偶然に驚く 東野圭吾「祈りの幕が下りる時」
2018年8月13日 読書 コメント (4)
自分の読書経験の中でも、まったく初めての出来事だった。
その文章を目にした時、こんなことって本当にあるのかと驚いてしまったのが、東野圭吾の小説「祈りの幕が下りる時」だ。
今回は読書案内というよりも、私の極めて私的な話に偏ることを予めお許し頂きたい。
東野圭吾と言えば、今一番脂がのっている推理作家の一人だ。この推理小説は阿部寛主演で映画にもなったので、ご覧になった方も多いだろう。残念ながら私はまだ映画は観ていないのだが、この作品は仙台が重要な舞台になっていると知り、それではひとつ読んでみようかという軽い気持ちで読み始めたのである。
しかしあるくだりから、現実世界の私と、仮想世界の主人公にとって重要な場所が次第に接近し始め、そしてついに重なってしまったのである。
それが冒頭に述べた、自分の読書経験の中でも、まったく初めての出来事だったわけである。
多くの読者にとって、それはただの情景描写に過ぎない文章なのだが、いくつか抜粋してみたい。ちなみに主人公は加賀恭一郎という警視庁日本橋署の刑事だ。
その加賀が幼い頃に自分を残し、家を出て行った母親が住んでいたという仙台のアパートを訪ねて行く場面がある。
来た時と同様、東北福祉大前駅まで歩くことにした。時計を見ると、まだ午後二時にもなっていない。この分なら夕方までには東京に戻れるだろう。
「少し寄り道してもいいかな」歩きながら加賀がいった。
「それはいいけど、どこへ?」
「萩野町というところだ」加賀は答えた。「お袋が住んでいた場所だ」
この萩野町は宮城野区に実在する場所である。その名前が突然現れたことに私は思わず反応した。しかしこの時はまだ、ご当地ものの小説ならばよくあることぐらいの気持ちだった。
最寄り駅は仙石線の宮城野原駅だという。東北福祉大前駅からだと仙台駅で乗り換えて二駅だった。
宮城野原駅に着くと、加賀は少し戸惑った表情を見せた。地図を表示させたスマートフォンをしばらく眺めた後、ようやく歩き始めた。
道路の右側は広々とした公園だった。その先には競技場らしきものがある。そして道路の左側には厳粛な雰囲気を備えた建物が何棟も並んでいた。駐車場も広大だ。国立病院機構仙台医療センターの文字が見えた。
「前に来た時と様子が違っているのか」松宮は訊いた。
「そうだな。病院らしき建物があったのは覚えているが、これほど立派なものじゃなかったような気がする」
しばらく真っ直ぐ歩き続けていると、前方に鉄道が見えた。どうやら貨物鉄道のようだ。道は、その下をくぐるように作られていた。
宮城野原駅から萩野町の入口までの描写である。現実もまったくその通りだ。競技場の場面があるが、ここは宮城野原総合グラウンドであり、さらにその隣には楽天イーグルスのホーム「楽天生命パーク宮城」がある。
加賀と松宮が歩いているこの道は、かつて私自身が中学校や高校へ通った通学路であった。ここまで読んで、初めてもしやという気持ちが生じた。続けよう。
そこから先が萩野町だった。加賀は時折立ち止まっては周囲を見回し、少し迷った様子を窺わせながら歩いている。あまり自信がなさそうだが、松宮としてはついていくしかなかった。
(途中省略)
同じような道を歩き回り、最終的に加賀が足を止めたのは、すぐそばに細い水路がある駐車場の前だった。十台以上は駐められそうだが、今は四台が並んでいるだけだ。地面は土のままで、つい最近雨が降ったらしく、水たまりがいくつかある。
「この場所だ。間違いない」加賀は駐車場を眺め、呟いた。
加賀たちが辿り着いた水路は貨物線のガードをくぐって真っ直ぐ先にある。
そこに二枚橋という橋が架かっているので、水路があると分かるのだが、とても橋とは呼べない小さなものなので、クルマで走っていると気が付かずに通り過ぎてしまうだろう。
そして、加賀がここに間違いないと示した場所。駐車場の場所こそ、ヒコヒコこと私と家族が初めて仙台へ越して来た時に住んだ場所なのである。
小説の中ではアパートは取り壊されたというが、実際にその通りである。今は駐車場になっているのだ。
自分の思い出の場所を、加賀恭一郎という小説中の人物に探り当てられたこの気持ちをご理解頂けるだろうか。
勿論親父や妹にもこのことを教えた。二人とも驚いていた。親父などは
「なんでわがったんだ」とまるで犯人のようなことを言っていた。
そう、私もひとこと言いたい。
「どうしてここが分かったんだ」と。
その文章を目にした時、こんなことって本当にあるのかと驚いてしまったのが、東野圭吾の小説「祈りの幕が下りる時」だ。
今回は読書案内というよりも、私の極めて私的な話に偏ることを予めお許し頂きたい。
東野圭吾と言えば、今一番脂がのっている推理作家の一人だ。この推理小説は阿部寛主演で映画にもなったので、ご覧になった方も多いだろう。残念ながら私はまだ映画は観ていないのだが、この作品は仙台が重要な舞台になっていると知り、それではひとつ読んでみようかという軽い気持ちで読み始めたのである。
しかしあるくだりから、現実世界の私と、仮想世界の主人公にとって重要な場所が次第に接近し始め、そしてついに重なってしまったのである。
それが冒頭に述べた、自分の読書経験の中でも、まったく初めての出来事だったわけである。
多くの読者にとって、それはただの情景描写に過ぎない文章なのだが、いくつか抜粋してみたい。ちなみに主人公は加賀恭一郎という警視庁日本橋署の刑事だ。
その加賀が幼い頃に自分を残し、家を出て行った母親が住んでいたという仙台のアパートを訪ねて行く場面がある。
来た時と同様、東北福祉大前駅まで歩くことにした。時計を見ると、まだ午後二時にもなっていない。この分なら夕方までには東京に戻れるだろう。
「少し寄り道してもいいかな」歩きながら加賀がいった。
「それはいいけど、どこへ?」
「萩野町というところだ」加賀は答えた。「お袋が住んでいた場所だ」
この萩野町は宮城野区に実在する場所である。その名前が突然現れたことに私は思わず反応した。しかしこの時はまだ、ご当地ものの小説ならばよくあることぐらいの気持ちだった。
最寄り駅は仙石線の宮城野原駅だという。東北福祉大前駅からだと仙台駅で乗り換えて二駅だった。
宮城野原駅に着くと、加賀は少し戸惑った表情を見せた。地図を表示させたスマートフォンをしばらく眺めた後、ようやく歩き始めた。
道路の右側は広々とした公園だった。その先には競技場らしきものがある。そして道路の左側には厳粛な雰囲気を備えた建物が何棟も並んでいた。駐車場も広大だ。国立病院機構仙台医療センターの文字が見えた。
「前に来た時と様子が違っているのか」松宮は訊いた。
「そうだな。病院らしき建物があったのは覚えているが、これほど立派なものじゃなかったような気がする」
しばらく真っ直ぐ歩き続けていると、前方に鉄道が見えた。どうやら貨物鉄道のようだ。道は、その下をくぐるように作られていた。
宮城野原駅から萩野町の入口までの描写である。現実もまったくその通りだ。競技場の場面があるが、ここは宮城野原総合グラウンドであり、さらにその隣には楽天イーグルスのホーム「楽天生命パーク宮城」がある。
加賀と松宮が歩いているこの道は、かつて私自身が中学校や高校へ通った通学路であった。ここまで読んで、初めてもしやという気持ちが生じた。続けよう。
そこから先が萩野町だった。加賀は時折立ち止まっては周囲を見回し、少し迷った様子を窺わせながら歩いている。あまり自信がなさそうだが、松宮としてはついていくしかなかった。
(途中省略)
同じような道を歩き回り、最終的に加賀が足を止めたのは、すぐそばに細い水路がある駐車場の前だった。十台以上は駐められそうだが、今は四台が並んでいるだけだ。地面は土のままで、つい最近雨が降ったらしく、水たまりがいくつかある。
「この場所だ。間違いない」加賀は駐車場を眺め、呟いた。
加賀たちが辿り着いた水路は貨物線のガードをくぐって真っ直ぐ先にある。
そこに二枚橋という橋が架かっているので、水路があると分かるのだが、とても橋とは呼べない小さなものなので、クルマで走っていると気が付かずに通り過ぎてしまうだろう。
そして、加賀がここに間違いないと示した場所。駐車場の場所こそ、ヒコヒコこと私と家族が初めて仙台へ越して来た時に住んだ場所なのである。
小説の中ではアパートは取り壊されたというが、実際にその通りである。今は駐車場になっているのだ。
自分の思い出の場所を、加賀恭一郎という小説中の人物に探り当てられたこの気持ちをご理解頂けるだろうか。
勿論親父や妹にもこのことを教えた。二人とも驚いていた。親父などは
「なんでわがったんだ」とまるで犯人のようなことを言っていた。
そう、私もひとこと言いたい。
「どうしてここが分かったんだ」と。
コメント
私なら嬉しい、というより一種の不気味さを感じます。ただ小説の内容によっては親しみも湧くかな。
東野圭吾氏は仙台の方ではないと思いますが、実際に取材に来られたのでしょう。そうでなければ書けない描写です。
その私が住んでいたアパートをモデルとしたならば、作品では加賀恭一郎の母親がそこで病死していたことになります。部屋番号まではさすがにありませんでしたが、ちょっと複雑な思いです。
これからお袋の墓参りに行きますが、この話を墓前に報告してくることにしましょう。うちも有名になったもんだねえと驚くかもしれません。
確かにそうですね。人気作家にまるで自分のことを書いてもらったような気分になります。そういう意味ではこの小説、私にとっての宝物ということになりますね。偶然手にした本ではありましたが、これも出会いのひとつと考えて良いでしょう。ご指摘ありがとうごいます。