ご無沙汰しております。
大型連休も終わってしまいましたが、どのようにお過ごしになられましたでしょうか。
この日記も大型連休に合わせて休ませて貰いましたが、皆様も充実した日々を過ごされたのではないでしょうか。
私は例の件やそのほかの仕事の件があって、完全なる10連休とはいきませんでしたが、普段出来なかったことをそれなりに消化することが出来ました。
例えば「ロフトに籠ってコミックの読み放題」は実行に移し、ほぼ3日間で全冊を読み尽くしました。
夜中、ロフトから降りてきた私を見た妻が
「幽霊みたい」と言っておりました。
鏡を見たら目の周りが隈だらけ。このくらい普段から勉強をしていれば、ひとかどの人物になれたことでしょうが、ひとかどはおろか、ひと角もなしで終わってしまいました。
それ以外の日は孫の相手をしたり、親父と飲みに行ったりしていました。
そうそう、一日だけ「ひとり旅」をしたのですが、それについては次回にご報告をさせて頂きます。とても充実した1日でありました。なによりも美味しいものが食べれたのが幸せでした。
それは何かって?
ふふふ。
高級品ですョ!
今日も何事も無く、無事に仕事が終わりそうだなと思った夕方のこと。
一本の電話がかかってきた。職員がその電話に出て、通話先の相手となにやら話し込んでいる。そして、時々私の顔を不安そうな眼差しで見るのだった。
(これは何かあったな)
直感的にそう思った。
電話対応に出た職員の話に耳を澄ませると、警察とか刑事とか、そういう穏やかならざる言葉が聴き取れる。何か只事ではなさそうな雰囲気が伝わってくる。
私がその職員に目配せをすると、一度電話を保留にし、職員は私の元へやって来た。
「どうした。何かあったのか」と訊ねると、A県の某警察署からの電話で、私が永年業務委託をしているO氏に、親族から安否確認の依頼が警察へ出されたのだそうだ。それによると、この数日来、本人と連絡がまったく取れないので心配して警察へ相談したようだ。
警察がここの電話番号を知ったのは、たまたま親族がO氏から私の名刺を受け取っていたからだ。仕事の委託元へ問い合わせれば、O氏の行方が分かるかもしれないと思ったようである。
そこで私は、O氏から最後に連絡があった日時を確認させ、電話の刑事へ報告させた。
O氏がこちらへ最後に電話を寄越したのは、ちょうど一週間前である。どうやらその電話の直後から行方が分からなくなってしまったようだ。
O氏は59歳。ひとり暮らしをしている。病気があるという話は聞いていない。だが、年齢的に何があってもおかしくはない。私は最悪のことを考えた。
職員と刑事との電話はまだ続いているようだった。どうやらO氏の家の前から電話をかけているらしい。
呼び鈴を押しても反応はなし。窓から中の様子を窺うことは出来ないようだ。ガレージのシャッターは閉じられたままだが、わずかに開いている隙間から、クルマがあることを確認出来たという。ということは、O氏は在宅している可能性が高い。なのにどうして出てこないのか。
私の不安は一層強くなった。

担当の刑事からは事態に動きがあったら、また連絡をくれるということになり、こちらも本人への安否確認を試みる旨を伝えた。
電話対応を終えた職員が私の元へやって来た。私は万が一のことを考え、本社の管理部門へそのことを伝えるように指示した。そして私はというと、O氏から最近教えてもらっていた新しい携帯番号へと電話をかけてみた。
この番号のことは、あえて刑事にも教えなかった。何故ならこの時点で、本当に警察であるかどうかも分からなかったからだ。それに電話番号も個人情報である。本人の承諾なしに、第三者へ教えるわけにはいかない。

さて、その新しい番号へ電話をかけたのだが、呼び出し音は鳴るものの、やはり出てこない。これはいよいよ危ないなと思った。
私の頭の中に「孤独死」という言葉が輪郭を現した。
O氏はその風貌が宮沢賢治によく似ていたので、私は彼のことを「けんさん」と勝手に呼んでいた。
彼は何故か私に会う時は、いつも農業スパイクを履いてやって来たが、宮沢賢治も農業に尽力した人だったなあと関係のないことが頭に浮かんで来た。
どちらかといえば仕事は出来ないタイプだったが、私とほぼ同世代でもあり、どこか憎めない人物だった。
もし、万が一の場合は、私も本人確認のために現地の警察まで出向かなければならないのだろうか。そんなことまで考えてしまった。

最悪の事態を想定して本社の管理部門長と協議をし、とりあえず対応の方向性を確認したところに、件の刑事から電話がかかってきた。
それによると、O氏は生きていたというか、家の中で寝ていたそうである。
なんとなく体調が悪くて、家の中でゴロゴロしていたそうで、電話も面倒だから出なかったそうだ。
その話を聞いて私も納得した。確かにそういうところがある人だった。刑事からも大目玉を食ったようである。せめて電話ぐらい出なさいと。
私も『宮沢賢治』の死に顔を見なくてすんだことに胸を撫で下ろした。
だが、ここは私も東北全県を統括する責任者である。本人に改めて厳重注意をしなければならない。そこで先程の電話番号へもう一度電話をかけた。
今度は数度のコールで本人が出て来た。寝ぼけたような声だった。
その声を聞いた途端、私は思わず切れた。
「けんさんっ!!」
そう叫んでしまった。
もちろんO氏は何のことか分からず、電話の向こう側で絶句していた。
叫んだ私もしまったと思ったがもう遅い。
ふたりは電話を挟んで絶句するばかりだった。

昨年の9月24日の日記に「クルマ選びな日々」と題して、自動車選びのドタバタを書いた。しかしその後、我が家の状況が変化して、息子に私の小さなクルマを譲っても仕方がないような話になってしまった。
その状況の変化とは、もう一人子供が生まれることになった、つまり私の孫が増えることになったのである。そうなると、息子に譲ろうと思ったクルマでは、狭すぎて役に立たない。結局、チャイルド・シートを2つ載せても余裕のあるようなクルマが必要との結論に至ったわけである。
しかしながら、若い息子夫婦に資金的な余裕はない。これから子育ても大変だし、ローンを組むのも考え物だ。そうなると、必然的に私をあてにしてくることになる。
もしこれが、息子が欲しいと言うのなら「自分で金を貯めて買え」の一言で終わるのだが、「孫たちがじいじと一緒に旅行がしたいと言っている」と言われると、一番の急所を衝かれてしまうことになる。
そして恐れていた通り、息子が「孫たちがじいじと一緒に旅行がしたいと言っている、はずだ」と言い出した。「はずだ」が引っかかるが、「孫たち」という言葉が胸を抉る。
ちなみに孫たちのうちの一人は、まだお腹の中にいる。霊感の強い息子には「クルマが欲しい。出来れば1BOXカーが欲しい」と聞こえたそうだ。

そして、この間の日曜日。長男の友人が勤めるH社の展示場をみんなで訪問する。ズラリと並んだ美しいクルマの数々。その中にお待ちしていましたとばかりに、1台の1BOXカーが我々の目を釘付けにした。
内部は広くてゆったり7人は乗れる。荷室も広いから、ベビーカーもそのまま載せられそうだ。子供が飽きないように、後席ではテレビを観ることが出来る。
セールス氏はその他にも使い勝手の良さを色々と説明してくれたが、それを聞き入る家族の表情は、もうこれに決めたといった顔つきだった。

私のへそくりはすべて潰えた。
欲しかったカメラやレンズの数々も、遠い彼方へと消え去った。
でも、これで家族が、特に孫たちが喜んでくれるなら良い買い物だ。そう思いつつも、私の微笑みはいつも以上に引きつっていた。

映画「ハンター・キラー 潜航せよ」を観た
会社の振休を利用して、平日の午後、映画館へと足を運んだ。
選んだ映画は「ハンター・キラー 潜航せよ」だ。原作本を読んでの映画鑑賞というわけである。
さて、原作本がある映画の場合、どうしても(原作本と)比較されてしまうのは仕方のないことだ。そして大抵は原作本の方に軍配が上がる。それはそうだろう。映画の方は2時間台で纏めなければならないという制約がある。最初から大きなハンディを負っているのだから仕方がない。そしてこの映画も、やはりその制約に縛られていた。
原作では「海」と「陸」の両面でバトルが繰り広げられるのだが、映画の方は「海」のバトル一本に絞り込まれていた。そのためこの映画は、完全なる海洋サスペンスアクションものになってしまった感は否めない。なにしろ「陸」でのバトルは証券取引所での不正を暴いた女性監査官が、ロシアンマフィアに監禁されたり、逃亡したりと、こちらはこちらでハラハラドキドキのストーリーが展開するのだから、それだけでも一本のサスペンス映画が撮れてしまうことだろう。もしふたつの物語を同時進行させたら、冗長な映画になってしまった可能性もある。
監督もそのあたりを考慮して、あえて「陸」のストーリーはカットしたのか。それとも予算の関係か。ちょっと勘ぐってみたくなる。
登場人物の設定も多少原作とは異なっているようだ。原作本では第二の主人公と言っても良いドゥロフ提督が、ロシア国防相として描かれている。原作では深みのある敵役だったが、映画ではただの間抜けな敵役になってしまったのが残念だ。
私はてっきりゲイリー・オールドマンがドゥロフを演じるものと思っていただけに、少々消化不良気味だったが、さすがはアメリカ映画、バトルシーンはとても迫力があった。
主演のジェラルド・バトラーもエリートではない艦長という役どころを、巧くこなしていた。実年齢も50歳くらいだろうか。渋みもあり、冷静沈着かつ豪胆さを兼ね備えた艦長というキャラクターが本人とうまく重なっていた。
危機が去ったかと思わせておきながら、そこへまた次なる危機が次々に降りかかってくるというノンストップ・アクション映画。頭の中で描いていた映像を完全に凌駕していたことだけは確かだ。お勧め度は☆☆☆☆★くらいかな。
溜まりに溜まった本の数々。本棚に入りきれないものは床の上に平積み状態だ。
ただでさえ狭い家だから、当然のごとく家人から顰蹙を買う(一番は妻だが)。だから本を買ってきた日には、見つからないように本を抱えて二階へと忍び足で逃げ込むのだ。
ちなみに「本」だけではない。LPレコードやCD、そしてDVDも2000枚程は持っている。特にLPレコードなどは十代の頃から買い集めたものなので、レア物が相当あると思う。
いつだったか、某サイトで私の持っているLPレコードを調べてみたら、驚くような値が付いていた。これを売ったらちょっとした小遣いになるなと思ったが、思い出と愛着があるレコードだったので、結局手放すことが出来なかった。
さて、そんな我が家には、一丁前にロフトというものがある。簡単に言えば屋根裏部屋だ。私などはもう何か月も入っていないが、ここには或る「宝物」がそれこそ山のように放置されているのだ。それは何かというと「マンガ本」である。それも懐かしのマンガばかりだ。
ざっと見渡しただけでも「のたり松太郎」「ブッダ」「こち亀」「ブラック・ジャック」「がんばれ元気」「おれは直角」「うしろの百太郎」「恐怖新聞」「めぞん一刻」「金田一少年の事件簿」「三つ目がとおる」「どろろ」「笑ウせえるすまん」「シャーマンキング」「浦安鉄筋家族」「包丁人味平」「銀河鉄道999」「三国志」「水滸伝」「NARUTO-ナルトー」「バガボンド」etc
それらが三方の壁にほぼ全巻揃ってずらりと並んでいる。
このロフトにひとたび入って、そのどれか一冊でも手に取ろうものなら、ここから数時間は抜け出せなくなるという恐ろしい場所なのである。
ちなみにこのロフトは8畳ほどのスペースがあり、私の部屋より倍も広い。ここの真ん中にゴロリと寝転がってマンガを読むのが最高のひとときとなる。
私が何か月もこのロフトへ入らなかった理由。これでお分かりになっただろう。
おそらく、いや、多分間違いなく、今度の大型連休には、このロフトへ終日閉じこもることになるかもしれない。
その時にはコーヒーのペットボトルと煎餅をしこたまリックに背負って、梯子を上がることになるだろう。今から楽しみである。
この土日は2日間とも仕事だった。某大臣の「いしまきし」発言で注目を浴びた石巻市で、公設復興住宅に住まわれている高齢者の方々を対象に、認知症の検査を行って来たのだ。
検査会場に来られたのは70代から90代までの高齢者で、パソコンを使っての認知症テストなのだが、ひとり5分程度で終了する。
例えば3つの単語を覚えてもらい、テストの最後にその3つの単語が何だったかを思い出してもらう質問や、今日の日付を答えてもらうものなどで、その結果を点数化して認知症の度合いを測るのである。
これはあくまで研究のためにデータを収集するものであって、治療行為ではないが、問題が見つかった方には後日治療を勧める連絡を行う。
実は2018年にNHKのテレビ番組「プロフェッショナル仕事の流儀」で取り上げられた、石巻市在住の医師T先生が中心になって行われた調査なのだ。
T先生は元は長野で勤務医をされていたのだが、東日本大震災後に此処石巻へ移り住み、医療活動に従事されるようになった。
そのT先生と仕事をするのはこれが2回目だったが、全身全霊すべてを地域医療に捧げているその仕事ぶりは今回も変わらなかった。
当日も来場されたご老人には気さくに声をかけ、常に寄り添うようにしながらどんな話にも耳を傾けている。相手の置かれた境遇を絶えず念頭に置き、患者や高齢者の立場に立って考えることを忘れない、まさに医師の鑑のような先生だ。
たまたま会場を訪れた大学生ボランティアの人たちを集めて、地域医療についての特別講義を始めたりと、相変わらず熱い先生だった。
2日間という短い期間ではあったが、私もコーディネーターとしての役目を無事に終えることが出来て、ほっと一安心というところである。
おそらく先生との仕事はこれが最後になることだろうが、こういう情熱を抱いた医師が一人でも多く育ってくれることを願ってやまない。

最悪

2019年4月12日 日常 コメント (13)
過日行った人間ドックの検査結果が届いた。まるで爆発物の入った器でも開けるかのように、恐る恐る開封する。いつもより少し厚めの検査結果報告書を取り出し、ペラペラと頁をめくる。
一読して暗澹たる気持ちになった。明らかに前回受診した時よりも悪くなっている。しかも前回は無かった「要精密検査」項目が3つもあった。そのいずれもが大病を予感させるようなものだ。
思えば我が家系、親族を含めて同年代で大病を患うものが多い。親父も私と同年齢くらいの時に大腸がんに罹っている。幸い発見が早かったので大事には至らなかったが、その遺伝子を引き継いでいるのだから油断は出来ない。
今回の検査で新たに肝臓や腎臓にも異常が見つかった。血液性状も決して良くはない。長年、身体を虐めて来たツケが回って来たのかもしれない。
私の義兄は毎年人間ドックを受けていたのだが、東日本大震災の前年に、ただ一度だけ受診しなかった。しかしそれが仇となり、がんの発見が遅れて、震災の日から二週間後に亡くなってしまった。
あの時受診していれば、あれほど欲しがっていた孫を見ることが出来たのにと、今でも妻と話をすることがあるのだが、今度は自分がそうならないように努めなければならない。
それにしても、今回の結果は「最悪」であった。
さて、この最悪を転じて福と成すことが出来るかどうか。闘いの始まりの予感がする。

春が来た!
春が来た!
春が来た!
昼休みに会社の近くの公園へと足を向けた。
ここは本数こそ多くはないが、桜が綺麗な公園として知られている場所だ。
先週訪れた時にはまだ蕾みの方が多かった桜の樹だが、見事に花が開いていた。
この時を待ちわびていたように、私のような会社員や子育て中の若い奥さんたち、近くの専門学校の生徒や老夫婦など、大勢の人たちで賑わっていた。
皆、スマホやカメラを満開の桜に向けて、思い思いに撮影をしていたが、その表情はどれも明るかった。
(ようやく仙台にも春が訪れた)
そう思っただけでも、心が軽く感じられる。
私も皆に負けじと、青空に映える桜の花たちにレンズを向けた。

さて、心が幾分軽くなったが、胃の中も軽くなっていたことに気がつく。
すると「ランチやってます」の旗竿が見える。
そう、新しい局舎となったNHK仙台放送局のレストランの立て看板だ。どうやら部外者でも歓迎のようである。
好奇心が強い私は迷わず入ってみることにした。
レストランは局舎の二階にあり、大きな窓からは公園や大通りが見下ろせる。明るく広い開放感溢れる作りとなっている。
レストランの入り口には食券の券売機があるが、一番高い「やっぺいスペシャル」が700円。「ヘルシーランチ」が600円、「サービスランチ」が500円とお手頃価格だ。
この日の「サービスランチ」であるアジフライに心惹かれたのだが、すでに完売だったため、ここは奮発して「やっぺいスペシャル」の鮭づくし丼を選択した。
そしてその内容は写真の通り。鮭の刺身やいくらに鮭フレークというもの。
小鉢は様々な種類が置いてあり、好きなものを1品選ぶというシステムだった。
定食もの以外にも単品料理もあり、時間帯によってはスイーツも食べることが出来るようだ。
新しい食の場をまたひとつ開拓した私は、翌日、嫌がる職場の人間を引き連れて再び此処を訪れた。
「やっぺいスペシャル」は「野菜たくさんのオムライス」。小鉢の他にパックのジュースもついて前日同様700円だった。
最初は来るのを嫌がっていた連中も、値段以上の味の良さに感激していた。勿論、全員に奢ったのは言うまでもないが。

腹が満ち足りると幸せ感も倍増するようだ。
帰りは皆で花見をしながら、穏やかな午後のひとときを楽しんだ。

ハンターキラー潜航せよ
小説や映画の戦争ものはあまり好きではない。だが、「潜水艦もの」と呼ばれるジャンルに関しては何故か惹かれるものがある。それは深海の密閉空間という特殊な極限状況の中で、死の恐怖に耐えながら、知力と気力、そして体力の限りを尽くして任務を遂行するという男のドラマがあるからだろう。
そのせいだろうか。思い起こしてみると、過去に多くの潜水艦映画を観ていることに気がついた。
日本映画では「真夏のオリオン」や「ローレライ」があるが、そのどちらも原作本を読んだ。特に「真夏のオリオン」の原作となった池上司の「雷撃深度一九・五」は、艦長の漢気がぐっと胸に迫る作品だった。
さて、外国の作品では、ショーン・コネリーが渋い「レッド・オクトーバーを追え!」だとか、キューバ危機を扱った「クリムゾン・タイド」、エニグマ暗号機奪取をテーマに据えた「U-571」などがあるが、そんな中でも秀逸なのがドイツ映画の「Uボート」だろう。
実話を元にして作られた映画のようだが、狭い艦内の描写と息詰まるような緊迫感がとてもリアルであった。次第に疲弊していく乗組員たちの姿もよく描かれていた。
だが、今日はその「Uボート」の話ではなく、今週末に封切り公開される「ハンター・キラー 潜航せよ」についてのご紹介である。といっても映画ではなく原作となった本の方だが。
その日、たまたま本屋で見つけた上下二巻の文庫本「ハンターキラー 潜航せよ」(早川書房)はジョージ・ウォーレス&ドン・キースの二人の手による海洋アクション小説だ。
旧ソビエトの栄光を再び取り戻すため、ドゥロフ提督が企てたクーデターは、自国の最新潜水艦をも撃沈するという暴挙から始まった。しかも救出に向かったアメリカの潜水艦まで攻撃し、すべての罪をアメリカに擦りつけたのである。さらにはアメリカの経済を大混乱に陥れるため、証券取引所の株式売買プログラムへ不正なプログラムを侵入させようと暗躍する者たちの存在があった。
ドゥロフ提督の企てを阻止するためにロシア海軍基地へ密かに接近するアメリカ海軍原潜トレドと、特殊部隊の精鋭たち。そして不正プログラムの存在を知り、命を狙われる証券取引委員会のキャサリン・ゴールドマン監査官は、魔の手から逃れることが出来るのか。
海と陸とで繰り広げられる熱い戦いの結果はいかに。
一度読み始めたら止めることが出来なくなること請け合いの、久しぶりに時間を忘れて読んだアクション&サスペンス小説だった。

本と珈琲と募金と
本好きも度を超すと中毒になる。もっと度を超すと活字中毒になる。新聞でもチラシでも薬の効能書きでも弁当のラベルに記載された食品添加物の名称でも、とにかく活字を読んでいるだけで安心するようになる。
今でもたまに寝床に就いて本を読みながら寝てしまい、朝、両手に本を持ったままの状態で目を覚ますことがある。
嘘だと思われるかもしれないが、目を開けた途端に続きを読み始めるのだ。
妻も私がそんな状態で寝ているのを見つけて、手に持っている本を取ろうとするらしいのだが、死後硬直のようにしっかり掴んで離さないらしい。時々、本当に死んでいるのではないかと不安になるようだが、鼾を確認すると(勝手にしろ)と毒づきながら眠るのだとか。
そんな私がたまに訪れるのが、仙台駅から歩いて5分ほどの場所にあるCAFE「青山文庫」だ。店内は昭和レトロな雰囲気が漂い、薄暗く落ち着いた店内には本が沢山置いてある。
この店のコンセプトは「本と珈琲とインクの匂い」。書架があったり貸本コーナーがあったり、ちょっと難しめの本があったかと思うと、絵本がさりげなく置かれていたりする。本好きな人にはたまらない空間だ。
写真にもあるように、カウンター席の窓際にはずらりと文庫本が並んでいるので、コーヒーを飲みながらつい手を伸ばしてしまう。ここでは時間がいくらあっても足りないくらいだ。
私がいつも飲む「青山文庫ブレンド」は500円。1杯ずつミルで挽いてドリップするので時間はかかるが味も香りも素晴らしい。
コーヒーはマグカップで提供されるが、本読みにはちょうど良いサイズだ。お代りが150円というのも嬉しい。
この店でランチを取る時には、焼きカレーか煮込みシチューライスのどちらかを選んで食べる。オーブンで焼いた香ばしいカレーの匂いが、ひととき我が活字頭を解放してくれる。
店員さんがワゴンを押してやって来ると、私のすぐ脇でレモン水を作ってくれるのだが、このサービスもいい。特に食事のあとは口の中がさっぱりする。
ところでこのお店では貸本コーナーがあり、1冊50円の募金という形で本を借りることが出来る。その募金は全額「絵本を届ける運動」に寄付されるのだとか。
読み書きができない、絵本を読んでくれる人がいない国内外の子供たちへ、絵本を手にする機会を持ってもらおうと、1999年以来「公益社団法人シャンティ国際ボランティア会」が行っている運動とのこと。
正直に言うと、まだ一度も借りたことが無いのだが、次に訪問した折には「募金」のために借りてみることにしようと思っている。

忙中閑あり
忙中閑あり
忙中閑あり
新元号は「令和」と決まったようで、まずはおめでとうございます。
これから先、良き時代になりますよう今はただ祈るばかりです。

さて、タイトルにした「忙中閑あり」だなんて、古めかしい言葉で恐縮です。この場合、この言葉しか思いつかなかった次第で。
年度末の忙しさも(実際には年度が明けても暫くは忙しいのだが)どうにか一段落したが、実はその多忙な最中にひとりでふらりと東京へ出かけたのだった。
横浜に住むMさんが間もなく故郷の山口へ帰るということで、会いに行ったのである。
Mさんは私よりも一回りも年上の先輩で、いわば兄のような存在だ。山口へ帰る前に話したいこと、相談したいこともあり、ほとんど衝動的に出かけたのだった。
今回は待ち合わせ場所を上野駅にした。なぜそこにしたのかというと、これも衝動的なのだが、東京スカイツリーに急に登ってみたくなったからである。
上野駅の中央改札口でニコニコしながら私を待っていたMさん。お昼も近かったので、上野駅に程近い「翁庵」でもりそばとビールで再会を祝した。
このあと墨田公園までぶらぶらと歩き、この時点ではまだ一部咲だった桜を眺め、そしてスカイツリーへと向かった。
実はスカイツリーへ足を運んだのはこれが二度目である。初めて此処を訪れたのは、完成して間もない頃だった。その時はあまりの人の多さで、登ることを断念し、外観の写真だけを撮って帰った記憶がある。
今回も人の数は凄かったが、割とすんなりチケットが買えて、到着から三十分後には空中回廊の人になった。
東京タワーが遠くに臨めるが、そこよりも高い位置で東京を見渡せるのはもちろん生まれて初めてのことだ。
大都会東京もこうして見ると、街が地面に張り付いているように見える。新宿などの高層ビル群はまるで鍾乳洞の石筍だ。
Mさんとふたり、スカイツリー・カフェに入り、改めて再会の喜びと、そしてこれからの我とわが身の処し方を話し合った。
この日どうしてもMさんに相談したかったこと。それは息子に仕事を譲ったことで、間もなく私が失職することだ。これは同じ職場に息子を招き入れる決断をしたその時から、分かっていたことではあったのだが、その後の自分の生き方を考えた時、正直何も見えて来ないのだった。
人生の先達としてのMさんに話を聞いてもらうだけでも良い、そうすれば少しは気が晴れるかもしれない、そう思ったのだ。
今までの成り行きをMさんに話すと、Mさんは暫くの間、頷きながら静かに聞いていた。そして一通り話を聞くと、「息子に仕事を譲ったことは正解だったと思うよ。その代わり父親の方は経済的にも苦しくはなるだろうけど、まだ若いんだから道は拓けるよ」
そう言って隅田川ブルーイングを口にした。
「時間が自由になるんだから、好きなことをしてみたらいいんじゃないか。出来ればお金になることを」
Mさんはビールを飲み干すと、お代りを買いに席を立った。
(好きなことをと言われてもなあ...)
好きなことが沢山あるのだ。しかし、そのどれもお金に結びつきそうもない。
Mさんに相談して、一層困惑する羽目になってしまったか。
再び席に着いたMさん。相変らずニコニコしている。そういえば、Mさんは何も仕事をしていない。毎日自由気儘に生きている(ように)見える。
「人生、成るようになるんだよ。そう心配するな」
Mさんはそう言って笑った。
(そういえばMさんは楽観主義者であった)ことを私はすっかり忘れていたのだ。
大きな窓の向こう側は、明るいが靄がかかったような空模様で、富士山を見ることは出来なかった。
ビールのお代りがじんわりと身体に効いてくる。日本一高い塔の上での人生相談は、Mさんの成るようになるの一言で片づいてしまった。
遥か下に街並みを見下ろしていると、気持ちが大きくなってくるのはアルコールのせいだけではなさそうだ。
来週には山口へ帰るというMさん。その温厚な顔を次に見ることが出来るのはいつのことだろう。
そんな私の思いなど関係ないように、持参したデジカメで見えない富士山に向かってしきりにシャッターを切っているMさんだった。

おはようございます。

年度末を迎え、業務過多、毎日朝から晩まで仕事に忙殺されています。
そのため今しばらくの間この日記を更新出来ない状況にあります。
皆さんとの楽しいやり取りが出来ないのが残念なのですが、年度が明ければまた復活します。
どうぞお許しあれ!
おかしな話といえば、おかしな話だが、人間ドックの予約を入れてしまったために、現在糖質制限ダイエットを行っている。
そう、人間ドックがあるから痩せようという訳だ。それって本末転倒ではないかと言われそうだが、人間、何か事を起こす時は「動機」が必要なのである。その人間ドックがあるのは今月末。このダイエットを始めたのは先々週の週末から。およそ3週間で結果を出そうという訳だ。
実は昨年の人間ドックの際に、先生から「あと10キロ体重を落としましょう。それだけで世界観が変わりますよ」と言われたのだった。
『世界観が変わる』
とても魅力的な言葉に思えた。マンネリ化した毎日に変化が起こるかもしれない。軽くなった身体で颯爽と街を歩いている自分。駅の長い階段を疾風のように駆け上がって行く姿を思い浮かべた。
しかし、現実は甘くはなかった。体重は減るどころか増加の一途を辿った。これでは世界観など変わる訳もない。
このままだと先生から「世界観は変わらなかったようですね」と言われてしまうことだろう。
今年は人間ドックをやめようかななどと、心が揺らいでいた最中に、妻から「人間ドックを予約したから」といわれてしまったのである。
焦った。その日まで時間がない。どうしよう。痩せていなければ先生に面目が立たない。そんな慌てふためく私が見つけたダイエット法が、糖質制限だったのである。
糖質制限については今更言うまでもない。おそらく私よりも皆様の方が詳しいかもしれない。
現在、私の主食は山形の特産「玉こんにゃく」だ。よく観光地の茶店などで串に刺して煮ているアレだ。これを3~5個も食べると満腹になってしまう。
もちろんこれだけでは栄養的に問題ありなので、野菜類やキノコ類などを一緒に食べるようにしている。また、タンパク質も大切なので豚肉や鶏肉、卵などは必ずメニューに加えた。そして内臓脂肪に効果があると言われているガゼリ菌入りのヨーグルトは朝昼晩の3回は必ず食べるようにした。
最初の3、4日は辛かったが、それもだいぶ慣れてきて、そしてその効果を感じるようになってきた。
まず体重が一気に3キロも落ちたのである。さらに今まで着ていた服が緩くなり、特にズボンの腹回りが細くなった。これには正直嬉しかった。
気がつけば胸周りも減ったようで、Yシャツやスーツの上着がきつくなくなった。
ただし、短期間で急激に体重を落とすのは良くないと聞く。それに脂質も制限すると便秘になりやすいともいわれる。このへんがダイエットの難しいところである。
さて、人間ドックはいよいよ来週だ。世界観が多少とも変われば良いのだが。

暫く前から右足の踵に痛みが走るようになった。特に朝ベッドから起きて床に足を着いた瞬間がとても痛い。寝る前に消炎剤を塗ってみたりもしたが、一向に良くなる気配が無い。
口の悪い妹は体重を減らせば治るなどと言う。こちらもお前こそ減らせと言い争いになる。やがてお互いの容姿のけなし合いにまで発展し、双方が足の痛みより心の深手を負う結果となって終了する。
(こりゃあ、医者に行った方が良いかな)
ついにクリニックへ行き、そこで受けた病名が「足底筋膜炎(または足底腱膜炎)」という聞き慣れないものだった。
医者の話によればスポーツ障害のひとつらしく、特にマラソン選手に多いそうだ。
足底部に荷重ショックを繰り返すことで発生する病気で、足底腱膜の変性や微小断裂などが痛みの原因のようだ。ようするに足のオーバーユースなのである。
それを聞かされた時、思わず(俺はアスリートか!!)と心の中で声をあげた。
なにしろマラソンはおろか、ジョギングだってやっていない。そんな自分がスポーツ障害だなんてとても信じられなかった。
そのことを妻に話すと「誰がアスリートだって?」と一笑に付された。
妹にも話したら「その体形はアスリートではなく、ミスリードだ」とのたまうので、こちらも負けじと「お前は顔がミスリードだ」と言ったら口喧嘩になった。
結局お互いにまたしても心の深手を負う結果となってしまった。
さて、アスリートのかかる病だなどと言われて、考え込んでしまった私だが、ふとあることに気がついた。
私のスマホの歩数計が、昨年12月から2月下旬までで55万歩達成を表示していたのである。そしてこんなコメントが付されていたことを思い出した。
『驚きの結果です。最高レベルに達しました』と。
まったく意識していなかったが、私は結構歩いていたのである。つまりヘビーウォーカーだったわけだ。3月に入ってからも、既に60キロを歩いていた。
(ほらみろ、やっぱりアスリートではないか)
ちなみに脹脛(ふくらはぎ)が固いとこの症状を起こしやすいとも言われている。また、高齢者の方は骨粗鬆症でも似たような症状が出る場合があるらしいのでご用心を。

8年前、東日本大震災という未曽有の大災害を経験したが、その時一番大変だったのはライフラインがすべて断たれてしまったことだった。
大災害なのだから当たり前と言われればその通りだが、いざ水道、電気、ガスなどのライフラインすべてが使えなくなってしまうと、本当に困ってしまう。
まず、断水してしまうと、水を飲むことも料理をすることも、そして洗濯や入浴も出来なくなる。さらに切実な問題として水洗トイレを使用することが出来ない。
また、電気が無いと電化製品は使用不能となるが、冬場に困るのは暖房だった。エアコンも温風式石油ストーブも電気が無いと稼働しない。
実は私は過去何度も大きな地震を経験している。1968年の十勝沖地震、1978年と2005年の宮城県沖地震、1983年の日本海中部地震、2003年宮城県北部地震、そして2008年岩手・宮城内陸地震等々。何故かこれらの地震の際に、偶然にもその被災地に居合わせて来たのである。まさに地震男である。そしてこれらの大地震のうち、1968年の十勝沖と1978年の宮城沖の2つの地震では、ライフラインが完全に止まってしまった。
だがそのことによって、大災害の際にはこのようにした方が良いということを幾つか学ぶ事が出来た。
そのことが後の東日本大震災において役立ったことも少なくなかった。そこで私が実際に役に立ったと感じたことを具体例として紹介させて頂くので、参考になれば幸いである。

◎まず水を溜めよう。
大地震の直後といっても電気などと違い、水はすぐには止まらない。そこでバスタブに水を溜めたり、鍋やヤカンなど空いている容器にも水を溜めた。これは後で本当に助かった。
風呂の残り湯がある場合は、その水が水洗トイレに使用できるので捨てないようにしたい。

◎反射式ストーブ
電気が止まってしまうと電化製品は使い物にならないことは先に述べた。東日本大震災のように寒い時期の震災では暖房が無いのが一番つらい。そんな中、反射式ストーブがとても役に立った。ストーブの上ではお湯も沸かせるし、ちょっとした調理も出来る。そして温風式に比べると灯油もあまり消費しない。
ガソリンや灯油が入手困難になるのは必至なので、このようなストーブが1台あると心強い。

◎ラップやアルミホイール類
水は貴重品になるので、食器などを洗うことはほぼ出来なくなる。そんな時、サランラップやクレラップといったビニールラップが大いに役に立った。
食器にラップを被せて使用すれば、食器を洗う必要が無くなるからだ。紙の皿も無駄に捨てることはなくなる。

◎LEDライト
電気のない生活が続いたのが東日本大震災だった。夜になると闇の中での生活を余儀なくされる。昔ならロウソク生活といったところだが、余震が続く中での火の使用は危険だ。その点、今はLEDライトという便利なものがある。電気の節約にもなるし、それひとつで部屋中が明るくなるような大光量のLEDランタンも比較的安価で手に入る。
LEDライトではなくても、懐中電灯の一本くらいは常備しておいた方が安心だ。
ただし、どこに置いておいたか忘れてしまい、暗闇の中で探さなくてはならないということにならないよう気をつけたい。

◎ボディーシートやデンタル・リンス
水が使えないとなると入浴が出来なくなる。そこで役に立ったのは汗拭き用のボディーシートなどだ。また、歯みがきも大切だが、デンタル・リンスはとても役に立った。
被災した高齢者の中には、口中を清潔に保てなくて肺炎を引き起こしてしまったケースもある。

◎カップ麺やレトルト食品、フリーズドライ食品
腹が減っては戦は出来ぬ。やはり食事は一番大事だが、冷蔵庫や電子レンジなどが使えないので、お湯だけで食べることが出来るインスタント食品は便利だった。同じカップ麺でも、麺自体に味付けがされているものと、スープや具材が小分け袋に入っているものがあるが、前者の方がゴミもあまり出ないので良いと思う。
ちなみに私はほぼ毎日、自衛隊が配給する食事を頂戴していた。牛丼やカレー丼が毎日交互に提供されたがとても美味しかった。不謹慎かもしれないが、朝昼晩と三度三度食べていたら、被災前よりも太ってしまった。
尚、ドライフルーツが良いとする話もある。ただし、歯が弱いとちょっと厳しいかもしれない。

◎カセット・コンロ
カップ麺を食べるにもお湯が必要だ。昔、我が家は都市ガスでもプロパンガスを使用していたので、宮城県沖地震の際はそれが役に立った。ガスのラインが遮断されても、自宅のガスボンベで一月以上は使用できた。
そんなプロパンガスが無くても、卓上コンロ(カセット・コンロ)が1台あれば、かなり役に立つ。ただし、使用法を間違えると思わぬ事故に遭う場合があるので要注意だ。

いずれにせよ、備えあれば憂いなしである。常に防災意識は頭の片隅に置いておきたい。

お陰様で長男は震災のあった二日後に、泥だらけの恰好で無事に帰宅した。妻は泥だらけで帰宅する息子の姿を夢で見たそうだ。それが現実のものになった。
私の人生の中でこの時ほど嬉しかったことはない。頭からつま先まで泥だらけの息子を、私は思わず抱きしめた。

息子から聞いた話では震災直後に津波襲来の報を受け、ガス製造工場のプラントを停止させたが(息子は産業用ガス製造の技師)、管理棟が低層階であることから近隣の他社ビルへと避難した。そこには同じように避難してきた人たちで一杯だったそうだ。
最上階の部屋から外を見ていると、津波が一気にコンビナートを襲い、ありとあらゆるものを押し流していった。
ちょうど購入したばかりのクルマも流されてしまったが、息子が一番ショックを受けたのは人が流されていくのを見てしまったことだった。その中には既に亡くなった人もいたようで、震災後もその光景が脳裏から離れなかったようだ。
また、夜に入って、目の前のガスタンクが爆発し、巨大な火柱が上がった時には生きた心地はしなかったという。
そのビルの最上階には200名ほどが避難していたそうだが、火柱と轟音の物凄さに誰もがこれで最期だと思ったそうだ。
飢えと寒さと恐怖の一夜を明かした人達は、ここを離れるか、それとも留まって救助を待つかの二択を迫られた。
その後も頻繁に発生する余震。いつまた大きな津波が襲ってくるかも分からない。もし避難中に津波に襲われたらひとたまりもないだろう。といって自分たちのいるこのビルも決して安全とは言えなかった。
ここを脱出するか、それとも残るか。これはもう賭けとしか言いようがなかった。
ビルの周りは水没しており、避難するにしても歩いて行くしか方法が無かった。
しかし、濁り水の中を避難することがどれほど危険なことか。ゴムボートなどあるはずもない。もし穴が開いていたら吸い込まれてしまうだろう。
それでも息子は避難することを選んだ。そして一緒に避難する人たちと身体をロープで結び合い、膝上までくる水の中を慎重に歩き始めた。

幸い避難途中で自衛隊の方々に救助され、そのままボートで駐屯地へ移送されたらしく、そこでまた一晩を明かしたという。毛布や水、そして食料品も与えて貰い大変有難かったそうだ。
三日目の朝になって、自宅に帰るかしばらくここに留まるかは自己責任でと言われ、家のことが心配だった息子は帰宅することにした。
そしてようやく帰宅。

実は息子が音信不通になって、私は私で息子の職場を目指して探しに出かけたのだった。ちょうど避難したビルから自衛隊の駐屯地へ移動した頃だ。
もしかしたら、その時点で息子に会えたかもしれなかった。何故なら自衛隊の駐屯地の前までやって来たものの、その先が水没しているために進む事が出来ず、暫くの間、呆然と水際に佇んでいたからだ。
多分その時には駐屯地内に保護されていたと思われる。

流されてしまったクルマは、すぐには見つからなかった。
息子も半ば諦めていたのだが、信じられないことが起こった。
震災から2ケ月になろうかという頃、職場の駐車場にクルマが戻っていたのだ。
これについては未だに誰が運んでくれたのか分からない。また、息子のクルマだと何故分かったのかも不明である。
外見の大きな損傷は無いようだったが、水を被ってしまったクルマは、もう乗ることは無理のようで、結局廃車となった。
ただ、ダッシュボードから腕時計が見つかったが、それは私が息子に贈った就職祝いの品だった。
防水であったことが幸いして、ちゃんと時を刻んでいた。
息子はこの時計を今も毎日身に付けて仕事に出かけている。

◎職場の中の携帯電話が一斉に警報を鳴らし始め、それが警報と分からずに皆で
顔を見合わせたこと。その直後の激しい揺れ。机に必死にしがみついているだ けだった。壁の時計は2時46分。

◎揺れが収まりそうになると、再び強い揺れが襲ってくる。そして次もまた。長過ぎる。これは普通じゃない。まったく初めての経験だ。嫌な予感が過る。
向かいのビルが左右に大きく揺れていた。ビルってこんなにしなるものなのか。

◎揺れが収まらない中を、灯りの落ちてしまった暗い階段を1階まで降りる。ビルの前に出ると、この界隈にはこんなにも大勢の人間がいたのかと思う程、道路に人が溢れていた。

◎短い間隔で襲ってくる余震。余震といっても震度5クラスはある。そのたびにあちこちから悲鳴があがる。

◎雪が降り始め、寒さが身に沁みる。しかし誰も建物の中へ戻ろうとはしない。持ってきた携帯ラジオをからは、津波警報が流れている。仙台港で20~30メートルの高さになるから早く避難するようにとアナウンサーが叫んでいる。いや、どこそこでは40メートルと言っていたような...
嘘だろ。

◎職場が仙台港のすぐ傍にある長男へ携帯から電話をする。
しばらくすると「ああ、俺だけど、こっちは大丈夫...」
息子がそう言いかけた時に受話器からゴォーッという音が聞こえ、そして電話が途切れた。

◎発生から一時間半が経った。余震も少し収まってきたようだ。少しづつ外へ出ていた人たちが建物の中へ入り始めた。私も覚悟を決めて建物の中へと入る。
部屋のドアを開けようとすると、全然開かない。どうやら部屋の中の什器類がドアの前に立ち塞がっているようだ。
何度も体当たりをして、少しづつスペースを空け、ようやく身体を潜り込ませることが出来た。

◎本社とは連絡が取れず。職場にいた人たちに安全確保の上帰宅するように命じ、私も戸締りや電源等の火災発生リスクがないかどうかを確認する。その間も頻繁に地震警報の不快音が響き渡る。通話が途切れた息子のことが気になる。

◎全員が退去したことを確認し、最後に会社を出る。この頃には帰宅を急ぐ人たちで街は溢れていた。道のあちこちには崩れた壁や、ビルから落ちてきた窓ガラスなどが散乱していた。

◎公共交通機関はすべてがストップしていたので、徒歩で帰宅するしか方法はない。途中コンビニに立ち寄るも、ほとんどの商品は売り切れ状態だった。

◎携帯電話で家族への連絡を試みるが繋がらず。国道は瓦礫が散乱しているため、途中から脇道に入る。そして自宅の近くまで流れている川の堤を歩くことにした。だが、しばらくの間、築堤の上を歩いていると、下流の方からゴーッッという音が聞こえてきた。見ると真っ黒い壁のような波が遡ってくる。津波だ。

◎自分が立っている築堤の周囲に逃げ込むところはない。遡ってくる津波が、私の歩いている築堤を超えて溢れるようだったら助からない。せめて自分の最期をと手にした携帯電話を動画モードにして、迫りくる津波を撮影した。
だが、津波は築堤を超えることなく上流へと流れて行った。助かった。

◎電気は止まっているはずだ。人工呼吸器をつけているおふくろはどうなったか。

◎2時間以上かかってようやく自宅に辿り着く。カギを開けて中に入るが誰もいない。洋食器やグラスなどを収めていた家具は転倒し、壊れた食器類が床に散乱していた。風呂場に行ってバスタブに水を溜め始める。これは今まで何度も大地震を経験したことで学んだ知恵。完全に断水になるまでまだ時間はあるはずだ。ここで溜めた水はきっと役に立つ。

◎親父や妹、そして病床のおふくろがいる家へ行ってみる。妻もそこにいた。おふくろの人工呼吸器は本体内のバッテリーで稼働している。予備バッテリーもあるからあと24時間は大丈夫なはずだ。だが、それ以降はどうするか。

◎親父が物置から発電機を出してくる。おふくろのことを考えて、親父が最近購入したものだった。まさかこんなにすぐに役立つことになろうとは。人工呼吸器とは直接繋げないが、バッテリーの充電には使える。ついでに室内の家電にも繋いでみたところ、部屋の灯りやテレビを点けることが出来た。
備えあれば憂いなし、とはこのことか。しかし、新たな問題が。

◎深夜になって二男やその彼女(現在は嫁)、そして三男も帰ってくる。いないのは長男だけだ。ラジオからはどこそこで200名ほどの遺体が見つかったとか、300名の遺体が収容されたといったニュースが流されている。その間にも緊急地震速報が流れ、そのたびに緊張が走る。

◎その晩は皆で親父の家に泊まった。発電機は助かるが、問題は燃料のガソリンだ。とりあえずガソリン缶には20リットル残っている。そのあと確保できるかどうかは不明だ。

◎燃料節約のために発電機を止め、懐中電灯の明かりの中で遅い夕食を取る。果たして長男は無事なのか。電話が途切れる瞬間の轟音が、気になって仕方がない。
余震が続く中、家の外へ出てみた。夜空には今まで見たこともないくらいの星が瞬いていた。まるで亡くなった人たちの魂のようだ。
コンビナートでタンクが爆発して、東の空が赤く光っている。その爆発したタンクのすぐ隣に息子は勤務している。妻は気丈にしているが私は泣きたい気分だった。
そしてもう一度、星空を見上げた。

本当の戦いがここから始まるとは、この時はまだ思いも寄らなかった。

昨夜の話。家の近所のコンビニへ買い物に出かけた。妻に頼まれた物を購入し、ちょっと雑誌を立ち読みしてから店を出た。
暗い歩道には私の10メートルほど先を、小柄な老婆が買い物用のキャリーカートを引きながら歩いている。老婆だと分かったのは、腰が曲がっていたからだ。
直角に近い角度で腰を曲げているので顔は分からない。ニットの帽子を被っているようだが、雨でもないのに長靴を履いている。闇の中でも水色だと分かる長靴は、大人用というよりも小学生が履くような大きさだ。
街灯があまりない暗い歩道だが、キャリーカートには奇妙な程に大きく膨らんだレジ袋が2つ3つと括り付けられていた。
当然ながら私の方が足が早い。老婆までの距離はぐんぐん縮まり、そして一気に追い抜いた。と、その時である。突然の奇声。と言うよりも高笑い。
私は思わず足を止めた。一瞬心臓が止まるかと思った。恐る恐る後ろを振り返ると、高笑いを続けるあの老婆が、あれほど腰が曲がっていたにもかかわらず、後ろに反り返って笑い続けている。
一体何が可笑しいというのか。老婆の不気味な笑い声だけが深夜の歩道に響き渡った。
私はとにかく急ぎ足でその場を離れた。後ろの方では相変わらず老婆の笑い声がする。
横断歩道を小走りに駆け抜け、自宅の前の路地に入った。
既に笑い声は聞こえなかったが、鼓動は早鐘のように打ち続けていた。
もう一度振り向いて、誰もいない事を確認してから家の中に入った。
今あった出来事を妻に話したら、そういう老婆がいることは噂で聞いていたという。それを聞いてひとまず安心した。
また、この世のモノではなかったらどうしようかと思ったからだ。
それにしても、びっくりした。
今年のGWは10連休になるという。新天皇の即位日が5月1日になるため、この日を祝日とすると「祝日法」により、4月30日と5月2日も休日となるため10連休が実現するという訳だ。
10日間の休みともなれば、海外旅行へ出かける人も多いことだろう。旅行会社各社のツアー広告も目白押しだ。
私も試しに国内各地の観光地にある宿泊施設へアクセスしてみたら、そのほとんどが既に満室状態だった。みんな考えることは同じなのだと改めて思った。
その大型連休の陰でサービス業を生業とされている方も大勢いらしゃることだろう。本当にご苦労様と言いたい。
私も学生時代、夏休みの一時期を軽井沢の喫茶店で従業員として過ごした経験がある。
ほぼ同世代の若者たちが大挙して軽井沢へ遊びにやって来る。男も女もみんな楽しそうだった。そんな彼らを横目で見ながら、どうして自分はこんな事をやっているのだろうとクサっていたものだ。そんな事に不満を募らせていた自分を思い返すと、恥ずかしくなって来る。
とにかく自分は、楽しさを陰で支えている人たちのいる事を忘れないようにしたいと思う。

さて、今度のGWだが、自分はどのように過ごそうか、今から色々と計画を練っている。
まずは旅行。だが、前出のように既にホテルや旅館は満室状態である。それなら日帰りではどうかと思ったが、なかなか適当な場所が見つからない。観光地やレジャー施設も相当な混雑が予想されるので、それを思うと気が重くなる。
映画やスポーツ観戦という手もある。だが人混みを考えてしまうと二の足を踏んでしまう。歳を重ねるごとに人の多い所へ出かけて行く事自体が億劫になっているのだ。
もちろんインドアも考えたが、それだと普段行なっている事をするだけになりそうで、出来れば非日常を味わいたい自分の本意から離れてしまう。
でも、こんな事に頭を悩ませていられるのは幸せなことだ。ちょっと前までの自分なら、とても考えられない。連休中も仕事のことが頭から離れなかった。

GWにはまだ時間がある。その過ごし方をもう少し練ってみよう。人様と同じ過ごし方をするだけじゃ能がない。その悩み抜いた結果は、改めてこのDNでご報告させていただくことにしよう。

私とかつて一緒に仕事をしていた男がいる。今は転職してまったく異なる仕事に就いているが、その彼から電話がかかってきた。
着信表示に現れたその名前を見ただけで、私はいつもうんざりしてしまう。また、コイツかよと...
人と人とのご縁には色々あるけれども、私とこの男とは「腐れ縁」と言っても良い。はっきり言って私はこの男が嫌いである。なぜならば、私を利用することしか考えていないからだ。
この男、考えていることはいつも自分の利益だけだ。目的が達成できれば、その間に世話になった人たちに感謝の素振りも言葉もない。
年齢は私より一回り以上も下なのに、狡知に長けている。そんな彼との腐れ縁の始まりは、結婚式の司会を務めたことからだ。
奥さんは或る作家の一人娘で理知的な美人だった。彼からは是非私に披露宴の司会をして欲しいと懇願され、お目出度い話でもあるし断るのも失礼かと引き受けることにした。
結婚式の司会を一度でも頼まれたことがある人ならお分かりだろうが、あれは前準備が相当大変なのである。
私も当時はまだ30代。国や地方自治体へ提出する報告書の作成などで、毎日深夜まで仕事をしていたが、そのような状況下で司会の進行表を作成したり、新郎新婦のエピソードや友人知人らへの取材など、自分の休みを削って準備を進めたのだった。
披露宴が始まると、これもまた忙しい。飲み食いしている暇などまったくない。一緒に参列した上司や同僚らからは「お疲れさん」「大変だね」と労いの言葉を掛けられるが、引き受けた以上は粗相のないよう責任を持って努めなければならたい。
2時間の披露宴が終了したあとは慣れないことをしたせいもあり、ぐったりと疲れ切ってしまった。ロビーのソファで倒れ込むように座っていると、彼と新婦は着替えも終わり2次会会場へ向かって行った。私が座っているのを見つけると、軽く手を上げただけで...

この時、私は勿論ご祝儀を包んで行った。だが、司会に対する謝礼は一切なし。おまけに御礼の言葉のひとつも無かった。
最初は御礼の言葉も無いことに、何か私が司会でヘマをやってしまい、それを怒っているのかなと心配になったが、あとからこんな話が私の耳に届いた。
(プロに頼むと司会の謝礼が高いから、職場の人間に頼むと安くつくのだ)と。
私はその話を聞いて驚いた。安いどころか一銭も貰ってなどいない。たまたまその話を傍で聞いていた、やはり披露宴に出席した某部長が私以上に憤慨していた。

その後、彼はヘッドハンティングされて大手企業に再就職して行ったが、その時も挨拶ひとつなし。
だが、ほどなくして私に連絡してくるようになったが、いずれも頼み事ばかり。
私も頼まれるとなかなか断れない性質なので、簡単なものなら手助けしてやったが、相変らず感謝の言葉も謝礼も無かった。
やがて私は東京から仙台へ転勤。これでヤツとも切れる。そう思ったのは早計だった。
頻度は少なくなったが、ほぼ1年に一度は『頼み事』をして来る。だが、私も馬鹿ではない。色々な理由をつけて断るようにした。何度もそのようなことが続けばそれが拒絶であることを察して、もう電話など掛けてこないものだが、どうやらヤツは強心臓の持ち主らしい。
或る時、また電話が掛かって来た。いつもの猫なで声だ。人に物を頼む時はこの声になる。
その電話の内容は仙台でホテルを一部屋確保して欲しいというものだった。そんなのは自分で出来るだろうと言ったら、その日、仙台でJ事務所の人気グループのライブコンサートが行われるとのこと。自分の顧客の娘がそのグループの大ファンでコンサートに出かけるのだが、ホテルがどこも一杯で取れないという。そこで何とか部屋を確保して貰えないかという懇願だった。
私もその人気グループのコンサートがあることは知っていた。全国からファンが大挙して仙台へやって来るため、会場までの交通機関に混乱が生じるであろうことも情報番組で放送されていた。夜間のコンサートのため、市内の宿泊施設は早くから予約で埋まっていることも。だから私もさすがに今回ばかりは願いは叶えられないぞと答えた。
だが、ヤツは引き下がらない。引き下がらないどころか、私が仙台市内のシティホテルの支配人を知っていることを聞きつけて、こうして電話を寄越したのだ。
それでも私は無理だと言ったら、今度は泣き落としにかかって来た。
この客を手放してしまうと、自分は会社を辞めなければならないといったような、私には関係の無い身勝手なことを捲し立てた。
私はそれを聞き流しながら、今までのツケが回ってきたのだよと言ってやりたかった。

(どうぞ空いていませんように)そう願いながら、Mホテルの支配人に一応電話をかけた。するとスイートルームなら1部屋だけ空いているという予想外の返事に当惑してしまった。私が電話をする直前にキャンセルが出たのだという。
結局これでまた、私に頼めば何とかなるという誤った認識を彼に植えつけてしまうことになった。
そして、この時もまた御礼も謝礼も一切無し。

その時、私はこの人間とは今後一切関わりを持たないようにしようと心に決めた。
そして今週また掛かって来た今回の電話。顧客から預かった写真データ(RAWデータ)が開かないという内容だった。それも1枚2枚ではない。数百枚という大量データだ。写真屋に持っていくと無理だと言われたそうな。
写真を趣味にしている私なら、またしても何とかしてくれるだろう。そういう魂胆のようだ。
しかも私が引き受けるとも何とも言わないうちに、勝手にデータが送りつけられて来た。
怒りを通り越し、呆れたというしかない。
(〇〇は死ななきゃ治らない)
私の写真編集に使用しているPCで試しに開いてみる。すると、いとも簡単に開くことが出来た。
(開けるじゃないか)
時間はかかるがjpegに変換することは可能だ。でもここでこれをやってしまうと、今度は私の方が(〇〇は死ななきゃ治らない)になってしまう。
あやつのしたり顔が見えたような気がした。


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