッチダウン、即ち着陸した直後に離陸するという方法を採用した。タッチダウンの際、「サンプラーホーン」という装置から金属製の5グラムの弾丸が、秒速300メートルの速さで地表面に撃ち込まれる。その衝撃によって砕け散った岩石などを採取するというわけだ。
JAXAの発表によれば、そのシーケンスは無事に成功したという。初代「はやぶさ」に続く快挙である。日本の宇宙探査能力の高さがまたひとつ証明されたと言っても良い。
科学、特に宇宙物理学にはまったくご縁の無い私だが、そういう話を見聞きすると、すぐに触手を伸ばしたくなるのが悪い癖だ。
分かりもしないくせに「はやぶさ2」の快挙に刺激されて、今回も宇宙関連の本を読み漁った。
以前購入して積読状態だった本や、新たに購入した本を同時並行で読んでみたのだが、その結果はといえば、わからんの一言。どうもこの分野への着陸はヒコヒコには無理のようである。それこそタッチダウンで逃げ出すしかなさそうだ。
ところで気になったのは小惑星「リュウグウ」のことだ。この小惑星のことを詳しく知っている一般人はどれほどいるのだろうか。また、なぜリュウグウなどという日本昔話のようなネーミングになったのだろう。ふと、私の中に疑問が浮かんだ。
そこで気になる点をいくつか調べてみたところ、意外なことが分かった。
まず、この「リュウグウ」が発見されたのは、1999年5月のこと。LINEAR(リンカーン地球近傍小惑星探査・自動観測プログラム)によって発見された。
2015年10月にはJAXAから小惑星センターのリストに「Ryugu」の名称が記載されたことが公表されたのだが、ここで第一の疑問。なぜ「Ryugu」なのか。
それについては、昔話の「浦島太郎」もモチーフになっているようだ。
ご存知のように浦島太郎は竜宮城から玉手箱を持ち帰る話だが、「はやぶさ2」もまたサンプルをカプセルに入れて持ち帰るため、そのイメージが重なること。
また、この小惑星(正式名称:1999 JU3)は水を含む岩石があると期待されており、水を想起させる名称案であること。さらに、既存の小惑星の名称に類似するものが無いことや、「神話由来の名称が望ましい」とする国際天文学連合の定めたルールに合致することなどから決定されたらしい。
このように名前ひとつ決めるにも、色々と決まり事があるのだ。今までそれすら知らなかったのだから、やはり勉強はするものである。
「リュウグウ」について調べていたら、もうひとつ気になる言葉を見つけた。それが「PHA」である。これは「Potentially Hazardous Asteroid」の略だが、日本語では「潜在的に危険な小惑星」と訳される。早い話が地球にぶつかる可能性の高い小惑星だということだ。また、万が一衝突した場合には地球に与える影響が大きい小惑星の分類に入るのだそうで、そう思うと、とても怖い星なのである。
そういうことで、どうぞはやぶさ2よ。持ち帰るのはサンプルだけにしておくれと今からお願いしておこう。
写真上:併読した宇宙関連本
写真下:サンプラーホーン
ハンコ屋さんの未来予言サービス
2019年2月21日 不思議草子 コメント (10)私が使っている印鑑は、二十歳の時に親父が作ってくれたものだ。認印と実印のふたつだが、認印は柘植材で実印は象牙である。ワシントン条約締結国である日本は、現在国内にある象牙を使い切ってしまったら国外から輸入することは出来なくなるので、いずれこの象牙の実印は貴重なものになるだろう。
ところで、この印鑑を作ったハンコ屋さん。実は親父の知り合いだった。どのようなことで知り合ったのかは分からないが、その関係でおふくろもこのハンコ屋さんに印鑑を作ってもらったようだ。
今はもう廃業されてしまったようだが、「大越」という名前であったと記憶している。
一見、普通のハンコ屋さんのようだが、ここでハンコを作ると、或る特典があった。それはこの大越さん、特殊能力の持ち主、未来が見えると言う予言者でもあったのだ。
あの頃、親父が「よく当たるんだ」と言っていたのは、この大越さんのことだった。
占いの類をほとんど信じない親父がそう言うくらいだから、余程当たるのだろう、当時私はそう思ったものだ。
さて、親父が印鑑を作ってくれた特典として、私も未来を占ってもらえることになった。
大越さんに会うと、本当に普通のおじさんである。背広を着ているので会社員のようだった。とても占い師のようには見えない。
なにせ遠い昔の話だから、この時どのようなことを言われたのかすべてを思い出すことは出来ないが、それでも記憶に残っていることが幾つかある。
まず、健康面で気管支系が弱いから気をつけること。結婚は26歳の時。子供は3人出来る。この3つだけは覚えていたが、結果はまったくその通りとなった。
社会人になってから、私は慢性気管支炎で悩まされることになったし、確かに26歳で結婚もした。そして今、3人の子供の父親になっている。
と、こう書くと、なんだ、それならよくある占いの話ではないかと言われてしまいそうだが、本当の凄さはここからなのである。
この時、私はまだ妻とは知り合っていなかった。その妻が仕事による体調不良で会社を辞め、アルバイト生活をしている時に、偶然この大越さんというハンコ屋さんを知ることになった。
アルバイト仲間がこのハンコ屋さんを知っていたのである。仕事がきつくて体調を壊してばかりいた妻は、開運と健康快復を願って印鑑を作ることにしたのだが、その際に大越さんから未来を占ってもらったのである。
するとこう言われたそうだ。
まもなく結婚する相手と出会うことだろう。将来、子供は3人出来る。それは全員が男の子である。結婚相手は年下である云々。
そして最後に一言こう告げられたという。その人の名前には「ひ」という文字が付く筈だと。
信じる信じないは、あなた次第です。
ところで、この印鑑を作ったハンコ屋さん。実は親父の知り合いだった。どのようなことで知り合ったのかは分からないが、その関係でおふくろもこのハンコ屋さんに印鑑を作ってもらったようだ。
今はもう廃業されてしまったようだが、「大越」という名前であったと記憶している。
一見、普通のハンコ屋さんのようだが、ここでハンコを作ると、或る特典があった。それはこの大越さん、特殊能力の持ち主、未来が見えると言う予言者でもあったのだ。
あの頃、親父が「よく当たるんだ」と言っていたのは、この大越さんのことだった。
占いの類をほとんど信じない親父がそう言うくらいだから、余程当たるのだろう、当時私はそう思ったものだ。
さて、親父が印鑑を作ってくれた特典として、私も未来を占ってもらえることになった。
大越さんに会うと、本当に普通のおじさんである。背広を着ているので会社員のようだった。とても占い師のようには見えない。
なにせ遠い昔の話だから、この時どのようなことを言われたのかすべてを思い出すことは出来ないが、それでも記憶に残っていることが幾つかある。
まず、健康面で気管支系が弱いから気をつけること。結婚は26歳の時。子供は3人出来る。この3つだけは覚えていたが、結果はまったくその通りとなった。
社会人になってから、私は慢性気管支炎で悩まされることになったし、確かに26歳で結婚もした。そして今、3人の子供の父親になっている。
と、こう書くと、なんだ、それならよくある占いの話ではないかと言われてしまいそうだが、本当の凄さはここからなのである。
この時、私はまだ妻とは知り合っていなかった。その妻が仕事による体調不良で会社を辞め、アルバイト生活をしている時に、偶然この大越さんというハンコ屋さんを知ることになった。
アルバイト仲間がこのハンコ屋さんを知っていたのである。仕事がきつくて体調を壊してばかりいた妻は、開運と健康快復を願って印鑑を作ることにしたのだが、その際に大越さんから未来を占ってもらったのである。
するとこう言われたそうだ。
まもなく結婚する相手と出会うことだろう。将来、子供は3人出来る。それは全員が男の子である。結婚相手は年下である云々。
そして最後に一言こう告げられたという。その人の名前には「ひ」という文字が付く筈だと。
信じる信じないは、あなた次第です。
また、嫌な季節がやって来た-
そう思っている人は少なくない筈だ。
「花粉症」
こいつに悩まされている人は大勢いる。私の知り合いにも、そして家族にも。
去年、奮発してやや高級な空気清浄器を購入した。勿論、花粉対策のためである。
もともと家を建てた時に、住宅メーカー側がエアナビという装置を設置してくれた。
その装置には花粉モードが組み込まれていて、作動させると家の中の気圧を少しだけ高めてくれるのである。それによって花粉の侵入を防ぐという仕組みだ。だが、実際にはあまり効果が認められず、それなら一番花粉が入って来やすい玄関付近に空気清浄器を置くことにしようと思い立ったわけだ。
この時の出費は少々痛かったが、最近、その空気清浄器が一日中唸り声を上げている。
最初はこの機械、こんなに大きな音を上げただろうかと首を捻ったが、それが花粉を感知してのことだとようやく気がついた。
ひと時も休むことなくフル稼働する空気清浄器を見ているうちに、この家の中にどれほどの花粉が飛んでいるのかと怖くなってきた。
毎年、症状が酷い長男は、会社の休みの日に耳鼻科へ行ってきたようだし、クスリが飲めない妻は、家の中でもマスクをつけて、花粉症に効くというお茶を飲んでいる。
私と三男は鈍感なのか、涙も鼻水も一筋だって零さない流さない。だから苦しむ妻や長男からは「鼻水も涙も無い人間だ」と罵られる始末。
いっそ家庭平和のために全員が花粉症になった方が良いのかと思うのだけれども、身体が反応してくれないのだからどうしようもない。
あ~あ、憂鬱な季節が今年もやって来た。
そう思っている人は少なくない筈だ。
「花粉症」
こいつに悩まされている人は大勢いる。私の知り合いにも、そして家族にも。
去年、奮発してやや高級な空気清浄器を購入した。勿論、花粉対策のためである。
もともと家を建てた時に、住宅メーカー側がエアナビという装置を設置してくれた。
その装置には花粉モードが組み込まれていて、作動させると家の中の気圧を少しだけ高めてくれるのである。それによって花粉の侵入を防ぐという仕組みだ。だが、実際にはあまり効果が認められず、それなら一番花粉が入って来やすい玄関付近に空気清浄器を置くことにしようと思い立ったわけだ。
この時の出費は少々痛かったが、最近、その空気清浄器が一日中唸り声を上げている。
最初はこの機械、こんなに大きな音を上げただろうかと首を捻ったが、それが花粉を感知してのことだとようやく気がついた。
ひと時も休むことなくフル稼働する空気清浄器を見ているうちに、この家の中にどれほどの花粉が飛んでいるのかと怖くなってきた。
毎年、症状が酷い長男は、会社の休みの日に耳鼻科へ行ってきたようだし、クスリが飲めない妻は、家の中でもマスクをつけて、花粉症に効くというお茶を飲んでいる。
私と三男は鈍感なのか、涙も鼻水も一筋だって零さない流さない。だから苦しむ妻や長男からは「鼻水も涙も無い人間だ」と罵られる始末。
いっそ家庭平和のために全員が花粉症になった方が良いのかと思うのだけれども、身体が反応してくれないのだからどうしようもない。
あ~あ、憂鬱な季節が今年もやって来た。
Yさんは鹿児島出身の偉丈夫で、一見西郷隆盛を思わせる人物だ。故郷を遠く離れてここ仙台に居を構え、20年以上を縁もゆかりもないこの土地で暮らして来た。
私とYさんが出会ったのは、たまたま或る仕事を通じてのことだったが、気が合ったというのだろうか、お互いに連絡を取り合うようになり、ついには私の仕事を手伝ってくれるまでになった。
お酒も無茶苦茶強くて、芋焼酎ならいくらでも飲めると豪語する。そんな豪快な人物だが、なぜ仙台へ来たのか、家族はいるのかなど、プライベートな話は一切口にしなかった。
何か特別な事情があるのだろうと、私もYさんに尋ねることは一切しなかった。
そのYさんが或る日私の仕事場にやって来て、いつものように世間話をして行ったのだが、最近食事の後に横になると、頻繁にゲップが出るようになったというのだ。それまではそんなことがまったく無かったので「これも歳のせいですかね」と笑っていた。
そのYさんから間もなくして電話があり、某医療センターに入院していると知らされた。さすがにおかしいと感じたYさんは検査を受けたところ、胃に癌が見つかった。そこで外科手術と抗癌治療を行うことになったという知らせだった。
私はその知らせにとても驚いたが、努めて明るく話そうとするYさんに、どう励ましたら良いのか言葉が見つからなかった。
手術前に病院へお見舞いに出かけたところ、Yさんはあの大きな身体でニコニコと笑みを浮かべながら面会室へやって来た。いつもと違うのは点滴のスタンドが傍らにあるのとパジャマ姿くらいなものだった。
私も病気のことにはあまり触れず、仕事の話や今度また一緒に飲みに行きましょうという他愛も無い話に終始した。
そのあと病室まで付き添ったが、Yさんのベッドの枕元には名前の分からない小さくて綺麗な花が飾られていた。
「とにかく一日も早い復帰を願ってますから」
その日はそう言ってYさんと別れた。
それから一か月以上が経って、私の携帯電話にYさんから電話が入った。声に張りは無かったが手術は無事に終わり、現在も療養中であるとのことで私もそれを聞いて安堵した。
その電話があって2、3日後に、私は再びYさんを病院へ訪ねた。
今回は直接病室へ足を運んだが、ベッドに起き上がっているYさんを見て、一瞬言葉を失った。なぜなら、あの大きな身体がそれこそ半分になってしまったようなYさんが、そこにいたからである。
一月前に同じこの病院で会ったYさんとはまるで別人だった。顔も身体も、そして点滴を受けている腕も、すっかり痩せ細ってしまっている。
こんな短い期間の間で、こうも変わってしまうものなのだろうか。私は言葉を失った。
Yさんは話をするのが少し辛そうだったので、また伺いますよと言ってすぐに辞去したのだが、その枕元には今回も綺麗な花が飾られていた。いったい誰が飾っていくのだろう。一度もYさんの口から聞かされたことのない家族だろうか。
そんなことが気になりながら、私は病院をあとにした。
おそらくこれは夢である。
どこかの大きな建物の玄関から、見覚えのある人物が、片手に何かをぶら下げて出て来た。そしてまっすぐに私のところへ向かって歩いて来る。
それがYさんであることは、大きな体形ですぐに分かった。
私は病気が全快して、もとのYさんに戻ったのだと思った。
Yさんは私の目の前までやって来ると、深々と一礼した。そして手に提げていた包みを私に差し出した。どうやらそれは一升瓶のようだ。それも芋焼酎らしい。
ふいのことに私はただ黙ってそれを受け取った。
Yさんは受け取って貰ったことにほっとしたのか、それまでの強張った顔が一瞬緩んだように見えた。そして再び私に一礼すると、私に背を向け、いま歩いてきた道を戻り始めた。
私はYさんに声を掛けようとするのだが、何故か声が出ない。しかし、そう思うたびにYさんは立ち止まり、私を振り返っては何度もお辞儀をした。そしていつしかその姿は見えなくなってしまった。
(妙な夢を見るものだな)
私は目が覚めてからも、夢に現れたYさんの姿が頭から離れなかった。
それから一週間ほどが過ぎて、私の携帯電話に見知らぬ番号から電話がかかって来た。
出ると女性の声がした。知らない名前だった。だが、女性が話し始めたのはYさんの死だった。
その女性の話では、Yさんが亡くなったのはしばらく前のことらしい。おそらく私が最後に見舞いに伺い、その直後だったようである。
私のことは生前Yさんから聞いていたらしく、大変お世話になったと話していたそうだ。
今回、こちら仙台を引き払い、故郷の鹿児島へお骨も連れて帰るとのことで、荷物の整理をしていたとのこと。
Yさんの携帯電話を見ていたら、私の名前と電話番号をみつけ、それで電話をしたのだという。
「主人に代わって御礼を申し上げます」
彼女はそう言った。
(奥さんがいたのか。でも苗字は違ったが)
私はYさんの病床にあった綺麗な花を思い出した。
Yさんと私の話はこれで終わりである。
あれは私に別れを伝えに来たのかもしれない。おそらく元気になったらまた飲みましょうと言っていたことが気になっていたのだろう。
芋焼酎をぶら下げてくるなんてYさんらしい。
さようなら、Yさん。
私とYさんが出会ったのは、たまたま或る仕事を通じてのことだったが、気が合ったというのだろうか、お互いに連絡を取り合うようになり、ついには私の仕事を手伝ってくれるまでになった。
お酒も無茶苦茶強くて、芋焼酎ならいくらでも飲めると豪語する。そんな豪快な人物だが、なぜ仙台へ来たのか、家族はいるのかなど、プライベートな話は一切口にしなかった。
何か特別な事情があるのだろうと、私もYさんに尋ねることは一切しなかった。
そのYさんが或る日私の仕事場にやって来て、いつものように世間話をして行ったのだが、最近食事の後に横になると、頻繁にゲップが出るようになったというのだ。それまではそんなことがまったく無かったので「これも歳のせいですかね」と笑っていた。
そのYさんから間もなくして電話があり、某医療センターに入院していると知らされた。さすがにおかしいと感じたYさんは検査を受けたところ、胃に癌が見つかった。そこで外科手術と抗癌治療を行うことになったという知らせだった。
私はその知らせにとても驚いたが、努めて明るく話そうとするYさんに、どう励ましたら良いのか言葉が見つからなかった。
手術前に病院へお見舞いに出かけたところ、Yさんはあの大きな身体でニコニコと笑みを浮かべながら面会室へやって来た。いつもと違うのは点滴のスタンドが傍らにあるのとパジャマ姿くらいなものだった。
私も病気のことにはあまり触れず、仕事の話や今度また一緒に飲みに行きましょうという他愛も無い話に終始した。
そのあと病室まで付き添ったが、Yさんのベッドの枕元には名前の分からない小さくて綺麗な花が飾られていた。
「とにかく一日も早い復帰を願ってますから」
その日はそう言ってYさんと別れた。
それから一か月以上が経って、私の携帯電話にYさんから電話が入った。声に張りは無かったが手術は無事に終わり、現在も療養中であるとのことで私もそれを聞いて安堵した。
その電話があって2、3日後に、私は再びYさんを病院へ訪ねた。
今回は直接病室へ足を運んだが、ベッドに起き上がっているYさんを見て、一瞬言葉を失った。なぜなら、あの大きな身体がそれこそ半分になってしまったようなYさんが、そこにいたからである。
一月前に同じこの病院で会ったYさんとはまるで別人だった。顔も身体も、そして点滴を受けている腕も、すっかり痩せ細ってしまっている。
こんな短い期間の間で、こうも変わってしまうものなのだろうか。私は言葉を失った。
Yさんは話をするのが少し辛そうだったので、また伺いますよと言ってすぐに辞去したのだが、その枕元には今回も綺麗な花が飾られていた。いったい誰が飾っていくのだろう。一度もYさんの口から聞かされたことのない家族だろうか。
そんなことが気になりながら、私は病院をあとにした。
おそらくこれは夢である。
どこかの大きな建物の玄関から、見覚えのある人物が、片手に何かをぶら下げて出て来た。そしてまっすぐに私のところへ向かって歩いて来る。
それがYさんであることは、大きな体形ですぐに分かった。
私は病気が全快して、もとのYさんに戻ったのだと思った。
Yさんは私の目の前までやって来ると、深々と一礼した。そして手に提げていた包みを私に差し出した。どうやらそれは一升瓶のようだ。それも芋焼酎らしい。
ふいのことに私はただ黙ってそれを受け取った。
Yさんは受け取って貰ったことにほっとしたのか、それまでの強張った顔が一瞬緩んだように見えた。そして再び私に一礼すると、私に背を向け、いま歩いてきた道を戻り始めた。
私はYさんに声を掛けようとするのだが、何故か声が出ない。しかし、そう思うたびにYさんは立ち止まり、私を振り返っては何度もお辞儀をした。そしていつしかその姿は見えなくなってしまった。
(妙な夢を見るものだな)
私は目が覚めてからも、夢に現れたYさんの姿が頭から離れなかった。
それから一週間ほどが過ぎて、私の携帯電話に見知らぬ番号から電話がかかって来た。
出ると女性の声がした。知らない名前だった。だが、女性が話し始めたのはYさんの死だった。
その女性の話では、Yさんが亡くなったのはしばらく前のことらしい。おそらく私が最後に見舞いに伺い、その直後だったようである。
私のことは生前Yさんから聞いていたらしく、大変お世話になったと話していたそうだ。
今回、こちら仙台を引き払い、故郷の鹿児島へお骨も連れて帰るとのことで、荷物の整理をしていたとのこと。
Yさんの携帯電話を見ていたら、私の名前と電話番号をみつけ、それで電話をしたのだという。
「主人に代わって御礼を申し上げます」
彼女はそう言った。
(奥さんがいたのか。でも苗字は違ったが)
私はYさんの病床にあった綺麗な花を思い出した。
Yさんと私の話はこれで終わりである。
あれは私に別れを伝えに来たのかもしれない。おそらく元気になったらまた飲みましょうと言っていたことが気になっていたのだろう。
芋焼酎をぶら下げてくるなんてYさんらしい。
さようなら、Yさん。
浅田真央サンクスツアーinみやぎ
2019年2月18日 日常
黒いベールに身を包んだ女性スケーターが、アイスリンクに颯爽と滑り込んで来る。その表情はベールに包まれて見ることが出来ない。だが、誰もがそれが彼女であることは、その華麗な舞いから疑うことは無い。
やがて彼女はリンクの中央でポーズを決めると、その手で黒いベールを剥ぎ取った。
スポットライトの光が幾重にも交差し、その中に輝くような笑顔の浅田真央が現れた。
湧き起る拍手と歓声の渦。浅田真央サンクスツアーの始まりである。
浅田真央の大ファンである妻から誘われて、宮城での最終公演を観に行くことが決まったのは一週間ほど前のこと。
一緒に行く筈だった友人が急に行けなくなったため、私にお鉢が回ってきたということである。
苦労して確保出来たチケットを無駄にするのはもったいないし、私が行けばクルマを出して貰えると当て込んだのだろう。なにしろ会場は仙台市ではなく、黒川郡大和町という場所にあるスポーツ施設「ベルサンピアみやぎ泉」である。仙台市の中心部からだと小一時間はかかる距離だ。
数年前に同様の理由から、新横浜アリーナで開催されたアイスショーに連れ出されたことがあった。生の浅田真央を見るのはその時に次いでこれが2回目である。
今回のこのショーのキャストは、浅田真央を含めて総勢10名のスケーターだ。無良崇人、今井遥、林渚、など彼女に声を掛けられて参加したり、オーディションを通過した精鋭ぞろいだ。しかも演出は浅田真央本人が手がけている。
ショーの途中でビデオによるメッセージが流されたり、オーディションや練習風景などがスクリーンに映し出された。特にオーディションから公演までの映像には日付が打たれており、一年以上も前からこのアイスショーのために準備がなされていたことがよく分かる。
午前1時や2時など深夜に及ぶ膨大な練習量の上に、緻密に、情熱的に、そして優雅に構成された80分間のアイスショー。観る者すべての心を魅了してしまった浅田真央というスーパースターの才能を、この日改めて思い知らされた。
私が観たのは宮城での最終日の最終公演だった。それだけに一層演技に力が入ったのではないだろうか。彼女や他のスケーターたちの熱の入れ様の物凄さがひしひしと伝わって来る。
アイスショーはこのあと熊本や群馬、愛媛などで開催される予定だ。私の隣りにいた東京から来たというオジイサンは、今週は熊本まで観に行くのだとか。その熱の入れ様もまた凄い。
凄い凄いで寒さをすっかり忘れてしまった素晴らしいひと時だった。
会場となったベルサンピアみやぎ泉(スケートリンク) 写真上
スクリーンに映し出された浅田真央サンクスツアー 写真中
スケートリンク(彼女には懐かしい場所なのだとか) 写真下
やがて彼女はリンクの中央でポーズを決めると、その手で黒いベールを剥ぎ取った。
スポットライトの光が幾重にも交差し、その中に輝くような笑顔の浅田真央が現れた。
湧き起る拍手と歓声の渦。浅田真央サンクスツアーの始まりである。
浅田真央の大ファンである妻から誘われて、宮城での最終公演を観に行くことが決まったのは一週間ほど前のこと。
一緒に行く筈だった友人が急に行けなくなったため、私にお鉢が回ってきたということである。
苦労して確保出来たチケットを無駄にするのはもったいないし、私が行けばクルマを出して貰えると当て込んだのだろう。なにしろ会場は仙台市ではなく、黒川郡大和町という場所にあるスポーツ施設「ベルサンピアみやぎ泉」である。仙台市の中心部からだと小一時間はかかる距離だ。
数年前に同様の理由から、新横浜アリーナで開催されたアイスショーに連れ出されたことがあった。生の浅田真央を見るのはその時に次いでこれが2回目である。
今回のこのショーのキャストは、浅田真央を含めて総勢10名のスケーターだ。無良崇人、今井遥、林渚、など彼女に声を掛けられて参加したり、オーディションを通過した精鋭ぞろいだ。しかも演出は浅田真央本人が手がけている。
ショーの途中でビデオによるメッセージが流されたり、オーディションや練習風景などがスクリーンに映し出された。特にオーディションから公演までの映像には日付が打たれており、一年以上も前からこのアイスショーのために準備がなされていたことがよく分かる。
午前1時や2時など深夜に及ぶ膨大な練習量の上に、緻密に、情熱的に、そして優雅に構成された80分間のアイスショー。観る者すべての心を魅了してしまった浅田真央というスーパースターの才能を、この日改めて思い知らされた。
私が観たのは宮城での最終日の最終公演だった。それだけに一層演技に力が入ったのではないだろうか。彼女や他のスケーターたちの熱の入れ様の物凄さがひしひしと伝わって来る。
アイスショーはこのあと熊本や群馬、愛媛などで開催される予定だ。私の隣りにいた東京から来たというオジイサンは、今週は熊本まで観に行くのだとか。その熱の入れ様もまた凄い。
凄い凄いで寒さをすっかり忘れてしまった素晴らしいひと時だった。
会場となったベルサンピアみやぎ泉(スケートリンク) 写真上
スクリーンに映し出された浅田真央サンクスツアー 写真中
スケートリンク(彼女には懐かしい場所なのだとか) 写真下
嗚呼、バレンタイン・デー
2019年2月15日 日常 コメント (10)
昨日はモテない男ほどチョコを欲しがるという「バレンタイン・デー」だった。
律儀にもというか、ホワイト・デーの100倍返しを狙ってか、妻から毎年恒例になったカプリコの花束を渡された。
とりあえずお礼を言ったのだが、なんだかいつもより淋しい。この淋しさは一体どこから来ているのだろうと思ったら、本数が少ないことに気がついた。
妻は私がカプリコを見ながら妙な顔をしていることに気がついたのだろう。
「それね、みんなが勝手に抜いて食べてしまったのよ」とのこと。
息子たちも嫁も妹も、勝手に食べてしまったのだそうだ。
まあ、世に(残り物には福がある)という言葉もある。きっと私に福を残そうとしてくれた皆の優しい心配りなのだろう。アリガトウ、コンチクショウ!
さて、妹からもチョコレートを貰ったが、こちらは某ビール会社の某商品をチョコレートにしたものだ。ビールはゼリーになっており、チョコでコーティングしているが、これもなかなか美味しい。
このチョコレートをそのままアップすると、ただのお歳暮のビールにしか見えないので、あえて摘まんでみたのだが、その大きさがお分かりいただけたと思う。
ちなみにアルコール成分を我が舌は感知出来なかった。ただ、気分だけは酔ったような気がする。でも「ホワイト・デーを楽しみにしているぜ」という妹の一言に、ほろ酔い気分も悪酔い気分へと一気に変わってしまった。
律儀にもというか、ホワイト・デーの100倍返しを狙ってか、妻から毎年恒例になったカプリコの花束を渡された。
とりあえずお礼を言ったのだが、なんだかいつもより淋しい。この淋しさは一体どこから来ているのだろうと思ったら、本数が少ないことに気がついた。
妻は私がカプリコを見ながら妙な顔をしていることに気がついたのだろう。
「それね、みんなが勝手に抜いて食べてしまったのよ」とのこと。
息子たちも嫁も妹も、勝手に食べてしまったのだそうだ。
まあ、世に(残り物には福がある)という言葉もある。きっと私に福を残そうとしてくれた皆の優しい心配りなのだろう。アリガトウ、コンチクショウ!
さて、妹からもチョコレートを貰ったが、こちらは某ビール会社の某商品をチョコレートにしたものだ。ビールはゼリーになっており、チョコでコーティングしているが、これもなかなか美味しい。
このチョコレートをそのままアップすると、ただのお歳暮のビールにしか見えないので、あえて摘まんでみたのだが、その大きさがお分かりいただけたと思う。
ちなみにアルコール成分を我が舌は感知出来なかった。ただ、気分だけは酔ったような気がする。でも「ホワイト・デーを楽しみにしているぜ」という妹の一言に、ほろ酔い気分も悪酔い気分へと一気に変わってしまった。
「昨日の夜、豆まきをした」
二男から突然そう言われて驚いた。節分から一週間以上も経っているからだ。
息子の話では、三日は忙しくて豆まきが出来なかったからだという。じゃあ四日はと聞けば、それから一週間は単純に忘れていたとのこと。
たまたま観たテレビ番組の中で、豆を使った料理が出て来たので思い出したのだという。
「鬼もびっくりしたろうな。節分が終ってほっとしていたろうに」
私が少し皮肉をこめてそう言うと
「油断大敵ってやつだな」と言いながら息子はニヤリと笑った。
そんな二男をとても可愛がったのが、祖母とおふくろである。祖母は二男がお腹の中にいる時から、よく妻のお腹をさすっては「元気で早く生まれておいで」と声をかけていたものだ。そしておふくろもまた然り。
昨日13日はこの祖母とおふくろの命日だった。
偶然にも二人の命日は同じ日なのである。思えば母親思いのおふくろだったが、まさか同じ日を自分の命日にするとは思いも寄らなかった。
きっとあの世で私や家族のことを眺めながら、ああでもないこうでもないと仲良く話し合っていることだろう。
このところ私も二男への仕事の引継ぎやら教育やらでとても忙しく、墓参りにも行っていない。今度の休みの日には家族を伴って墓参りに出かけることにしようか。その時に、あなた方が可愛がった二男に、もう一人子供が出来たことを報告することにしよう。その知らせを聞いて、二人で大喜びする姿が目に浮かぶようだ。
二男から突然そう言われて驚いた。節分から一週間以上も経っているからだ。
息子の話では、三日は忙しくて豆まきが出来なかったからだという。じゃあ四日はと聞けば、それから一週間は単純に忘れていたとのこと。
たまたま観たテレビ番組の中で、豆を使った料理が出て来たので思い出したのだという。
「鬼もびっくりしたろうな。節分が終ってほっとしていたろうに」
私が少し皮肉をこめてそう言うと
「油断大敵ってやつだな」と言いながら息子はニヤリと笑った。
そんな二男をとても可愛がったのが、祖母とおふくろである。祖母は二男がお腹の中にいる時から、よく妻のお腹をさすっては「元気で早く生まれておいで」と声をかけていたものだ。そしておふくろもまた然り。
昨日13日はこの祖母とおふくろの命日だった。
偶然にも二人の命日は同じ日なのである。思えば母親思いのおふくろだったが、まさか同じ日を自分の命日にするとは思いも寄らなかった。
きっとあの世で私や家族のことを眺めながら、ああでもないこうでもないと仲良く話し合っていることだろう。
このところ私も二男への仕事の引継ぎやら教育やらでとても忙しく、墓参りにも行っていない。今度の休みの日には家族を伴って墓参りに出かけることにしようか。その時に、あなた方が可愛がった二男に、もう一人子供が出来たことを報告することにしよう。その知らせを聞いて、二人で大喜びする姿が目に浮かぶようだ。
「マスカレード・ホテル」&「マスカレード・イブ」
2019年2月13日 読書 コメント (4)
「読んでから見るか、見てから読むか」
70年代に大ヒットした角川映画のキャッチ・コピーである。
このコピーに倣えば、私は前者の方になるだろうか。つまり読んでから見る方だ。
東野圭吾の小説「マスカレード・ホテル」が映画化され、先ごろ公開されたが、客入りが良いと聞く。私はといえばそのコピー通り本は読んだが、映画はまだ見ていない。
自分の経験則から言わせてもらうと、過去に原作を上回る出来の良い映画に出会ったことはほとんど無かった。どこか物足りなかったり、ただ原作をまとめただけだったり、或いは完全なるミスキャストという映画が大半だった。だから、今回の「マスカレード・ホテル」は原作を超えることが出来るのかどうかと興味が湧く。
実は原作を読んだ時、映画化するとなれば主人公の新田浩介と山岸尚美は誰が演じるのが良いだろうと思ったことがある。今回、主人公のふたりは木村拓哉と長澤まさみだと知り、なるほどと納得した。割と自分のイメージに近かったからだ。
物語は都内で発生した3件の殺人事件。その現場に残された謎の数字。それを解読したのは警視庁捜査一課のエリート刑事、新田浩介だった。
その奇妙な数字を解読すると、次の殺人が「ホテル・コルテシア東京」で行われるらしいことが分かった。つまり予告殺人である。そこで潜入捜査が開始され、新田浩介はフロントクラークになりすまして犯人を追うことになった。
そして、新田の教育係を任されたのがホテル・コルテシア東京の一流フロントクラーク、山岸尚美だった。ただしこの二人、どちらも強いプロ意識の持ち主であり仕事の考え方も真逆という、まさに水と油の関係だった。
そんな彼らが時にぶつかり合いながらも、事件の解決へ向けて力を合わせて行くことになる。
小説を読んでいて面白かったのは、新田と山岸の前に現れる一癖も二癖もありそうな宿泊客たちだ。映画の方もきっと面白く描かれることだろうが、その宿泊客たちの中に果たして犯人はいるのだろうか。さらに犯人は一体誰を狙っているのか。そしてその動機は何か。
物語はクライマックスへ向かって一気に突き進んでいく。
推理小説の肝にいかに伏線を伏線らしからぬように廻らすかということがある。この小説も巧妙に伏線が仕掛けられているが、新田と山岸が犯人の仕掛けた罠を読み解いていく。
そういえば刑事コロンボに「パイルD3の壁」という作品があった。消えた死体がどこにあるのかという一点に焦点を絞った作品だったが、一番安全な隠し場所は一度探した所というオチだった。
さて、今回の犯人について言えば、まさにそういうことなのだと皆様には言っておこう。一度〇〇した者が犯人なのだと。
ところで、この物語の前日譚としての小説が「マスカレード・イブ」である。山岸尚美はまだコルテシア東京ではなく、コルテシア大阪に勤務している。新田の方はといえば東京で事件を追っているが、勿論、この作品ではお互いがお互いの存在を知らない。だが、ある殺人事件をきっかけとして二人は急接近するかのように見えるものの、二人の出会いは「マスカレード・ホテル」まで持ち越されることになる。
新田はこの時、後輩から間接的に山岸尚美の存在を知らされることになるのだが、それがやがて自分と大きな関わりを持つことになろうなどとは夢にも思わない。
そうそう、物語のラストでは、山岸尚美はコルテシア東京のフロント・クラークになっている。そこへ一人の客が現れるのだが、その人物こそが〇〇なのだとお教えしよう。なので「マスカレード・イブ」から読むのは答えを見るのと同じだと申し上げる。
ズルしちゃいけませんぞ。
70年代に大ヒットした角川映画のキャッチ・コピーである。
このコピーに倣えば、私は前者の方になるだろうか。つまり読んでから見る方だ。
東野圭吾の小説「マスカレード・ホテル」が映画化され、先ごろ公開されたが、客入りが良いと聞く。私はといえばそのコピー通り本は読んだが、映画はまだ見ていない。
自分の経験則から言わせてもらうと、過去に原作を上回る出来の良い映画に出会ったことはほとんど無かった。どこか物足りなかったり、ただ原作をまとめただけだったり、或いは完全なるミスキャストという映画が大半だった。だから、今回の「マスカレード・ホテル」は原作を超えることが出来るのかどうかと興味が湧く。
実は原作を読んだ時、映画化するとなれば主人公の新田浩介と山岸尚美は誰が演じるのが良いだろうと思ったことがある。今回、主人公のふたりは木村拓哉と長澤まさみだと知り、なるほどと納得した。割と自分のイメージに近かったからだ。
物語は都内で発生した3件の殺人事件。その現場に残された謎の数字。それを解読したのは警視庁捜査一課のエリート刑事、新田浩介だった。
その奇妙な数字を解読すると、次の殺人が「ホテル・コルテシア東京」で行われるらしいことが分かった。つまり予告殺人である。そこで潜入捜査が開始され、新田浩介はフロントクラークになりすまして犯人を追うことになった。
そして、新田の教育係を任されたのがホテル・コルテシア東京の一流フロントクラーク、山岸尚美だった。ただしこの二人、どちらも強いプロ意識の持ち主であり仕事の考え方も真逆という、まさに水と油の関係だった。
そんな彼らが時にぶつかり合いながらも、事件の解決へ向けて力を合わせて行くことになる。
小説を読んでいて面白かったのは、新田と山岸の前に現れる一癖も二癖もありそうな宿泊客たちだ。映画の方もきっと面白く描かれることだろうが、その宿泊客たちの中に果たして犯人はいるのだろうか。さらに犯人は一体誰を狙っているのか。そしてその動機は何か。
物語はクライマックスへ向かって一気に突き進んでいく。
推理小説の肝にいかに伏線を伏線らしからぬように廻らすかということがある。この小説も巧妙に伏線が仕掛けられているが、新田と山岸が犯人の仕掛けた罠を読み解いていく。
そういえば刑事コロンボに「パイルD3の壁」という作品があった。消えた死体がどこにあるのかという一点に焦点を絞った作品だったが、一番安全な隠し場所は一度探した所というオチだった。
さて、今回の犯人について言えば、まさにそういうことなのだと皆様には言っておこう。一度〇〇した者が犯人なのだと。
ところで、この物語の前日譚としての小説が「マスカレード・イブ」である。山岸尚美はまだコルテシア東京ではなく、コルテシア大阪に勤務している。新田の方はといえば東京で事件を追っているが、勿論、この作品ではお互いがお互いの存在を知らない。だが、ある殺人事件をきっかけとして二人は急接近するかのように見えるものの、二人の出会いは「マスカレード・ホテル」まで持ち越されることになる。
新田はこの時、後輩から間接的に山岸尚美の存在を知らされることになるのだが、それがやがて自分と大きな関わりを持つことになろうなどとは夢にも思わない。
そうそう、物語のラストでは、山岸尚美はコルテシア東京のフロント・クラークになっている。そこへ一人の客が現れるのだが、その人物こそが〇〇なのだとお教えしよう。なので「マスカレード・イブ」から読むのは答えを見るのと同じだと申し上げる。
ズルしちゃいけませんぞ。
以前、このDNに書いたが、京都に住んでいる妻と私の知り合いが、本業をそっちのけで映画のエキストラをしており、その彼女から是非観て欲しいと言われた映画が「七つの会議」である。
勿論、その映画に彼女もエキストラとして参加しており、スクリーンの中に私を探して、というわけだ。もともとお茶目なところがある彼女だが、今回は「私、凄いところにいるから」と謎めいたことをいう。
試写も観たとのことで、自分の出ているその場面はカットされていなかったそうだ。
原作は映画と同名の「七つの会議」。作者は「下町ロケット」や「半沢直樹シリーズ」で人気の池井戸潤である。原作の方は既に読んでいたので、結末は分かっている。妻から観に行こうと誘われたが、結末を知っている物語を、わざわざ観に行くのもなあと乗り気ではなかったが、しばらく映画館にも足を運んでいなかったので重い腰を上げることにした。
さて、映画は冒頭から緊迫したシーンが続く。香川照之扮する東京建電営業部長北川の「では、定例会議を始める」の号令から物語もスタートする。
業績の上がらない営業二課・課長の原島(及川光博)は大勢の課員たちの前で北川に罵倒され、一方、常にノルマを達成する営業一課・課長の坂戸(片岡愛之助)を褒めそやす。
しかしその一課には一人の厄介者がいた。それがこのドラマの主人公である八角民夫(野村萬斎)だ。
こんな会議の最中にも居眠りはするは、有給休暇を申請するは、さらには残業も断るという太々しい八角の態度に、坂戸の怒りはついに頂点に達する。
厳しい言葉を八角に投げつけた坂戸だったが、そのことで逆に坂戸はパワハラで訴えられてしまうのだった。
だが、誰もが八角の訴えなど取り上げられないものと思っていたのに、下された判定はクロという意外な結果だった。トップセールスだった坂戸は、なんとその地位を追われることになってしまったのだ。
さらに八角の不明朗な金の流れを暴こうとした経理部の新田(藤森慎吾)も、職を解かれる羽目になってしまった。
本来なら会社から疎まれるべき人間である八角が、なぜか上層部によって庇護されている。営業一課長を継ぐことになった原島と、部下の浜本優衣(朝倉あき)は、その謎を探ろうとするのだが、そこにはとんでもない事実が隠されていた。
これ以上はネタバレになってしまうので、語ることを止めようと思う。本も面白かったが、映像化されるとより一層登場人物のキャラクターが立ってくる。
なにせ俳優たちが凄い。野村萬斎もミステリアスな雰囲気がよく出ていたし、香川照之をはじめ鹿賀丈史や北大路欣也、片岡愛之助らの「顔芸合戦」は圧巻と言うしかない。
こう言ってはなんだが、藤森慎吾は見事に役に嵌っていたと思う。「津軽百年食堂」を観た時、藤森慎吾は芝居も出来るのだと感心したが、今回はその「感心」すら感じさせることがなかった。
あっという間の二時間だったが、見終えて「しまった!」と悔やんだ。
エキストラで出ていた彼女のことをすっかり忘れていたからだ。
「私、凄いところにいるから」と言われたが、あの顔芸合戦の最中に彼女を見つけ出すなんて無理もいいところだ。
結局、妻もどこに出ていたのか分からなかったと言う。
「なんて答えようかねぇ」
「困ったねぇ」
京都からわざわざエキストラ出演のために、撮影地の埼玉まで出かけたと言う彼女に、電話をかけたのはその夜のことだった。
「分かった?私、萬斎さんのすぐ後ろに立っていたでしょ。バッチリ映ってたでしょ」
どうやらそれは、八角が坂戸課長に例の申請を出し、却下されるシーンだったようだが、残念ながらこれは後日、ビデオ判定を待つしかなさそうである。
勿論、その映画に彼女もエキストラとして参加しており、スクリーンの中に私を探して、というわけだ。もともとお茶目なところがある彼女だが、今回は「私、凄いところにいるから」と謎めいたことをいう。
試写も観たとのことで、自分の出ているその場面はカットされていなかったそうだ。
原作は映画と同名の「七つの会議」。作者は「下町ロケット」や「半沢直樹シリーズ」で人気の池井戸潤である。原作の方は既に読んでいたので、結末は分かっている。妻から観に行こうと誘われたが、結末を知っている物語を、わざわざ観に行くのもなあと乗り気ではなかったが、しばらく映画館にも足を運んでいなかったので重い腰を上げることにした。
さて、映画は冒頭から緊迫したシーンが続く。香川照之扮する東京建電営業部長北川の「では、定例会議を始める」の号令から物語もスタートする。
業績の上がらない営業二課・課長の原島(及川光博)は大勢の課員たちの前で北川に罵倒され、一方、常にノルマを達成する営業一課・課長の坂戸(片岡愛之助)を褒めそやす。
しかしその一課には一人の厄介者がいた。それがこのドラマの主人公である八角民夫(野村萬斎)だ。
こんな会議の最中にも居眠りはするは、有給休暇を申請するは、さらには残業も断るという太々しい八角の態度に、坂戸の怒りはついに頂点に達する。
厳しい言葉を八角に投げつけた坂戸だったが、そのことで逆に坂戸はパワハラで訴えられてしまうのだった。
だが、誰もが八角の訴えなど取り上げられないものと思っていたのに、下された判定はクロという意外な結果だった。トップセールスだった坂戸は、なんとその地位を追われることになってしまったのだ。
さらに八角の不明朗な金の流れを暴こうとした経理部の新田(藤森慎吾)も、職を解かれる羽目になってしまった。
本来なら会社から疎まれるべき人間である八角が、なぜか上層部によって庇護されている。営業一課長を継ぐことになった原島と、部下の浜本優衣(朝倉あき)は、その謎を探ろうとするのだが、そこにはとんでもない事実が隠されていた。
これ以上はネタバレになってしまうので、語ることを止めようと思う。本も面白かったが、映像化されるとより一層登場人物のキャラクターが立ってくる。
なにせ俳優たちが凄い。野村萬斎もミステリアスな雰囲気がよく出ていたし、香川照之をはじめ鹿賀丈史や北大路欣也、片岡愛之助らの「顔芸合戦」は圧巻と言うしかない。
こう言ってはなんだが、藤森慎吾は見事に役に嵌っていたと思う。「津軽百年食堂」を観た時、藤森慎吾は芝居も出来るのだと感心したが、今回はその「感心」すら感じさせることがなかった。
あっという間の二時間だったが、見終えて「しまった!」と悔やんだ。
エキストラで出ていた彼女のことをすっかり忘れていたからだ。
「私、凄いところにいるから」と言われたが、あの顔芸合戦の最中に彼女を見つけ出すなんて無理もいいところだ。
結局、妻もどこに出ていたのか分からなかったと言う。
「なんて答えようかねぇ」
「困ったねぇ」
京都からわざわざエキストラ出演のために、撮影地の埼玉まで出かけたと言う彼女に、電話をかけたのはその夜のことだった。
「分かった?私、萬斎さんのすぐ後ろに立っていたでしょ。バッチリ映ってたでしょ」
どうやらそれは、八角が坂戸課長に例の申請を出し、却下されるシーンだったようだが、残念ながらこれは後日、ビデオ判定を待つしかなさそうである。
松本城と北アルプス 其の二
2019年2月7日 エッセイ コメント (8)
ライトアップされた松本城に魅せられているうちに、身体は完全に冷え切ってしまった。
妻からは空腹を訴えられ、何か信州の美味しいものでも食べに行こうと急かされた。
あまり遠いところへ行くのも寒いから嫌だと、ホテルの近くを歩き回っていると、居酒屋風の蕎麦屋を発見。早速入ってみることにした。
暖房が効いた店内はそれほど広くはないが、先客の男女グループが盛り上がっているところだった。何やら難しい言葉を交わしているところをみると、知的レベルの高そうな人たちである。年齢も30~40歳代といったところか。私も仕事柄、その方面には鼻が利く方なので、おそらく大学関係者なのかもしれない。
私と妻は店の隅に陣取り、早速メニューで品定めをする。やはり目は自然に馬肉を探しているが、蕎麦が食べられない妻は、鍋焼きうどんを見つけて小躍りしていた。
結局、悩んだ末に頼んだのは、馬刺しと馬肉の信州みその朴葉焼き、それから蕎麦刺しだった。特に蕎麦刺しは生まれて初めて食べる物で、蕎麦を板状に薄く伸ばし、刺身のように切ったものだ。それを山葵醤油につけて食するというもの。妻には悪いが、この日私が一番はまったのがこれだった。
ところでこの日は、全豪オープン女子シングルス決勝だったが、店内のテレビでもその模様が流されていた。大坂なおみ選手がポイントを上げる度に、例のグループも盛り上がっている。私も妻も試合の成り行きが気になって、そのうち食事も味が分からなくなってしまった。
此処でこういう試合を見ることになるとは思いも寄らなかったが、これも旅の楽しみのひとつだろう。
試合の結果は言うまでもないが、すっかり気分が良くなった私たちは、酔い覚ましにもうちょっと夜の街を歩いてみることにした。
歩きながら「松本城にまつわる怖い話を知ってる?」と妻に尋ねた。その唐突な問いかけに妻はビクッと身体を強張らせ、「いまそれを言うか!」と文句を言った。
実はこの旅行に先立ち、私はある一冊の本を読んでいた。その名も「日本名城紀行」。
小学館からシリーズで出ている本だが、一流の作家たちによる日本各地の名城の紀行文集だ。
その中で松本城について書いたのが山本茂実である。
この人の名前がピンとこない人でも、「ああ野麦峠」の作者と聞けばお分かりになるだろう。
山本茂実は此処、松本に生まれた人なのである。それゆえ子供の頃から、このお城を見て育ったのだが、意外なことに彼は松本城が好きではないという。その理由がこの名城が怨霊に祟られているからだと聞かされれば、これはもう身を乗り出さずにはいられない。
山本が語るには、子供の頃は天守がくの字に傾いていたのだそうだ。その理由を父親がわら細工をしながら教えてくれたのだそうだが、要するに重税を課せられた農民たちが一揆を起こし、それに対して城役人が「願いは聞き届けた」と偽り、首謀者である中萱加助らを捕えて城山で磔にしたのだった。
死を直前にした中萱加助は磔台の上から城を睨み
「さては奸吏どもたばかりしか、うーむ」と血走る憎悪の目で叫び、絶命した。この鬼気迫る加助たちの最期に、城は西南へめりめりと傾いた。また、のちに城主水野忠恒は乱心し、江戸城は「殿中松の廊下」で刃傷沙汰を起こし、御家断絶、城地召し上げとなってしまった。
刃傷沙汰を起こした水野忠恒に理由を問うと、切りつけた相手が加助に見えたのだという。
この話が本当かどうかは分からない。ただ、松本城の修理は幾度か行われたらしいが、そのための修理であったのかは定かではない。
「城に行く前にこの話を聞かせたら、絶対に行かないと言うに決っているからな」
私は並んで歩く妻にそう言った。
「でも、傾いていなかったね。呪いが解けたのかな」
妻は自分を安心させるようにそう呟いた。
翌日の早朝。
カーテンを開けると北アルプスの山並みが朝日に照らされて赤く燃えていた。
この景色を見た私は、改めてこの地を訪ねた幸運に感謝した。
写真上から
馬肉の朴葉味噌焼き
蕎麦刺し
北アルプスの朝焼け
妻からは空腹を訴えられ、何か信州の美味しいものでも食べに行こうと急かされた。
あまり遠いところへ行くのも寒いから嫌だと、ホテルの近くを歩き回っていると、居酒屋風の蕎麦屋を発見。早速入ってみることにした。
暖房が効いた店内はそれほど広くはないが、先客の男女グループが盛り上がっているところだった。何やら難しい言葉を交わしているところをみると、知的レベルの高そうな人たちである。年齢も30~40歳代といったところか。私も仕事柄、その方面には鼻が利く方なので、おそらく大学関係者なのかもしれない。
私と妻は店の隅に陣取り、早速メニューで品定めをする。やはり目は自然に馬肉を探しているが、蕎麦が食べられない妻は、鍋焼きうどんを見つけて小躍りしていた。
結局、悩んだ末に頼んだのは、馬刺しと馬肉の信州みその朴葉焼き、それから蕎麦刺しだった。特に蕎麦刺しは生まれて初めて食べる物で、蕎麦を板状に薄く伸ばし、刺身のように切ったものだ。それを山葵醤油につけて食するというもの。妻には悪いが、この日私が一番はまったのがこれだった。
ところでこの日は、全豪オープン女子シングルス決勝だったが、店内のテレビでもその模様が流されていた。大坂なおみ選手がポイントを上げる度に、例のグループも盛り上がっている。私も妻も試合の成り行きが気になって、そのうち食事も味が分からなくなってしまった。
此処でこういう試合を見ることになるとは思いも寄らなかったが、これも旅の楽しみのひとつだろう。
試合の結果は言うまでもないが、すっかり気分が良くなった私たちは、酔い覚ましにもうちょっと夜の街を歩いてみることにした。
歩きながら「松本城にまつわる怖い話を知ってる?」と妻に尋ねた。その唐突な問いかけに妻はビクッと身体を強張らせ、「いまそれを言うか!」と文句を言った。
実はこの旅行に先立ち、私はある一冊の本を読んでいた。その名も「日本名城紀行」。
小学館からシリーズで出ている本だが、一流の作家たちによる日本各地の名城の紀行文集だ。
その中で松本城について書いたのが山本茂実である。
この人の名前がピンとこない人でも、「ああ野麦峠」の作者と聞けばお分かりになるだろう。
山本茂実は此処、松本に生まれた人なのである。それゆえ子供の頃から、このお城を見て育ったのだが、意外なことに彼は松本城が好きではないという。その理由がこの名城が怨霊に祟られているからだと聞かされれば、これはもう身を乗り出さずにはいられない。
山本が語るには、子供の頃は天守がくの字に傾いていたのだそうだ。その理由を父親がわら細工をしながら教えてくれたのだそうだが、要するに重税を課せられた農民たちが一揆を起こし、それに対して城役人が「願いは聞き届けた」と偽り、首謀者である中萱加助らを捕えて城山で磔にしたのだった。
死を直前にした中萱加助は磔台の上から城を睨み
「さては奸吏どもたばかりしか、うーむ」と血走る憎悪の目で叫び、絶命した。この鬼気迫る加助たちの最期に、城は西南へめりめりと傾いた。また、のちに城主水野忠恒は乱心し、江戸城は「殿中松の廊下」で刃傷沙汰を起こし、御家断絶、城地召し上げとなってしまった。
刃傷沙汰を起こした水野忠恒に理由を問うと、切りつけた相手が加助に見えたのだという。
この話が本当かどうかは分からない。ただ、松本城の修理は幾度か行われたらしいが、そのための修理であったのかは定かではない。
「城に行く前にこの話を聞かせたら、絶対に行かないと言うに決っているからな」
私は並んで歩く妻にそう言った。
「でも、傾いていなかったね。呪いが解けたのかな」
妻は自分を安心させるようにそう呟いた。
翌日の早朝。
カーテンを開けると北アルプスの山並みが朝日に照らされて赤く燃えていた。
この景色を見た私は、改めてこの地を訪ねた幸運に感謝した。
写真上から
馬肉の朴葉味噌焼き
蕎麦刺し
北アルプスの朝焼け
松本城と北アルプス 其の一
2019年2月4日 エッセイ コメント (11)
以前から知人や、そして妻からも、是非一度訪ねるべきは松本市だと言われていた。
松本城や北アルプスの山並みの美しさは、絶対に気に入るからというのだ。
長野といえばだいぶ前に善光寺へお参りに行ったのと、若かりし頃に軽井沢で喫茶店のアルバイトをしていたくらいで、それ以外はあまり行ったことがない土地だ。
妻は以前、長野で開かれたフィギュアスケートの大会に友人と二人で出かけたのだが、長野市内に宿が取れず、かろうじて空いていた松本市のホテルに宿泊したことから、私より先に同地を訪ねていたのだった。その時の印象がとても良かったらしく、ことあるごとに私を誘うのである。
出張が続いたり息子の指導などもあったりと、仕事のストレスがだいぶ溜まっていたので、この際、心の休日とばかりに重い腰を上げたのである。勿論、水先案内人として妻も同行することになった。
しかし、1月下旬のこの日は、日本海側は大荒れの天気で、長野も雪が降っているらしい。となると松本市は大丈夫なのかと腰が引けたが、妻は晴れ男の私が行けば絶対に大丈夫だからと変な励まし方をする。
ホテルも確保しているし、初めての地を見てみたいという好奇心が勝り、もしかしたら大雪で帰って来れなくなることを覚悟の上で出かけたのだった。
大宮で北陸新幹線に乗り換え、長野で下車すると、今度は篠ノ井線のワイドビューしなのに乗り継いだ。
長野あたりでは雪が激しく降っていたので、この調子では松本はもっと雪かもしれないと不安になったが、なんと驚くなかれ、松本に近づくとともに急激に天候が回復し、車窓に映る北アルプスの連山は、青空にくっきりとその姿を浮かび上がらせたのである。
それは感激の一言だった。
この景色を見ることが出来ただけでも、此処を訪れた甲斐があったというものである。
松本駅のコンコースからも、北アルプスの大パノラマを見ることが出来るので、私はしばらくの間、その雄大な風景に見惚れていた。
駅のコインロッカーに荷物を預けると、妻とふたりで松本城を目指した。一度此処を訪れている妻の足取りは軽い。私は遅れないようにと時々小走りになったが、重いカメラバックが邪魔をする。
実は妻には内緒で購入したミラーレス・カメラと、これも同時に購入した大三元レンズのひとつが入っていたのだ。どうしても遅れ気味になるのはこのせいだったのだが、妻に悟られぬように涼しい顔をして歩いていた。
時計博物館を横手に見ながら、女鳥羽川沿いを千歳橋へ向かって歩くと、やがて縄手通りと四柱神社が見えてくる。以前、縄手通りに妻が来た時に、小物屋で買ったというカエルの置物がまだ売られていた。
四柱神社は縄手通りのすぐ傍にある神社だ。四柱(よはしら)とは天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・高皇産霊神(たかみむすびのかみ)・神皇産霊神(かみむすびのかみ)・天照大神(あまてらすおおみかみ)の四つの神様のことで、ひとつの神社に四つの神様が鎮座されるという珍しい神社である。そのため、すべての願い事が叶う「願い事むすびの神」とも言われている。
当然のことながらお参りをした私であるが、もともと無欲が服を着て歩いているような人間なので、頼み事は一切しなかった。ただ、今宵美味しいお酒と食べ物にありつけますようにと願っただけである。そう、あくまで「頼み事」ではなく「願い事」である。お間違えのないように。
ところで松本市に来て気がついたことがある。それは町全体がとてもコンパクトで、どこに行くにも便利であるということだ。
松本城にしても美術館にしても駅からそれほど遠くない。もしこれが仙台だったら、城址に行くにもバスやら地下鉄やらで結構大変である。このあたりも、この町に好感を持てる所以のひとつだ。
さて、松本城はもう目と鼻の先というところまで来ているが、寒さを見越して厚着をしてきたのが仇になり、歩いているうちに汗が噴き出して来た。これは完全な誤算だった。
市内は初春の陽気で、雪の一片も無い状態だ。
あとで分かったことだが、松本市は雪があまり降らない、積もらないのだそうだ。これには驚きであった。やはり旅には出てみるものである。
松本城に辿り着くと、市立博物館の前からお城への入り口あたりまで、大勢の人でごった返している。
私が行った1月26日は「国宝松本城氷彫フェスティバル2019」というイベントが開催されるまさにその日であったのだ。
お堀の前では、大勢のグループが氷柱を積み上げて、チェーンソーを響かせながら、彫像作りに励んでいるところだった。
ここへ来るまでに、相当汗をかいた私だが、氷柱が溶けないところをみると氷点下なのだろう。青空と明るい日差しにすっかり騙されるところだった。
そして、初めて見る松本城の姿はとても端整で美しかった。白と黒のコントラストが青空によく映えている。アルプスから吹き降ろす風がお濠の水に漣を立てていたが、もし風がなければ鏡面のようなお濠にその姿を映してみせたに違いない。
この時期、夜間はお城のライトアップも行っているということだったので、一度ホテルにチェックインし、日が暮れてから再び訪れてみたところ、日中見たお城の雰囲気が一変していた。それは闇の中に浮かぶ城と呼んでもいい。とても幻想的な光景だった。
夜になり刻一刻と冷え込んで来るのが分かったが、その姿に目を奪われてしまった私は、そこから一歩も動けなくなってしまったのだった。それはまるで松本城という幻術師に、術をかけられてしまったかのようだ。
あまりに動かずにお城を見ている私に、妻は背中をポンと叩いた。
「お腹がすいた」
その一言で術が解けた私は、四柱神社の神様たちへの願事を思い出しながら、その場を後にした。
松本城や北アルプスの山並みの美しさは、絶対に気に入るからというのだ。
長野といえばだいぶ前に善光寺へお参りに行ったのと、若かりし頃に軽井沢で喫茶店のアルバイトをしていたくらいで、それ以外はあまり行ったことがない土地だ。
妻は以前、長野で開かれたフィギュアスケートの大会に友人と二人で出かけたのだが、長野市内に宿が取れず、かろうじて空いていた松本市のホテルに宿泊したことから、私より先に同地を訪ねていたのだった。その時の印象がとても良かったらしく、ことあるごとに私を誘うのである。
出張が続いたり息子の指導などもあったりと、仕事のストレスがだいぶ溜まっていたので、この際、心の休日とばかりに重い腰を上げたのである。勿論、水先案内人として妻も同行することになった。
しかし、1月下旬のこの日は、日本海側は大荒れの天気で、長野も雪が降っているらしい。となると松本市は大丈夫なのかと腰が引けたが、妻は晴れ男の私が行けば絶対に大丈夫だからと変な励まし方をする。
ホテルも確保しているし、初めての地を見てみたいという好奇心が勝り、もしかしたら大雪で帰って来れなくなることを覚悟の上で出かけたのだった。
大宮で北陸新幹線に乗り換え、長野で下車すると、今度は篠ノ井線のワイドビューしなのに乗り継いだ。
長野あたりでは雪が激しく降っていたので、この調子では松本はもっと雪かもしれないと不安になったが、なんと驚くなかれ、松本に近づくとともに急激に天候が回復し、車窓に映る北アルプスの連山は、青空にくっきりとその姿を浮かび上がらせたのである。
それは感激の一言だった。
この景色を見ることが出来ただけでも、此処を訪れた甲斐があったというものである。
松本駅のコンコースからも、北アルプスの大パノラマを見ることが出来るので、私はしばらくの間、その雄大な風景に見惚れていた。
駅のコインロッカーに荷物を預けると、妻とふたりで松本城を目指した。一度此処を訪れている妻の足取りは軽い。私は遅れないようにと時々小走りになったが、重いカメラバックが邪魔をする。
実は妻には内緒で購入したミラーレス・カメラと、これも同時に購入した大三元レンズのひとつが入っていたのだ。どうしても遅れ気味になるのはこのせいだったのだが、妻に悟られぬように涼しい顔をして歩いていた。
時計博物館を横手に見ながら、女鳥羽川沿いを千歳橋へ向かって歩くと、やがて縄手通りと四柱神社が見えてくる。以前、縄手通りに妻が来た時に、小物屋で買ったというカエルの置物がまだ売られていた。
四柱神社は縄手通りのすぐ傍にある神社だ。四柱(よはしら)とは天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・高皇産霊神(たかみむすびのかみ)・神皇産霊神(かみむすびのかみ)・天照大神(あまてらすおおみかみ)の四つの神様のことで、ひとつの神社に四つの神様が鎮座されるという珍しい神社である。そのため、すべての願い事が叶う「願い事むすびの神」とも言われている。
当然のことながらお参りをした私であるが、もともと無欲が服を着て歩いているような人間なので、頼み事は一切しなかった。ただ、今宵美味しいお酒と食べ物にありつけますようにと願っただけである。そう、あくまで「頼み事」ではなく「願い事」である。お間違えのないように。
ところで松本市に来て気がついたことがある。それは町全体がとてもコンパクトで、どこに行くにも便利であるということだ。
松本城にしても美術館にしても駅からそれほど遠くない。もしこれが仙台だったら、城址に行くにもバスやら地下鉄やらで結構大変である。このあたりも、この町に好感を持てる所以のひとつだ。
さて、松本城はもう目と鼻の先というところまで来ているが、寒さを見越して厚着をしてきたのが仇になり、歩いているうちに汗が噴き出して来た。これは完全な誤算だった。
市内は初春の陽気で、雪の一片も無い状態だ。
あとで分かったことだが、松本市は雪があまり降らない、積もらないのだそうだ。これには驚きであった。やはり旅には出てみるものである。
松本城に辿り着くと、市立博物館の前からお城への入り口あたりまで、大勢の人でごった返している。
私が行った1月26日は「国宝松本城氷彫フェスティバル2019」というイベントが開催されるまさにその日であったのだ。
お堀の前では、大勢のグループが氷柱を積み上げて、チェーンソーを響かせながら、彫像作りに励んでいるところだった。
ここへ来るまでに、相当汗をかいた私だが、氷柱が溶けないところをみると氷点下なのだろう。青空と明るい日差しにすっかり騙されるところだった。
そして、初めて見る松本城の姿はとても端整で美しかった。白と黒のコントラストが青空によく映えている。アルプスから吹き降ろす風がお濠の水に漣を立てていたが、もし風がなければ鏡面のようなお濠にその姿を映してみせたに違いない。
この時期、夜間はお城のライトアップも行っているということだったので、一度ホテルにチェックインし、日が暮れてから再び訪れてみたところ、日中見たお城の雰囲気が一変していた。それは闇の中に浮かぶ城と呼んでもいい。とても幻想的な光景だった。
夜になり刻一刻と冷え込んで来るのが分かったが、その姿に目を奪われてしまった私は、そこから一歩も動けなくなってしまったのだった。それはまるで松本城という幻術師に、術をかけられてしまったかのようだ。
あまりに動かずにお城を見ている私に、妻は背中をポンと叩いた。
「お腹がすいた」
その一言で術が解けた私は、四柱神社の神様たちへの願事を思い出しながら、その場を後にした。
最終報告 Vol.2
2019年1月29日 お仕事 コメント (6)ホテルの暖房がいまひとつ効きが悪いようで、夜中に何度も目を覚ました。
息子も同様だったらしく、寒くて目が覚めたという。もしかしてこのホテル、省エネでも行っているのだろうか。それとも機器の表示がおかしいのか。私もついに完全なる鼻声になってしまったところをみると、表示の方がおかしいと言わざるを得ない。
フロントに問い合わせると、室温は一括管理をしているとのこと。寒ければ申告せよということなのか。であるならば、部屋に個別についているコントローラーに何の意味があるのだろう。それに対する明確な回答は得られなかった。
まあ、要するに顧客サービスよりも経費節減ということなのだろう。
さて、ビジネスホテルの簡単な朝食を済ませた我々は、早朝のピンと張りつめた凍てつく空気の中を、駅へと向かって歩き始めた。
息子の靴擦れは多少良くなったようだが、それでも片足を引き摺るように歩いている。本人は大丈夫というのだが、果たして今日一日もつのかどうか。
郡山市からいわき市へはJR磐越東線と高速バスの2つの方法がある。会議は午前10時からだが、それに間に合わせるためには、JRだと適当な時間の列車が無い。そこで高速バスを利用することにした。
我々が乗ったバスは乗車率が3割程度。およそ1時間半の乗車だが2席分を使用し、ゆったり過ごすことが出来た。
ところで、いわき市は東北の湘南地方と呼ばれるほど温暖な気候で知られる場所だ。駅前に降り立つと、郡山での張り詰めた空気とは異なり、頬に触れていく風がとても優しく感じられる。
10時からの会議にも十分間に合い、ちょうど2時間、正午で終了した。会議が終了してから、地元の担当者とコーヒーを飲みながらの世間話になったが、東北の湘南地方という話題になると
(ここに住んでいる人たちは、他所の土地の気候的厳しさを知らないから、苦労知らずで人が良いとは言えない)云々の話をし始めた。それに対して、同意するわけにもいかず曖昧に受け応えていたが、考えてみたら自分もこのいわき市生まれであることを思い出し、そのことを相手にやんわりと話してみたら
(住んでいる人のことですよ。生まれてすぐに他所へ出た人は違いますよ)と慌てて否定された。
それを聞いて思わず苦笑い。
列車の時間までだいぶあるので、昼食はいわき駅前のラトブにある寿司屋へ入った。ランチタイムサービスは鮪の鉄火丼や海鮮丼など。サンプルを見ると鮪が美味しそうだったので、二人で迷わず鉄火丼を頼んだ。
茶碗蒸しやサラダなどが付いて1000円程は安い。風邪で調子が悪い筈なのに、ペロリと平らげてしまった。
磐越東線は非電化区間である。だから電車ではなく気動車、すなわちディーゼルカーが走っている。そのため電車に比べると振動や騒音が大きいが、それがかえって新鮮であり心地よい。
いかにもローカル線という風情の車窓に、息子が変なことを言い出した。
「オーストラリアで乗った鉄道と同じ風景だ」
その言葉に、思わずホンマかいなと突っ込みを入れたくなったが、真剣な表情の息子に何も言えなくなってしまった。
そういえば今から50年程前、まだ小学生だった私は、親父とふたりでこの磐越東線に乗ったことがある。
おふくろと妹は家に残り、親父と私の夏休みの旅行だったと記憶している。
確かその時は車窓に見える建物や景色について、乗車している間中、ずうっと親父を質問攻めにしていた。(あれは何の建物だ、この標識の意味はなに?等々)あまりに質問するものだから、親父は途中から寝たふりをしてしまった。演技をするとすぐにバレるのが親父だったが、その時のことを親父は今でも話すことがある。
そして今、今度は自分の息子と同じ路線の上で、当時見たであろう同じ景色を眺めている。
考えてみれば、なんとも不思議な話だ。自分の50年後にまさか追体験をしようとは夢にも思わなかった。
地元の中高生でほぼ満員になった列車は、やがて郡山駅のプラットホームに滑り込んだ。
次は仙台へ向かう新幹線へ乗継だ。もうあと少しで出張も終わる。賑やかな学生たちの笑い声の中を、我々ふたりは改札口への階段を上がった。
息子も同様だったらしく、寒くて目が覚めたという。もしかしてこのホテル、省エネでも行っているのだろうか。それとも機器の表示がおかしいのか。私もついに完全なる鼻声になってしまったところをみると、表示の方がおかしいと言わざるを得ない。
フロントに問い合わせると、室温は一括管理をしているとのこと。寒ければ申告せよということなのか。であるならば、部屋に個別についているコントローラーに何の意味があるのだろう。それに対する明確な回答は得られなかった。
まあ、要するに顧客サービスよりも経費節減ということなのだろう。
さて、ビジネスホテルの簡単な朝食を済ませた我々は、早朝のピンと張りつめた凍てつく空気の中を、駅へと向かって歩き始めた。
息子の靴擦れは多少良くなったようだが、それでも片足を引き摺るように歩いている。本人は大丈夫というのだが、果たして今日一日もつのかどうか。
郡山市からいわき市へはJR磐越東線と高速バスの2つの方法がある。会議は午前10時からだが、それに間に合わせるためには、JRだと適当な時間の列車が無い。そこで高速バスを利用することにした。
我々が乗ったバスは乗車率が3割程度。およそ1時間半の乗車だが2席分を使用し、ゆったり過ごすことが出来た。
ところで、いわき市は東北の湘南地方と呼ばれるほど温暖な気候で知られる場所だ。駅前に降り立つと、郡山での張り詰めた空気とは異なり、頬に触れていく風がとても優しく感じられる。
10時からの会議にも十分間に合い、ちょうど2時間、正午で終了した。会議が終了してから、地元の担当者とコーヒーを飲みながらの世間話になったが、東北の湘南地方という話題になると
(ここに住んでいる人たちは、他所の土地の気候的厳しさを知らないから、苦労知らずで人が良いとは言えない)云々の話をし始めた。それに対して、同意するわけにもいかず曖昧に受け応えていたが、考えてみたら自分もこのいわき市生まれであることを思い出し、そのことを相手にやんわりと話してみたら
(住んでいる人のことですよ。生まれてすぐに他所へ出た人は違いますよ)と慌てて否定された。
それを聞いて思わず苦笑い。
列車の時間までだいぶあるので、昼食はいわき駅前のラトブにある寿司屋へ入った。ランチタイムサービスは鮪の鉄火丼や海鮮丼など。サンプルを見ると鮪が美味しそうだったので、二人で迷わず鉄火丼を頼んだ。
茶碗蒸しやサラダなどが付いて1000円程は安い。風邪で調子が悪い筈なのに、ペロリと平らげてしまった。
磐越東線は非電化区間である。だから電車ではなく気動車、すなわちディーゼルカーが走っている。そのため電車に比べると振動や騒音が大きいが、それがかえって新鮮であり心地よい。
いかにもローカル線という風情の車窓に、息子が変なことを言い出した。
「オーストラリアで乗った鉄道と同じ風景だ」
その言葉に、思わずホンマかいなと突っ込みを入れたくなったが、真剣な表情の息子に何も言えなくなってしまった。
そういえば今から50年程前、まだ小学生だった私は、親父とふたりでこの磐越東線に乗ったことがある。
おふくろと妹は家に残り、親父と私の夏休みの旅行だったと記憶している。
確かその時は車窓に見える建物や景色について、乗車している間中、ずうっと親父を質問攻めにしていた。(あれは何の建物だ、この標識の意味はなに?等々)あまりに質問するものだから、親父は途中から寝たふりをしてしまった。演技をするとすぐにバレるのが親父だったが、その時のことを親父は今でも話すことがある。
そして今、今度は自分の息子と同じ路線の上で、当時見たであろう同じ景色を眺めている。
考えてみれば、なんとも不思議な話だ。自分の50年後にまさか追体験をしようとは夢にも思わなかった。
地元の中高生でほぼ満員になった列車は、やがて郡山駅のプラットホームに滑り込んだ。
次は仙台へ向かう新幹線へ乗継だ。もうあと少しで出張も終わる。賑やかな学生たちの笑い声の中を、我々ふたりは改札口への階段を上がった。
最終報告 Vol.1
2019年1月24日 お仕事 コメント (9)
ボロボロと言ったら良いだろうか。それともクタクタと言った方が正しいだろうか。
昨夜、福島県における二泊三日の出張から戻って来たが、心の充足とは裏腹に、身体は悲鳴を挙げながらの帰還となった。
なにしろ前の週の秋田・青森・岩手の出張で体調を崩し、それが癒えぬうちの福島出張であった。
21日の夜半、空気が凍りつきそうな会津若松市に到着し、息子と二人で震えながらホテルに飛び込んだ。この日は二人とも朝食を僅かに取っただけだったので、とにかく夕飯を食べに行こうと再び凍れる街へと出たのだが、20時前だというのにほとんどの店は閉まっている。
結局、間もなく閉店という「若松食堂」さんに飛び込み、おかみさんのご厚意で、なんとか食事をさせて貰えることになった。そして以前から息子が食べたがっていた会津若松名物のソースかつ丼を注文した(写真上)。
出されたかつ丼には半ラーメンが付いているので、昼抜きの我々にはとても有難い。閉店を過ぎたお店に迷惑をかけてはいけないと、一気に平らげた我々が店の外へと出た頃には、静まり返った会津若松の街に雪が舞い始めていた。
深夜、ふと目が覚めて何気なく窓の外を見てみたら、辺り一面が雪景色に変わっていた(写真中)。駐車場のクルマもすっかり雪に埋もれてしまったようだ。
私は身震いすると、再びベッドの中へと潜り込んだ。
翌日の会津での仕事は無事に終わり、磐越西線を郡山まで戻ることになった。
そういえば昨夜はスーパームーンだったなと思いながら、こちらでは雪空のために見えなかったことを思い出す。でも、ソースかつ丼とラーメンのおかげで、私も息子も腹だけはスーパームーンのようになったことで満足だ。
そんな馬鹿話を息子と交わしながら、昨夜は無かった雪道を踏みしめながら、駅へと向かった。
午後から行われた郡山市の担当者たちとの会議も無事に終わり、残すは翌日のいわき市だけとなった。
郡山での宿へと向かっていると、隣りを歩く息子の様子が変だ。どうかしたのかと尋ねると、この時期の出張用にと購入した防寒靴で、大きな靴擦れを作ってしまい、歩くのがとても酷いとのこと。おまけに私と違って体脂肪が無いせいか、寒さが骨身に沁みたのだろう。どうやら風邪をひいてしまったようだ。
これはいかんということになり、とにかくホテルで足の治療を行い、薬を塗って絆創膏を貼った。
風邪薬も私が買った市販薬を飲ませ、しばらく様子を見ることにした。
私はホテルの近所のコンビニへ必要なものを買いに出かけたが、ふと空を見上げると昨夜の続きのスーパームーンが雲間から姿を現していた(写真下)。
気がつけば私も咳をしている。これは私の風邪を引いた時のお決まりパターンだ。最後に身体の一番弱い部分、私の場合は気管支にきてしまうのだ。
(頼むよ、お月さん。あと一日、ツキを持たせてくれよ)
そう思いながら見上げたスーパームーンは、知ってか知らずか再び雲の中へと姿を隠した。
(つづく)
昨夜、福島県における二泊三日の出張から戻って来たが、心の充足とは裏腹に、身体は悲鳴を挙げながらの帰還となった。
なにしろ前の週の秋田・青森・岩手の出張で体調を崩し、それが癒えぬうちの福島出張であった。
21日の夜半、空気が凍りつきそうな会津若松市に到着し、息子と二人で震えながらホテルに飛び込んだ。この日は二人とも朝食を僅かに取っただけだったので、とにかく夕飯を食べに行こうと再び凍れる街へと出たのだが、20時前だというのにほとんどの店は閉まっている。
結局、間もなく閉店という「若松食堂」さんに飛び込み、おかみさんのご厚意で、なんとか食事をさせて貰えることになった。そして以前から息子が食べたがっていた会津若松名物のソースかつ丼を注文した(写真上)。
出されたかつ丼には半ラーメンが付いているので、昼抜きの我々にはとても有難い。閉店を過ぎたお店に迷惑をかけてはいけないと、一気に平らげた我々が店の外へと出た頃には、静まり返った会津若松の街に雪が舞い始めていた。
深夜、ふと目が覚めて何気なく窓の外を見てみたら、辺り一面が雪景色に変わっていた(写真中)。駐車場のクルマもすっかり雪に埋もれてしまったようだ。
私は身震いすると、再びベッドの中へと潜り込んだ。
翌日の会津での仕事は無事に終わり、磐越西線を郡山まで戻ることになった。
そういえば昨夜はスーパームーンだったなと思いながら、こちらでは雪空のために見えなかったことを思い出す。でも、ソースかつ丼とラーメンのおかげで、私も息子も腹だけはスーパームーンのようになったことで満足だ。
そんな馬鹿話を息子と交わしながら、昨夜は無かった雪道を踏みしめながら、駅へと向かった。
午後から行われた郡山市の担当者たちとの会議も無事に終わり、残すは翌日のいわき市だけとなった。
郡山での宿へと向かっていると、隣りを歩く息子の様子が変だ。どうかしたのかと尋ねると、この時期の出張用にと購入した防寒靴で、大きな靴擦れを作ってしまい、歩くのがとても酷いとのこと。おまけに私と違って体脂肪が無いせいか、寒さが骨身に沁みたのだろう。どうやら風邪をひいてしまったようだ。
これはいかんということになり、とにかくホテルで足の治療を行い、薬を塗って絆創膏を貼った。
風邪薬も私が買った市販薬を飲ませ、しばらく様子を見ることにした。
私はホテルの近所のコンビニへ必要なものを買いに出かけたが、ふと空を見上げると昨夜の続きのスーパームーンが雲間から姿を現していた(写真下)。
気がつけば私も咳をしている。これは私の風邪を引いた時のお決まりパターンだ。最後に身体の一番弱い部分、私の場合は気管支にきてしまうのだ。
(頼むよ、お月さん。あと一日、ツキを持たせてくれよ)
そう思いながら見上げたスーパームーンは、知ってか知らずか再び雲の中へと姿を隠した。
(つづく)