二ヶ月ぶりにSクリニックのK先生を訪ねた。
もう長い間、私の主治医をしてくれている先生だ。
先生には前回の受診時にアレルギー検査を頼んでおいたのだが、今回はその結果を聞きに行った。
診察室に入り、私の顔を見るなり
「あれぇ〜、痩せましたね」とK先生は目を丸くした。
フフフッと私は心の中でほくそ笑んだ。
丸椅子に腰を下ろしながら
「先生。去年の11月から12キロ体重を落としましたよ」と言うと、先生はさらに目を丸くしながら「それは凄い」と驚いた。
「先生。16時間断食ですよ」と聞かれもしないのに、その減量の方法を話すと、
「そういう断食法があるようですね。効果があるんだなあ」と感心したような風だったが、その視線は私ではなく、手元の書類に落とされていた。その書類を見ながら
「この間のアレルギー検査の結果が出ているんですけどね。無いですね。アレルギー」
「無い?」
「そう、無いんですよ。まったく、ひとつも」
そう言って先生は、検査結果表を私の前に差し出した。
その検査チャートには39項目のアレルギー物質、例えばスギ、ブタクサ、ヒノキ、ハウスダストなどが記載されているが、そのどの項目もクラス0となっている。
しかも「非特異的Ig-E」の値が、アレルギー体質では無いと言われる人の中でも、更に低い値となっていた。
「いるんですよねぇ、こういう稀な人が」
K先生はアレルギーの専門医だが、その先生がそういうのだから本当に稀な人なのだろう。
確かに私は昔から、アレルギー症状のようなものを呈したことが一度も無かった。
その裏付けが今回の検査で取れた訳である。
アレルギーが無いのはとても喜ばしいことなのだが、その一方で、何かしら引っかかるものが出てくるのではないかと、変な期待をしていたことも事実だ。
「それにしても、なんで39項目なんて中途半端な検査項目なんでしょうねぇ」
「う〜ん、それはですね」そう言って先生は真面目に考え始めた。そこですかさず私が
「40項目はおそらく、妻、なんじゃないでしょうか」と持論を述べると
「はい、確かに」
そう言って、K先生はこの日初めて私と視線を合わせた。
2月13日に発生した地震で、書架から落ちた本などの整理が漸く終わったのが、3月20日の午前中だった。
ほぼ1ヶ月近くもかかってしまったことになる。
こんなに時間がかかってしまったのは、単純に自分のための時間が作れなかったためだ。
退職してからというもの、何故か私のことをあてにして相談を持ちかけて来たり、或いは頼みごとをされたりすることが矢鱈に多くなった。
これは今に始まった事ではないが、どうも私は人のために働くという宿命みたいなものを持っているような気がする。
まあ、それも悪くはない。何か人様のお役に立てるなら、寧ろ喜ばねばならないことだろう。と、自分に言い聞かせてはいるのだが...

壊れた本棚を直したり、すべての本を並べ直し、どっと疲労感に襲われたところへ、息子夫婦が孫たちを連れて遊びにやって来た。
疲れてはいたけれど、孫たちの顔を見るとつい嬉しくなって相手をしてしまう。
じいじは孫たちにとって、格好のオモチャなのである。
風呂では孫たちがじいじの身体に、プラスチックで出来た魚のオモチャをペタペタ貼りまくり、それだけならまだしも、スーパーボールを思いっきりぶつけてそれらの魚を落とそうとする。
これが結構痛い。
「痛テテテテッ!!」と思わず悲鳴をあげると、余計に面白がって硬いスーパーボールをぶつけてくる。
終いには小玉スイカくらいの大きさのゴムボールを、魚が貼りついた体ではなく、じいじの顔面に容赦なくぶつけてくる。
顔の真ん中をゴムボールの衝撃で真っ赤にしながら、「このヤロー」とこっちもついムキになって孫に投げ返す。
そんな死闘が入浴中に繰り広げられるが、そのじいじオモチャも満身創痍。以前に比べて、体力と気力が低下してしまい、風呂から上がるとぐったりしてしまうことも多くなった。

この3月20日もそんな感じで終わる予定だったのだが、みんなで食卓についていたその時、地面の下から突き上げるような振動と地鳴り、そして大きな揺れが襲って来た。
妻が息子の嫁に「子供たちを守って」と叫ぶ。
それぞれの携帯電話から緊急地震速報の警報音が鳴り響く。
ああ、またかと頭の中にあの悪夢が蘇ってくる。

揺れが収まったあと、外出している息子や妹などに連絡を入れるが、とりあえず皆無事であった。
怯える孫たちを抱きかかえながら、嫁が一言
「お義父さん。2階で大きな音がしましたけど、大丈夫ですか?」
いや、大丈夫ではないのだよ。多分ね。
私は嫁の問いには無言のまま2階へと上がって行ったが、今日、1ヶ月かかって漸く片付けた大量の本が以前と同じように散乱していた。
ちなみにロフトの漫画本も、どこから手を付けたらよいか分からない状態だった。
『はい、最初からもう一度』
そんな言葉が聞こえたような気がした。

14時46分、ひとり黙祷する。
今日はただ祈るのみ。
東日本大震災からまもなく10年目を迎えようとしている。
そして今朝、宮城県を震源とする比較的大きな地震があった。
このパターンは10年前のあの時と同じだ。
2011年3月9日、大震災が発生する2日前のこと。T大学の某教授と打ち合わせをしている最中に、大きな地震が発生した。研究棟の上層階だったので揺れが大きく、教授室に設置されていたスライド式の大きな書架が右に左に移動を繰り返した。
幸い大きな被害は出なかったが、その時は打ち合わせも早々に切り上げてしまった。
まさかこの2日後に、あの未曾有の大震災が発生しようとは夢にも思わなかった。
よく日本で一番安全な場所はどこかといった話がなされることがある。しかし結論から言うと何処にも無いということだ。
北海道の北部や中国地方などが比較的地震が少ないという人がいる。だが、それは錯覚であり、誤解といっても良いだろう。
世界中で過去に発生した地震を地図上に落とし込んでみると、確かにまったく地震が起きていない場所がある。しかし日本はまるで世界中の地震を一手に引き受けるかのように、集中して発生していることが分かる。
つまり世界規模の観点から見れば、日本は何処も安全な場所は無いということになる。
私はこのところ、空いたペットボトルに水を詰めて保存したり、缶詰やレトルト食品を買い込んだりするのが日課のようになっている。
あまりにペットボトルに水を溜め込むので、家人からは笑われているが、笑われたままで終わることを切に願っている。
10年前のあの繰り返しだけはもう二度と御免である。
前回の日記に、地震見舞いのコメントをたくさん頂戴しましてありがとうございます。
返事が遅くなりまして申し訳ございません。
人的被害はありませんでしたが、10年前の東日本大震災の時よりも揺れの強さが体感的に大きかったように思います。
そのため、家の中が崩れたり倒れた物で大変な状況となりました。
特に私の部屋と寝室が、崩れた本などで大変な惨状となり、地震当日もその翌日も室内に入ることが出来ませんでした。
昨日は気を取り直して早朝から片付け作業に入り、終日かかってどうにか格好がつきました。それにしてももう少し早くベッドに潜り込んでいたら、崩れた本の下敷きになり、生き埋め状態になるところでした。クワバラクワバラです。
10年前の大地震の時でさえ、こんなにはならなかったなあと思いながらの片付け作業でしたが、きっと揺れの質が違ったのでしょうね。
1階はほぼ無傷なのに、2階は目も当てられない酷さで、トイレのタンクの水が溢れ、床が水浸し状態となってしまいました。

さて、怖いのはこの後に再び大地震が発生するのかということです。
三宅島では15日にイワシやサバが大量に海岸へ打ち上げられたそうですし、九十九里浜ではこれもまた大量のハマグリが海岸へ打ち上げられたそうです。
大地震には前兆があると言われますが、果たしてこれらがそうなのでしょうか。
今はただそうでないことを切に願うばかりです。
皆様もどうぞご注意ください。
毎日のように我が親父のマッサージをしている。
やれ、腰が痛い、肩が痛い、足が痛いと訴える。
私も出来る限り親父の家へやって来ては、その都度辛いと訴える箇所(ほぼ全身なのだが)をマッサージしてやるのだが、これに要する時間は毎回ほぼ1時間半だ。
親父と一緒に住んでいる妹などはもっと大変で、1回のマッサージ時間が2〜3時間に及ぶことなどしょっちゅうである。
それを多い日には二度三度と要求されるから、かなりな重労働と言えるだろう。
我々兄妹は親父のマッサージで生計を立てている訳ではないので、他の仕事の合間を縫っての話。だからかなり疲れるのである。
親父はベッドに横たわり、揉まれている間じゅう「あ〜あ、良いなあ」とか「サイコー」だとか、「極楽だなぁ〜」とか「やっぱり人に揉んでもらうのが一番良いなぁ」だとか「ツボに入るなぁ。指サイコー」だとか「効く〜ぅ」とか、とにかくうるさい。
おそらく我々への賛辞と、これからも欠かすことなくマッサージをしてくれよとのメッセージなのであろう。比率としては、後者の方のウエイトが高そうではあるが。
しかし、我々とて人間である。体力的にも限界というものがある。
どちらかと言えば、揉むよりも指圧の方が多いので、私などは何度か親指が腫れ上がったこともある。
親父も以前よりはだいぶ痩せたので、かなり指圧がし易くなったが、それでも終わると指が熱を持っている。
この日もしっかり1時間半のマッサージを終えたが、両の親指がオーバーヒート状態だ。
そこでたまらず「親父よ。指が限界に来ている」と訴えた。すると親父は夢見心地の状態で
「そうがぁ〜、指がダメがぁ〜」と言いながら、よろよろとベッドの上に起き上がった。
トイレにでも行くのかなと思って見ていると、よっこいしょとベッドから降りて杖を取り、ゼンマイ仕掛けの安っぽいオモチャみたいに、バタバタと台所の方へ小刻みに歩いて行った。
しばらくすると、再びバタバタと戻って来たが、その手には千円札が握られていた。
その千円札をやおら私の前に差し出すと
「何か指に良いものでも食って来い」と言った。
なんだか狐にでも抓まれたような気分で、その千円札を受け取る私。
(指に良い食い物ってなんだ?)

後からやって来た妹にそのことを話すが、やはり「指に良い食い物ってなに?」と同じ疑問。
という訳で、どなたか指に良い千円以内の食べ物をご存知の方がいましたら、どうぞお教えください。心よりお待ちしております。
今年の冬は本当に寒い。
寒がりの我が親父は、自分の寝ている部屋の中で、エアコン暖房、オイルヒーター、石油ストーブを一緒につけて、さらに布団の中には電気アンカを入れているという有様だ。
これではまるで、アフリカから寒い北国の動物園へ連れてこられたライオンみたいだ。
もっともこれは、高気密住宅ならぬ低気密住宅のなせる技である。暖気が何処からともなくどんどん逃げて行く。
壁や床には断熱材を入れている筈なのに、これは一体どうしたことだろう。いわゆる欠陥住宅なのかもしれないが、築40年以上経っていて今更欠陥住宅もないだろう。
さて、こんなに寒い毎日で、おもてへ出るのも嫌になるが、そうもばかりは言っていられない。
お隣りさんへ回覧板を届けたり、ゴミを出しに行ったり、あるいは買い物へ出かけたりと、嫌でも外へ出なければならない。そんな時、つい鼻歌が出てしまうのだが、それは「北風小僧の寒太郎」である。
この歌はNHKの「みんなのうた」で放送されたと記憶しているが、私の頭の中では堺正章さんバージョンで常に再生されている。
多分、放送されてから50年近い歳月が流れているだろうが、こうして今もつい口ずさんでしまうところから、個人的にはまぎれもない名曲だと思っている。
ところでこの「みんなのうた」。中には理解不能な歌もある。いや、むしろその歌詞をよく聴くと、背筋が寒くなるようなものさえある。
その代表的な歌はといえば、「さとるくん」という歌。
その歌詞はこうなっている(強調部分は私)。

小さいころあたしにはよく遊んだともだちがいた
夕暮れ迫るころの公園に必ずひとりで来てた
何度も遊んだはずなのに  なぜか顔も覚えていないの
何度も聞いてたはずなのに なぜか家もわからないの
不思議な不思議なこなの さとるくん

みんながあのコにいじわるするの  見えないふりをしてるの
だからあたしはあのコとよく砂場で遊んだげたの
でもとっても恥ずかしがり屋だから お母さんが来るといないの
とても恥ずかしがり屋だったから ガラス戸にも映らないの
不思議な不思議なコだね さとるくん

あたしにだけ聞かせてくれた おかしなおかしな話
あるときとなりのじいちゃんのさよならの話したら
次の日じいちゃん家にはたくさんの黒い靴がならんだ
みんながうつむいてじいちゃんとの さよならをしていた
不思議な不思議なコだった さとるくん

不思議な不思議なコだった さとるくん

あたしが大人になってふと彼に 会いたいと思ったから
ともだちみんなに聞いてみたけれど 答えはひとつだけ
いつかまた会えたらいいね さとるくん


以上が「さとるくん」という歌だ。
歌詞の内容から察するに、さとるくんという子供は、我々とは住んでいる世界が違うようである。
最後のじいちゃんの件りに至っては、この歌全体が「死」の世界と繋がっていることを想起させる。
一説にはこの歌が「みんなのうた」で放送されたものではないという。しかしNHKで放送されたことは事実のようである。
それはともかく、このさとるくんという子を思うと、なぜか切なさが胸に沸き起こる。

因みに「泣いていた女の子」という歌もあるが、これはさとるくんの女の子バージョンか。
これも切なく怖い歌だ。
この歌については次回ということで。


尿管結石から解放されて、妻にはいつもの日常が戻ったようだ。
孫からは「ばあばは石を食べたの」と言われて苦笑いをしていた。
まあ、なにはともあれ痛みが無くなったのは良かった。こちらも慣れない家事から解放されて一安心。

さて、今度は私の話である。
先日、血圧でお世話になっている先生のクリニックに行き、採血をしてもらった。
ほぼ2ヶ月に1回、クスリを貰うための通院なのだが、その際に先生から
「あれ、ヒコヒコさん、なんだかスッキリしましたね」と言われた。
それもその筈である。この2ヶ月の間で体重が8キロ落ちたからだ。それには理由があった。

直木賞作家の長部日出雄さんが、ご自身のエッセイの中で「断食」の話をされていたが、その話がとても面白く、一度自分も試してみたいと思っていた。しかし、本格的な断食となると、素人ではリスクが大きく、かえって体を壊すこともあることから、長い間躊躇していたのだ。
ところが2ヶ月前に、ある人からこんな断食の仕方がありますよと教えてもらったのが「16時間断食」である。
これはもうその名の通り、1日のうちの16時間だけ「食べない」という断食方法なのだ。逆に言えば8時間は飲み食い自由ということである。
私の場合は正午から夜の8時までは好き勝手に飲食し、それ以降翌日の正午までの16時間は水分以外は一切食べないというやり方をしている。
最初の2、3日は少々辛いが、その後は体が慣れてきたせいか、辛く感じることが無くなって行った。何より翌朝目が覚めた時の気分が良い。
この断食方法を始めると、最初の2週間くらいで劇的に体重が下がる筈である。私の場合は数日間で3キロ近く落ちてしまった。それからは毎日100〜300グラムくらい減少して行き、気がついたら8キロも減ってしまったという訳である。
但し、正直に言うと、現在体重が動かない状態になっている。これはいわゆる停滞期と呼ばれるもので、体の自己防御機能が働いているためだろう。
しかし、これにめげずに続ければ、再び減り始めると思われる。

これまでは体重計にのるのも気が引けたが、今ではむしろ楽しみになっている。
就寝時間からなるべく数時間前(その時間が長ければ長いほど良い)に断食を開始した方が、効果が大きいようである。
8時間の中であれば、好きな物を食べられることから、ストレスも少ないので、勧めた人たちからも好評の「16時間断食」。
騙されたと思って、一度試してみませんか。
その日、朝から妻の様子がいつもと違った。
左の下腹部をしきりに摩っているのだ。
どうしたのと尋ねると、痛みがあるという。
何か悪い物でも食べたのだろうかと思ったが、もしそうならば、妻よりも食べている私の方が具合が悪くなっている筈である。
本人は「大丈夫だから」とは言うものの、午後になっても痛みは一向に治らない様子だった。
少し横になってみたらと勧め、ソファに寝かせたら、暫くして寝息を立て始めた。
このところ何かと忙しかったから、疲れから来たのかもしれない、とその時は思った。
小一時間ほど眠っただろうか。ソファから起き上がった妻に具合はどうかと尋ねたら、少し良くなったという。ただ、それでも痛みは消えてはいないようで、相変わらず下腹部を摩っている。
私はふと或ることが思い浮かび、妻に椅子に座るように指示すると、その背中をトントンと叩き始めた。特に左側を上から下へ向かって叩いて行くと、お腹の方へ痛みが響くという。
一方、右側を同様に試みると、こちらは響かないとのこと。
(腎臓かな。おそらく尿路に異常ありかも)
そう、私は思ったものの、そのことを口には出さなかった。

夕方になって二男夫婦と孫たちがやって来た。慌てて妻が対応しようとしたら、そこで激痛が走ったようで蹲ってしまった。
その日は休日で医療機関は休診だ。休日診療の病院を探し、電話を入れたが繋がらない。
「救急車を呼びましょう」と息子の嫁に言われ、迷わず119番へ電話する。
電話に出た消防署の方は、新型コロナウイルスのことを念頭に、色々と質問をしてくる。焦っているこちらとしては一刻も早くという気持ちを抑えながら、それらの質問へ冷静さを保ちながら答えていく。
そんな私の気持ちを知ってか「もう救急車は向かっています」と、受話器の向こうで言葉をかけてくれた。
それから救急車が到着するまでのわずかな時間、入院する事を予想して、とにかく必要な物をと準備する。すると遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた...

救急車が大好きな孫は、家の前に本物の救急車が止まったので大喜び。後日、ばあばが孫のために身体を張って救急車を呼んだという「都市伝説」に発展してしまったが、そのことはさておく。
救急車に乗り込んだ妻と私。隊員の方々から、これもまた様々な質問を受けるが、先の司令の方と同様に、例の流行病のことが念頭にある質問だとすぐに分かった。
受け入れ病院については、妻が年に一度検査で訪れている某大病院の診察券を持っていたことが決め手となり、病院側も大丈夫だとのことですぐに決まった。
私は救急車の窓のカーテンを少し開けると、家の窓にニコニコと嬉しそうな孫の顔を見つけた。その事を私の隣りに座り、辛そうにしている妻に告げるとその頬が少しだけ緩んだ。

それから3時間後、担当した医師から告げられたのは「尿管結石」。三大激痛の一つと言われる症状だ。
私がふと或ることを思いついたというのはこのことだった。
今から10年以上も前の話だが、私自身が同じ病を患ったからである。あの時の痛みは今でも忘れられない。思い出しただけでも脂汗が出て来そうだ。
さて、妻の入院は大事を取って数日と決まった。妻を病棟に見送り、長男に迎えに来てもらう。時刻はすでに午後9時半。
そういえば今日は何も食べていないことに気がついた。
寒風吹き晒す病院の外で、腹の虫の音を聞きながら、妻が不在の数日をどう過ごすか、そのことばかりを考えていた。
多分その話は『ボケ予防』から始まったと思う。
普段はそれぞれの仕事の関係で、なかなか顔を合わせることが出来ないのだが、この日は久しぶりに家族全員が揃っての夕食となった。
息子たちと息子の嫁、孫たちが食卓に揃うと、なかなか壮観である。
皆がそれぞれ好き勝手なことを話しながら食事をしていたが、そのうち誰かが「物忘れ」の話を始めた。それがいつしかボケの予防には何が効果的かという話になり、「テレビゲーム」が効果ありそうと息子たちが言い出した。
この「テレビゲーム」という一言が、全員のハートに火をつけてしまったのである。
最初はボケ予防の話だったはずが、いつしか「テレビゲームと私」みたいな思い出話へすり替わってしまった。
こうなると私の出番である。なにしろ任天堂からファミリーコンピューターが発売されたのは1983年。その翌年には購入し、まだ新婚だった私と妻は毎晩「マリオブラザース」や「五目並べ」などにハマってしまい、連日寝不足状態だったことを皆に面白おかしく語った。
長男は「戦場の狼」が一番印象に残っているようで、「あのゲームはエンディングが見えないんだよ」と遠い目をして天井を見上げる。
二男は1990年に登場したスーパーファミコンからの思い出話がメインとなった。特にファミコンから移植された「ドンキーコング」が一番の思い出らしく、最終ステージ達成の自慢話。また、「桃太郎電鉄」では友達とケンカになった話も。
三男はプレイステーション世代。「ファイナルファンタジー」への熱い思いを、例の訛りで語り出す。
「あれはサイゴーに面白がったベェ」
すると二男の嫁のM子が「私はバイオハザードを毎日やってました!!」
その言葉に、全員の動きが止まる。
「可愛い顔しで、あれやっでだのがぁ」と三男。
「ホラー系大好きだからね」とM子。
息子の嫁の意外な一面を見たところで、
「このご時世、外にも遊びに行づらいわけだが、我が家もテレビゲームを復活させようか」と私が提案すると、全員が賛成。
実はファミコンもスーパーファミコンも、それにプレステも、当時遊んだソフトは殆ど全部残してある。中には作動しないものもあるだろうが、問題は本体の方だ。
こちらはおそらくダメかもしれない。
「中古品を探すしかないかな」と私が言うと、
「お義父さん。この際だから新しいのを買ったらどうですか」と提案された。
すると今度は息子たちが「ニンテンドーのSwitchが良い」だとか、「いや、プレステ5だ」とか人の懐具合などおかまいなしに自分の希望をぶつけ合う。
「ボケ予防」の話から始まったテレビゲーム談義だったが、こうして皆で激論?を戦わせていた方が、よほどボケ予防になるのではないかと思った次第。

親父は相変わらず寝たり起きたりの繰り返し。
起きるのはトイレの時と、食事をする時くらいだ。
一日の8割以上はベッドの上で過ごすような状態である。
当然の事ながら筋肉が弱ってくるので、腰痛や背痛も酷くなってくる。
私はといえば、そんな親父のマッサージが主な役割となっている。
首筋から足の裏まで全身をマッサージするのだが、これがなかなかの重労働。プロのマッサージ師さんたちは一日に何人も施術するのだろうから、頭が下がる思いだ。

今日も今日とて、親父のマッサージをしていたら、妹が側に寄ってきて、昨日、訪問看護師のYさんが訪ねて来たことを教えてくれた。
その時の話。
Yさんが親父に「今朝は何を食べたの」と質問したら、「今朝は日本蕎麦と冷麺を食ったなあ」と返事をしたそうな。
妹は「実際には何も食べてないんだけどね」とポツリ。
ついに親父も呆けてきたのだろうかと、少々心配になる。が、しかし、話には続きがあった。
Yさんが帰ったあと、妹が親父に「今朝は何も食べなかったでしょ。蕎麦なんて出してないよ」と言うと、親父は「蕎麦はおメェが食ってたのを、少しもらったべ。冷麺も」と答えたそうな。
そう言われて妹ははたと気がついた。
蕎麦はその前日に、冷麺はその日の夜に作って、親父に少しだけ分け与えたのだった。
つまり時間的なずれはあったが、食べたことは事実だったのである。むしろその事を忘れていたのは妹の方だったのだ。
「呆けてるんだか、呆けて無いんだか分からんなあ」と私がつい口を滑らせると、ベッドに横になり、それまで黙ってマッサージを受けていた親父が「呆けてねぇぞぉ」と呟いた。
そして目をつぶったまま「1時間経ったべ。ご苦労さん」と私にマッサージ終了を告げた。
私は壁の時計へ目をやると、確かにピッタリ1時間が経ったところだった。しかも不思議なのは、親父の位置からは時計が見えないことである。そして親父はずうっと目を閉じたままだった。

なぜ1時間経ったことが分かったのか。もしかして親父の身体には極めて正確な『体内時計』が存在するのだろうか。
今年最初のクエスチョンに思わぬところで遭遇してしまった。
遅ればせながら、あけましておめでとうございます。
元旦から多忙な一週間で、私も妻もぐったりしている状態です。
妻は体重が40㎏を割り、桐谷美玲と同じ体重になってしまったと嘆いて?いる始末。
ということは、私ヒコヒコは三浦翔平ということだなと同意を求めると、完全無視されてしまいました。

さて、ようやく正月の慌ただしさから落ち着いた今、頂戴した年賀状を読み直し、整理していたら、Sさんからの年賀状に「日本百名山」の全山登頂達成を知らせる一文がありました。
「日本百名山」とは随筆家の深田久弥が、自身が実際に登頂し、これもまた自身の基準によって100座を選定し、それらの山々を主題にした山岳随筆集の名著です。
今では山を愛する人たちのバイブル的な本として、大勢の人たちに読み継がれています。
Sさんはこの本に記された名山に自らも挑み、遂に昨年すべての山を登頂することに成功したのでした。
ちなみにSさんは、私と同じ職場で働いていた人物で数学の天才です。二つの国立大学の数学科を出て、社会調査のサンプリング・プログラミングを開発し、国の統計調査の一翼を担った人物なのです。およそ山とは無縁に思える人なのですが、現役の頃には休日ともなると一人で富士山登山を何度も行うなど、元来山好きな人なのでしょう。
まあ、たまに失敗を仕出かすこともあり、いつぞやは富士山で骨折してギブス姿で職場に現れたこともあります。
実はSさんの百名山登頂達成の話は、Mさんからそれとなく漏れ伝わっておりました。
だからそれほど驚かなかったのですが、よくよく考えてみると、あれっ?と言うことに気がついたのであります。
確か昨年の始め頃、残りは四つほどだと本人から聞いたような記憶がありますが、と言うことは、このコロナ禍の最中に四つの山を登った、いや、四つの名山を汚したことになるのかと...
全国に、それも高い山の上からウイルスをばら撒いたのは、もしかしてSさん?
今度会った時にはそのことを訊さなくてはならないなと思った次第です。
とは言いながらも、まずは百名山登頂達成おめでとうございます。
これもひとつひとつの積み重ねの成果ですね。
さあ、今度は二百名山に挑戦でしょうか。期待してますよ。

世の中で「日記」をつけている人は果たしてどのくらいいるのだろうか。
おそらく、それらの人たちは絶対的に少数派ではないかと思われる。
このDNをこまめに更新されている方々は、その少数派に属するスーパーマン、スーパーウーマンである。
いや、決して茶化しているのではない。とても素晴らしい能力を持った方が、ここには多く集っていると言いたいのだ。
私も半世紀以上を生きてきて、それなりに沢山の経験を積ませてもらった。また、大勢の人たちと知り合い、それらの人たちから大きな影響も受けてきた。
それらの経験則を土台にして、私に与えられた仕事人生の後半戦は、クライアントから要求された案件を達成するために誰にその仕事を任せるか、その人物評価を行うことである。
もちろん能力は人それぞれ。物凄く優秀な人もいれば、その対極にいる人も存在する。
ただ、長い間仕事をしてきて気がついたのは、優秀な人たちに共通するのは、積み重ねが出来る人たちであるということだ。
言葉を変えれば、コツコツと仕事を積み重ねていける人。決して途中で放り出さない。
たとえ放り出しそうになっても、ここまではきちんと遣り遂げようという意思の持ち主だ。
DNもそうである。つまり日記も毎日の小さな積み重ね。
これが出来る人は、それだけで能力の高さを示している。
先にスーパーマン、スーパーウーマンと書いたのは、 即ちそういうことである。
という訳で、ネット上でそういう素晴らしい皆様とお知り合いになれたのは、私にとってとても幸いなことでした。

今年も大晦日を迎えてしまいました。
皆様には今年一年大変お世話になりました。波乱に富んだ一年でしたが、来年は皆様にとって素晴らしい一年になりますように心よりお祈り申し上げます。
清く、正しく、美しく
願書の受付が2021年1月9日から2月1日までか。
なになに、第1次試験は東京が3月21日で、宝塚が3月24日か。やはり仙台からだと東京で受験するのが妥当だろうなぁ。
ええと、合格発表が東京受験組が3月23日で、宝塚が3月25日。案外、すぐに発表されるんだね。ということは、その間東京に留まって、お江戸見物でもしていようかな。
あっ、でも、コロナが怖いしなあ。折角、上京しても安宿の部屋に篭っているというのもつまらないから、ここは一旦仙台に戻ろうか。
でもなあ、交通費がかかるから、やっぱり東京に留まった方が良さそうだと思ったら
おっとととっ!
第2次試験だってぇ!!
そんなの聞いてねえよっつうか、ちゃんと書いてるし。
宝塚受験組の1次合格者は3月26日で、東京1次合格者は3月27日かあ。そんでもって、試験会場は...タカラヅカって、あの宝塚?兵庫県のぉ!!
一度行ってみたいと思っていたんだよねぇ、タカラヅカ。
ところでタカラヅカには何があるんだっけ。
あっ、そうかそうか、馬鹿だねぇ俺も。
宝塚音楽学校の生徒募集を読んでるのに、何があるかはないもんだ。
デズニーランドだよな。

おう、熊さん。さっきから隣で聞いていたら、何をひとりでブツブツ言ってるんだい。
タカラがどうのこうのと、まさか宝くじでも当たったのかい?
それならさっさと貸した金を返してくんな。
えっ、何、受験するだって。
いつ?どこで?誰が?何を?なぜ?どのように?
おう、何だこれ。
見目麗しい女子の写真だな。どこからくすねて来たんだい?
えっ、くすねたんじゃないって。
あの、町内でも有名な、自称男前のヒコヒコさんからこっそり貰ったんだって。
熊さんよぉ。前から言ってたろ。あのヒコヒコって野郎にゃ近づくなって。人の顔を見るたびに「何かくれくれ」ってせがむから、コンビニの前で拾った割り箸をやったら
「これでマツイ棒が作れる」って喜んで持って帰ったよ。
ところでこれ、宝塚音楽学校の2021年度生徒募集案内じゃないか。
どれどれ、ほうほう、ふむふむ
第3次試験まであるんだねぇ。大変だねぇこりゃあ。
ところで熊さんよ。いったいお前さん、何を考えているんだい。
まさか、受験しようなんて考えているんじゃないだろうね。
人生は一度きりだから、自分の力を試してみたい?
そうは思わないかいハチ公って、昔から案外バカかと思っていたけど、本物のバカだったんだね。
この募集にちゃんと書いてあるだろ、2002年4月2日から2006年4月1日までに生まれた女子だって。しかも容姿端麗と書いてある。
えっ、容姿端麗の方は自信があるだって。そうかい、この際だからはっきり言わせて貰うけど、正真正銘のバカだよ。
そんなことよりこれから飲みに行かないか。
どうした。急に顔色が明るくなったね。
タカラジェンヌよりもタカラ焼酎のほうが俺の体に向いているだって。
初めて意見が一致したな。
よし、今日は俺の奢りだ。その前に貸した金返せ!!
年末の大掃除がなかなか捗らないでいた。
風邪をひいて体調が悪いこともあるし、掃除を始めようとすると何やかやと妨害が入ったりする。
気を取り直して掃除機を手にすると、親父から腰が痛いからマッサージしに来てくれと連絡が入ったり。
仕事を辞めて無職にはなったが、無職ってこんなに忙しい「職業」だったのか。
そんなことを考えながら、本棚の上に載せていた古いダンボール箱を降ろしたら、中から大量のカセットテープが出て来た。
それらのカセットテープには、ご丁寧にもインデックスカードに曲名やアーティストの名前が手書きで記されている。
おそらく80年代にFMのエアチェックなどで録音したものだろう。当時は今とは別の意味で時間がたくさんあったから、お気に入りのFM番組から音楽を録音していたのである。
幸い我が家にはカセットデッキが現役で活躍しているので、気になるカセットテープを一本取り出して再生してみた。

サーッというカセットテープ特有のヒスノイズの後、その曲が静かに流れ出した。
この曲、何年振りに聞いただろう。
すっかり忘れていた曲。だけど一瞬にして思い出した。
しばらくその調べに耳を傾けていた。
耳を傾けているうちに涙が滲んで来た。
テープが入っていたプラケースのインデックスに目を落とす。
『ブライアンズ ソング』

ブライアンズ・ソングって確か映画音楽だったな。
映画館で観たのか、それともテレビで観たのかは忘れたが、プロフットボールチームに所属する白人選手と黒人選手の友情の物語だったはず。実話を基に作られた映画だが、悲劇的な結末を迎えることになる。
友情の素晴らしさを教えてくれるこの映画は、今でもアメリカ人にとても人気があるのだそうだ。

「友情」か...
小学校一年生の時から半世紀も続いていたある友人、いや、親友がいたが、ちょっとしたことが元で袂を分かった。兄弟のように育った我々二人だったが、実に呆気なく終わりを告げてしまった。
こちらとしては今でも「嘘だろう」「何で」という気持ちだが、彼は決して許すつもりはないだろう。長い事一緒にいればその性格はよく分かっている。
まあ、それも仕方があるまい。私の説明不足にも原因があるからだ。
だからと言って、その説明をここですることは出来ない。ここで説明すると、私を頼った人の話を、なぜ君に伝えなかったかを話さなければならなくなるからだ。
今度はその人のプライバシーを晒さなければならなくなってしまう。

50年の付き合いも、たった1日の「齟齬」で崩れ去ってしまうものだという事がよく分かった。
高校生の頃、君がある学習雑誌に「友情なんてあり得ない」という一文を寄せていた。それを読んだ時、私は些か反発したものである。しかし今、こうしてみると、それが正しかったことが漸く理解できたよ。
うん、君の勝ちだ。負けを認めるよ。
そして最後に、長い間ありがとう。

※非常にプライベートな内容で困惑された方も多いことでしょう。申し訳ありません。お許しください。
ちなみに「BRIAN’S SONG」はYOU TUBEで検索しますと幾つかヒットしますが、お勧めはやはり作曲者のミッシェル・ルグランでしょう。(Adieu, Michel Legrand - Brian’s Song (2006 concert performance)で検索してみてください。

さてさて、しばらく振りの日記です。
青森から帰ってからというもの、実に様々なアクシデントに襲われておりました。
滅多に罹らない風邪をひいたのもそのひとつ。
最初は例の流行り病かと危惧したのですが、幸いなことにそうではなかった。
だがそれだけでは収まらず、何とパソコンが壊れてしまうという不測の事態。それも自宅で使用している2台のPCが、ほぼ同時に壊れるという確率的には殆ど考えられないような出来事が発生したのでありました。
普段、この2台のPCでDNをアップロードしていましたので、どちらかが直らない限り書き込めないという緊急事態。それなら早く直せよという話ですが、こういう時に怠惰な自分が突然現れてきて、「まあ、急ぐことはない」と自分でも不思議なくらい腰が重い。
尤もこのところ物入りだった事もあって、修理代を考えると懐に厳しいなあというのが正直な話。
しかし、そろそろ年賀状作成なども始めなければならないし、新しいPCを買うほどの余裕も無い。そこでとりあえず2台のうちの使用頻度の高い方を修理に出した訳です。
お陰様で久し振りにキーボードを叩くことが出来ました。今度壊れたら、次は買い替えかななどと思っています。

ところでPCが2台ほぼ同時に壊れたことについて、我が妻にそのことを話すと
「また、何か良からぬものにとり憑かれたんじゃないの」と言われ、はたと手を打ったのであります。
あの青森の夜、カラオケがお流れになって、ひとりトボトボと薄暗い新町通りのアーケードをホテルへ向かって歩いていたのですが、柳町通りの交差点でその角を曲がろうとした時、何気に左後ろを振り向いた私は、思わず声を上げそうになったのです。
なにしろ私の体に今にも触れそうな程の位置に、男がぴったりとくっついて歩いていたからです。
咄嗟に引ったくりかなと思ったのですが、ここは一発怒鳴りつけようと立ち止まり、腹に気合いを入れてもう一度後ろを振り向くと、そこには誰もいませんでした。
一瞬の出来事でしたが、男は黒いキャップを目深に被り、無精髭で黒いジャンバーを着ていました。年の頃は30〜40代というところでしょうか。
私も少々酔ってはいましたが、酩酊しているわけではなく、見間違えるような状態ではありません。それに生身の人間なら、あのくらい側にいたら気配で分かりそうなものです。
(あ〜、また見ちゃったか)

その夜は、ホテルの部屋の電気は点けたまま寝た次第です。
あとで妻にそのことを話すと
「PC壊したの、そいつじゃないの」とのことでした。
でも壊す理由がわからないのであります。
過去に私が書いた内容に「腹を立てている?」のかしらん。
これまで不思議草子に書いた内容に文句があるのかなあ。
もしかして私の読者?
ほんと、分かりません。
私はいま青森市にいます。先程、空席の目立つ新幹線で着いたところです。
なぜ青森にやって来たかというと、私の仕事を20年以上に渡ってサポートしてくださった方々と、今夜これから慰労会があるからです。
私の出す仕事上の無理難題にも、毎回きちんとこなしてくれた彼らは、お世辞抜きで本当に素晴らしかった。
これは「無理です」から始めるのではなく、常にどうしたら可能になるだろうから始める彼らの仕事振りは、真にプロフェッショナルと呼ぶに相応しい人達です。
特にFさんは私の考えをすぐに理解して仕事にあたってくれました。まさに右腕となって活躍してくれた人です。
またNさんは常に行動力の人で、仕事の速さと確実さには毎度驚かされたものです。
勿論この20年の間には意見の衝突もありましたが、お互いが信頼で結ばれていたので、あとで感情的なしこりが残ることは一切ありませんでした。
今年私は第一線から身を引きましたが、彼らの仕事はまだこの先も続きます。
より良い世の中になるために(ちょっと大袈裟かな)引き続き頑張って頂きたいと願っております。
そこで今夜は誰も帰さないぞ、カラオケで歌いまくるぞと心に誓ったのでありました!
立つ鳥跡を濁しっぱなし。
今、我が家は静寂に包まれている。
べつに人がいないわけではない。私も妻も息子たちもいる。
なのに言葉を発しようとする者はいない。
食卓で私は「たんこぶ」の出来た頭をさすりながら本を読み、妻や息子たちは居間のソファや安楽椅子で銘々がスマホをいじっている。
時々、誰ともつかずため息が漏れる。そのたびに皆の動作一瞬止まり、そしてまた元の動作に戻る。
重苦しいと言えば重苦しい。薄っぺらと言えば薄っぺらなこの場の雰囲気。
なぜこうなったのか。
前回の日記をお読みになった方ならもうお分かりだろう。
私の頭よりも、カリンをとった妻。
私の頭を直撃したカリンを、お隣りのOさんに「縁起ものです」と言って渡した妻。そのカリンを神棚にでも祭れば、きっと宝くじは大当たりに違いない。
そう言って渡したに違いないはずだ、と思う。
昔、アメリカとソ連は冷戦状態にあった。
今は私と妻が冷戦状態にある。
最初に口をきいた方が負けであると互いが認識している。
果たしてこの状態がいつまで続くことだろう。
因みに今年に入って、このような冷戦状態は10回を数える。その結果はと言えば口惜しいかな0勝10敗で私の負け。
驚くべき妻の胆力。女の底力。息子たちの無視。
来年は実の固くない柚子でも植えよう。
孤独な男の戦いは続く。
今年も庭の花梨の木に、たくさんの実が生った。道路沿いに植えているので、道行く人たちからもよく見える。秋口に入り、ご近所の人たちからは「今年もたくさん実がついたね」と言われていた。
特にお隣りのOさんはカリンの出来を毎年楽しみにしているひとりだ。
何年か前に収穫したカリンの実を何個か差し上げたところ、大いに喜ばれた。それ以来、毎年実が生るとお裾分けをしていた。
Oさんの話ではシロップ漬けにしたりカリン酒にして楽しんでいるという。
カリンは生のままでは食することが出来ない。実が固いということもあるが、毒性があることが一番の理由だ。このことは意外と知られていないようである。私もそのことを知ったのは、つい最近のことである。
そういえば、鳥がその実を啄みに来たのを見たことがない。彼らは毒があることをちゃんと知っているのだろう。だとすれば凄い能力である。
私など腐ったものを気づかずに食べてしまって、あとで大変なことになる。尤も親父などは腐ったものを食べても腹を壊したことがない。それはそれで凄い能力ではあるが。

さて、苗木で買ったときには私の背丈よりも低かったのに、今では倍以上の高さにまで育ってしまった。花梨が高木であることは知っていたが、こんなに速いペースで育っていくとは夢にも思わなかった。
まだ背が低かった頃は実を取るのも簡単だったが、さすがにこうも背が高くなると、木の上の方に生る実は取ることが出来ない。
脚立に上がって取ろうと思ったが、危ないからやめてと妻に言われ、そこで柄の長い熊手を持ち出し、その先に実を引っ掛けてはひとつずつ落とすという作戦に打って出た。
これが案外うまくいって、実がポトリポトリと落ちて来る。木の下は落ち葉や枯草などでクッションになっているので、実が痛むこともない。
今年はどの実も概ね大きいものばかりだが、中には赤子の頭ほどの大きさの物もあった。
早速、その実を拾ってはエコバックの中に詰めていく。この時が一番楽しい。まさに「収穫」しているという感じがする。
周囲にカリンの芳香が漂う中、もう落ちている実はないかと辺りを見回す。と、その時、妻の「あっ」という声が聞こえたような気がした。
カリンッ
私の頭の中で、そんな音が聞こえたような気がした。めまいもほぼ同時だったかもしれない。
イデデデデッ!!
木の枝先に残っていたカリンの実が落ちて、私の頭を直撃したのだった。
私は思わずその場にうずくまった。
少し離れた場所で見ていた妻が駆け寄って来た。
「大丈夫?カリンの実?」
おいおいおい、カリンの実のほうかい。
妻は傍らに落ちていた直撃カリンを拾い上げ、「少し傷がついているけどキレイだね」と私に差し出した。
「頭、大丈夫?」
私の頭は二番目のようである。
「頭に当たった時に、カリンッて音しなかった?」
その妻の言葉にムッとしながら「した」と答えた。





森の中のCAFE
川音亭で手打ち蕎麦を堪能した後、近くにコーヒーの美味しい店があるから行こうと息子に誘われて訪ねたのが『BULE COFFEE』である。
注意深くクルマを走らせないと、その入り口を見過ごしてしまいそうな、そんな森の中の小さなCAFÉだ。
一度訪れたことがあるという息子も、この時、店へと続く小径の入口をうっかり通り過ぎてしまったくらいだ。
クルマをUターンさせ、今来た道を戻ると、今度はCAFÉの小さな看板を見つけて、その小径へとハンドルを切る。クルマ一台がやっと通れるほどの道だが、その先に美しい紅葉に包まれて、その建物はあった。
一見すると別荘のような趣きの建物だ。無機質を排除し、蔵王の森に相応しい佇まい。黒い板張りの外観がとても印象的な店である。
建築に興味のある息子曰く、仙台で最も注目を浴びている設計士、三浦正博氏の手によるものだと教えられたが、残念ながら建築関係にまったく疎い私は「ふ~ん」と生返事をするしかなかった。
だが、シックな木製のドアを開けて一歩店内に入ると、外観とは打って変わって明るく安らぎのある空間が現れた。店の外観が大木の表皮だとすれば、店内はまるでその中をくり抜いたかのような木のぬくもりが溢れる造りとなっている。
席数は決して多くはないが、椅子を含めたインテリアはとてもシンプルで、かつセンスが良い。また、店の奥の暖炉がひときわ目を惹く。
ここで暖を取りながら、温かいコーヒーを飲んだら絶対美味しいに決まっている。
私もコーヒー屋の息子だったので、その店の味はブレンドコーヒーに現れることはよく承知している。そこで『ブルーマーカー(中深煎り)』を頼み、息子は『ブループラス(深煎り)』を注文した。当然のことながら豆は自家焙煎である。
待つことしばし、コーヒーの芳香が周囲にたゆたい、自ずと期待が沸き起こる。
そしてそのコーヒーの味については、もう語る必要もないだろう。私も息子も十分に満足した。苦みが、そして酸味がどうのという野暮はやめておこう。

帰りのクルマの中で飲むために、テイクアウト用にコーヒーを作ってもらい、我ら親子は店を後にした。
今日は旨い蕎麦も食べたし美味しいコーヒーも飲むことが出来た。とても贅沢な一日を過ごすことが出来たとハンドルを握る息子に語りかけた。語りかけながら
「しまった!」
突然声を上げた私。息子は「なに、なにっ」と驚く。
「写真を撮り忘れた」
私ともあろうものが、BLUE COFFEEの外観など、カメラに収め忘れてしまったのだ。
蕎麦で腹が満たされたせいなのか、それともただのボケなのか、写真好きを標榜する私としてはあり得ないミスだった。
尤も、撮り忘れたということを思い出しただけでもまだ良い方か。
そこで以前息子が同店を訪問した際に撮影した写真を掲載させて頂いた。新緑の頃だったので緑がとても鮮やかである。
そしてこれから迎える冬もまた素敵だろう。
雪の中のBLUE COFFEE。暖炉の火。芳醇なコーヒーの香り。
只今、すっかりぬるくなったインスタントコーヒーを啜りながら、頭の中にそんな映像を結んでいるところである。

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