祈る女
祈る女
妻の親友の病気平癒を祈念するために、一緒に鹽竈(しおがま)神社に詣でた。
久しぶりに訪れた鹽竈神社だったが、境内に一歩足を踏み入れると身も心も浄化される思いがする。
神社という場所が俗世との結界であると言われているが頷ける話だ。

鹽竈神社の創建年代は定かではないとされているが、その起源は奈良時代以前にあるとされている。
私ごとではあるが、息子たちも孫たちも、お宮参りは鹽竈神社であった。その理由はと問われるとはっきりした答えが出せない。みんなの総意というか、自然の流れというか、気がつけばこの「鹽竈さま」へ詣でることになってしまった。こういうのを「ご縁」があるというのだろう。

さて、残念なことにコロナ禍の影響で、手水舎は柄杓が使えず直接流水で手を清めたり、また鈴の緒を掴むことも叶わないため、柏手を打つだけになってしまった。
妻と二人で友人の病気平癒を祈り、併せて孫たちの健やかな成長も祈念した。
ところでずっと気になっていたのだが、我々が本殿に着いた時から、一心に祈りを捧げている若い女性がいた。
その脇でこちらもお参りしたのであるが、我々が終えても一向に祈りを止める気配がない。
必死に何かを祈っているその姿には、鬼気迫るものを感じてしまった。
妻も同様だったらしく、
「何か余程のことがあったんだろうね」とその場を離れてから話しかけてきた。

本殿に向かって右手には別宮があり、願い事はここで行うことになっている。だから、今回のような病気平癒のお願いも、正式にはこちらで行うようなのだが、我々もその仕来りに則り、再度お願いをする。
一通り祈りを終えて最初に顔を上げた妻が、「ひっ」と小さな声を上げた。
その声に私も顔を上げると、一体いつ来たのだろうか。我々のすぐ隣で先ほどの女性が顔の真正面で手を合わせ、祈りを捧げているではないか。
微動だにせず、瞑目しながら何かを祈り続けている。
本殿ではよく分からなかったが、改めてその女性を見ると、二十代後半から三十代前半で主婦のようにもOLのようにも見える。
妻は何かを感じたのだろうか。逃げるようにその場を離れてしまった。

別宮の南側に御札やお守りの授与所があり、妻はそこで友人のためにお守りを受けていたが、その側で私が別宮を振り向くと、やはりあの女性が先ほどと同じ姿勢のまま祈り続けていた。

こうなってくると、私の悪い癖で妄想が止まらなくなる。
せっかく清められたはずの心の中に、様々な良からぬシチュエーションが出現し、そして消えていく。そんな私の様子に気づいたのか、妻が腕を引っ張った。

鹽竈神社の社殿から東側へ暫く離れた場所に志波彦神社がある。なぜか鹽竈神社の境内にあるという神社だが、我々がその神社の前に差し掛かった時、参道の奥、御本殿の前で祈る一人の女性の姿を見つけた。

一体いつの間に。
私と妻は無言でその場を離れた。
梅干し
去年もそうだったが、やたらに親戚や知人から梅を貰う機会が多くなり、我が妹が梅干し作りに精を出すようになった。
もちろん梅干し作りなど今まで一度もやったことはない。頼りは親父の記憶だけである。
妹は親父の怪しげな指導のもとに、空模様を見ながら毎日せっせと梅の実を干している。
それにしても写真のような大きな笊を四つも五つも縁側に広げ、商売でも始めるのではないかという勢いだ。

さて、こうして梅干し作りをしているとそのお味が気になってしまう。親父の味覚は完全に狂いまくっているので、味見は妹か私がたまに行うのだが、お味はというと紀州の南高梅のような高級なものではなく、いわゆる酸っぱ〜い昔ながらの梅干しだ。
これ一個あると、この猛暑を乗り切れそうな塩っぱさである。
ただ、笊ごとに微妙に味わいが異なり、比較的マイルドなものもある。同じように作っているのに、この微妙な差はどこから生まれるのだろうか。梅干し作りもなかなか奥が深いようだ。
全国ニュースにもなったようだが、昨日6日に白石川で女子中学生二人が流されて行方不明となり、今日の午後に流されたという場所の近くの川底で二人の遺体が発見された。
何とも痛ましい話である。
実はこの事故があったすぐ近くに私の親類が住んでおり、昨日の早い段階から事故があったことを知らせてくれていた。
中学校が臨時休校だったところへ昨日の猛暑である。友人五人で水遊びに出かけたのであろう。そのうちの二人が水に流されて帰らぬ人となってしまった。
亡くなった二人のご家族の心中は察するに余りある。心からお悔やみ申し上げたい。

この事故があった現場付近では、つい先頃も釣りに来ていた大学生が水死しているという危険箇所である。
親類から聞いた話だが、このあたりは昔から危ない場所として知られていたらしい。そうであれば、安全対策をもっと施せなかったものか。
地元の風習でこのような事故があった日は、外出を控え、家の中に籠るのだという。
親類の家族も夜は花火を計画していたらしいが、それを取りやめておとなしくしていたそうだ。

さて、来週からお盆休みを取って海や川へ行かれる方も多いことだろう。新型コロナウィルスの影響で、人出は例年ほど多くはないと思うが、そのような事とは関係なく水の事故は必ず起こる。
その悲劇の当事者とならないよう、くれぐれもご注意を。
DNを再開したのは良いけれど、我が親父の介護で手一杯。
なかなか日記を綴ることが出来ないでいた。
そんな親父を今日も昨日も一昨日も、毎日朝から病院へ連れて行く。

通っている病院やクリニックは全部で六つ。その時の症状によって消化器科だったり外科だったり、あるいはペインクリニックや皮膚科、整形外科等々なかなか大変である。
幸か不幸か無職になった私が、親父に付き合う時間がふんだんにあるものと家族たちから大いなる誤解を受け、結果として面倒をみることになってしまった。

それにしても病院の待ち時間の、なんと長いことか。
以前よりはだいぶ短くなったと言われるが、それにしても長い。
親父も待合室のベンチに腰を掛けて、辛そうにしている。
そんな親父から「水を買って来てくれ」とか「OS-1を買って来てくれ」と頼まれる。
そこでついでに自分の分もと、サントリーのDAKARAを買って戻ると
「それはなんだ」と尋ねてくるので「DAKARAというのだ」と答えると
「だがらなんだど聞いているんだ」と噛み付いてくる。
「だから、DAKARAという飲み物なんダカラ」と答えると
「めんどくせえもの好きなんだな」と私のDAKARAに手を伸ばす。
「いやいや、親父のはこれじゃないから。天然水の方」
そう言って南アルプスの天然水を差し出すと
「天然ボケのほうだって?」
そう言いながらペットボトルのラベルを目を細めながら睨んでいた。

ああ、面倒くせぇなあ!!

気がつけば長のお休みになってしまいました。
リンクして頂いている皆様には心よりお詫び申し上げます。

昨年の10月からですから、ほぼ1年ちかいお休みを取らせて頂いたことになります。
休ませて頂いた理由はいくつかありますが、主に身内の病気や介護、そして私自身の身の処し方等々いろいろありますが、お陰様でそれらを全て乗り越えてどうにか今日にいたることが出来ました。

前回書いた、自分は運が良い方という言葉。やはり当たっていたようです。
身内二人がほぼ間違いなく「癌」と言われたものの、結果的には良性でした。また我が親父は入退院を繰り返しておりましたが、今は自宅で穏やかに過ごしています。
私自身は息子に仕事を譲り、今は完全に無職状態となりました。仕事から離れれば、少しは楽になるのかなと思ったのですが、これが大間違い。
毎日雑用に追われて、職場で居眠りをしていた頃が懐かしく思い出されます。

新型コロナウィルスの影響で、旅行などの遠出は出来ませんが、その分読書量は以前よりも増えたようです。
これも歳のせいなのか、以前はあまり読まなかった時代小説に嵌り、特に佐伯泰英の「居眠り磐音」や「酔いどれ小籐次」の各シリーズはほぼ全巻読み尽くし、現在は藤沢周平を再読しています。
何より時代小説には人の「情」が描かれているところがいい。また、現代に通じる部分も多く喜怒哀楽もはっきりしている。

とは言え、小説ばかりを読んでのんびりとはしていられない状況です。
職を辞め収入が途絶えてしまった訳ですから、糊口を凌ぐ算段をしなければいけない訳でして。

とにかくこのブログ、一応再開させて頂きます。
私の周囲の状況が以前とは大きく変わってしまったので、この日記の更新が頻繁に行えるかどうか自信がありませんが、どうぞよろしくお願い致します。

お詫び

2019年10月17日 日常 コメント (8)
親父が退院して安堵したのも束の間。今度は私の家族と、そして極めて親しい親族の二人が、或る病気の疑いで相次いで入院した。
どちらも決して楽観は出来ない、深刻な病に侵された可能性がある。特に親族の方は症状が重篤だ。おそらくステージⅣの診断が下されるだろう。それは医師の話を聞いているだけで理解出来る。
毎年検診は受けていたのに、一年前はまったく問題がなかったのに、わずかの間でこんなに酷いことになるものなのか。
今は極力冷静を保っているが、この気持ちがいつ崩壊するかは分からない。
今日は私の家族の手術日だ。
悪性か良性か、それは半々の可能性とのことだった。
人生、それなりに長く生きていると、様々な辛いことに出くわすが、それを受け入れながらも抗っていくしかない。「生きる」ということはそういうことなのかなと思う。

そのような訳で、この日記を暫くの間お休みさせて頂きます。
せっかく訪ねて来て頂いている皆様には心よりお詫び申し上げます。
私は運が良い方なので、きっと事態は好転すると信じています。
それから皆様には健康診断は欠かすことなく是非行って頂きたいものです。
それはあなたのためにも、そしてなによりご家族や愛する方々のために。
妹から所用で不在にするので、夜、親父の様子を見て欲しいと頼まれた。頼まれなくても様子を見に行くつもりであったが、現在親父は自宅療養中である。
会社帰りに親父の家へ立ち寄ると、なにやら家の中が賑やかな様子。これはもしやとリビングを覗くと、親父と息子たち(孫たち)が酒盛りをしている最中だった。
「おう、来たか!」
ふらりと食卓に姿を現した私を見て、親父は一層機嫌が良くなった。
テーブルの上には空になったビールの缶が転がっている。スーパーで買ってきた惣菜が並んでいたが、息子たちとほぼ食べ尽くしたあとだった。
親父から缶ビールを手渡された私は、遅ればせながら宴の輪に加わった。
それにしても、今にも死にそうな様子だった親父が、息子たちと馬鹿話で盛り上がっている。あの入院騒動はいったい何だったのか。
ひと回りも二回りも痩せこけて、もう駄目だあとよろよろ蒲団の上に起き上がり、私を慌てさせたあの時から、まだそんなに日が経っているわけではない。それがまるで別人のように、いや、本来の親父そのものに戻ってしまっている。
以前から感じてはいたが、なんという回復力。いや、生命力か。
曾孫も生まれて「あと10年は生きる」宣言を行った。となると100歳まで生きるということか。
こちらのほうがその前にダウンしないよう気をつけなければいけない。
親父と息子たちの笑い声の中で、私は温い缶ビールを飲みながら、そんなことを考えていた。

その日の朝、出勤途上で立ち寄ったコンビニで、迷った揚句に買ったのはカレーパン。併せて牛乳とコーヒーも購入し会社で食べる。食べながら(最近のカレーパンは美味しくなったなあ)としみじみ思った。
インド人に数学力が高い人が多いのは、カレーを食べるからだと誰かが言っていたが、私が数字に弱いのは、子供の頃あまりカレーを食べなかったせいなのかもしれない。
さて、午前中の仕事も順調にこなし、時計を見れば12時半を回っていた。これはいけないと慌てて近所の蕎麦屋へ急ぐ。
昼時なので狭い店内はサラリーマンで混み合っていたが、朝のカレーパンのことをすっかり忘れて「カレー南蛮そば」を頼んでしまう。頼んでから、しまったと思ったがもう遅い。
(早い、安い、まずい)が信条のこの蕎麦屋。気がついた時には目の前にカレー南蛮そばが供されていた。
(相変らずここのカレーは不味いな)
ひと口啜って溜息をつく。飛び跳ねたカレーの汁がメガネについた。

夕方、仕事をお願いしているKさんが会社へやって来た。その手には見覚えのある紙袋が。
「そこの鯛焼き屋で買ってきたんだけど食べない?」
Kさんはそう言って紙袋を差し出した。
私もその鯛焼き屋で何度か買ったことがあるが、甘さ控えめの餡がとても美味しい。思わぬ差し入れに自然と顔が綻んでしまう。
それでは早速と紙袋の中に手を差し入れると、何匹か鯛焼きが入っている。そのひとつを取り上げて齧りつく。そして
「うん?!」と私。
「うん」と頷くKさん。
どうして餡子がカレー味なのだろう。朝と昼にカレーを食べたせいだろうか。
でも、これはどうしたってカレーではないか。いや、カレーそのものだ。
「新製品のカレー鯛焼きだって。試しに買ってみたけどお味はどう?」
Kさんはそう言って私の顔色を窺った。

二度あることは三度あるとはよく言ったものだ。
その日は加齢臭ならぬカレー臭を全身から漂わせながら、いつもの本屋にも立ち寄らず、まっすぐ家路についた。
9月に入り、すっかり日が落ちるのが早くなった。我が家に明かりが灯っていたので、妻は親父の入院している病院から帰って来たようだ。
少し寒気がするので今夜は鍋物だと嬉しいなあと思いながら、私はカレーの香りが漂ってくる玄関のドアを開けた。
やれ親父の相手をしたり、孫の面倒をみたり、家のこと、仕事のことと多忙な毎日を送っているが、休日になると三歳になる孫からご指名がかかる。
「じいじと公園に行きたい」
「じいじとお風呂に入る」
「じいじとカメラとる」
そして「じいじと電車乗る」

この電車に乗るという要求が、正直言ってなかなか大変なのである。
他の家族が同行しては一切ダメ。一緒に電車に乗って良いのは、じいじことこの私ひとりだけだ。しかも、電車に乗っている間は抱っこして立っていろというのだから、なかなかハードなミッションなのだ。
片手で吊革を掴み、片手で孫を抱き、満員電車の揺れと混雑に耐えながら、ニコニコと喜ぶ孫の顔に(このサディスティックな性格は一体誰に似たのだろう)と考えてみるのだが、思い当たる人間が多過ぎて逆に分からない。というか、そういうことかと納得する。

流れゆく車窓にパトカーが見えると
「テペカー」と叫び、ゴミ収集車が通り過ぎると「シーシーしゃ」と大きな声をあげる。そのたびに周囲のお客さんたちの笑顔を誘う。
十数キロという体重を片腕で支え続けて、そろそろ限界というところで電車を降りる。
実は孫の父親である息子が、私たちの乗った電車をクルマで追いかけていて、降りた駅で拾い上げるということになっている。
ぐったりと疲れた私と、電車に乗れて上機嫌の孫が駅から出て来ると、暫くしてから息子のクルマがやって来る。
クルマには妻も乗っていて、疲労困憊といった風の私を「お疲れ様」と迎え入れてくれるのだが、孫がその妻に向かって
「じいじが電車乗りたいって」と言ったものだから、皆が大爆笑。
まるでじいじに付き合ってやったみたいな物言いだ。

「そうだなぁ、じいじに付き合ってくれたんだよなぁ。お利口さんだね」
私がそう言って頭を撫でると、またまた嬉しそうな顔。その顔にはとても勝てそうにない。

その晩、親父を見舞いに病院へ行くと、付き添っていた妹が
「ヒコヒコが早く一緒にビールを飲みに行きたいと言うから、来週にも退院しなければならないと言っている」と言われた。
もちろんそんなことは一言も話してはいない。
孫も孫なら、親父も親父である。これも血筋というものか。
ベッドの上で二個目のヨーグルトを食べている親父の頭を、思わず撫でてやろうかと思った。

8月の中旬までは親父と飲み歩いていたが、下旬に入ってから体調が悪くなり、家を出ることがほとんど無くなった。
妹からは食べ物を一切受け付けなくなったと聞かされて、さすがに心配になった私は会社帰りに親父の家へ立ち寄った。
部屋の真ん中に蒲団を敷き、横になっていた親父。
部屋へ入って行くと、ゆっくり私の方へ顔を向けて開口一番
「おら、もうだめだぁ~」と蚊の鳴くような声をあげた。
あの親父が、この間までビールを一緒に飲み歩いていた親父が、一回りも二回りも小さくなってしまった。
それでもヨロヨロと蒲団の上に起き上がり、がっくりと項垂れる。
あまりにも衰弱の度合いが激しかったので、これはまずいなと思った私は
「救急車を呼ぼうか」と尋ねたが、明日病院へ行くから呼ぶなという。
(明日までもつかな)などと不安が頭を過ったが、一度そう決めると首を縦に振らない親父である。
妹とも相談して、明日の朝、私が病院へ連れて行くことになった。

翌日、急きょ会社を休んだ私は、用事があってどうしても一緒に行けない妹の代わりに妻を伴い、最近移転が終ったばかりの大きな救急病院へと親父を連れて行った。
本来なら地元の開業医へ連れて行くのが手順だが、そこへ今まで通っていたにも関わらずこの有様なので、親父はすっかり不信感を持ってしまい、行きたくないという。そのような理由で、止む無く紹介状なしでこの大病院を訪問したのであった。

受付終了から待つこと4時間ほど。どうにか診察の番が回って来た。
車椅子に親父を乗せて診察室へと入る。
先生は40代くらいの女医だが、とても親身になって受け答えをしてくれる。
親父も親父で、先生が女性だと分かったら、急に背筋が伸びてはっきりと受け答えをし始めた。
(嘘だろ~)
今までの、いつ死んでも良さそうなあの状態はなんだったのか。
私が親父に代わってこれまでの経緯を話さなければならないと思い、何度も頭の中で言葉を組み立てていたのに、親父がひとりで説明してしまったのだった。
これには私も口をあんぐりと開けるしかなかった。

採血やレントゲン、CT撮影などを行って、最終的に高度な脱水症状と腎機能の異常という診断が出され、即日入院と決まった。それが決まると不思議なことに親父は一層元気になってきたようで、気がつけばあれほど悪かった顔色が、赤みさえ差しているではないか。

その後、入院手続きやら必要な物を購入したりとか、すべてが終了した時には外はすっかり日が暮れていた。
妻と暗くなった病院の外へ出て
「何か食べて帰ろうか」とひとこと。
孫が生まれたことと親父の入院が頭の中で絡み合い、これから暫くは忙しくなることをお互いに感じながら、さて、自分のクルマを何処に留めたっけと広い駐車場をウロウロ探し回ったのだった。
土曜日の午後、テレビを観ているうちに眠気が襲って来て、うつらうつらと舟を漕ぎ始めた。
前の晩から二時間半しか眠っていなかったことも、眠気に拍車をかけたようだ。

トントン

ふいに私の背中を誰かが叩いた。
はっとして目が覚めた。背中を叩かれた感触がまだはっきりと残っている。
思わず後ろを振り向いたが誰もいない。飾り棚の写真立てでおふくろが微笑んでいるだけだ。
(おふくろに起こされたか。では、出かけろということだな)
私はそう思うと、洗面所で身支度をしていた妻に声をかけ、ひとり遊びをしていた孫の着替えを始めた。

近くのインターチェンジから高速道路に入り15分ほど走る。
クルマの中で孫の相手をしている妻から「先方のご両親はもう病院に着いているみたい」と報告を受ける。
その報告を受けながらインターチェンジを降りるとすぐにS病院だ。ここはS教授の功績を称えて設立された、全国的にも有名な産婦人科専門病院である。
私たちは土曜日の午後の誰もいない待合室を通り抜け、まっすぐに分娩室へと向かった。するとそこには息子の嫁の両親が既に待機しており、我々の姿を見つけるとにこやかに駆け寄ってきた。
息子は嫁に付き添って既に分娩室の中に入っているという。
「陣痛は40秒に1回の間隔になったようですよ」と嫁の母親から教えられた。
「いよいよですね」と妻が応える。

実はこの日の未明に生まれそうだという連絡を受けて、息子と二人でこの病院を一度訪れていたのである。しかし、駆けつけてみると痛みは治まってしまい、助産師さんから時間がかかりそうだと教えられたのだった。
但し、いつ生まれるか分からないということで、結局息子を残して私は家に戻ることにした。

今回私たちが心配していたのは、予定日よりも数週早いということだった。
前回教えられた時には2700グラムほどだったので、せめて3000グラムを少しでも超えていてくれたらと願っていた。
分娩室前に置かれたベンチシートに四人並んで腰をかけ、その前を嬉しそうに走り回る孫の姿に目を細めながらも、落ち着かない時間を過ごしていた。
と、その時、ドアの内側から慌ただしく動き回る人の気配と、幾人かの入り混じった声が聞こえてきた。
思わず四人で顔を見合わせる。そして耳を澄ませると
(オメデトウゴザイマス)
そんな声が聞こえてきた。
それから少し間をおいて、赤ん坊の泣き声が。

喜びというよりも安堵と言った方が良いだろう。
四人のじいじとばあばは「良かった良かった」と互いに手を取り合い、力が抜けたようにその場へ座り込んだ。
早産ではあったが、体重は3300グラムを超えていた。もし月が満ちてからの出産だったら、相当大きな赤ん坊だったかもしれないねと笑い合った。

早産ということで、孫は念のため保育器に入れられた。そのためすぐに対面することは出来なかったが、分娩室から出て来た息子がスマホで写真を撮って来たので、皆でその小さな画面を覗き込んだ。
そこには私たちの元へやって来た小さな命が、懸命に手足を動かしている姿が映し込まれていた。妻などはその姿を見て、既に涙ぐんでいる。
(こうやって次へと命を繋いでいくんだなあ)
私はそんなことをぼんやりと思った。

自宅に戻った私は、おふくろの遺影に向かって曾孫の誕生を報告。
(今日生まれることを教えてくれたんだよな)
その問いかけに、写真の中のおふくろは静かに微笑むだけだった。

生き物の死にざま
今年も気がつけば9月になってしまった。しかし、気持ちがそれに追いつけない。
自分の感覚的には猛暑の夏から未だ抜け出せないでいる。それを順応性の低下と言われてしまえば、返す言葉が見つからない。
さて、今年は平成が終って、令和という新しい時代を迎えた記念すべき年だが、私の中で変わったことと言えば読書量の低下くらいだろうか。
もう十数年に亘り、購入した本や読んだ本をデータベース化しているのだが、改めて見直してみたら2008年がピークで、この年は460冊を読んでいた。その後、徐々に減り始めて、今年はこの8月末で140冊余であった。
ちなみに2008年は8月末までに212冊を読んでいるから、その時に比べると3割強もダウンしたことになる。
まあ個人的なことなので、皆様にはそれがどうしたと言われそうだが、自分の中で薄々ながら気が付いている集中力と気力、体力の低下が数字に現れたとものと、気落ちしている次第である。
それでも本の渉猟が止められないのは、読書欲よりも惰性が身体に沁みついてしまったからだろう。
さて、そんな私が最近或る一冊の本に出会った。そして久しぶりに心を揺さぶられる経験をした。その本のタイトルは「生き物の死にざま」という。
この本で紹介している生き物とは、虫や魚や小動物に鳥など様々だ。それらの生き物の最期の姿が記されているのが本書だ。
例えば石の下などによくいる「ハサミムシ」。
石を取り除くとハサミで威嚇してくるものの、逃げようとはしない。
その傍らには産みつけられた卵がある。彼女はその大切な卵を守るために、逃げることなくハサミを振り上げるのである。
親が子を守るということであれば、珍しい話ではないが、昆虫が子育てをすることは極めて珍しいのだそうだ。この時、父親のハサミムシは既に行方が分からないのだが、そのため卵を守るのは母親の仕事になるわけだが、ハサミムシの母親は、卵にカビが生えないようにひとつひとつ順番になめたり、空気に当てるために位置を動かしたりと、丹念に世話をするのだそうだ。
ハサミムシの卵が孵る期間は40日以上、場合によっては80日という観察結果があるというが、その間、片時も離れずに守り続けるという。
さて、私がこのハサミムシに心を打たれたのはここからである。
ようやく卵から孵った子供たちは、当然ながら餌を獲ることが出来ない。
空腹の子供(幼虫)たちは甘えるように母親にすがりつき、そしてその身体を食べ始めるのである。
だが、母親は逃げる素振りも見せない。むしろ子供たちを慈しむかのように、腹の柔らかい部分を差し出すのである。
この時、石をどけようものなら、母親のハサミムシは自らが食べられながらも、ハサミを振り上げるという。これが母親というものなのか。

こういった生き物たちの最期の姿が、この本には収められている。そのどれもが切なく、そして死が決して終わりではないことを教えてくれる。
もっと紹介したいところだが、あとは是非手に取って読んで頂きたい。
私はこの本に書かれたそれぞれの生きざまに、読んでいて涙を禁じ得なかった。生き物たちはみな、次に命を引き継ぐために、命をかけて生きているのである。
情緒的な文章がそれら生き物たちの「生きざま」を美しく浮き彫りにする。
この秋、お勧めの一冊である。

「生き物の死にざま」 稲垣栄洋:著 草思社
最近のニュースはどれも暗い話が多い。その中でも一番辛いニュースは幼児虐待だ。
年端もいかぬ子供がどうしてこんな酷い目に遭わなければならないのかと思うと、居たたまれなくなる。
おそらく今こうしている間にも、日本のどこかで幼児に対する虐待が行われているのではないだろうか。
そう考えると、一刻も早く救いの手を差し伸べなければならないと気ばかり焦る。
しかし悲しいかな我々一般人には何の権限もなく、それが出来るのは公的機関や政治なのだが、残念ながらその頼みの綱が機能しているとは言い難い。
私が子供の頃は、近所づきあいというコミュニティが今よりも遥かに濃密であった。
『遠くの親戚よりも近くの他人』という言葉があるように、狭いエリアの中で近隣の住人同士が助け合って暮らすというのが当たり前の時代があった。
プライバシーが何よりも優先される昨今の風潮からすれば、それを100パーセント良しとする訳ではないが、少なくとも大人たちが地域の子供たちを守るという意識は今よりもすっと高かったように思う。
だが、今はお隣りの子供の様子でさえ分からないことが多い。いや、様子どころか名前さえも分からない。それが当たり前になっている。
ところで、虐待する親たちの弁解に「躾け」という言葉がよく出て来る。
躾けのために叩いたり、或いは食事を与えなかったという話だ。
私も子供の頃は、悪さをするたびに母親から叩かれたり、親父からは「メシを食わせないぞ」と怒られたりしたものだ。だが、それらを1とすると、それ以上の9の愛情を注がれたものである。
おそらく虐待を繰り返す親たちには、この割合が逆転しているのだろう。

学校でのイジメの話も後を絶たない。幼児への虐待も学校でのイジメも、要するに弱いものイジメだ。これは一番卑劣な行為である。言葉を変えれば卑怯者なのである。
ちなみに卑怯の語源は非道から来ているという説がある。つまり人としての道を外れている者をさす。
そう、人間ではないのである。そういうモノたちは。

しじみの味噌汁と親孝行と
このところ、連日連夜のように親父と飲みに出かけている。
高齢の親父が「やや鬱」の状態だから、それを救う方法のひとつとして、一緒に飲み歩いているのである。決して自分がただ酒を飲みたいからということではないので、何卒ご理解頂きたいと冒頭に申し述べておく。
これは親父に限った話ではないが、長生きするほど友人やら知人やら、或いは親族が先に逝ってしまう。そして或る日、気がつけば親しかった人は殆どいなくなっていたという驚きと悲しみ。さらには自分の人生の終焉もそう遠い所にある訳ではないことに気がつき、うつ状態に陥って行くのである。
いつも親父の傍にいる妹から
「高齢者の鬱を改善するには、短期の目標を持たせるのが良い」と言われ、その結果として晩酌の相手を務めるのが手っ取り早いということになったわけだ。
もともと大酒飲みの親父。若い頃には毎晩日本酒一升などは平気で飲んでいた。
年末や年始などは仕事の関係先から忘年会や新年会のご招待で、多い時には一晩で4、5件の宴席に顔を出していた。それでも翌日にはケロっとした顔で仕事をしていたものである。
余程の強肝臓の持ち主なのだろう。現に今もこうして毎日晩酌を欠かすことが無い。むしろ私の方が参ってしまいそうな按配である。
しかし、そういえばと私も或ることに気がついた。
親父に比べれば遥かに酒に弱い私だが、連日連夜付き合っているにも関わらず、以前のように酒に酔ったり、二日酔いで具合が悪くなったりすることがないのだ。
いったいこれはどうしたことだろうと首を傾げた。そして、はたと気がついた。
今年の初めに受けた人間ドックで肝機能値が引っ掛かり、要経過観察となったのだが、そこで始めたのが「しじみの味噌汁」を毎日飲むことだった。
しじみに含まれるオルニチンという成分が、肝臓に良いことは広く知られているが、おそらくそれが効果をあげたものと思われる。
兎に角ナントカのひとつ覚えのように、毎日しじみの味噌汁を飲み続けたのである。
朝、会社への通勤途上でも、コンビニへ立ち寄ってしじみの味噌汁を買っていく。
夜は夜で妻に作って貰ったり、居酒屋や食堂のメニューにそれを見つけるとつい頼んでしまう。
そんな生活がもう半年ほど続いているが、その効果が大酒飲みの親父に対抗出来る身体を作り上げたのである(全然良い話ではない。本来の目的から大きく離れている)。

ところで、毎晩のように親父とふたりで飲んでいると、話しのネタも無くなってくる。しかしそこは大丈夫だ。親父が話すことは毎日同じことばかり。
『その話は前に聞いた』
『その話も前に聞いた』
『その話はさっき聞いた』
『その話は今聞いたばかりだ』
心の中でそう呟きながら、楽しそうに話をする親父の相手をしている。
親孝行が出来なかった我がおふくろの分まで。

アメリカ民謡のこの歌。
いま、私の頭の中に繰り返し流れている。

線路はつづくよ どこまでも
野をこえ 山こえ 谷こえて
はるかな町まで ぼくたちの
たのしい旅の夢 つないでる

線路はうたうよ いつまでも
列車のひびきを 追いかけて
リズムにあわせて ぼくたちも
たのしい旅の歌 うたおうよ

ランラ ランラ ランラ
ランラ ランラ ランラ
ランラ ランラ ランラ
ラン ラン ラン

ランラ ランラ ランラ
ランラ ランラ ランラ
ランラ ランラ ランラ
ラン


まもなく3歳になろうとしている孫が大好きなこの歌。
我が家に遊びに来ている間中、エンドレスでビデオやCDラジカセから流れ続けている。
試しに止めようものなら猛然と怒り出す。
孫の父親である息子は、どうしてこんなに好きなんだと私や妻を横目で見ながらブツブツ文句を言う始末。
まるでじいじとばあばのせいだとでも言いたげだ。
確かに鉄道好きは私のDNAのせいかもしれないが、音楽好きは父親の影響の方が大きいだろう。学生時代に音楽三昧の暮らしをしていたのは何処のどいつだと言いたくなる。
まあ、それはさておき、たどたどしい歌声で一所懸命に声を張り上げて歌う孫が何とも愛おしい。
休みの日には、孫とふたりで地下鉄の始発終点を行ったり来たり。その電車の中でも「線路はつづくよどこまでも」をずっと歌っていた。
将来は電車の運転士かななどと、私が叶わなかった夢を、隣りにちょこんと座っている孫に夢想する。

いつかじいじは、この線路から降りる日がやって来る。けれども孫にはその先もずっとずっと線路は続いている。その大きな歌声のように、一生懸命走り続けて欲しいものだと切に願う。

連日の猛暑で少々バテ気味ですが、皆さまは如何お過ごしでしょうか。
私は退職間近ということもあり、有休を消化しつつ毎日ある場所へ避暑に出かけておりました。
そしてそんな私に付き合ってくれていたのが、「毎日が夏休み」の我が親父。
いや、逆だな。
「毎日が夏休み」の親父に付き合っていたのが、この私の方が正しいかも。
そしてその避暑地とは市内各所にあるファミレスです。
昨日はガスト。今日はCOCO’S、そして明日はBig Boyといった具合に、毎日ファミレスを渡り歩いていたのですが、一番の目当てはよく冷えたビールを飲むことです。
我ら、あくまでも名目は暑気払いなのですが、ただの呑兵衛の日常行動に過ぎません。
親父と私の間では、これをADL(Activities of Daily Living・日常生活動作)と呼んでいます。
それをおふくろがお世話になった介護士の方に話したところ、
「まったく間違っています」と怒られました。

さて、店によってはビールが半額になる時間帯があるので、ビール大好き人間の親父にはこれはもうたまらない魅力。
私の分までどんどん頼むので、テーブルの上には空のジョッキが次々に増えていく。
入店して三十分もしないうちに、ふたりでへべれけ状態となる有様です。
親父も親父で、ビールを運んで来てくれる女の子に、いちいち愛想を振りまいている。
『ありがとネ』
『いやあ、美味しいヨ!』
『ここのビールが一番だネ』
『何度もゴメンネ!!』
『この豆腐、やわらかくて助かります』
『もう最高です』
とにかく運んで来てくれる女の子に、その度ごとに声をかける親父。しかも同じフレーズは二度使わないのであります。
しまいには
『○○さん、ありがとうね。ごくろうさんだったね。また来ます』
という具合に、いつの間に覚えたのか、相手の名前をちゃんと付けながら、感謝の意を伝えているのであります。
これが御年九十になろうという我が親父でありますが、かつては大企業のトップ・セールスだった理由も、何となく頷けようというものです。

すっかり出来上がってしまった父子を、我が妹が「回収」にやって来るという、この繰り返しの日々。毎日酔っ払っていたせいでブログも夏休みさせて頂いた次第です。
それにしても、親父の年金で飲むタダビールの味は最高でした。
あの人たちが来るお店
あの人たちが来るお店
お盆休みで行楽地はどこも混み合っている。おまけにこの暑さ。だからどこにも出かけずに、家の中でじっとしていようと思ったが、周りがなかなかそれを許してくれない。
しばらく前から我が家に泊まっている孫が、公園へ遊びに行きたいとせがむので、暑さ覚悟で重い腰をあげた。
市内の主だった公園は歩き尽くしたので、少しでも涼しい所はないものかと思ったら、
「泉区にある紫山公園ならどうだろう」と息子が提案した。
泉区は仙台市の中でも北に位置するエリアだが、紫山はその中でもさらに北側に位置する場所だ。そして高級住宅が立ち並ぶ場所としても知られている。紫山公園はそんな住宅地の中心にあるシンボル的な公園である。

日本の街並みとは思えないような美しい並木道の中を進んで行くと、突き当りに目指す公園があった。
北の方だから市内中心部よりは少しは涼しいだろうと思っていたが、それは大間違いだった。
強い日差しと耳に焼き付くような蝉の鳴き声。それに無風状態と来ている。
これでは熱中症になってしまうと、早々に退散した。
でも、せっかく此処まで来たのだから、何かないだろうかということになり、
「そういえば石亭という美味しいとんかつの店が近くにあるよ」と息子が言い出した。
何でもこの店は、フィギュアスケートの羽生結弦氏がお気に入りのとんかつ屋だそうで、仙台にいる時にはよく訪れるのだとか。そういえば、彼は泉区の出身だったことを思い出す。

我々が着いた時は、まだ夜の部が始まって間もなかったせいもあり、店内には他に客が1組だけだった。
メニューは決して多くはないが、私は芯という一文字に心惹かれて「芯ひれかつ定食」を頼んだ。
待つことしばし、目の前に現れたひれかつは厚みがあり、食べやすいようにさらに半分にカットされている。
とんかつソースをかけて口に思い切り頬張ると、思った以上に柔らかい。ご飯も味噌汁も文句なしに美味しい。
「芯」という一文字が付くのは、この柔らかさのことなのか。
他店でもひれかつをたくさん食べて来たが、これほど柔らかいひれかつは初めてだ。
お店の人に尋ねると、この店は有名人が多数来店しているようで、最近ではサンドイッチマンの伊達さん、富沢さんがTV取材で来店したそうで、近日中に放送される予定らしい。
また、楽天の○○選手もお子さん連れでよく訪れるそうだ。
現在、一日一食を実行中の私ではあるが、このとんかつなら一日に三度食べても良いと思うほど美味であった。
それにしても、身近な場所にこのような店があればどれほど良いだろうか。
この時ばかりは泉区の住民が羨ましく思えたことはなかった。

駅弁の都、仙台
駅弁の都、仙台
明日10日土曜日から最大で9連休という方もいるだろう。私は仕事の関係で9連休は無理だったが、それでも久しぶりに長めの休みが取れそうだ。
東京に住んでいた頃は私も帰省組のひとりだったが、妻や子供を3人引き連れての里帰りはなかなか大変なイベントだった。
まだ幼かった息子たちをおとなしくさせるために、帰省の度に好きな駅弁を買い与えたものだ。
新幹線の車中、腕白坊主たちがじっと2時間黙って席に座っている訳がない。とりあえず食べている間だけはおとなしくしているので、つい買い与えてしまったのだ。
その結果、東京へ戻る時も当然駅弁を欲しがるようになってしまったから、出費も嵩むことになる。悪い習慣を作ってしまったと今更ながらに反省している。
とはいえ、駅弁それ自体は見ても食べても心を楽しませてくれるものだ。
一説によると、日本で一番駅弁の種類が多いのは仙台駅なのだとか。
いや、それを言うなら東京駅だろうと反論されそうだが、東京駅には東京以外の駅弁も多そうだから、とりあえずここでは地方においてという条件を付けておこう。

先日行われた町内会の夏祭りで、思いがけず高級駅弁にありつくことが出来た。
というのも、私の妹が主宰するダンスチームは、毎年夏祭りのイベントとしてダンスを披露しているのだが、出演者の昼食用に毎回駅弁を発注しているのだ。
今回私も撮影班のひとりとして、そのお零れを頂戴することが出来たという訳である。
駅弁ファンの方ならご存知だと思うが、仙台駅における駅弁販売は、「こばやし」と「伯養軒」、そして「日本食堂」の三大老舗で覇を競っている。
どの会社の駅弁もとても美味しいし、新しい商品も次々に出て来るので、出張に出かける時には店頭に並んだ駅弁を必ず眺めていく。
以前は「牛タン弁当」などの肉系が多かったが、最近では「えんがわ寿司」などの魚系が多くなった。もちろん年齢のせいである。
駅弁の種類も豊富だが値段も高価なものから安価なものまで様々だ。中には小さな折詰ひとつでびっくりするような高額の駅弁もある。
私がお零れに与った駅弁の「仙台牛A5ランク Wステーキ弁当」もそのひとつ。絶対自分なら買わないだろう商品だ。
今回はタダ弁のせいか、さらに美味しく感じられた。スポンサーで小金持ちの妹に感謝の言葉を述べたが、来年はランクを落とすと言われた。
そのような訳で、もしお盆休み中に仙台へご旅行の予定がおありならば、是非仙台駅の駅弁コーナーへ立ち寄って頂きたいと思う。牛タンやずんだ餅ばかりが仙台の味ではないことがお分かり頂けることだろう。
それでは良いお盆休みをお過ごしあれ。

山下達郎コンサート・ツアー「PERFOMANCE 2019」
もし日本の天才ミュージシャンをひとり挙げろと言われたら、迷わずにこう答えるだろう。
それは「山下達郎」と。
その山下達郎のコンサート・ツアー「PERFOMANCE 2019」が去る7月30日と31日の2日間、東京エレクトロンホール宮城で開催された。
私もそのコンサートで彼の歌声を堪能してきたと書きたいところだが、残念ながらチケットの入手はならなかった。しかし、私の影響で山下達郎のファンになった息子が、チケットを手に入れてコンサートに出かけて行った。
思えば大学生の頃に「RIDE ON TIME」を聴き、日本にもこんなミュージシャンがいるのだと衝撃を受け、改めてソロ・デビュー・アルバムの「CIRCUS TOWN」から聞き直し始めた。そして1982年に発表された「FOR YOU」で完全に魅了されてしまった私は、会う友人ごとに山下達郎の素晴らしさを説いて聞かせたものだった。
翌年、1983年に発表された「MELODIES」からは、彼の名前を知らなくても、誰もが一度は耳にしたことがあるという名曲「クリスマス・イブ」が大ヒットした。
この曲は今でも12月になると街中に流れ出す。
私などは「クリスマス・イブ」を耳にすると、ああ、今年も1年が終わるのかと感慨に耽るのである。
さて、コンサートを聴いてきた息子にどうだったと尋ねたところ、
「最高」とひと言。
なんでも4時間という長丁場のコンサートは、ほぼ半分が達郎のしゃべりだったというからびっくり。
それでも曲になるとサウンドも素晴らしかったし、なにより歌の巧さが改めてよく分かったとのこと。達郎本人も自分の人生の中で、今が一番声が出ていると語ったとか。
会場となった東京エレクトロンホール宮城は、かつて宮城県民会館と呼ばれたホールで、収容能力も1600名ほどだから、決して大きな会場とは言えない。しかし彼はあえてこの会場を選んだのだという。
それはデビュー間もない頃にこのホールでコンサートを開いた時、観客がとても暖かく彼を迎え入れてくれたことや、とてもノリが良かったことなどを理由に挙げていたそうだ。また、1600名ほどの広さが、どの場所でも音が届きやすいからと、彼なりの拘りを語ったそうだ。
オープニングの「SPARKLE」からエンディングの「YOUR EYES」まで、山下達郎ワールドを存分に堪能出来た息子は満足げな顔だった。

チケットの抽選に漏れた私には、名入りグラスのお土産がひとつ。
これでウィスキーでもちびちびやりながら、達郎サウンドを聴きなさいということらしい。
この次こそは絶対にチケットを手に入れてやるぞと、固く心に誓った「さよなら夏の日」だった。

仙台七夕祭りが始まった
仙台七夕祭りが始まった
仙台七夕祭りが始まった
東北の夏祭りもいよいよ終盤を迎えた。
今日から8日まで、仙台七夕まつりが開催される。
昨夜は前夜祭ということで、毎年恒例の仙台七夕花火祭が盛大に行われた。息子たちは観に行ったようだが、私は十年以上も前に一度だけ行ったきりで、それ以来出かけていない。あまりの人の多さに具合が悪くなってしまったからだ。
昨年は50万人の人出があったというが、昨夜はどのくらいあったのだろうか。
絶好の花火日和だったので、去年を下回ることはなかっただろう。

七夕の飾りつけは今朝も行われていたが、今は人通りも少ないアーケード通りが、昼頃には人、人、人で埋め尽くされるだろう。
ちなみに昨年は3日間でおよそ202万人だったそうだ。年ごとに外国人の客数も増加しているようだから、今年はそれを上回るようになるかもしれない。

本当なら私も仕事を投げ出して、冷たいずんだシェイクでも啜りながら、吹き流しの下を歩きたいところだが、今年も我慢となりそうだ。

写真は今朝の様子


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